Welcome外伝 |
ここが僕らの出発地点 |
第四話 自らの為だけではなく |
私立第二新東京市第壱学園二年C組委員長、六分儀ゲンドウ。
既に両親を亡くし、寄る辺無き彼は自力で生活を支えなければならない状況下に
おかれている。僅かながら親の遺産も有る事は有るが、そこはそれ伝家の宝刀、
みだりに使える物では無い。
第一に、それほど大した額でもないのだ。ゲンドウが一人で慎ましく暮らしたと
しても、せいぜい二年が限度だろう。
と言う訳で他に選択肢が有る訳でもなく、ゲンドウは放課後の時間のあらかたを
バイトに費やす事となっていた。
現在、第二新東京市は第二次遷都計画の影響で、土木作業員の不足が深刻な問題
となっている。
第三新東京の建設は国内の作業員を根こそぎ動員しており、それでも供給が需要
に追いついていないのだ。その結果、日本円を目的とした外国人不法滞在者の増
加が悩みの種になっているのだが、建設会社の方も人員不足の為にそれを知りつ
つ、敢えて雇っていた。政府の方も只でさえスケジュールが遅れているので、よ
ほどの事件を起こさない限りはついつい甘くなっているのが現状なのだ。
今、建設会社を訪れて就職希望と言えば、諸手を挙げて歓迎してくれるだろう。
履歴書を渡して二分で採用、今から現場に向かって下さい、というのが冗談抜き
で行われている。
建設関係に限って言えば、売手市場、条件はよりどりみどりである。
もっとも、ゲンドウに学園を辞めて仕事に就く、という考えはなかった。
ゲンドウにも将来の夢がある。
周りがどんな目で見ていようが、彼も17歳の少年なのだ。
子供の頃から思い描いた憧れの仕事がある。そしてそれは建設関係ではない。
夢を実現する為には、大学まで行ってしっかりと学ばなければならない。
しかし、はっきり言って状況は厳しい。
何度計算してもギリギリなのだ。
大学卒業まで、人として最低限度の文化的生活を送ることが・・・
それも奨学金・学費免除等を獲得しての話である。
母は生前に高等部の学費免除を申請し、見事これを確保していた。
ゲンドウは心底母の先見の妙に感謝したモノだ。
これで高等部の学費まで払っていたら、バイトしながらでも一年生活できたかど
うか。
そう考えれば、今は亡き母に対するゲンドウの感謝の念は、深まるばかりだった。
ゲンドウは母親の遺影に手を合わせると、改めて現実を直視する事にした。
正直、なかなかに辛い現状では有るけれども、ゲンドウに我が身を嘆くつもりは
さらさら無い。
嘆いている暇が有ったら、考えて動け!
それがゲンドウの信条だった。
・・・極めて建設的では有るが、いささか情緒に欠けるこの考えは、或いは内心
の不安から目を背ける為のモノだったのかもしれない。
このように母の死から大幅に変わる事となったゲンドウの生活。
今回はその多事多難な日常の様子を、覗いてみる事とする。
六分儀ゲンドウの朝は早い。
四月中旬、いまだ第二新東京市が夜の寒気に覆われている頃に、ゲンドウの一日
は始まる。
六畳間が二つと四畳間が一つ、ダイニングとリビングを兼ねた部屋。三畳ほどの
台所。あとは脱衣所を兼ねた洗面所に、四畳程の風呂。それとトイレ。
これがゲンドウの暮らしている、母から譲り受けたマンションの間取りである。
そのゲンドウの家の一室、六畳間のフローリングの部屋。
勉強机としか当てはまる言葉の無いシンプルな机と椅子。
本人にしか分からない分類で整理されてい為、本のサイズはまったく考慮されず
にただ突っ込まれている本棚。
洋室に似つかわしくない茶色に塗られた和風のタンス。
そして大きいだけが取り柄のパイプベッド。
高校生にしてはあまりに色気の無いこの部屋がゲンドウの部屋である。
ゲンドウは目覚し時計が鳴るキッカリ5分前に目を開け、むくりと起き上がる。
頭はすっきりしており、眠気のかけらも見られない。一応目覚し時計もかけては
いるが、寝坊した時の万が一の保険でしかない。布団から出てトイレで用を足す
と、洗面所でバシャバシャと乱暴に顔を洗う。その様からいかにゲンドウが洗顔、
美容等に無関心かが見て取れた。
ゲンドウは洗面所から部屋には戻らず、Tシャツに寝間着のズボンと言う格好で
キッチンに入り、エプロンを身に着けると調理に取り掛かった。
本日の弁当の中味は、アスパラガスをベーコンで巻いて炒めたもの、コーンのバ
ター炒め、かぼちゃの煮物にプチトマト。
前の晩に決めておいたメニューである。それを二人分用意する。言うまでもなく
ゲンドウとヒナの分である。
ちなみにヒナとゲンドウの弁当箱の大きさは同じである。
ゲンドウは本来は洋風料理より家庭料理が得意なのだが、限られた時間、冷めて
も美味いもの、などなど制限の多い弁当のおかずでは得意の品もあまり作れない。
その為、テレビの料理番組は欠かさず録画し、本屋でも『きょうの料理100選』
等の本や雑誌を立ち読みしたり、あまつさえ時間があれば学校で料理関係のサイ
トを片端から検索している。おかげで弁当のおかずに向いている洋風の料理のレ
パートリーも日に日に増えてきた。和洋中含めた彼のレシピは、既に500を越
えているという。
熟練の演奏者が楽器を演奏するように、ゲンドウは調理器具を巧みに扱い「材料」
を「料理」に仕上げていく。
下ごしらえは昨晩のうちに済ませてあるので、朝やる事は調理して弁当箱に盛り
付ける事。
そして、少し余らせた弁当のおかずが朝食となる。
その間、弁当箱の蓋はかぶせていない。盛り付けてすぐに蓋をすると、蓋が覆わ
れている為に料理の湯気の逃げ場がなくなり、弁当箱の中味をふやけさせてしま
うからだ。この辺りの意外な几帳面さを彼の外見から見出せる人間はおそらくい
ないだろう。
洗い物の数を増やさない為、材料入れに使っていた皿に料理を並べ、一杯分のご
飯を茶碗によそう。
弁当二つ分とこの一杯のご飯で、炊飯器の中味はすべて空になるように調整して
ある。
大雑把に料理をテーブルに並べると、椅子に着く。
「いただきます」
誰一人として居ないのに、折り目正しく食事を始める。肘をテーブルにつけず茶
碗は手に持ち、箸は偏らず均等に皿を回り、頭を皿に近付ける事なくじつに行儀
良く食事を取っていく。
結局一言も発さずに、あっという間に朝食を平らげてしまった。
「ごちそうさま」
食事の前と同じ様に礼儀正しく手を合わせ、朝食を終える。憶えてもいない小さ
い頃からずっと繰り返して来た習慣はすっかり身体に染み付いてしまい、例え自
分一人であろうともつい口から出てきてしまうのだ。
朝食の後、食器を流しに置き、部屋に向かう。大きな容器に洗剤を混ぜた水をた
っぷりを張ってあるので、学校から帰ってきた頃には食器から油分を完全に取り
除いてくれるだろう。
ゲンドウは自室に戻ると布団を押し入れにしまい、制服に着替え始めた。
制服のズボンにワイシャツという格好に着替えると、自室の隣の六畳間の前に立
つ。
ゲンドウは無意識のうちに背筋をぴしっと伸ばし、軽く深呼吸をしてからドアを
開けた。
質素な部屋であった。
シングルのベッド。
黒のクローゼットに飾り気のない姿見。
整理整頓された二つの本棚。
窓の外を望むように置かれた、質素だが実用的な机。
昨年の秋他界したゲンドウの母親、六分儀サキの部屋である。
ゲンドウは後ろ手でドアを閉めると椅子に座る。
机に向かうとちょうど窓が正面に来る様になっていて、何時の間にか明るくなっ
た外の景色を見渡せた。
肘をついて手を組み、口元を隠すような格好でゲンドウは物思いにふける。
母が死んでからゲンドウは、ごくたまにこうして物思いに浸る事があった。
ゲンドウの母サキとゲンドウの父タクヒトは、ゲンドウが今通っている私立第二
新東京市第壱学園に勤める教師だった。
二人はそこで知り合い、そして結婚した。
母からそう聞いている。
ゲンドウは父親の事はほとんど憶えていない。
父、タクヒトはゲンドウが二歳の頃に事故で死んでしまったからだ。
父を知る人から聞いた話と、写真の中で小さい自分を抱いて微笑んでいる姿。
それがゲンドウの知る父親の全てだった。
かすかに思い出せるのは背中にしょわれた時の安心感、無骨だが暖かな微笑み。
今ではどんな顔をして微笑んでいたのかすら思い出せないが、その笑顔を見て不
思議と安心した事だけは憶えている。
父親亡き後、幼い頃は霧島家に預けられたりしながらも、ゲンドウはサキ一人に
育てられてきたのだ。
記憶もおぼろな父親がいない事は、あまり悲しくなかった。ずっと一緒だったヒ
ナ、その両親ツグミとタカツグという家族がいたし、なにより母サキが居てくれ
たからだ。
ただ、そう告げた時・・・
あの母親の顔は今も忘れられない。
「−−−、おかあさん、あのね、ボクおとうさんいなくても、ゼンゼンかなしく
ないよ」
それはゲンドウが小学校に上がったばかりの事だった。
夕食を済ませて一息ついた食卓で、ゲンドウは明るくそう言った。
忙しさの余り、母子の団欒がなかなか持てないサキは、仕事や夕食の後もあまり
自室には引きこもらずに、ゲンドウと一緒に過ごす時間をなるべく作るよう心が
け、息子の話を、その日にあった出来事やゲンドウの考えている事を聞くように
していた。
そんな時間の中、母子の会話がふいに途切れた時、ゲンドウはそう口にした。
「どうしたの、ゲンドウ?
・・・何か、あったの?」
意識せずとも声が低く、硬くなってしまう。
なるべく一緒の時間を−−−そう心がけていても、仕事を持つサキにはやはり限
界が有る。
あまりかまってやれない事で、息子が寂しがっていないか、自分をうらんではい
ないか。
それらが重なって人格形成に影響を及ぼしていないか・・・。
そして・・・
(父親がいない事で、この子はなにか言われてはいないだろうか?)
そう考えれば、声質が硬くなるのを抑える事は出来なかった。
「・・・ぼくんトコにおとうさんがいないの、からかうヤツがいるの。
おかしいっていうコがいるの。
かわいそうねっていうおばさんがいるの」
・・・ゲンドウの言葉は、サキにとって想像に難くなかったモノだった。
予想していた事だ。覚悟もしていた。
・・・けれども。
けれども、息子の口からそう言われる事は、辛かった。
明朗快活を旨とするサキが珍しく、言葉に詰まった。
一瞬、息子に掛けるべき言葉が思い浮かばなかったのだ。
母子を沈黙が包んだ。
言葉を詰まらせた母親に変わって、沈黙を破ったのはゲンドウだった。
「おかあさん、ぼく、ぼくのおとうさんのこと、ぜんぜんおぼえてないの。
でもタカツグおじさんのことなら、いっぱい、いっぱい、おぼえてるよ。
ヒナとツグミおばさんとあそんだこと、たっくさんおぼえてるよ。
それに、それにおかあさんといっしょにおはなししたり、
ごはんたべたり、おふろはいったり・・・。
おかあさんとヒナ、それとツグミおばさんとタカツグおじさん。
みんな、ぼくのかぞくだもん!」
そう言ってゲンドウは嬉しそうにニッコリと笑った。
母親の贔屓目かも知れない。
そう思いもしたが、確かにその笑顔は強さ、そして優しさに満ちていた。
幼いながらも己の心の中に確固たる自分を持ち、何者にも屈しない強き自我がそ
こにあった。
気付いた時には、サキはゲンドウを抱きしめていた。
嬉しかった。
息子は自分が思っていたよりもはるかに強かった。
曲がる事無くまっすぐに成長してくれた。
何も言えなかった。
父親がいない、父親の記憶が何も無い息子。
母である自分は何ら埋め合わせる事が出来なかった。
それでも平気と言える息子。
感謝したかった。
親友、霧島ツグミとその夫、霧島タカツグに。
この二人の力添えが無ければ、自分一人では到底ゲンドウをここまで育てる事は
出来なかったろう。
それに・・・
二人の娘、ヒナちゃんがどれほどゲンドウの支えになっているかわからない。
今は亡き夫、タクヒト。
そして、我が子ゲンドウ。
夫を亡くしてから今日まで、息子が自分の支えとなってくれていたのだから。
嬉しさ、悲しさ、無力さ。
ありとあらゆる感情が縦の糸となり、心の底から湧き上がる思いが横の糸となっ
て入り混じり、無秩序に編み上げられていく。
その結果、何色とも言い難い色彩を伴ったタペストリーがひとつ、完成した。
そしてサキは言葉に言い表せない感情のままに、ゲンドウを抱きしめ、そして。
体を震わし、声を殺して泣いた。
「・・・おかあさん、泣いてるの?」
母に強く抱きしめられ、少し苦しくなってきた頃、ようやくゲンドウは気付いた。
「おかあさん、なんで泣いてるの? ぼくがおとうさんのこと、いったから?
ぼくがへんなこといったから?」
いつも気丈な母が泣いている。
その事は、ゲンドウにとって意外で、そして何よりも悲しむべき事だった。
幼いゲンドウに、何故、どうして母が泣いているのか分かるはずもなかった。
ただゲンドウにとって、それは悲しい事があったからだ、としか思えない。
結果、母が悲しむのは自分せいだと思い始める。
自分が悪いから、自分が変な事を言ったりしたから、おかあさんは悲しいんだ。
だからおかあさんは泣いているんだ。
ゲンドウの心は自責の念でいっぱいになった。
「・・ごめんなさい、おかあさん・・・ごめんなさい・・・」
泣きそうな顔で謝るゲンドウの頭を、サキは慈しみを込めて優しく撫でた。
「・・・おかあさん・・・?」
「・・・違うわ、ゲンドウ。ゲンドウは悪くないわ。
いい、ゲンドウ?お母さんが泣いていたのはね、嬉しいから。
ゲンドウが優しくて、強くて、しっかりしているから。
それがとっても嬉しかったからなの。
・・・そうね、心配ないわね。ゲンドウ、あなたは私と、あの人の子供なのだ
から・・・」
亡き夫を脳裏に思い浮かべたサキの表情は、穏やかな微笑みで満たされていた。
その笑顔に、ゲンドウは幾度となく繰り返した問いを口にしてみた。
「・・・おかあさん。おとうさんて、どんなひとだったの?」
ゲンドウの問いに、サキは今までとはちょっと違う笑みを浮かべた。
「優しくて・・暖かくて・・強い人よ。
ちょっと無口で無愛想だったけど、とっても可愛いところがあったの。
・・・ゲンドウ、あなたはそんな人の子供なの。その事に誇りを持ちなさい」
「うん!」
それはどう考えてものろけ話でしかなかったのだが、ゲンドウにとって母の言葉
は絶対だった。
ゲンドウは母ののろけ話に真面目に頷き、従う事を誓ったのだった。
このサキの言葉は、ゲンドウの性格形成において、微小とは言い難い影響を与え
た。
それまでは周りから何か言われた場合、ゲンドウはじっと黙って聞いていた。
そして、心の中では本当にそうなのか悩んでいたのだった。
しかしこれ以後、父と母、それに霧島家の人々に話が及んだ場合、黙ってなどい
なかった。
幼いながらも彼はプライドを守る為には闘うしか無いという事を本能的に知って
いた。
大切な家族を馬鹿にする輩に、ゲンドウは一切手を抜かなかった。
全力を持って叩きのめすのを常とした。
既に同世代の子供より一回り体格の大きいゲンドウに、かなう子供はいなかった。
いくつかの実戦は、彼に下手な手加減をすると相手も反撃に出る、攻撃を加える
場合は徹底的に、2度と歯向かう気も起きないくらい徹底的にやらなければいけ
ない、という事を教えてくれた。
こうしてゲンドウの性格の一端は、環境とささやかなきっかけによって培われた
のである。
月日は流れ、生まれてから十五年間過ごした母との数限りない思い出。
すでに母は記憶の中の人となっている。いまゲンドウが暮らしている世界に、母
はいない。
けれども自分の中の母との記憶、そしてなにより今ここに自分がいる事が、父と
母がいた証しなのだ。
いまゲンドウは、教師を目指している。
父と母がどうして教師を選んだのか。
教壇から何を見ていたのか。
父は憶えていないが、母はたまに疲れていた様子は有っても、いつもは張り切っ
ていた。
学園で見る母は、いつも生気に満ち満ちていた。
息子であるゲンドウから見ても、サキは素晴らしい教師だった。
厳しいだけではなく、親身になって生徒達の相談に乗っていた。
生徒達からも厚い信頼を受けていた。
例えば留年しそうな生徒がいると、付きっ切りで補習して、なんとか進級させて
いたそうだ。
ゲンドウは、その母がひかれた父のようになりたいと思っていた。
正確に言うと、母から伝え聞いた父のようになりたい、というのが正しいだろう。
無骨な優しさ、暖かさ・・・そして強さ。ゲンドウが求めているのはそういうモ
ノだった。
物心つく前に父親を失ったゲンドウは、決して届く事のない父の背中に、手を伸
ばし続けていた。
それは心に描いた理想を追い求める若者の姿だった。
ゲンドウの思い描く父親は、はるか高みにいる。
そしてゲンドウの立っている所は、父のいる場所に遠く及ばない。
そう、ゲンドウは思っていた。
「時間・・・だな」
そろそろ登校しなければならない時間だ。
僅かな時間浸っていた想いを胸の奥底にしまい、ゲンドウは部屋を後にした。
制服をしっかりと着たゲンドウは今、霧島家に来ていた。
霧島家のマンションは、三人から四人家族を対象にした標準的な建物である。
結婚した当初からずっと住んでいるらしい。
一応チャイムを鳴らし、インターホンに出たツグミに名乗る。
カチッと音がして玄関のロックが外され、ゲンドウはドアを開けて玄関に入ると、
丁度リビングから出てくるツグミの姿が目に入った。
霧島ツグミ。
高校生の娘を持ちながら、まだ三十代半ばにしか見えない。
当り前であるが、かおかたちはヒナにそっくりで、少し長めの髪を後ろで結わえ
ている。
ヒナと同質の躍動感を、絶妙なバランスで穏やかさが包み込んでいる。
子供のような面を見せるかと思えば、母親としての面も併せ持っている。
年月を重ねていけば、いずれヒナもこうなるだろう、とゲンドウにも思える。
ヒナ本人を前にすれば、とても信じられない事だが。
「いらっしゃい、ゲンドウくん。上がってちょうだい」
「おはようございます、ツグミおばさんんんんん!!!!」
語尾がおかしいのは、別に言葉を詰まらせたからではない。
ツグミがスリッパの上から、靴を脱いで上がろうとしたゲンドウの左足の甲の衛
陽のツボを、寸分違わずつま先で突いていた為である。正に達人並の技量であっ
た。
「いやぁねぇ、ゲンドウ君ったら。いつもみたいにツグミさんでいいわよ」
「は・・・はいぃ・・・。ツ・・・ツグミさん・・・」
「はい、よろしい。では改めて・・・おはよう、ゲンドウ君」
痛みに堪えながら言葉を絞り出し、ようやくゲンドウは叫ぶ事でしか表現できな
い苦痛から開放された。
一方ツグミは何事も無かったかのように、見る者の心を和ませる極上の笑みを浮
かべていた。
物心付く以前、生まれた時からの付き合いのゲンドウでさえ、その微笑みを向け
られてしまうと、この人に逆らおうとか、争おうなどといった考えは綺麗サッパ
リ消えてしまう。
笑顔を向けられた対象の心を、和やかな気持ちで満たしてしまうのだ。
「ゲンドウ君、まだヒナは起きていないのよ。
・・・まったく、困った娘ねぇ。せっかくゲンドウ君が迎えに来てくれている
のに」
「いえ、おばううわぁぁ、じゃないツグミさん。気にしないでください、これく
らいで」
ゲンドウとて慈善行為で迎えに来ている訳ではない。
ヒナを遅刻させずに学園まで連れて行く事で、弁当一食分をチャラにする。
以前話し合い、お互いの合意の上にそう取り決めたのだ。
低血圧気味で朝に弱いヒナにとって、ゲンドウの付き添い無しで遅刻せずに学園
に到着する事は、非常に困難な事である。
放っておけば、朝に弱いヒナは半分以上眠った状態で、あちこちをフラフラと、
まるで糸の切れた凧の様に歩き回る事もしばしばであった。
以前には、いきなり道端で倒れるように寝入ってしまい、偶然通りがかったご近
所の親切な大学生に家まで送り届けてもらった事さえある。
この時の話し合いは、非常に珍しい事ではあるが、終始ゲンドウが主導権を握っ
ていた。
この件に関してはゲンドウの方にアドバンテージが(ゲンドウが迎えに来なけれ
ば、ヒナは遅刻の回数が飛躍的に上昇する、などなど考えられる悪影響は、片手
の指では事足りない)有った。
その事がヒナも自分で充分わかっているからこそ、いつもの強気な主張が出来な
かったのだ。
ゲンドウにとって私史上最初の白星だった、と断言できる。
もっとも、あまり図に乗ってちょっと強気な事を言うと、のちのちヒナの報復が
恐い、ので程々に初勝利の味を噛みしめたというのがゲンドウの本心であった。
「そうだ、ゲンドウ君。よかったらヒナを起こしてきてくれないかしら?」
二重三重の意味においてとんでもない事を、近所におつかいを頼むような口調で、
ツグミはさらりと言った。
普通世間一般では年頃の寝ている娘を、同世代の男に起こさせるものだろうか?
こういった所、やはりヒナの母親と納得がゆく。
「・・・ツグミさん。それはそのぅ・・・勘弁して下さい」
「そう?じゃ、仕方ないわね。
いま起こしてくるから、ちょっと座って待っててね」
「はい」
さして執心の様子を見せずに、ツグミはあっさりとゲンドウの拒否を受け入れた。
ツグミはゲンドウをリビングに通して着席を促すと、パタパタとスリッパを鳴ら
しながらヒナの部屋へと入っていった。
ゲンドウがヒナを起こすのを断ったのは、別にモラルがどうこうという以前の問
題である。
ヒナを起こす事で発生するであろう生命の危険を、回避する為であった。
ただでさえ低血圧のヒナは、朝の機嫌はすこぶる悪い。
誰かに眠りを妨げられようモノなら最悪だ。
8割方意識が眠っているせいで本能が出るのだろう、猫科の猛獣を連想させる動
きで襲い掛かってくるのだ。
このヒナの攻撃をさばけるのは、ゲンドウの知る限りツグミただ一人だけである。
かつて一度だけその現場を見た彼は心の底から感嘆し、これ以上はないという尊
敬の念をツグミに対して捧げている。
小さい頃に手酷い痛撃を食らったゲンドウは、眠っているヒナには近づこうとし
なかった。
幼心に残るほどの手痛い反撃を食らったのである。
現に今もヒナの部屋から凄まじい音が、ドア越しに空気を打ってゲンドウの耳に
届いてきている。
多少興味は有るモノの、命には換えられない。
(フ、下手な好奇心は身の破滅を呼ぶからな)
そんな風に考えに浸っているゲンドウに、声がかかってきた。
「やぁ、ゲンドウくんじゃないか」
「あ、おじさん。おはようございます」
「おはよう、いつもすまないねぇ。・・・まったくヒナも、もう少し寝起きが良
ければねぇ」
あちこちにしわの見えるパジャマに、寝癖が付いてぼさぼさの頭。
起きたばかりで焦点の微妙に合ってない視線に、半分閉ざされたまぶた。
まさに寝起きとしか表現できない格好の中年男性。
彼がヒナの父親、霧島タカツグである。
タカツグは奥の夫婦の寝室から出てきた。
そこで、リビングに座るゲンドウを見つけたのである。
身長は170cm程。太っている訳ではないが、やせている訳でもない。いわゆ
る中肉中背であった。
眼が少々タレ目気味で、真面目な顔をすればそこそこ見れた顔にはなるだろう。
その容姿だけならば、タカツグは出会った人間に強烈な印象を残すタイプではな
い。
このさえない姿を見る限りでは、この男が第二新東京市最大の飲食店グループを
取り仕切る人物には到底思えないだろう。
誰が名付けたのか『昼行灯』という通り名に誰しも大きく頷くだろう。
それが飲食店のみならず、流通、食料品販売にまで幅広い影響力を持っているの
だ。
その経歴と実績と影響力を文章で示されれば、極めて有能である事を万人が認め
る所である。
ゆえに隙の無いやり手の人物と思って面会した人間(タカツグの経歴を知った人
は、大部分がこれに含まれる)は、第一印象でまず呆気に取られる。
それからこの目の前のとぼけた男があの書類の人物かと我が目を疑う。
(この男が、本当にあの『ファミレス・キング』なのか?)
精神修行の足りない者はこの時点でペースを乱され、主導権をタカツグに持って
いかれてしまう。
用心深い者でも、タカツグからペースを奪い返して主導権を握るのは容易な事で
はない。
卓越した能力から想像されるイメージ像と、あまりにかけ離れたそのさえない外
見のギャップに大多数の人が戸惑ってしまい、そこをタカツグに持っていかれる
のだ。
さらにはタカツグには天性のカンというか、交渉の才があって、相手にそうと気
付かせず主導権を奪い、話を有利に進めてしまう。
とりわけ意識している訳ではないのだが、二重の布陣で挑むタカツグに、かなう
者はいなかった。
ちなみにゲンドウとヒナは、タカツグの役職を知らない。
ヒナは父親が何をしているのかあまり興味はなかった。せいぜいが飲食関係に勤
めているから、うちの食卓は豪華でラッキー、くらいにしか考えていない。
ヒナにとっては美味しく食事がいただければ、それでよいのだ。
一方ゲンドウはといえば、何かの機会に霧島家で自慢の腕を披露させてもらった
時に、飲食関係だからいい食材が手に入るのかなぁ、程度で考えるのをやめてし
まっていた。
二人は口を揃えてこう言う。
「「父さん(おじさん)って、そんな偉そうに見えない!」」
これを聞いた場合、タカツグは相変わらず眠そうな目で肩をすくめてこう言うだ
ろう。
「やれやれ、案外うちの子供たちは人を見る目が無いねぇ」
タカツグはヒナの部屋から聞こえる破壊音に気付いていないかのような様子でリ
ビングに来ると、テーブルの上に用意されていた朝食を食べ始める。
そしてふと何かに気付いたように、手に取ったハムサンドをじっと見つめ、それ
からゲンドウに顔を向けて言った。
「ゲンドウくんも一緒にどうだい?」
「えーと・・・・・・おじさん、すみません。俺、弁当の支度と一緒に済ませて
しまったもので・・・」
「そうかい?この卵サンドは絶品なんだけどねぇ」
さして気分を損ねた様子も無く、タカツグは食事を再開した。
実際ツグミの作る料理はどれも絶品である。ゲンドウはツグミに師事して料理を
学んだのだ。
「はいはい、ゲンドウ君お待たせ〜」
「・・・ゲンちゃん、おはよ〜〜」
「ああ、おはようヒナ」
「さ、ヒナ。早く食べなさい。ゲンドウ君が待っててくれたんだから」
「は〜〜〜い・・・」
眠そうなヒナは、よたよたした足取りで何とかテーブルにたどり着くと、のたく
たと食事を食べ始めた。
その様子からは、普段の生命力と躍動感は微塵も感じられない。日頃のヒナを知
る者からすれば、想像の地平線を遥かに飛び越えている現実であった。
「ツグミ、今日の締めはなんだい?」
「今日はチョークスリーパーよ」
「おじさん、ツグミさん・・・その・・・締めってのは何ですか?」
「知りたいかい?ゲンドウくん」
「はぁ、できれば」
タカツグはニンマリと笑って答えた。
「おしえて、あげない」
「あなたったら、隠す事でもないでしょう?
・・・ゲンドウ君、単にヒナをどうやって大人しくさせたか、よ」
「・・・締めおとしたんですか・・・」
「「そういう事」」
ハミングして答える夫婦に、内心汗だくのゲンドウ。
ちなみにヒナは卵サンドを口に入れたまま、テーブルにもたれかかって寝ていた。
「おい、こら、ヒナ!食いながら寝るな!
・・・と、それどころじゃない!早くいかないと遅刻するぞ!!」
霧島家の雰囲気に呑まれてしまって全然気付かなかったが、時刻は既に遅刻のボ
ーダーラインすれすれの所まで差し迫っていたのだ。
焦ったゲンドウはヒナの肩に手を置き、揺すり起こそうとする。
だがそれは、虎の尾を踏むに等しき行為だった。
「・・・うるさいっっっ!!!!!」
ガキッ!!
「ぐはぁっ!!」
先程自分で言った事を忘れて、またヒナに手痛い反撃をくらっているゲンドウで
あった。
同日の朝。
ホームルーム後。
いつものように遅刻したきた方井が何とか連絡事項を伝え終わると、ゲンドウに
目を留めた。
「何だ、六分儀?ゴリラーマンスタイルとはまた古いネタを持ち出してきたな。
十八禁だぞ、そのネタは」
「・・・ほっとけ!!」
ヒナに気絶させられた挙げ句、引き摺られて登校したせいでズボンが破れてしま
い、上が制服、下がジャージという格好で過ごさなければならないゲンドウであ
った。
カウンターが十脚に掘りごたつ式の座敷が四つの小さな居酒屋は、あらゆる物に
満ちていた。
匂いが。料理の、酒の、煙草の、人間の体臭がまざりあい満ちていた。
人が。カウンターに、座敷に、厨房に、通路に満ちていた。
音が。有線放送が、話し声が、笑い声が満ちていた。
午後八時を過ぎ、鈍る事を知らない客足。
小さな店ながらも、手ごろな値段とそこそこの味で人気のこの居酒屋でゲンドウ
は厨房に立ち、ひっきりなしの注文を黙々とさばいていた。
実際問題、最低限の受け答えしか出来無いほど忙しいのだ。
確か、最初は見習いで雇われたのだ。注文を受けたり、料理やビールを届けたり
していたのだ。
忙しいと言えば忙しかったが、今の板場仕事の比ではない。
(それがいつのまにかこうして厨房に立っているのは何故だ?)
無論、発端と途中経過無くして結果は有り得ない。
何故こうなったのか、ゲンドウ自身、文字どうり痛いほどわかっている。
だからこそ、わかっているからこそ、そう思わずに入られなかった。
(あの時・・・調子に乗ってあんなことしなければよかった・・・!!)
去年の暮れ、バイトを始めて三日目。
学園も冬休みに入り、ゲンドウは午前中から店に入っていた。
ここの居酒屋は、昼はランチタイムに安い値段で昼食を出しており、その仕込み
を手伝う為にゲンドウは朝から店に入っていたのだ。
ランチタイムを何とか乗り切ると、店は夕方まで一時閉められる。
その間に休憩と夜の仕込みが有るからだ。
その休憩の時間には、少し遅めの昼食が出される。食事支給という所も、ゲンド
ウがこのバイトを選んだ理由の一つであった。
そしてこの日の昼食が、事の発端であった。
出された昼食を食べたゲンドウが一言、
「これ、もしかして料理?」
と秋山のようなセリフを呟いたのである。
料理を作った望月という料理人にしてみれば、喧嘩を売っているようにしか聞こ
えなかっただろう。
当然キレた。
「・・・てめぇ、ケンカ売ってんのかよ!」
「おい、六分儀も望月もやめろよ・・・」
「六分儀、言い過ぎだぞ」
「確かに。俺の言い方が悪かった。
あれじゃ、ケンカを売っているようにしか聞こえないよな。
ウン、それでは改めて言い直そう。
・・・俺の方があんたよりうまいモノが作れる」
ゲンドウは周囲のとりなしを容赦の無い一言で打ち砕くと、厨房に入り包丁を振
るい、鍋を踊らせた。
瞬く間に香り高い料理がテーブルの上に次々と並ばれていった。
始め悪態をついていた望月もその料理を口にすると、悄然として店を去っていっ
たという。
この事件はゲンドウにいくばくかの満足感を与えたが、後日より大きな反動で帰
ってきた。
結局夜の板場の人間がほとんど、店を辞めてしまったのだ
料理のでない居酒屋など、商売としてやっていけるはずが無い。
理由はどうであれ、事の原因はゲンドウにある。
責任を取ってもらおう、というのが店長の言葉だった。
もっともゲンドウの料理を口にした瞬間、彼はゲンドウを厨房に立たせる決断を
済ませていた。
ほとんどの料理人が辞めてしまってとてつもなく痛い。
が、それは口実に過ぎなかった。
何しろ、ランチタイムは店長自ら腕を振るっていたのだから、昼の部への影響は
全くない。
その上で、修行した板前より腕の良いバイトがいる。
支払うべき給与の差額は・・・・
ゲンドウにとってみれば、高校生である自分を遅くまで雇ってくれるところはな
かなか少ない。
ようやくありついた仕事を手放す気にもなれず、また給料も少しは上げてくれる
と言うのでゲンドウは承諾した。
こうして互いの利害の一致のもとに堅い握手が行われ、現状に至っている訳であ
る。
ゲンドウ自身も自業自得と十分わかっている。
だからこそ時にはこうやって途方に暮れたり、嘆いたりしていないとやっていら
れない。
そうでもしないと、精神衛生上極めてよくなかった。
がらがらがら、とあまり立て付けの良くないスライド式の入り口がやかましく自
己主張をしながら、新たな来客の訪れをゲンドウに知らせた。
「いらっしゃーいっ!」
「いらっしゃいませ」
「らっしゃーい!!」
「三人でお願いします」
「カウンターへどうぞー!」
料理の準備に忙しくて入り口に一瞥すらしなかったゲンドウは、その声にピクリ
と反応した。
(こ、この声は・・・!?)
確認しなくてもわかっている。それだけ馴染んだ声なのだ。
直感として理解していたが、理性の方が拒んでいた。
(でも、もしかしたら・・・!!)
ゲンドウはその淡い期待に縋るようにして入り口を見やった。
見た直後ゲンドウは引きつった笑みを顔にへばりつかせたのだが、次いで驚きが
浮かび上がった。
三人のうちの一人がゲンドウの予想と違っていた上に、このような所に来るとは
思えない人間だったからだ。
(ヒナとツグミさんはともかく、碇さんが何故ここに?)
ゲンドウの内心をよそに、三人はカウンター、それもゲンドウの真正面の席に座
った。
「ゲンちゃん、あたし有機野菜のサラダにつくねに塩焼きに・・・」
「ゲンドウ君、わたしは小魚のフライに酢だこのサラダをお願い」
ヒナとツグミは店員が注文を取りに来る前に、直接ゲンドウに注文している。
お世辞にもあまりマナーがいいとは言えない。
その二人の言葉に対応して、ゲンドウは諦めを含んだ溜息を深く吐いた。
それはゲンドウが店員として、お客である三人に接する事を放棄した合図であっ
た。
「・・・ツグミさん、お酒は出せませんよ」
「わかってるわよ、ゲンドウ君。私だってゲンドウ君にちゃんと仕事を続けて欲
しいもの」
「はいはい・・・今、料理にかかりますから」
「あ、ウーロン茶三つお願いね」
未成年者に酒類を飲ませたりすると−−滅多にはないが−−最悪その店に営業停
止が言い渡される事がある。
しかしゲンドウがそう言った理由は営業停止を心配してではなく、ヒナに酒を飲
ませるのを防ぐ為であった。
ヒナはあまり酒に強くない。缶ビール1本で真っ赤になってしまう。
もちろん、ゲンドウが心配したのはこれでもない。
ヒナは酩酊状態になると暴れ始めるのだ。こうなると潜在能力が全開になるらし
く、ツグミでも手を焼く。
ツグミがいなければ、完全に酔いが回って眠るのをひたすら待つしか方法が無い
のだ。
その時の心境と言えば、暴走した人造人間の内部電源が切れるのをひたすら祈る
司令官、と言った所だろうか?
実際ツグミがいたとしても、取り押さえる間に店は確実に半壊してしまうだろう。
さて、そういう事態に陥った時、善良で計算高い店長がどんな反応を示す事か。
あっさりと想像のついたゲンドウゆえに先の台詞が遅滞なく紡ぎ出されたのだっ
た。
「ユイってば、何注文するかまだ悩んでいるの?」
「ええ・・・う〜〜ん・・・」
料理とツグミとヒナの対応に、すっかりゲンドウはユイの事を忘れていた。
ユイはまだカウンターに置かれたメニューと睨めっこをしていたのだ。
「碇さんは、その・・・こういう所は、始めてなのかな?」
「・・・え?・・・そうね、はじめてかしら。
ヒナのところにお邪魔していたら、六分儀君がこの時間はバイトしているって
聞いて・・・」
「それでね、ゲンちゃん料理が凄く上手って話していたのよ。
で、ユイが一度ゲンちゃんの料理を食べてみたいって言うから、夕飯まだだし
行こうかってなったの」
「あと、未成年だけじゃ駄目だから、わたしが付き添ってきた、というところね。
・・・それにゲンドウ君がどれだけ上達したのか、教えた方としては興味有っ
たしね」
「・・・もういいわ。六分儀君に任せるから、お勧めの料理を作ってもらえるか
しら」
ふぅ、と軽く溜息をつきながらユイはそう言った。
「・・・わかりました、任せて頂きましょう」
いささか気取った物言いで返事をしたゲンドウであったが、その内心は少し興奮
していた。
今までゲンドウが腕を振るったのは、自分と霧島家の三人、それと店に来る不特
定のお客に対してのみであった。
ヒナに対しては賭けの負け分と思っていたし、お客に対しては仕事として割り切
って−−ゲンドウは知らなかったのだが、実際にはゲンドウの料理を目当てにこ
の居酒屋に来ている人はそれなりの数に上っていた−−考えていた。
そこに、ゲンドウの料理を楽しみにしていたと言うユイが、目の前に来ているの
である。
ゲンドウにとって家族以外の人にそう言われたのは始めての経験であった。
なので柄にも無く、ゲンドウは頑張って作ってみようか、と言う気持ちが気取っ
た言葉として口から出ていた。
数瞬の後、自分の言ったセリフで気恥ずかしくなり、ゲンドウは慌てて調理に取
り掛かった。
ゲンドウに親しいものでなければ気付かないようなその僅かな狼狽を、ユイはく
すりと微笑んだ後、じっと見ていた。
普段ゲンドウの見せない一面を、ユイは垣間見たのだった。
誰かに見られながら調理をする。
ゲンドウにとって、それは初めての経験ではない。
だが、今自分に向けられている視線は興味本位の物では無く、暖かさが満ちてい
るようにゲンドウには思えた。
そして、今感じている暖かさは、ずっと昔にも何度か感じた事が有る。
そんな既視感を、ゲンドウは感じていた。
同日、午後十一時四十二分。
シャワーを浴びてサッパリしたゲンドウは、自室の質素なベッドに横になってい
た。
入浴後の僅かなけだるさが、また心地よかった。
あの後、ゲンドウの料理を存分に堪能した三人は、早々に帰っていった。
三人が三人とも人目を引き付けて離さない存在なのだ。
しらふの時は抑えていても、酒が入ればちょっかいを出してくる者がいるかもし
れない。
実際はゲンドウのそういった思惑とは別に、ツグミがゲンドウの仕事の邪魔をし
ては、とさすがに大人の配慮をしてのことであった。
ゲンドウの恐れていた事態は、奇跡的に何も起こらなかった。
ただ、店長はじめとする店の人間全員に三人の事をしつこく聞かれたりしたが、
奇跡を目の当たりにしたゲンドウには些末な事であった。
疲れた体は、すぐにゲンドウの意識を深い眠りへ誘おうとしている。
ゆっくりと意識の輪郭がぼやけてきた。
ユイの前で作った料理は、自分でも驚くほどうまくいった。
はじめは緊張していたが、気付かぬ間にリラックスして最高の料理が出せた。
リラックスして、自分の持てる能力の全てを引き出せたのだ。
(そうだ・・・前にもあったんだ。似たような事が・・・)
ゲンドウは調理している時に自分が感じた既視感を、ようやく思い出した。
ずっと昔、まだ小学生だった頃に忙しい母の力になりたいと、ツグミから料理を
学んだ時。
母のかわりに朝食の準備をしている時。
母親達は、どんな思いで調理をするゲンドウを見守っていたのだろう。
その時、誰かに見守ってもらいながら料理をしていた時に感じた暖かさ。
ゲンドウは、それをユイに感じたのだ。
ゲンドウの料理を食べたユイが言った、たった一言。
「・・・美味しい・・・」
そこには言葉で語れぬ様々な思いが詰まっていた。
はじめは母の為に料理を学び、母の亡き後は生活の為に腕を振るってきた。
ゲンドウにとって母のいなくなった後の料理は、生活の手段でしかなかった。
だが、ユイに感じた懐かしい気持ちと、料理を食べてもらった時の嬉しさは、ゲ
ンドウの意識を喚起させるのに充分であった。
いつのまにか無くしてしまった気持ち。
見失ってしまった料理をする理由。
それを、再確認できた。
(自分一人の為だけに・・・ではなく・・・)
(誰かの為に、喜んでもらう為に料理するのも、悪くは・・・ないな・・・)
意識が拡散していく心地を味わいながら、ゲンドウは夢さえ見ない深い眠りへと
落ちていった。
月刊オヤヂニスト
冬月 「間違ってる! この話は間違ってる!」
ゲンドウ「なんだその言いぐさは」
冬月 「あの男がシリアスに走るはずがない! この話はおかしい!」
ゲンドウ「こらまてぃ! 私がシリアスに走るはずがないのだ、とはなんだ!」
冬月 「絶対に間違ってる! おまえの体の中には、シリアスを受け付けない特殊なウイルスが流れていて・・・」
ゲンドウ「そんなものを勝手に流すなぁ!」
冬月 「いいや! おまえの体にシリアス路線が流れようとすると、絶対にそれを駆逐するへっぽこオヤヂ菌が・・・・」
ゲンドウ「私は保菌者か!」
冬月 「ふっ。それぞオヤヂニストの宿命」
ゲンドウ「勝手にオヤヂニストにするなぁ!」
冬月 「いいや。ワシにはわかる。おまえは絶対にそう言う男だ」
ゲンドウ「・・・・・・・」
冬月 「・・・・なんだその沈黙は」
ゲンドウ「ふ、ふっふっふっふ」
冬月 「なんだ、その笑いは!」
ゲンドウ「ふっふっふっふ。そうですか。貴方にはわかるのですか」
冬月 「なんだ、一体なんだというのだ!」
ゲンドウ「(びしっと指さし)類友」
冬月 「なにぃぃぃぃ!!」
ゲンドウ「冬月先生、所詮貴方とて突き詰めれば私と同じなのですよ」
冬月 「馬鹿な! そんなわけがない!」
ゲンドウ「何を言っても無駄です。特に保菌者の臭いをかぎ分けるところなんかは特に・・・」
冬月 「犬か! ワシは犬だというのか!」
ゲンドウ「ふっ。ついに馬脚を現しましたな」
冬月 「イヤだ! どんな屈辱にも耐える! 地面をはいつくばれと言われればそうする! 靴の裏を舐めろと言われれば舐める!」
ゲンドウ「・・・・」
冬月 「素っ裸で第三新東京市を踊りながら走れと言われれば走ろう! しかし!」
ゲンドウ「・・・・」
冬月 「おまえと一緒と見なされるだけは死んでもイヤだぁぁぁぁぁ!!」
ゲンドウ「そこまで言うか!」
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