青い空。どこまでも青い空。
「また、ここにいたのか」
 少年がの声が頭上でする。輝く太陽が、不意に影に遮られた。あきれたような表情で、少年は彼を見下ろしていた。
「たまには他のところにいろよ。探すのに苦労しなくて、こっちが困っちまう」
 苦笑いしながら、同じく彼の横にどっと寝ころぶ。再び視線を上へ戻すと、流れる白い雲。
「・・・・また、あいつらか」
 しばしの沈黙の後、少年はぽそり、とつぶやいた。
 彼は小さく、首を横に振る。
「隠さなくてもいい。なにも俺が怒る訳じゃない」
 常々彼が不思議なのは、少年が彼の嘘を全て見破ってしまうことだった。いや、おそらくは自分の嘘が下手くそなのだろう。とにかく少年は、的確に彼の心の中を言い当てていた。
「今度は何をされた?」
 少年の問いかけ。しかし彼はそれを無視するように空を見上げていた。
 ・・・・べつに、大したことじゃないよ。
 ややあって、ぽそりとそう言う。
 嘘だった。身体のあちこちがずきずきと痛む。いつもながら思うが、殴ったり蹴ったりするほうは気分がよいのだろうが、される方はたまったもんじゃない。
「・・・・ひとつだけ、言っておく」
 そんなことを考えていると、不意にぐっと胸元を捕まれた。
 いつの間に身体を起こしたのだろう。真剣な面もちで、少年が彼を見つめていた。
「いいか、死んでいった奴は大勢いる。でももしおまえが同じ事を考えたら・・・・」
 真摯な瞳が、彼を見つめていた。
「いいか、おまえが死んだら、悲しむ人間は最低二人。そしてこれから増えていくんだ。それを覚えておけよ」
 なぜ、これから増えていくなんていえるのだろう。彼はそう思ったが、あえて口にはださなかった。
 少年は確信するようにさらに言葉を継いだ。
「そうだ、最低二人は、いるんだからな」
 少年の向こうには、青い空と地平線まで続く大地が広がっている。
 その大地の上に一人の少女の姿を見つけ、彼はほっと表情をゆるめた。
 ありがとう。内心でつぶやいた。





And live in the world forever

第20話:遙かなる青い空 A-Part






  1400時
  第三新東京市戦闘ブロック 日本



「じゃあ、いい?」
「ええ、お願い」
 ヘッドセット越しのアスカの問いに、マナはこくり、とうなずきを返した。
 傍らにはムサシが寄り添うように立ち、数歩離れたところにはシンジとトウジがプラグスーツのまま、ムサシ達二人とその向こうの様子を見つめている。
 ぼう、とその視界が不意に赤く染まった。
 アスカの弐号機が、手に持った着火剤で炎を放った。放たれたのは、かつて雷電であった「もの」。爆散し、すでに原型を止めぬ残骸をよせ集め、完全に焼き払おうというのだった。
「あのままじゃ、ケイタがかわいそう」
 戦闘が終わった後、そうつぶやいたマナの願いを拒む者はだれもいなかった。
 アスカが、破片の回収は自分がやると強硬に主張した。シンジの申し出をはねつけ、弐号機を駆ってただ一人あたりをかけずり回った。おおよその回収がすんだのは、すでに中天の陽がわずかに傾きだした頃だった。
 炎は、残骸を舐めるように包み込んでいく。小さな赤い揺らめきはやがて巨大な火柱に形を変え、まるで天に昇るかのように高く高く燃え上がる。
「・・・・ケイタは」
 不意に、ムサシがつぶやいた。
「ケイタは、空の下が好きだった。どこまでも続く空の下が好きだった」
 雷電や震電の整備されている格納庫裏の芝生。そこに寝ころび、彼はずっと流れる雲を見ていた。ムサシやマナが近寄ってきても、ずっとずっと、空を見ていた。
『僕たち、いつになったらこの状態から抜け出せるんだろうね』
 そんな独り言を、マナやムサシは一度ならず聞いた。
「・・・・どういうこと?」
 シンジが、その言葉に奇異の表情を浮かべた。抜け出せる? いつになったら?
「・・・・君らは、この陸上軽巡の建造目的を知らないのか? 特殊戦中隊がどういう経緯で編成されたかも」
 うなずき。ムサシはそうか、と嘆息する。その顔には無理もない、という表情が浮かんでいる。傍らの炎は、さらに勢いを強めていた。
「俺達があんな兵器に乗っていたのは、使徒と戦うためじゃない。将来起こりうる、国家間の戦争に備えてのためだった」
 そこからムサシが語った内容は、先日高千穂ヒロユキが碇ゲンドウに語った内容にほぼ等しかった。
「・・・・実際、二足歩行兵器の汎用性の高さは早くから分かっていたらしいんだ。じゃあなぜ実用化ができなかった、っていうと、それを戦場で使用できるまでの技術レヴェルに達していなかったから、ってことだと」
 世界でも屈指の高技術を持つ日本でも、今まで容易に実用化できかったのだ。当然、道のりは困難であり、またその切り開いた道を安易に他者に教えるわけには行かない。
 ゆえに建造されるトライデント級は全て機密兵器扱いで、関連する人物はことごとく一般社会から隔離された。
「君たちのエヴァのように、外部に機密が漏れるのを恐れたんだろう。でも、それは俺たちにとっては地獄にも等しかったのさ」
 来る日も来る日も動作保証のない実験機との苦闘。親元から引き離され、同じようなパイロット候補生と共に暮らす日々。安全性を無視し、性能だけを追い求めた機械はパイロットに無理を強い、また度重なる事故もあり仲間達が櫛の歯の欠けるように宿舎から姿を消していく・・・・。
「現に、マナはそれで内臓をやられてパイロット資格を失った。事故で病院送りはまだましさ。ちゃんと生きて帰って来るんだからな。・・・・いや、あんなところに二度と戻ってこない分、事故で死んだ奴の方が幸せだったのかもしれない」
 寂しそうなムサシのつぶやき。マナはシンジ達からわずかに視線を逸らした。
「残っている奴らの精神状態も最悪だった。いつ自分が消えていった仲間達の後を追うかもしれない。運良く生き残ったとしても、その先に待っているのは戦争が起こるまでの、気が遠くなるような隔離の日々。なんで俺たちみたいな子供が選ばれたかって? そう、ちょうど俺等が大人になったときが、戦争の起こり時なんだとよ!」
 嘲笑するようなムサシの笑み。シンジ、トウジは声もなく話を聞いていた。
「ロボットに乗れなくなっても、私たちはそこを離れることができなかった。さっきも言ったでしょ? この計画は極秘なんだって。家にも帰れない。お父さんやお母さんに会うこともできない。六年後に戦争が起こるかどうかも分からない。そもそも、六年がすぎたら自由になるっていう保障すらないもの」
 ムサシの後を引き継ぐようなマナの言葉。瞳の奥に悲しみの色。
 慰めの言葉すら、白々しく感じられるほどの内容。
「・・・・俺達だけじゃない。隔離されているのは大人達も同じさ。その現実から目をそらすように、大人達は俺たち子供を殴る、殴られた奴は自分より弱い奴を殴り、そいつはさらに弱い奴を殴る。最後に行き着いた奴は、大抵しばらくするといなくなっているさ」
 精神的に不安定な状態での操縦は、些細なミスを引き起こす。事故で病院送りはまだいい方、一度ならず、自ら命を断った仲間もいるという。
「なんちゅう、奴らや・・・・」
 トウジが、忌々しげに吐き捨てた。
「仲間をいじめてうっぷんを晴らすなんて、男の腐ったような奴らやの!」
「・・・・たしかにそうだ。否定はしない。しかしあの状況では、正気を保っている奴の方が少数なんだよ」
 ムサシは弱々しく笑った。それが、シンジには痛々しいものに感じた。
「俺はマナやケイタたちがいたから、互いに頑張ってこれた。一人だったらどうなってたかは、考えたくもない」
 人は弱い。何かにすがらなければ生きていけない。それが仲間や愛する人間であればよいが、間違ったものにすがってしまった人間は狂気への道を歩んでいく。
 トウジの言うことは正しい。しかし、そんな人の弱さを知っている分、シンジはまたトウジの言葉に軽々しく賛同することはできなかった。
 かつては自分も、すがるもを求めてさまよっていたのだから。
「ケイタが彼女に言っていたのを覚えているか。『マナやムサシ以外にできた、初めてぼくにできた友達』と」
 ムサシが弐号機を視線でさしながらそう言った。シンジとトウジはそれにうなずきを返す。
「あいつもまた、他のパイロットからいじめられていた。俺の知らないところで作ってきた傷は数知れない」
 かばってもかばっても。いや、逆にムサシがかばえばかばうほど、ケイタへの陰湿ないじめは度合いを増していった。
「俺達の前では笑っていたけどな、一人でいるときのあいつの後ろ姿は、見ていてつらいほどだったさ」
 そんなケイタが、空を見上げているときだけは笑っていた。
「薄汚れた格納庫と基地の敷地、俺達のいた、どうしようもないあの場所。まるで逃げ出すことのできない籠の中の小鳥。そこから抜け出せたら、というあいつのあの台詞、俺は今でもよく覚えているよ」
 マナがこらえきれなくなったのだろう。そっと指で涙を拭い、再び視線を炎の山に向けた。
「・・・・せめて最後くらいは、ケイタの好きだった空の下で・・・・ただの感傷にすぎないって分かっていても、そう思わずにはいられなかったから」
 そうつぶやき、炎の先端をじっと見つめる。頬を一筋、涙が伝っていた。
 シンジはそっと横を見た。トウジは炎に向かって瞑目し、内心で何事かをつぶやいているようだ。ムサシは拳を握り、必死に感情の奔流に耐えている。
 ここから見ることはできないが、おそらくアスカも弐号機の中で同じように悲しみをこらえているのだろう。
 鎮魂の炎。燃え上がる赤いきらめき。
 ある意味、それは今回の戦いで失われた命に対する葬儀にも近いものだった。
 大西洋艦隊。太平洋艦隊。第11師団。逃げ遅れた民間の人々。渚カヲル、そして浅利ケイタへの弔い。
 シンジはトウジに倣い、炎にむかって瞑目した。
 逝ってしまった人々へのなにごとかの言葉を内心でつぶやき。しばしの後瞳をあげる。傍らではまだ、トウジが頭を垂れていた。
 シンジは内心で詫びの言葉をつぶやきながら、踵を返してその場を離れた。
 あまり時間をとれなくてごめん。でも、僕にはこれからやらなくちゃいけないことが残っているんだ。死者の時間は止まってしまったが、生者はまだ時の中を生き続けている。
 ・・・そう。やるべき事が、残っているんだ。
 


 トウジとムサシ、マナは歩いていくシンジを追おうとはしなかった。
 彼の歩み去る方向とは逆側から、一台の車が近づいてきた。車はマナ達の目前で停車すると、その中から一人の男を吐き出す。
 男の姿を見た途端、マナとムサシの顔に共通の感情が走った。
 嫌悪、と人はその感情を言葉にする。
「・・・・辻三佐」
 ムサシが、敵意に満ちた声で上官の名を口にした。
「ムサシ・リー・ストラスバーグ。霧島マナ。これはいったいどういうことか!」
 辻三佐佐は燃え上がる炎にちらりと視線を走らせ、一転して怒気のこもった口調で二人を怒鳴りつけた。
「・・・・見ての、通りです」
 マナが、かろうじて感情を押さえつけた声で応じる。
「見ての通り、ではない! なぜ勝手に「雷電」を処分した! 貴様、上官の承認もなしに自衛隊の武器を破壊して・・・!」
「すでに戦闘で『雷電』は撃破されていました」
 マナをかばうように辻の前に立ったムサシの声は、氷点下を遙かに下回るほどの冷たさに満ちている。辻はそれに気づかないのか、さらに語気を強くする。
「そんなことは関係ない! 破棄に際しては上級司令部の認可をとらなければいけないのは分かっているだろう! それを軽々しく破棄してしまうとは、貴様国民の税金を何と考えるか!」
 わめき散らす辻の声は、しかしムサシの耳には何の感銘も与えなかった。
「その上級司令部が、行方不明ではどうしようもありません。小官は現場指揮を執っている彼女の許可を受け、最善の方法と判断した焼却処分に踏み切りました。最高機密部類に属する『雷電』を、撃破されたまま放置する訳にはいきませんから」
 行方不明、というところを強調して言うと、辻の顔がわずかに青くなり続いて怒りで真っ赤に染まった。染まっただけでは足りなかったのか、地面をけりつけるように一歩踏み出すと、ムサシの胸ぐらを片手でつかむ。
「貴様!! 我々がどこか安全な場所に隠れていたとでも言うのか!」
「・・・・違うのですか?」
 冷ややかに突き放すような口調。すでに殺意すらこもりがちなムサシの視線。辻の手が締め上げる息苦しさも気にならず。彼はじっと辻の顔を睨め付けた。
「少なくとも小官の知る限り、あなた方上級司令部からの指示なんてこれっぽっちもなかった。それが今頃お出ましで、しかもそうおっしゃいますか。辻三佐、ずいぶんときれいな戦闘服ですね。染み一つ、ついていやしない」
 今アンタが握ってる、汗にまみれ、煤に汚れた俺達の戦闘服とは大違いだ。
 俺やケイタが戦っていたとき、おまえはどこにいた? 命を張って戦っていた俺達をおいて、貴様はどこにいた? 指揮官が常に危険に身をさらす必要はない。しかし、俺はおまえ達みたいな指揮官を絶対に信用しない。するもんか。
 言葉の裏に秘められたその意志をさすがに感じ取ったのか、辻は自然とムサシの衣服から手を離し、一歩後ずさった。
「・・・・おい、おっさん」
 さらに辻に追い打ちをかけたのは、そばで見ていたトウジの台詞だった。
 我慢ならなくなったのか、彼は両手を組んだまま敵対的な口調で辻に視線を向ける。対して向けられた方はと言うと、まるでムサシに気後れした分を取り返すかのように高調子な口調で応じ返した。
「な、このガキ、自衛官に対してなんだその口調は! 大人に対する口のきき方をしらんのか!」
「ワイには自衛隊の階級なんぞ関係あらへん。大人やったらそんなちんぴらみたいな口きかんと、もっとその「ガキ」に尊敬されるようになってから文句を言えや。それよりおっさん、他に言うことはないんか?」
「なんだと?」
「他に言うことは。いや、まず言うことがあるんちゃうんか? 機材なんぞよりも大事なもんがあるやろが。パイロットのことや!」
 トウジの言葉に一瞬考え込むような態度を見せた後、何を言っていると言う視線で、辻は傍らの炎を見やった。
「パイロット? 浅利ケイタはすでに戦死。それくらいは分かっている。あいつの下手くそな操縦のせいで大事な機体を失ったんだからな。いまさらそんな当然な事を聞いてどうすると言うんだ。まったくくだらんことを聞・・・・」
 そこまで言って、不意に辻は黙り込んだ。
 黙り込まざるを得なかった。ムサシが彼の胸ぐらを両手でつかみ、持ち上げ、激しく締め上げ出したからだ。
「あんたがどういう人生哲学を持ってるか知らない。興味もない。他人を蹴落として幸せになる。それも結構! 蹴落とされた側に立ったときにどう思うかは知らないがな。ただし」
 もはや敬語すらなく、ムサシは苦しさで額から冷や汗を流す辻に顔を近づけた。
 ぱくぱくと口を開き、しかしそこからは何も漏れ出てこない辻の顔。空気を求める金魚のようなその顔に向かって、ムサシは一呼吸置いて、
「それ以上ケイタの名前を口に出すな。ケイタのことを話すな。ケイタの悪口を言うな。おまえにそんな権利はない!」
 そう言うと、ぱっと辻の胸ぐらから手を離した。突然の圧力の消失に辻はしりもちを付くと、新鮮な空気をむさぼるように吸い込む。苦しさに赤黒くゆがんだ顔には、ムサシに対する憎悪と恐怖の入り交じった表情。
 それを無視するように、
「・・・・他に、質問はありませんでしょうか?」
 唾を吐き捨てたい衝動にかられながら、ムサシは一転して丁重な口調で辻にそう問いかけた。
「なければ、これで失礼させていただきます」
 それだけを言うと、辻の返事を待たずに敬礼し、踵を返して歩き出した。完全な蔑みを見せるその態度に辻は鼻白んだが、ムサシは全く意に介さなかった。背後で、マナが敬礼すらせずに辻に背を向ける気配を感じる。
 一刻も早く、この男の前から離れたい。会話していることすら、すでに苦痛だった。
 最初に感じていた嫌悪は、すでに憎悪にまで達している。
 そして同時に、激しい空しさも胸中には漂っていた。
 俺達は何のために戦っていたんだ?
 俺達は、これから何のために戦わなければならないんだ?
 拳をぎゅっと握りしめた。
 横に並んだマナが、じっと自分を見つめているのが分かる。
 ムサシはやがて瞳をあげ、歩き続けながらマナへと視線を向けた。
「マナ。話がある」



  1530時
  ネルフ司令公室 第三新東京市



「父さん・・・・話が、あるんだ」
 プラグスーツから衣服に着替えたシンジが室内に入ってきたとき、ゲンドウは書類に落としていた視線をまったくあげようとしなかった。
「シンジ君」
 代わりにデスクを挟んで椅子に腰掛けていた冬月が、椅子ごとシンジのほうへ向き直り、わずかに表情を変える。
 気圧された、と言うのだろうか。シンジの今までにない真剣な表情に、驚きを浮かべたと言っても良かった。
「珍しいな。君がこの部屋に来るとは」
 ネルフ指令公室。シンジがこの部屋を訪れたのは過去に数えるほどしかない。そしてそれは大抵、何かしらの転機となる。
 広大な室内。床に、天井に描かれた文様。必要以上に暗い照明。
 しかしそんなことは、今のシンジにはどうでも良い。
 彼にとって重要なのは、部屋の装飾ではない。この場の主と、話をすることである。
 ただ無言のまま歩みを進め、デスクの向こうに座るゲンドウへと一歩、また一歩と近づいていく。
「シンジ君?」
 もう一度、冬月は呼びかけた。椅子から腰を浮かせ、不審げな表情と共に右手をあげてシンジの動きをとめようとする。
「碇は仕事中だ。話はまた後にしてくれ」
 その手が、シンジの肩に触れた。慎重に、まるで壊れ物を扱うかのように歩みを押しとどめようとする。次の瞬間、冬月は驚愕した。
「副司令、すいません、どいてください」
 伸ばした冬月の右手首を、シンジの左手がつかんだ。そのまま強い力で肩から引き剥がされる。シンジが抗ったという事実に冬月が驚き、はっと我に返ったとき、当の本人はすでにゲンドウの前に立っていた。
「父さん。話が、あるんだ」
「・・・・シンジか。何の用だ」
 相変わらず視線を書類に落とし、書類をめくりながらゲンドウはそう答えた。
「私は忙しい。くだらん用なら後にしろ」
 突き放すような台詞は、聞く人によっては怒声にも受け取れる。しかしシンジはその言葉を聞くと、残念そうに首を振った。
「また・・・・そう言って、いつも僕を遠ざけるんだね。何も話す前から話を聞こうともせずに。ううん。話を聞きたくないから」
 シンジの言葉に、ぴたりとゲンドウの手が止まった。
「・・・・なに?」
「別に。それより僕が言ってる話はくだらないことじゃない。大事な事なんだ」
 しばしの沈黙。
 手に持った書類に視線を落としたままのゲンドウ。そしてそんな彼を机を挟んで見下ろすシンジ。冬月は無言のまま壁際に下がり、無言のまま事の成り行きを見守っている。
「わかった。いいだろう」
 ややあって声を発したのは、ゲンドウだった。手に持っていた書類を無造作に「処理済」のボックスに放り込み、右手でサングラスを心持ちあげる。
 どうせ見る価値もない書類ではないか。そんなものはさっさと放り出して、シンジ君の話を聞けばいいものを。
 冬月が内心で嘆息する。それを知ってか知らずか、ゲンドウはそのまま両手を口元を隠すように組み、そして視線をじっとシンジの顔に据え付けた。
 ・・・・彼の行動はそこまでだった。
 そのまま、シンジの挙動をじっと見続ける。
 微動だにせず。まるで呼吸すらしていないように。
 どうした。早く言え。
 ただそれだけを瞳に込めて。
 そんな視線の前で、シンジは我知らず右手をぎゅっと握りしめていた。
 父さんとこうやって正対するのは一体何回目だろう。
 ああ、一度目は始めてエヴァに乗ったときだった。
 その次はいつだったっけ。母さんの墓参り? トウジが負傷したとき? 本部にまで使徒が侵入したときだっけ。
 なんだかずいぶんと昔のことのように思える。最初にエヴァに乗ったときは綾波がひどい怪我をしていたっけ。ああ、母さんの墓参りの時は綾波、父さんを迎えに来ていたっけな。そうそう、本部に使徒が侵入したときは、綾波はN2爆雷を持った零号機で使徒に突っ込んでいって・・・・。
 なんだか、ほとんどに綾波が関わっているな。
「何を黙っている。早く言え」
 黙り込んでいたシンジに、ゲンドウはわずかに声を荒げた。はっとシンジは我に返り、そしてごくりと唾を飲み込む。
「・・・・綾波の、ことだよ」
 意を決して放った言葉に、ゲンドウはしかし何の感慨も示さなかった。
「で?」
「で・・・って、父さんは綾波のあの姿を見なかったの!?」
 まるで、天使のように。
 そう、まるで羽の見えない天使のように、綾波は宙を舞っていた。
 まるで彼女が神であるかのように、その身体からほとばしる巨大な力をふるっていた。エヴァを介さずにATフィールドを展開したのは、シンジの知っている限り今まで一人しかいなかった。
 渚カヲル。
 そして彼は使徒。
 ならば綾波は・・・・。
「父さん、綾波に一体何をしたの? どうしてあの姿を見て何も驚かないの? 何を知っているの? 一体何を知っているって言うんだよ!」
 シンジの脳裏に浮かぶ光景がある。それはLCLの海を漂う無数の綾波レイ。彼女は人として生を受けたわけではない。それは分かっている。しかしそれでも、たとえ作られた容れ物に宿った魂とは言え、彼の知っているレイは明らかに「ヒト」であり「使徒」ではなかった。
 それが、あの姿はどうだろう。
「答えてよ、父さん!」
「・・・・もし」
 答えは返ってこなかった。逆に、
「私がレイに何かをしたとしたとして、ならばおまえはどうする?」
 ゲンドウは息をついたシンジに、そう問いかけた。
「何かをしたとしたらって・・・・やっぱりそうなの!?」
「質問に答えろ。どうだというのだ?」
 問いを再度無視し、ゲンドウは問いを重ねる。
 その視線にシンジはためらいなく応じた。
「もし、もしそうだとしたら、僕は父さんを許さない。綾波にそこまでする権利が、そんな権利が父さんにあるっていうの?」
 あるわけがない。あっていいはずがない。
 シンジはそう語った。
 ゲンドウは、その言葉を黙って聞いていた。
 傍らの冬月は、時折口を出そうとするのをこらえ、何も言わない。
 内心では、親子の会話に忸怩たる思いを抱いていたかもしれない。が、彼の介入すべき問題ではないからだ。
 そう、たとえ次にゲンドウが発する言葉が分かっていたとしても、だ。
 そして。
「・・・・そうか」
 しばしの後、ゲンドウは冬月の予想と寸分違わず、そう答えただけだった。
「そうか、って、それだけなの!?」
「ああ、それだけだ」
 ゲンドウは、視線を相変わらずシンジに固定しながら答えを返した。
 サングラスの向こうに見える瞳は、しっかりとシンジを見据えている。
 その視線の中に宿る何かを、シンジは唐突に感じた。
 ・・・・悲しみ?
 ・・・・怒り?
 ・・・・・・・・・・怖れ?
 そう感じたことに、理由はない。
 しかし、そこにシンジはそれらを感じた。
 自らの世界を守るための城壁。
 眼鏡の向こうに隠された本心。それがあるのではないだろうか、と。
 今までの父さん。
 あのサングラスをかけ始めたのは、いつのことだろう。
 母さんが生きていたことは、まだ普通の眼鏡だった。僕が先生の所に行ってから、一体何があったかを、僕は知らない。
 再びまみえたとき、父さんはすでに今の父さんだった。僕を突き放し、自分の目的のためなら全てを犠牲にしてもかまわないという意志の持ち主だった。
 目的・・・・。
 そもそも、父さんの目的とは何だったんだろう。
 人類補完計画。
 言葉だけは知っている。しかしそれがどんなものなのか、自分は知らない。何もかもを犠牲にしてもかまわないものなのか?
 そう、綾波をあんな風にしてまで・・・・。
「私も、おまえに聞きたいことがある」
 そんなシンジの思考を現実に引き戻したのは、ゲンドウが発した一言だった。
 重々しい声。今までの口調よりもさらに重厚さを増した口調。シンジは反射的に身構えるようにゲンドウを見つめる。
「・・・・おまえが私の事をそこまで非難する。その根拠は?」
「根拠?」
 予想外の質問。その意図を理解する前に、ゲンドウは言葉を継いだ。
「レイが変わった。それを私のせいだとする根拠だ。レイがそう言ったのか?」
「それは」
 シンジはそこまで言って、不意に口ごもった。
 まだ、綾波とは直接話をしていない。
 あのときから。
 綾波の秘密を知ってしまってから、自分は彼女と言葉を交わしていない。
 何と言っていいか、分からなかったから。
 どう接して良いか、分からなかったから。
「おまえは全てが私のせいであるような言い方をする。しかしそれでいて、当のレイには何も聞いていない。何も話していない」
「そんなこと、そんなことを綾波に聞けるわけがないじゃないか!」
「なぜだ? なぜ聞けない? おまえがレイのことを心配するのだったら、まずレイに聞けば良いだろう。レイはどうあってもレイなのだ」
「・・・・・・」
「なぜ、レイがあの力を自らのものとしたか。そうさせた原因は何なのかそれすら確かめず、全てを私のせいにする。確かにそれは楽だろうな。しかし」
 ゲンドウの口調は、明らかに怒気を帯びていた。
 そう、明らかな怒気。
 それはシンジも、そして冬月でさえも初めて見るものだった。
 少女の思いを知らない少年への怒りなのか、自分の息子に向かってこういう言い回ししかできない自分への怒りなのか、冬月にはよく分からない。
 そもそもこういう話をすること自体、今までの冬月には想像できなかったことなのだ。
 ただ一点、彼は気づいた。
 口元に当てられた両手の片方、右手の指が不規則にぴくぴくと動いていることを。
 それが何かを握りしめようとしている姿に見えたとき、ゲンドウはさらに言葉を継いだ。
「おまえのその私への怒りは、自己陶酔と偽善的な正義感でしかない。相手の気持ちを確かめもせずに自分の主観を押しつけるそれは、レイを避けている自分をごまかすためのただの偽りだ」
 そう言いきったゲンドウに、シンジは言い返すことができなかった。
 先ほどのまでの勢いはどこかに吹き飛んでしまっている。
 ただ、今のゲンドウの言葉が脳裏を駆けめぐっている。
 綾波が、あの力を自分で望んだとしたら。
 それは考えたこともなかった。
 考えることをしなかった。
 なぜ彼女が自らの力でエヴァ達を退けたのか。
 何のために。誰のために。
 初号機の中、モニター越しに見たレイの姿。その瞳がシンジの叫びに対し、悲しげな色を帯びたことを思い出す。
 あのときの綾波の表情の意味
 ・・・・僕は・・・・僕は・・・・。
「僕は・・・・」
 綾波を知らず知らずに傷つけていたのか・・・・。  シンジがゲンドウに対してそうつぶやこうとしたとき。


 振動は、突如襲ってきた。


 ジオフロント上部、度重なる戦闘にくたびれかけたビルから破片がぱらぱらと落ちてくる。そのいくつかが地底湖の水面に飛沫をあげ、同時にゲンドウの卓上のインターコム、そのブザーが乾いた音を立てた。
「・・・私だ」
「司令、緊急事態です」
 言葉の内容とは裏腹に陽気な口調。それは高千穂ヒロユキのものだった。
「今地上にいるんですが、おもしろいことになってます」
「どうした?」
「いや、戦自がドンパチやらかして、お祭り騒ぎですよ。震電が脱走したとかで」
「!」
 さりげなく投げ込まれたその台詞は、さらに衝撃を伴ってシンジの脳裏を襲った。
「おまけに逃げた震電を追って参号機が走ってます。いや、まるで運動会ですね」
「参号機が? 誰が命令を出した?」
「あ、大塚三尉が、戦自が妙な波を出しているのを拾いましてね。聞いてみたら震電が逃げ出したっていうんで、被害を増やされちゃたまらんということで私の独断で。ああ、葛城三佐と司令宛の書類は後であげときますよ」
 まるで備品を右から左へ動かした可のようなその口調。
 しかしシンジにとってはただごとではなかった。
「トウジ・・・・ムサシ・・・・霧島さん!」
 脱兎の如く駆け出すと、司令公室を飛び出す。その足音が廊下を遠ざかっていく音を聞きながら、ゲンドウは小さく息を吐いた。
「おや、今の声は・・・・シンジ君がいたようで。なにか派手にやり合ったんですか?」
「君には関係のない話だ」
「ま、そりゃそうですけどね。最近子供向けのカウンセラーが多くて。いくらか相談には乗れますよ。もちろんお安くしておきますよ」
「・・・で、何が目的だ?」
 ゲンドウはあえてヒロユキの台詞を無視すると、ズバリそう問いかけた。
 問いかけられた方も、その反応は予想していたらしく、
「いやね、思ったわけで。誰もが不幸である必要はないんじゃないかな、と」
「・・・・・・」
「まあ、そういうわけです」
「・・・・そうか」
 ゲンドウはそのまま相手の返答を待たずにインターコムの回線を切った。室内に、一気に沈黙が満ちる。
「・・・・碇よ。珍しいな、おまえがあそこまで言うとは」
 冬月が、感心したようにゲンドウに話しかける。
 それに対し、ゲンドウは問いには無言のままだった。
「理由はどうあれ、シンジ君は君との話を望んでやってきた。それに応えた、と言うことか? それとも、自分から今の状態を改善しよう、と言うところか?」
「・・・・くだらん。そんなものではない」
 再び自らの感情を消した口調でそうつぶやくと、ゲンドウは冬月に背を向ける。
「・・・・まあ、何にしても生きているからにはやり直しはきくと言うことだ。おまえもそれくらいは分かっているだろうよ」
 それだけを言うと、冬月は卓上から書類の束を無造作につかみ取った。
「さて、また忙しくなる」
 今回の後始末、そして次の戦い。
 あいにくと冬月にはルモンがレイに語った言葉は聞こえていない。しかしそれでも、いよいよ終局が近づいていることは分かっていた。
 歩み去る冬月の足音。耳に残る残滓を無視するように、ゲンドウは窓の外にじっと視線を注いだ。
 しばしの後。
「自分の主観を押しつけているのは、私なのだろうか・・・・」
 そのつぶやきは、先ほどまでのゲンドウのどの口調とも違うものだった。
「私はまだ・・・・シンジと向かい合うことに慣れていない」
 すがるような声、とでもいえばいいのだろうか。一人だけの室内に、吸い込まれるように声は消えていく。
 自分が側によると、シンジを傷つける。だから何もしない方がいい。
 しかし少なくとも、今日のシンジはそうではなかった。ゲンドウの言葉から何かを汲み上げ、それを生かそうとしている。
 失敗は償えばいい。間違いは正せばいい。やり直しはきく。そう・・・・ 「わかっているさ。生きてさえいれば・・・・なぁ、ユイ」
 この場にいない人への言葉。むろん返事は帰ってこない。
 集光装置から取り込まれる太陽の光。
 ジオフロントは、柔らかな昼間の午後を迎えていた。
 ・・・・むろん、人工の大地に青い空はない。






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