僕は、アスカに何もできなかった。
アスカが精神攻撃を受けたとき、凍結中の初号機の中でそれを見ていることしかできなかった。
父さんが初号機は出すな、といった。僕はアスカを助けようとしたけど、許してくれなかった。だから、何もできなかった。
でも、それは言い訳でしかない。
本当にアスカを助けようと思ったら、拘束具なんて簡単に引きちぎることができた。
僕は逃げたんだ。アスカを放り出して、逃げたんだ。
使徒を綾波が倒した後、弐号機の前で膝を抱えて座り込んでいたアスカ。それを見ることしかできなかった僕。
「よかったね」
そんなばかばかしい台詞しか浮かばなかった。
アスカと僕の間に張られた、「立入禁止」のテープ。
あれは僕とアスカの間に横たわる、アスカの心の壁。
僕はあのとき、それをこえることができなかった。
あのときみたいな思いはもうたくさんだ。
僕は自分にできることをする。
自分に、できることを・・・。
And live in the world forever
第8話:涙、思い、心
「最後の煙草くらい、吸わせてくれてもいいんじゃないかな?」
銃を構える那智に向かって、山城はそう言った。
那智がそれに対して反応を示す前に、胸ポケットからセブンスターを取り出す。
よれよれになった一本を取り出し、口にくわえながら、山城はヒロユキにも煙草を吸わないか、と仕草で示した。
「人生最後に、一服くらいつけてもいいじゃないか」
「・・・・あいにく、私は煙草はダンヒルと決めていますので」
そう言って、ヒロユキはゆっくりと手を振った。肩口の傷が痛むのか、時折苦しげな表情を浮かべる。
「ふむ、そいつは残念」
ジッポーをこすり、炎が浮かび上がる。それを煙草に近づけると、紫煙が立ち上り始めた。
「・・・・那智三尉。君はどうして、ゼーレのスパイになったのだ?」
「時間稼ぎですか? あなたらしくもない」
酷薄な笑みを浮かべながら、那智は銃をかちりと構え直す。
「なに、諜報員の性というやつでね。知りたいことがあると、どうしてもその欲望を抑えきれないだけだ」
「なるほど。では、一つだけ教えて差し上げましょうか。私がゼーレのスパイになった理由も、その「諜報員の性」というやつですよ」
「?」
「ネルフのすべてを知りたくなった。そのためには、私の行動を保証してくれるバックボーンが必要になった。それだけのことです」
「主義主張関係なく、か」
「自分に正直に生きれば、そうなりますよ。あなただって、彼だって、結局は同じじゃないですか」
ヒロユキを横目で見ながら、那智はそう言った。
「主義主張なんて、そのときの気分で着替える洋服のようなもの。一枚一枚脱がしていけば、最後には自分自身が残るだけです」
「それはそうだが、誰にだってお気に入りの洋服があるだろう。おれにとっては、今の諜報部という服が気に入っているんだよ」
「それは重畳。私も、ゼーレという服を最初は便宜上きていましたが、今ではかなり気に入っていますのでね」
「・・・・どこが、気に入ったんだ・・・・?」
二人の会話に割り込んできたのは、しばし黙り込んでいたヒロユキだった。
「ゼーレは自分たちの都合のいい世界を作り上げようとしている。そこに邪魔なものは排除する、それのどこが、貴様は気に入ったと言うんだ?」
「困りますねぇ、一つだけ教えてあげましょう、といったはずですよ」
そう言って、那智はちっちっと指を振った。
「まあ、特別サービスで一人ひとつ、ということにしておきましょうか。確かにゼーレの目的はそういうものかもしれません。でも、いや、だからこそ私は気に入ったのですよ。自分に都合のいいものしか残さない。自分の世界を作り上げる。その姿勢がね。誰だっていやなものからは逃げ出したいですから」
「そんな世界に、一体何の意味があるというんだ? 貴様がゼーレに都合の悪い存在になったら、今度は貴様自身が消されるんだぞ」
「だから、質問は一人一つといったでしょう」
そう言って、那智はヒロユキをにらみつけた。
「アスカを、どうしようというんだ?」
そう言ったのは、シンジ。山城の脇に横たわったアスカのそばで、にらみつけるように那智を見ている。
「それが君の質問ですか」
「そうだ。アスカをさらって、一体どうしようって言うんだ?」
「そうですね。私自身はしがない下っ端なもので、詳しいことは聞かされていませんよ。ただ、『神の子』がどうとか言っていましたね・・・・」
「神の子?」
詳しい事情は知りませんよ。知りたければ、君自身で尋ねてみるんですね・・・・ま、君も私が連れていけば、何らかの形でその中に組み込まれることでしょうし」
「・・・・冗談じゃない」
シンジは、那智の視線からアスカをかばうように立ち上がった。
怒っていた。普段のシンジからは考えられないことに、憎悪の視線で那智をにらんでいた。
「アスカをこれ以上、争いに巻き込まないでよ! ゼーレもネルフも、アスカにここまでする権利なんてないはずだ!」
「そんなことは私は知りませんね。君がどう思おうと、私は彼女を連れていきます」
「駄目だ駄目だ駄目だ!」
「そこをどいて、彼女を渡しなさい。君に関しては特に指示を受けていない。殺してしまっても、別に構わないのですから」
怪しく光る銃口。それが自分の胸元をねらっていることを、シンジはわかっていた。
でも、そこをどこうとは思わなかった。
アスカを守るんだ。
それだけを、頭の中で繰り返しつぶやいていた。
怖くても、足がすくんでいても、そんなもの、もしこの先アスカが連れ去られた時のことを考えればちっぽけなものでしかない。
そうだ。だから、ぼくはここを動かない。
「・・・・しかた、ないですね」
そう言って、那智は引き金にかけた指に力を込めた。
「さようなら、サードチルドレン」
パァ・・・・ン
「うぐっ!」
銃声と同時に、シンジの肩口に焼け火箸を押し込んだかのような激痛が走った。
着弾の衝撃で身体は後ろに吹き飛ばされ、アスカの傍らにたたきつけられるように倒れ込む。あふれ出る鮮血がYシャツの白い布地を染め、とっさに肩に当てた左手が、真っ赤に塗れていく。
外れた?
心臓を直撃すると思っていたシンジは激痛で自分が生きていることを理解した。そして、
「邪魔をするんじゃない!」
那智の叫びとともに、下からはたきあげるように銃口をそらしたヒロユキが殴りつけらたことで、彼がシンジに向けて放たれた弾丸の軌道をそらしたことに気づく。
「そんなに死に急ぎたいのか! しばらくそこで黙っていろ!」
紳士然とした仮面をかなぐり捨て、那智はそう怒鳴りつけた。
「さあ、サードチルドレン。今度ははずさない。もう一度言う。そこをどき、彼女をこっちに渡せ。そうすれば、命まではとらん。彼女とともに、ゼーレの下での地位を約束することもできよう」
「・・・・ぼくは、今まで逃げてきた」
シンジは、滴る血を省みることなく、ゆっくりと立ち上がった。
「何度も何度も、逃げてきた。自分の都合のいい世界に、閉じこもってきた」
「・・・・何が言いたい」
「都合のいい世界は気持ちいいけど、それじゃ人はいつまでも一人だ」
シンジは痛みを気にすることなく、右手の拳を握りしめた。
血塗れの拳。
いつものように握り開きすることなく、ぎゅっと握りしめた。
「ゼーレにつれて行かれたら、それは一人の世界で苦しむのと同じことだ。そんなところに、アスカを行かせるわけには行かない!」
「つまり、答えはノート言うことか」
「それ以外の何に聞こえるっていうんだ!」
激昂したシンジ。対照的に、顔をどす黒くゆがめた那智。
「ならば、死ね」
那智はためらうことなく、引き金を引いた。
シンジは、目を閉じた。
発砲音。
再び、身体に激痛が走った。
アスカは、周りで起こっている出来事をぼんやりと聞いていた。
シンジ・・・・。
そんなに無理、しなくていいのに・・・・。
怖いんだったら逃げ出しなさいよ。
アタシは、それをせめないから・・・・。
アンタは弱虫なんだから・・・・アタシなんかに、構わないでよ・・・・。
どうせ、アタシは一人なんだから・・・・同情で死んだりなんかしたら、一生馬鹿にしてやるわよ・・・・。
と。
銃声とともに、なにか顔に暖かいものがはじけた。同時に、どさり、と傍らに倒れ込む音がする。
シンジ・・・・?
荒い息。鼻を突く血のにおい。
シンジ・・・・ほんとに、死んじゃったんじゃないでしょうね?
アンタ、馬鹿じゃないの?
アタシのために何でそこまでするの?
何か言いなさいよ。何かしゃべって、生きていることを教えなさいよ!
しかし、シンジの声は聞こえない。代わりに、向こうの方で争うような声が聞こえるだけだ。
シンジ・・・・?
シンジ・・・・?
「シンジ・・・・?」
我知らず、声を出していることにアスカは気づいた。
ゆっくりと瞳をあけ、傍らのシンジを見ている自分がいた。
ベッドに横たわって以来、それは初めて持った外界への興味だった。
「・・・・アスカ・・・・・気づいたの・・・・?」
シンジは、アスカの声に反応して、かろうじてそう答えた。
「シンジ・・・・アンタ・・・・馬鹿じゃないの・・・・アタシのために・・・・そこまでするなんて・・・・」
シンジは、右脇腹に新たな血の泉を作っていた。
「アスカ・・・・気づいたんだ・・・・よかった・・・・」
貧血のせいだろうか。真っ青な顔色で、それでもシンジはにっこりとアスカにほほえんだ。そして次の瞬間、苦痛に顔をゆがめた。
「なんで・・・・なんで、そこまでするのよ・・・・」
そう言って、アスカはシンジの方にゆっくりと近づいていった。長い間使われていなかった筋肉が突然の酷使に悲鳴を上げたが、それでも、アスカはシンジの脇まで身体を持っていった。
「アタシなんかに、なんでそこまでするのよ・・・・もう、ほうっておいてくれてよかったのに・・・・」
「そんな、悲しいこと、言うなよ・・・・」
シンジは、荒い息の下、とぎれとぎれの口調でアスカにそう言った。
「確かに、この世界はつらいことが、あるよ。でも、それと、同じくらい、楽しいことだって、あるんだ。アスカが、つらいことだけ経験して、ここから、いなくなったら、すごく、不公平じゃない、か」
「・・・・シンジ・・・・」
「ぼくは、アスカに、もっと、幸せに、なってほしい、んだ。そのために、できる、ことは、するから・・・・だから、アスカも、ずっと、一人で、閉じこもらないでよ・・・・」
「シンジ・・・・」
「一人だ、なんて、思わない、で。ぼくは、アスカが、いてくれた方が、いいんだ。ミサトさんも、洞木さんも、みんな、みんな、アスカに、いてほしいんだ・・・・」
「・・・・・・」
アスカは、自分が泣いていることに気づいた。
自分は一人じゃない。
見ていてくれる人がいる。
守ってくれる人がいる。
シンジが、自分を命がけで守ってくれた。
私の居場所は、どこにもないわけじゃないんだ。
そう思うと、涙が後から後からこぼれてきた。
「シンジ・・・・バカ・・・・」
ゆっくりと、シンジの手を取った。そして、ぎゅっと自分の両手で、握りしめた。
「ありがとう・・・・」
血に汚れるのも構わず、その手を自らの頬に当てる。
人の温かみを、久しぶりに感じた。そう、アスカは思った。
「よかった・・・・ア・・・ス・・・・カ・・・・」
シンジは最後の気力を振り絞って笑みを浮かべる。そしてそのまま、気を失った。
「どうしてそこまで邪魔をする!」
那智は、銃口をヒロユキに向けてうめいた。
「それが俺の仕事だからだよ」
ヒロユキはその声に、軽くうそぶく。
「そんなに死に急ぎたいのか」
「あいにくと、俺はまだまだ死ぬ気はこれっぽっちもないんだがね」
発砲音。ヒロユキの足下で、土埃があがった。
「立場をわきまえろ。おまえの命を握っているのは、私なんだ。私がこの引き金をおまえに向けて引けば、おまえがどう思おうと、そこで人生はジ・エンドだ」
「そうそう都合よく行かないのが、世の中ってやつだぜ」
再び、発砲音。今度は、ヒロユキの左手に血の花が咲いた。
「たしかにおまえの都合通り行かないなぁ、世の中というのは」
勝者の余裕。那智は薄笑いを浮かべながら、ヒロユキの左手の鮮血を見つめた。
「存外に手間をかけた。今度こそ、片を付けてやる」
「だから、都合通り行かないっていっただろう」
「世の中を甘く見るのが、私のモットーなんでね」
「そいつはちがうなぁ」
「・・・・なにがだ?」
「あんたのは、甘く見ることじゃない。甘く見すぎ、なんだよ!」
その言葉が終わるか終わらないかの瞬間、山城が地を蹴って那智に向かって突っ込んできた。同時に、ヒロユキも同じく那智に向かって突進する。
一瞬、どちらを撃つべきか那智は迷った、しかし、すぐに決断する。
ヒロユキはすでに負傷している。まずは、山城だ。
そう判断し、山城に向かって銃を構え、素早く引き金を引こうとする。
その瞬間、
「シンジ、シンジ! いやあぁぁぁ!!」
アスカの悲鳴が、那智の鼓膜を叩いた。
なんだ、と視線を走らせて、しまった、と後悔する。
よけいなことに気を取られた。一瞬、隙ができた。
あわてて銃の引き金を引く。しかし、ねらいがずれた。
山城の顔面をねらった銃弾はその的をはずし、彼の足を撃ち抜いた。
「ぐおぉぉっ!」
まともにバランスを崩し、山城はその場に転がる。
それを確認して、那智はヒロユキに向き直り、引き金を引き・・・・。
弾は、でなかった。
「自分の銃に弾が何発残っているかくらい、しっかり確認しておけよ!」
気づいたときには、ヒロユキの顔が目前にあった。
頬に走る衝撃。勢いの乗ったヒロユキの右ストレートをまともに食らい、那智は数メートル、吹っ飛ばされた。
「だから、世の中を甘く見すぎ、といっただろう」
傷ついた右肩にもかかわらずパンチを放ったせいで、再び激しく流れ出した血。拳を鮮血に染めながら、ヒロユキはそう言い放った。
「あんたみたいな甘ちゃんが、おれに向かってくるなんて百年早い。顔を洗って、出直せ」
うめき声を上げている那智の頭に、蹴りを一発。那智は完全に、沈黙した。
「大丈夫か、高千穂二尉」
「私は、まあなんとか。山城三佐は?」
「む、痛くない、といえば嘘になるがな」
右足を引きずりながら、山城はヒロユキの傍らに立ち、気絶している那智を見下ろした。
「諜報部の中にスパイがいると言う話を聞いてはいたが、彼だったとは・・・・」
「それだけ、ゼーレの組織力を甘く見るべきではない、ということですね」
「しかし、高千穂二尉、君がもっとも疑わしかったんだぞ。スパイとしてはな」
「それは、この間も申し上げたとおり、私が加持リョウジとつるんでいたからですか?」
「それと、あの相手不明の電話だ。もういいだろう。あれは、誰が相手だったんだ?」
「さて、少なくともラーメン屋の出前ではないですけどね」
「高千穂二尉!」
激昂しかける山城に、ヒロユキは仕方ない、という風に両手を振った。
「はいはい、わかりましたよ」
そう言って懐から携帯電話を取り出し、そのまま、いくつかの数字をプッシュする。
しばしの沈黙。やがて相手がでたらしい。
「もしもし、高千穂です。・・・ええ、ええ、そうです。終了しました。それから、山城三佐がお話をしたいと言っていますが、よろしいでしょうか? ・・・・わかりました。かわります」
しばしのやりとり。そして、ヒロユキは受話器を差し出した。
「電話の相手ですよ」
「・・・・もしもし、山城だ」
『私だ』
瞬間、山城の顔から血の気が引いた。
『ご苦労だった。高千穂二尉から事情は聞いた』
「は、はいっ」
『いろいろ言いたいことはあるだろうが、相手はゼーレだ。やむを得ない処置と理解してくれ』
「・・・は、はい」
『後の処置は君にゆだねる』
「了解しました」
空電。電話が切れた後、しばし山城は放心したままだった。
「・・・・司令が相手では、私にいったい何が言えるというのだ」
「まるで昭和天皇の勅命を聞いた二・二六事件の青年将校みたいな顔つきですね」
「ずいぶん古い言いぐさだな。せめて旧東京へのN2投下のニュース、とでもしてくれ」
「誰か、親族でも?」
「妹がな」
ヒロユキは、それに対して無言だった。
そのまま、足をアスカとシンジの方に向ける。
泣き叫ぶアスカを引き剥がすようにシンジの元からどかし、手早くその傷を見る。
「弾は貫通している・・・・内臓も傷ついてはいない。まあ、全治三週間、そんなところかな」
「助かるの?」
「助けたいんだろ?」
ヒロユキの言葉に、アスカはうなずきを返す。
「だったら、そんなに泣かないことだ。彼も、君が泣いているのを喜ぶはずがない」
そう言って、にこり、と笑った。
アスカはその笑顔に、奇妙な既視感を感じた。
・・・・加持さん・・・・・?
ヒロユキはそんなアスカをそのままに、再び山城のところまで歩いていく。
そして一言、
「煙草一本、いいですかね?」
「・・・・ダンヒル以外は吸わないんじゃなかったのか?」
「そう言う気分の時も、ありますよ」
山城は無言で、煙草を差し出した。自分も一本取り、まずヒロユキの、そして自分の煙草に、続いて火を付ける。
煙が二筋、血なまぐさい空気の中に広がっていった。
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