遥かなる空の向こうに・・勝手に外伝(公認?)


  

*注意 このお話は第十話までを参考に、勝手に私の想像力に任せて書いたものです。

第X+2話:偽りの生活
   副題:鏡 参−シンジ− Aパート

原作 丸山御大先生  

外道 踊りマンボウ  

 

『夢を見ている・・』

 白濁とした空間の中、僕が立っている。

 上も下も無い、夢の中・・けれど落下する感覚がある。

『僕は、落ちているのかな・・下へ・・』

 そう、落ちている。

 何故、こんな夢を見ているのか。

『近頃、同じ夢ばかり見る・・』

 これは、その前兆にしか過ぎない。

 夢の中なのに、時々、頭に痛みが走る。

 夢の中なのに、意識がある。

 どうして・・どうして、こんなに苦しいのか・・まったく解らない。

 解っているのは、夢を見ているということだけ・・。

 

「アナタは死なないわ・・だって、私が守るもの」

 ヤシマ作戦の直前の少女との会話。

「時間よ・・。じゃ、さよなら・・」

 僕の視界の片隅を、月夜の下、作戦に従事するために立ち上がった少女が横切る。

 白いプラグスーツ姿の彼女・・。

 

「綾波!・・綾波!」

 加熱したエントリープラグのハッチを強引に開ける僕。

 ハッチを掴んだ途端、手に痺れるような痛みが襲ってくる。だが、その時の僕はそんな事を気にしている余裕など無かった。

 苦痛に、顔を歪ませながら僕は必死にレバーを回す。

「開け・・」

 だが、扉は堅く閉ざされていて、開かない。

 しかも、強引にエントリープラグをエヴァ零号機から抜き出した所為で、本体が微妙に歪んでいるようで、レバーを回すたびにギリギリと鈍い音がした。

「綾波っ!」

 バキッと甲高い音を立てて、歪んだハッチがようやく開けた。

 僕は、慌ててプラグの中に入った。

 ムッとする熱気に、一瞬、顔をしかめてる僕。だが、すぐに半分LCLに浸かった綾波を見つけて声を掛ける。

「・・んっ・・くっ・・」

「綾波っ!・・」

「・・」

 ゆっくりと目を開ける少女に僕はまくしたてた。

「自分には他に何も無いなんて言うなよ。・・さよならなんて悲しいこと言うなよ・・」

 感情が高ぶり、涙を流していた僕。

「・・ごめんなさい、こういうときどんな顔をすればいいのかわからないの・・」

 無表情と、とまどいの間で、少女の表情が微妙に揺れている。

「・・笑えばいいと思うよ・・」

 ・・・・。

 ・・。

 時間が止まる。

 少女は笑うことなく、月夜の下での表情に戻る。

「さよなら・・碇クン・・」

 無表情に、僕の名を呼んで彼女がエントリープラグの中から消える。

「・・綾波?」

 僕だけ、エヴァの中に一人・・。彼女の名を呼ぶ声が、エコーを加えて再び僕の耳に入ってくる。

「・・」

 何か言い知れない不安が心をかすめる・・。

 

「・・」

 ピッピッピッピッ・・。

 目覚ましの音が聞こえる。

「・・ん、あ・・っ・・もう朝か・・」

 時計の針は、6時30分を指していた。いつもより、ちょっと早い目覚まし。

 お弁当とかの準備・・昨日の夜に出来なかった・・というか疲れていて今日にまわしていたんだっけ・・。

『えっと、おかずは冷蔵庫にまだあったよね・・』

 のろくさと僕はベッドから起き上がり、パジャマ姿のまま、顔を洗おうと洗面所に歩いて行く。

 取りあえず、目覚めも良くないし眠気覚ましも兼ねてさっぱりさせたい・・。

『・・あんな夢・・いつも・・僕は彼女を綾波って呼んでいるけど・・僕は彼女を・・知らないのに・・』

 どうしてあんな夢を見るんだろう。

 それが、僕にとって、何の意味を持ちうるかまったく見当もつかない。

 ただ、言い知れぬ不安だけが・・胸にわだかまり・・苦しい。

 夢の中の少女・・綾波は・・何か僕に伝えようとしているのかもしれない・・。

「・・」

 薄暗い廊下を歩いて洗面所へと入る。入り口のところのスイッチを押して洗面所の明かりを点ける。

 ちかちかと数度の瞬きののち白色蛍光燈の光りで洗面所が満たされる。

 しんしんとした、朝の静けさの中、妙にその蛍光燈の音が耳につく。

「・・気のせいだよね・・」

 いつもの朝と違う朝。それは時間軸が一本の糸である以上、同じ朝という存在はありえない。けれど、人は『いつも』という感覚を、時間の流れ、起こりうる出来事などで、持ち得ている。

 その観点から言って・・今日の朝の雰囲気は、明らかに異質なものだった。

 静かな朝。音を立てる蛍光燈のノイズ。僕を起こした目覚し時計。

 確かに、すべてにおいて、いつも通りとも言えるリズムで、僕の生活に入り込んできている。

 でも。

 明らかに違うのだ・・。

「・・」

 疑り深い顔をしている僕が、鏡に映っていた。

 何が不満だと言うのだ。

 いつも通りの朝・・。

 そう思って、着替えをすませる。

『碇クン・・おはよう・・』

 ふと、台所に入ると、そこに居るべき感覚で、夢の中の少女・・確か、僕は綾波って呼んでたっけ・・の幻影と幻聴が感じられた。

「・・!」

 頭が痛い・・。

「誰・・なの・・君は・・」

 心も・・痛い・・。

 苦しくて仕方が無い。

 どうして、その少女を見るたびにこんなに苦しい思いをしなければいけないのだろう。

「・・誰なの・・」

 やがて、少女の幻影は僕の前から消える。

「・・君は誰なの・・綾波・・」

 台所に、僕の声が響く。

 やはり・・何処か違う・・静かな朝だった。

 

「はっ?ちょっと、シンジぃ・・何言ってるの?ばっかじゃない!」

 テーブルについているアスカの怒鳴り声が聞こえる。

 激しい剣幕で、シンジに食って掛かっている。

「わ、ちょっちょっとアスカ、御飯粒飛ばさないでよね、せっかくのビールに入ったらどうするの」

 今日は、珍しくマンションの同居人であるミサトも起きてきて、ここの同居人がそろっていた。

「あ、ご、ごめんミサト」

「・・ま、いいけどね」

 咄嗟にビールの飲み口を手で塞いだので、幸い被害はまったく無い。

 ので、特に深く言うこともないだろうとあっさり流して、ミサトは再びビールを飲む。

「ぷっはー!やっぱ起きがけのビールはキクわ!」

「あ、あのミサトさんは、知りませんか?」

 シンジは、アスカの言葉に納得いかないのか、今度は話題をミサトに振る。

「・・?何、シンちゃん?」

 ミサトは、シンジの真剣な目にビールを飲む手を止める。

「あの・・夢の中の少女・・綾波って僕は呼んでいるんですが・・彼女のこと・・」

「?アヤナミ・・聞いたこと無いけど?」

 ミサトはシンジの言葉に頭をひねる。どうやら、初めて聞く名前らしい。

「で、でも・・確かに・・」

「だから、シンジの妄想でしょう?・・寝ぼけてて、夢の続きを見てたんじゃない?」

 ひょいっと、シンジの作った厚焼き卵を口に入れるアスカ。

 シンジの夢の話を、はなから相手にしていない。

「・・あ、そうだ。ミサトさん!ヤシマ作戦・・そうヤシマ作戦の直前に会話しているんです」

「・・ヤシマ作戦?」

 つまみのソーセージを食べていたミサトは動きを止めた。

「もう、忘れたんですか?・・あの超長距離からのポジトロンライフル改による使徒殲滅作戦ですよ」

「あ・・あー、あー、アレね。思い出した、思い出した」

「それで、その綾波って子と話しているんです。・・その時、使徒からの攻撃を受け止めて・・彼女、僕を護ってくれたんです」

「夢の中の話でしょぉ?・・ホント、シンジどっかおかしいんじゃない?」

「アスカには、聞いていないよ!ミサトさん・・覚えているでしょう?」

 シンジは、あまりに馬鹿にするアスカに怒鳴るような調子で返して、ミサトの方を向く。

 アスカは、そんなシンジの怒り様に、勢いに押されたのか、それとも驚いたのか、黙り込んだ。

「・・?あれ、確かヤシマ作戦って、シンジ君一人じゃなかった?」

「え?・・そんな、だって・・」

 ミサトの言葉に、明らかにシンジの顔に落胆の色が表れる。

 一縷の望みを託していたのだが、あっさりと打ち砕かれる。

「使徒の攻撃は、エヴァには当たらなかったけど?」

「だから、言ってるでしょう、夢の話だって。まだ、寝ぼけてんの?」

「・・でも、確かに・・僕は・・彼女を助けて・・」

 シンジは夢の感覚を思い出したように、手の平を見つめる。

『エントリープラグのハッチを開ける手に走る痛み・・そして慌てて覗き込む僕・・』

「だって・・感覚が・・夢じゃない・・よ」

「じゃあ、何だって言うの?」

 強情に言い張るシンジに、アスカは呆れている。

 片肘を食卓について、馬鹿にした目で、シンジを見ている。

「げん・・じつ・・だと思う・・」

「はあ・・駄目だこりゃ・・」

「だって・・だって・・苦しいんだ、胸が・・」

「じゃあ、さすってあげようか?」

「茶化さないでよ!アスカ。僕は真剣なんだ・・」

「おお、こわ・・」

 アスカは、自分を睨みつけるシンジにおどけて見せる。

「・・ま、シンちゃん、きっと疲れてんのよ。近頃、寝付きも悪いようだし」

「・・そう・・ですか?」

 ミサトの言葉に、シンジはうなだれた。

「・・綾波・・」

 そっと彼女の名を呼ぶ。

 ずきり、と心が痛んだ・・。

 

 シンジの居ない部屋で、アスカとミサトは向き合っていた。

「・・シンジ君、思い出してきているようね・・」

「・・そうね・・」

 ミサトの言葉に、暗い表情になるアスカ。

「夢・・という形で・・」

「・・」

「アスカ・・また辛い思いをさせるわね・・いえ、ごめんなさい・・今でも十分辛いわね・・」

「ううん・・。だって、シンジ、レイ、そしてアタシのためだもの・・」

「・・そうね。誰も・・失いたくないもの・・」

「・・うん・・」

 

「・・ねえ、アスカ。あの席、あの窓際の席・・」

「何?・・またあの夢の続き?もういいでしょう、いい加減・・」

 学校に出てからもシンジは、執拗に食い下がっていた。

 どうしても、頭に引っかかって離れないでいるようだ。

「そこの・・窓際の席・・彼女が居た・・と思うんだ」

「・・シンジ・・本当にどうしちゃったの?」

 アスカが心配そうにシンジの顔を覗き込む。

「・・綾波・・痛っ!」

 夢の中の少女の名を呼んだ瞬間、シンジは頭に走る激痛に頭を押さえた。

「シンジ!」

 頭を抱え込むシンジに、アスカが声を上げる。

「シンジ・・ちょっと、シンジ!」

「・・う・・ぐ・・あっ・・」

 頭に走る激痛は止む気配が無く、シンジは苦しみの声を上げる。

「・・シンジ・・シンジ!」

 アスカはどうしていいか解らず、おろおろとしていた。

「・・アヤナミ・・」

「・・」

 一言、少女の名を呼んでシンジは、それ以上の激痛に耐えられず気絶した。

 アスカは、その様子に慌てて周りの男子生徒に頼んで、シンジを保健室へ運んでもらった。

『シンジ・・レイのことを・・思い出したいの?・・そうよね・・でも・・』

 アスカの顔に、疲労と苦悩の表情が浮かんでいた。

 

「・・取りあえず、心配することはないわ・・」

 学校の保健室では、赤木リツコ博士が保健医としてシンジを診察していた。

「大丈夫ですか?・・本当に・・」

 鎮痛剤と睡眠薬と鎮静剤を打たれたシンジを心配するアスカ。

「・・今のところはね・・としか言い様が無いわね」

「・・」

 あまり良い夢を見ていないのか、シンジの顔色は良くない。

「とにかく・・すべては記憶操作の反動でしょうね。少し不完全な点も彼が苦しむ理由になっているわ・・」

「・・レイのことを・・夢で見ているみたいなの・・今日の朝、いきなり言い出して・・」

「そう・・。夢は深層意識の表われともいえるから、まだ、記憶は残っているということね。・・そうなると思い出す日も近いかもね・・」

「・・レイは・・?まだ・・ですか」

「・・ええ、眠り姫は・・相変わらず眠ったまま・・変化はないわ・・」

「・・そうですか・・」

 アスカの顔に悲しみの色が浮かぶ。

「はっきり言って・・現状維持が精一杯ね・・。サルベージ計画はあるけど・・、望みは薄いわね」

「・・解りました・・」

「それで、シンジ君のことはこっちで検査も含めて処置をしておくから、アスカは、授業に出てなさい。はっきりいって、授業なんて手につかないと思うけど・・」

 カルテに目を通しながら、リツコはあれこれと思案し始める。

「・・はい・・」

 アスカは、素直に頷いた。

「じゃあ、・・失礼します・・シンジのこと、頼みます・・」

 

「なぁ、惣流・・ちょっといいか?」

 暗然とした面持ちで保健室より出てきたアスカに、話し掛ける少年、相田ケンスケ。

「・・何?・・」

「・・いや、ここじゃ話しづらいから・・屋上にでもいかないか・・」

 アスカの疲れた表情に、ケンスケは顔を曇らせながら彼女を誘った。

「・・」

 アスカは、少し考えた後、頷く。

「・・解ったわ・・少し・・気分転換もしたいし・・」

 そう言って、アスカは屋上へと足を向けた。

 

「それで、話って何?」

 屋上で心地良い風を受けて、少し気分が晴れたのか意外に元気な声でアスカはケンスケに問い掛けた。

 ぱたぱたと、制服のスカートが風に流され彼女の足にまとわりつく。

「・・もう・・」

 ケンスケの視線を気にしてか、スカートを手で押さえて風下へと移動する。

「・・なぁ・・正直に答えて欲しいんだけど・・シンジは、綾波のこと思い出してるのかい?」

「・・」

 アスカの顔色から、見えかけていた笑顔が消えた。

「・・」

 ケンスケは、黙り込むアスカをじっと見ている。

 アスカは、泣きそうな表情を見せながら言葉を選んでいる。

「・・」

「・・」

 風が、二人の間をさわやかに流れていく。

 さらさらと、風の音が耳につく。

 休み時間ということで、生徒のざわつく声も聞こえる。

「なぁ・・惣流・・別に興味本位で聞いてる訳じゃないんだ・・」

「・・」

「・・黙ってても・・解らないから・・」

「・・まだ・・よ。まだ思い出してはいないわ・・」

 俯いて、アスカはようやく答えた。

「・・そうか・・」

「・・」

「・・綾波の写真・・まだ持ってるよね・・」

「うん・・シンジに見つからないように・・隠して持っているわ・・」

「それ、俺が撮ったビデオの中からのスチルカットていうのは知ってるよな・・」

「うん、レイから聞いた・・」

 アスカは、あの病院へとレイが入院する前の日のことを思い出していた。

 それで、初めてレイがケンスケにビデオを撮ってもらっていた理由が解った。

 自分の姿を記録して何らかの形で残すこと。

 それはレイの生への執着の一つの表われといえた。

 自分という存在が、失われても失われないために、ケンスケに頼んでビデオを撮ってもらう。

 それは、残された者にとって辛いものかもしれない・・が、アスカはそれでもいいと思った。それだけ・・レイという存在が、アスカの中で・・まるで、彼女が妹であるかのように大きくなっていたから。

「・・それのビデオもそうだけど・・彼女から・・託されたメッセージビデオが在るんだ。それ、シンジが記憶を・・もし取り戻したら・・渡そうと思ってるから・・」

「・・そうなの・・」

 アスカは、そっと自分の左頬に手を当てた。

 傷は癒えたし、痕も残っていないのだが、まだちくちくと心の痛みを伴って、左頬が痛む。

「・・でも、シンジの奴・・記憶取り戻したら・・また・・」

「・・」

「・・あのさ・・惣流・・今度は君だけに・・苦しみを背負わせたりしないから・・」

「・・」

 アスカは自分の記憶に刻まれたあの時を思い出して、暗鬱な気分になる。

「ミサトさんから・・今回の記憶操作の事情を説明された時に聞いているから・・」

「・・うん。・・ありがとう・・」

 ケンスケにそう言われて、少しだけ気分が楽になる。

 一人で何もかも背負うのは辛すぎるから。秘密にして欲しかったという思いもあるが、そんなミサトの配慮が、アスカには嬉しかった。

「・・元気出せよ。出ないと、トウジとか嘘がつくのが下手だからな、うっかり喋るかもしれないよ・・」

「・・そんなこと・・解ってるわよ・・」

「ならいいんだけどね・・。本当に、辛いと思うけど・・言ってくれれば協力するから・・」

「・・」

「・・」

 目と目がふと合う。

 アスカは、口元を綻ばした。

「・・ふふ・・まさか三馬鹿トリオのアンタと・・こんな話をするなんてね・・」

「・・あはは・・そうだね・・」

 ケンスケは、笑顔を見せた。

 馬鹿にしあっていたが、それはそれだけ距離が近いということだから・・。

 こうして、こんな話をしていることが、でも不思議なことに思える。

 一人の少女の存在が、周りの人間を大きく変えていったということだろうか。

「そろそろ、授業だよ。・・惣流はどうするの?」

 ケンスケは、腕時計で時間を確認する。もう、休み時間も終わりである。

「・・もう少し、風に当たってから行くわ・・」

「そう・・解ったよ・・。じゃ、先に行くから・・」

 ケンスケは、そっと屋上から降りて行った。

「うん・・」

 アスカは、少し遠くの山をぼんやりと眺めていた。

『レイ・・きっと帰ってくるわよね。・・だってアタシと約束したんだから・・』

 

「・・ここは」

 シンジは、夢を見ていた・・。

 どうやら、彼女のマンションの前らしい。

 何処か、見覚えのある風景だった。

 まるで人の気配がしない、ゴーストタウンのような所。

 周りを見渡すと、場所的にも心当たりのある所のようで、何処か懐かしい。

 開発途中、あるいはその役目を終えたマンション群。外壁に彩りも無く、ただ存在しているだけの建物。

『ここに・・彼女が・・?』

 自分の立っているマンションの一室のドアの上には、かろうじて『綾波』と読める表札が掛かっている。

「・・」

 ためしにインターホンを押してみる。

 だが、インターホンはカチカチとプラスチックのぶつかる音しかしない。どうやらずいぶんと前から故障しているようだった。

「・・留守・・なのかな・・」

 ふと思い付き、ドアに手を掛ける。

 ノブをひねると、すんなりと回った。どうやら鍵を掛けていないらしい。

 不用心なことだと思いつつ、シンジは開いたドアから中を覗き込んだ。

「・・綾波?」

 中は、外と同じような無機質な彩りだった。

 ただ、灰色のコンクリートの壁と、点在する彼女のものらしき生活用品。

 およそ女の子の部屋と思えない、殺風景な光景が、シンジの目に入ってきた。

「・・入るよ・・」

 夢の中とはいえ、やはり気が引けるのだろう、シンジは一応声を掛けてから部屋の中に入った。

 靴を脱いで、埃と塵が特に端に積もっている床へ一歩、踏み込む。

 入ってすぐ右手にある台所は、ほとんど使用された気配はない。

『本当に・・こんな所に・・彼女が住んでいるの?』

 まったく生活感がない。

 とてとてと、奥に進むと、彼女の寝ているらしいベッドがあった。

 その部屋の入り口には、理科の実験でよく見かけたビーカーが冷蔵庫の上に乗っている。

 そして、小さなタンスの上に、割れた眼鏡。

「・・これは・・?」

 興味のままにその眼鏡を手に取る。

 薄く度の入った眼鏡・・。

「・・」

 ふと思い付きで掛けてみる。

 と、入り口の方で人の気配がした。

 振り返ってみると、シャワーを浴びていたらしい少女が、バスタオル一枚はおった姿で立っていた。

「!」

『あ・・綾波・・』

 少女の紅い瞳が、やけに鮮やかに目に飛び込んでくる。

「・・!」

 少女は、最初シンジに気付いていなかったようで、濡れた髪を気にしていたが、やがてシンジのことに気付いた。

 驚きで、少しだけ目が細まる。

「あ・・いや・・その・・インターホンが・・」

 紅い瞳に、見つめられてシンジは慌てて言い訳を始めた。

「・・」

 だが、しどろもどろになるシンジを気にも留めずに少女はつかつかとシンジの方へと歩み寄ってくる。

 ぺたぺたと、スリッパの音が部屋に響く。

「・・あの・・その、わざとじゃないんだ・・だから・・」

 だが、少女は聞く耳を持たないといった様子でシンジに迫る。

「・・碇クン・・」

「え?」

 少女の顔が、ふと笑顔に変わる。朝の夢では見られなかった笑顔。

「・・好き・・」

 夢の中の少女、綾波は、裸であることも構わずシンジに抱きついた。

「・・!」

 抱きつかれた衝撃で、眼鏡が外れる。

「あっ・・」

 眼鏡が、床に落ちる。

 カシャンと、ガラスの割れる音が、やけに耳に響いた・・。

 

「・・あら、気が付いたようね・・」

「・・」

 シンジは目を覚ました。

 やけに頭が重い・・。

 無論それは感覚的なものでしかないのだが、いつもの何倍にも感じられる。

 まるで、鉛が詰まっているかのように、感覚が重力に捕らわれている。

 起きようとする意識だけが空回りして、実行を伴わない。

「・・」

 ひとまず、すぐに起きるのはシンジはあきらめた。

「・・夢・・」

 見慣れない保健室の天井。

 起き掛けの目は、ぼんやりとその天井を捉える。

『気が付いた?』

 誰か・・夢の中の少女が話し掛ける。

 すぐ側・・、ごく間近に少女の幻影を感じる。

「・・」

「シンジ君?どうしたの・・?」

 リツコは、意識が覚醒してからまったく動こうとしないシンジに問い掛けた。

 視線だけが、やけに落ち着かなく、誰かを捜しているかのように動いている。

「・・あ・・リツコさん・・」

「気が付いた?登校するなり、いきなり倒れてここへ運ばれたのよ、アナタは」

「・・そうなんですか?」

 ゆっくりと動くようになった頭をもぞもぞと動かして、シンジはリツコの方を向いた。

「ええ、アスカが青い顔して駆け込んできてね。・・それより、気分はどう?」

「・・頭が、重いです・・」

「まだ、疲れが残っているのね・・。どう?立って帰れそう?」

「まだ・・ちょっと・・もう少し休んでからなら・・」

 少しづつ体の感覚が戻ってくる。

 けれど、まだすぐには動けそうにない。

「・・そう・・何なら、送っていってあげるけど?」

「いえ、大丈夫です・・」

「・・無理しないでね・・シンジ君」

「・・無理なんて・・していません・・」

 リツコから目を逸らして、拗ねたようにシンジは言った。

「・・先生には、言っておくから・・このまま帰っていいわよ。それと、アナタの荷物は、アスカに頼んでおくわ」

「はい・・」

「じゃ、私はちょっと用事があるから行くけど、くれぐれも、気を付けてね・・。駄目な時は遠慮無く言ってちょうだい」

「はい・・」

「それじゃ」

 リツコは、保健室より出て行った。

「・・」

 シンジは、天井を見つめた。

『夢・・夢なの・・』

 シンジは、さっき見ていた夢を振り返っていた。

 綾波と自分が呼んでいる少女の夢を・・。

「・・あのマンション・・何処かで・・」

 必死に自分の記憶を掘り返すシンジ。

 ちくちくと頭がまた痛み始めたが、構わず思い出そうとする。

『確かに・・僕は知っている・・あの場所を・・』

「・・」

 はっと、目が見開かれシンジの顔が青ざめる。

「・・行ってみよう・・」

 体はまだ重たかったが、構わずシンジは上体を起こした。

「・・知っている・・僕は・・知っているんだ・・」

 苦痛に顔を歪ませながら、シンジは保健室のベッドから降りた。

 

「・・間違いない・・ここだ・・」

 シンジは、人の気配のしないマンションの一室の前に立っていた。

 夢の記憶を頼りに、シンジは彼女のかつて住んでいたマンションに辿り着いていた。

 ドアの上には、「402 綾波」と書いてある。

「・・」

『ここに・・彼女がいるの・・?』

 夢の中と同じように、インターホンへと指を伸ばしていたシンジは、ふとその動作を止めた。

 指がカタカタと震えている。

『恐いの?・・知ることが・・』

 自問自答するシンジ。

「・・恐くなんか無いさ・・」

 インターホンを勢いよく押す。

 だが、インターホンは、夢の中と同じようにカチカチと音を立てるだけで、その役割をまったく果たしてはいなかった。

「・・恐くなんか・・」

『ない・・』

 シンジは、インターホンから離れて、ドアノブへと移った。

 ごくり、と唾を飲み込んでから、そっと金属のノブへ手を掛ける。

「回る・・の」

 手をひねる。

 キィと金属の擦れる音がして、ドアノブはあっけなく回った。鍵は掛かっていないようだ。

 カチンと、音がして、ドアがゆっくりと手前に開く。

「・・」

 シンジは、息を呑む。

『夢と・・同じだ・・』

 ゆっくりと、中に入る。

 マンションの中は、ここしばらく人が住んでいないとでもいう雰囲気に満たされていた。

 どことなく、空気もかびくさい。

 だが、風景はほとんど変わらない。夢のままだった。

「夢・・と同じだ・・。違う・・夢じゃない・・」

 シンジは、土足のまま部屋へ上がった。

「・・でも・・人の気配がしない・・」

 じっくりと、自分の見た夢と、今、目の前に広がっている景色を比べてみるが、それほど大きな違いは見つけられない。

「・・」

 一番奥の部屋には、やはり血で茶色に染まっているシーツを纏ったベッドがいた。

 だが、タンスはなく、動かした跡だけ残っていた。

「・・解らない・・。僕は・・知っている・・のに・・。解らない・・」

『きっと、ここに・・答えが・・あると・・思ったのに・・』

 答えじゃなかった、そう思った時だった。

「やあ、碇シンジ君だね」

 ふと、壁際に気配を感じた。

 見ると、夢の中の少女と同じ紅い瞳を持つ少年が立っていた。

 いや、立っていると言うより、存在しているといったほうがいいだろうか。

 少年の体は透けていて、その少年越しに壁が見えた。

「き、君は・・」

「・・僕のことはどうでもいいよ碇シンジ君。・・?ああ、この体かい・・。この体のもとになった者の名前は・・渚カヲル。・・君の親友だよ」

「ナギサカヲル・・」

 シンジの頭に鋭い衝撃が走った。それは今までと同じような痛みではなく、むしろ快楽に近い感覚だった。

「そう、君は大切な親友の名前を忘れている・・碇シンジ君」

 カヲルの目がすっと細まった。

「・・」

「君は、思い出さなければいけない。君を想ってくれる周りの人達のためにも」

「周り・・?」

「・・僕や、彼女の、綾波レイのことを!」

 カヲルは、強い調子で、そうシンジに言い放った。

「・・アヤナミ・・レイ・・」

 シンジは、目の前の少年の言葉を繰り返した。

 そして、再び頭に衝撃が走った。

「綾波レイ・・」

 閉じられていた記憶が少しずつ、開き始めた・・。

 

遥かなる空の向こうに・・勝手に外伝(公認?)

第X+2話:偽りの生活
   副題:鏡 参−シンジ− Aパート

−終−

 

作者後書き

 

「鏡」シリーズ最終作、−シンジ−Aパートいかがでしたでしょうか?

 といっても、ちょっと中途半端なところで途切れているので、何とも言い様が無いかもしれません。

「鏡 弐−アスカ−」から、時間的に直接的に繋いでも良かったのですが、「存在」を先に書き上げて方針が変わりました。

 あちらの方で、「約束の日」の前日を書いたので、こちらをそのまま繋ぐこともないだろうということでこんな風になりました。

 とはいえ、「約束の日」については、この次のBパートで書く予定です。

 あと、冒頭の「十話」というのは、間違いではありません。

 この物語を立ち上げた時点では、「十話」まででしたので。

「存在」は、これを立ち上げた後に、「遥かなる空の向こうに」を読んで思い付いたものなので、発表はあちらの方が早いのですが、「十二話」なのです。

 ということで、またBパートでお会い致しましょう。

 

 

*この場にて、「遥かなる空の向こうに」の作者である丸山氏に深く感謝いたします。

 もちろん、このような邪道な作品を読んで下さった貴方にも・・。

 



踊りマンボウさんへの感想はこ・ち・ら♪   



管理人(出張)その他のコメント

カヲル「もの悲しいね。この話は」

作者 「シンジ君の記憶操作。レイの不在を知られないためとはいえ、これは悲しいよ」

カヲル「ついにあと少しでこの『鏡』シリーズも完結だね」

作者 「最初は「遥かなる〜」なんかネタに小説書いてくれる人なんかいないだろうと思っていたのに。いやはや、踊りマンボウさんにはもう感謝の言葉もない。こんなすばらしい内容をかき上げてくれるなんて」

アスカ「今日はえらく静かじゃない、ふたりとも」

カヲル「作品の雰囲気を壊すようなバカな真似ができる分けないだろう?」

作者 「そのとおり。カヲル君だって本当は、「おお、『遥かなる〜』に僕が出てるじゃないか」とか叫びたいのを我慢してるんだ」

カヲル「そうそう」

アスカ「って、作者に代弁させてりゃ一緒じゃない・・・・」

作者 「あ、しまった」

アスカ「・・・・まあいいわ。今回はさすがにアタシも作品の雰囲気を壊すわけには行かないから、押さえといてあげるわ」

カヲル「さて、Bパートが楽しみだね」


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