遙かなる空の向こうに

第40話:無限抱擁





「レイ、調子はどう?」
 病室の天井。見慣れていた光景。ベッドの上に横たわるレイにかけられたその声に、少女は微笑みと共に返事を返した。
「ええ、大丈夫です」
 その返事にリツコは笑みを返すと、窓際に立ち、カーテンを開いた。
 採光板を通してジオフロントに降り注ぐ日の光が、柔らかく差し込んでくる。窓を開けると、同じく換気システムによって適度に調整された午後の風が吹き込んできた。
 リツコは白衣のポケットから取り出した煙草に火をつけると、一息吸い込む。紫煙の香りが風に乗って拡散し、白い煙が立ち消えていく。
 学校で倒れたレイが担ぎ込まれてから、四日になる。
 高熱を発していた二日間の後、彼女の容態は驚くほど安定していた。熱も下がり、食事もちゃんと取っている。熱によってわずかにやつれた感はあるものの、そこにあるのは、間違いなくいつものレイの姿だった。
「今日一日様子を見て、問題ないようであれば、明日には一度、家に帰ってもいいわよ。ただしはげしい運動は禁止。いいわね」
「はい、わかってます」
 口には出さないが、リツコにはわかっていた。今の彼女の容態は、燃え尽きる蝋燭が最後に光り輝く様と同じであるということが。もう、彼女は長くない。だからこそリツコは病院の医師たちがまだ入院させておくべきだという勧告を無視して、彼女を家に帰そうとしているのだ。
 レイにも、それはわかっていた。
 それはもう瞬きするほどの間でしかない。しかし彼女は驚かなかった。また取り乱しもしなかった。
 自分のやるべき事は終わった。だからこそ、こんなにも心安らかに、今を過ごしているのだ。
「午後にはシンジ君たちがくるそうよ。少し、休んでおいた方がいいわね」
「はい。でも、その前に少し、体を拭きたいんですが」
「ああ、ちょっと待ってね」
 リツコは内線電話を取り上げると、電話口の向こうにお湯とタオルを持ってくるように指示した。程なくして一人の看護婦が、それらのものをもってくる。適度に調整された温度のお湯にタオルを浸すと、固く絞ってそれを手にレイの背後に回った。
「ほら、背中出して」
 レイは言われるままに起きあがると、病院服を肩から滑らせる。あらわになった白い肌に、リツコはそっとタオルを当てた。
「痛かったら言ってね」
 そのまま、リツコは彼女の背中をゆっくりと拭いていく。
 しばし、室内には無言の時間が過ぎていった。
「・・・・レイ」
「はい」
 リツコが少女の名を呼び、少女はそれに対して小さく応じた。
「私は、あなたに何もしてあげられなかった」
 その言葉と同時に、リツコのタオルを握る手に、わずかに力がこもった。
「何もしてあげられなかっただけじゃない。私は母さんのようになりたくはないと思っていたのに、結果的には母さんと同じように、司令を愛し、司令を愛する者を憎んだ。司令が愛する者を憎んだ。あなたを・・・・憎んだ。憎んで、私はあなたをモノとして扱った。それが間違いだったと気づいたときには、もうどうすることもできなかった」
 感情の吐露を押さえきれず、リツコの声は細かくふるえていた。
「助けてあげたかったと思うのは傲慢かもしれない。でも私は、いいえ私を含めたみんな、あなたのことを助けてあげたかった。それでも、こんなことしかもう、私にはしてあげられない」
 振り返らずとも、レイにはリツコが涙を流していることがわかった。
「それでも、今赤木博士は、私を愛してくれています。違いますか?」
「愛している、もしかしたらそうかもしれない。いいえ、私はあなたを愛することで、自分の罪を軽くしたいと思っているだけかもしれない。そう思うと・・・・また私は、自分自身が許せなくなる」
「それは、違います」
 レイは肩に置かれたままのリツコの手の上にそっと自らの手を重ね、はっきりと言った。
「みんなが、みんなのできることで、私に多くのものをくれました。だからこそ、今こうしていることができます。すぎた過去は取り戻せないけれども、そこから何かを学んでいれば、新しく築くこともできます。私はそう、みんなから教わりました」
 やり直しのきかない生活。魂の器がすべて壊れて初めて知ったこと。私が死んでも、代わりはもういない。だからこそ、得るものはそこにある。
「愛する理由が自分が救われたいからというものでも、それが嘘偽りのない愛情となったなら、それこそが本質、だと。赦す赦さないではなく、むしろ私は感謝しています。・・・・ありがとう、ございました」
 瞳を閉じ、一言一言、つぶやくようにレイは言った。
「こんな言い方しか、できないけど・・・」
「レイ・・・・」
 リツコは、流れていく涙と共に自分の心が洗われていくように思えた。瞳を上げると、レイが微笑みながら、こちらを見つめている事に気づいた。
「ありがとう・・・・」
 そっと、レイの手に自らの手を重ね合わせた。
「本当に・・・・」
 その手は、どこまでも暖かだった。


「やほー! どう、元気?」
 病室に入ってきたアスカの開口一番は、きわめて明るいものだった。
 明るい風を装っているだけかもしれない。それでも少女の笑顔は、レイにとっては何よりの見舞いだった。
 枕を背に半身を起こし、レイはほほえみながら答えた。
「うん、調子がよければ、明日には一度帰れるって」
「ほんと?」
 その言葉に、アスカは飛び上がらんばかりに喜んだ。
「全く、健康的な生活してるはずなのに、なんでこう倒れるんだか。ねぇ、シンジもそう思うでしょ?」
 背後から花束を持って入ってきた少年は、その言葉に笑った。
「案外アスカが綾波のこと、こき使ってるんじゃないの?」
「なによそれは! いつアタシがレイをこき使ってたりしてね」
「あー、そんなあわてるところを見ると、なにか心当たりがある、とか?」
「んなことない!」
 拳を握り、ぎろりとにらみつけるアスカの表情。シンジは言い過ぎたかな、とばかりに小さく舌を出すと、レイの方を向き直った。
「綾波、お花買ってきたんだけど、飾ろうか? 明日出ちゃう時には持って帰っちゃうけど、せっかくだから」
「うん、ありがとう」
「花瓶は、っと・・・・ちょっと、とってくるよ」
 そう言って、花束を持ったまま病室を出かけて、シンジはそう言えば、と振り返った。
「綾波」
「え?」
「ありがとうって言葉、自然に出てくるようになったね」
 よかった。
 そして笑顔。
 あ、とそれに返事をする間もなく、シンジは廊下の向こうに姿を消した。
「・・・・シンジの奴、なにを今更」
 アスカが、怪訝そうな顔で扉の方を見やる。そんなこと、分かり切っているのに。
 レイがぽそりとつぶやいたのは、そのときだった。
「碇君、たぶん知っているんだと思う」
「え?」
「私のことを。もう、私が長くないことを」
「!」
 なぜ、という言葉が咽まででかかった。シンジの言葉を思い出してみる。
 もし明日、綾波がいなくなってしまうとしても。
「どうしてかは知らない。でも、碇君はそれを知って、それでもああやって笑ってくれる。声をかけてくれるんだと思う。私は、碇君が怒っても何も言えないくらいの嘘をついてたのに」
「知っていて、それでああやって振る舞って・・・る?」
 レイが倒れて後、シンジは一言もそのことについては言わなかった。ただ優しく、優しく彼女のことを気遣っている。以前にレイが倒れたときにリツコにくってかかったのとは、まるで対照的な姿だった。
「シンジの奴、なんで」
 そこで、はたと思い当たった。
 あの日の会話。嘘と、真実。真実のための嘘。
「あいつ・・・・このことを知っていて」
 あのときは何でそんな話をしたのかと思った。しかし今のレイの言葉で、合点がいったような気がする。
「そっか、そうなんだね」
 迷っていたんだ。シンジの奴も。でも、そこから今の答えを、決めたんだね。
 両手を胸の前で組み合わせ、アスカはうなずくようにつぶやいた。
 シンジ、ほんとに、アンタってやつは・・・・優しいよ。


「これで、よしっと」
 花瓶をベッド脇の机に置き、シンジはほっと一息。その花に、レイはしばし見入った。花弁の中心は白く、縁に行くに従って青を濃くしていく。その青は、まるで夏空の青を思い出させる色だった。
「ネモフィラ、っていってね」
 シンジがポットからお茶を注ぎながら、振り返っていった。
「森を愛するもの、っていうギリシア語の意味なんだって。春に咲く花なんだけど、なんていうのか、その青が気に入って。花屋の人も珍しい入荷だっていっていたよ」
「綺麗な青でしょ? 濃くもなく薄くもなく、まるでレイの髪の毛みたいに――ん、ありがと」
 カップを受け取って、アスカはそれを一口。その間、レイはただその青を見つめていた。
「・・・・うん、綺麗な、青」
「よかった、気に入ってくれてうれしいよ」
 シンジはそう言って、カップをもう一つ、レイに手渡した。
 そして傍らの椅子を取り出し、アスカにも勧めて自分も座る。
「ところで急な入院だったけど、何か足りないものとか、ないかな? 明日までだけど、どうしても必要なものがあったら持ってくるから」
「あ、うん」
 レイは唇に指を当て、しばし考えた。入院の時に必要なものといっても、ずっと前から、こういう生活には慣れていたと思う。特に病室で必要になるものなど、今となってはなにも――。
「・・・・プレーヤー」
「え?」
 つぶやくようなレイの言葉を、瞬間シンジは聞き逃した。
「プレーヤー、碇君から預かっていたあれ、返さないと」
 引っ越しの日、シンジから預かったポータブルプレーヤー。シンジが聞くのもつらいと言っていた過去を抱えた。あれを、返さなければ。
「あ、ああ、あれのこと、ね」
 シンジは少しの後、レイが何を言っているかをわかった。突然のことにしばし戸惑いながらも、少し考えて、そして言った。
「・・・もしよければ、あれ、綾波にもらっておいてほしいんだけど」
「え」
「いや、聞くことができないとかそう言う訳じゃない。ずっとそう思っていた。考えるたびに胸がちくちくと痛んだし、思い出そうとしても心が裂けそうでそれもできなかった。でも、大丈夫。綾波のおかげで、僕は向き合って、そして大丈夫になった。前はその曲を聴くことで彼そばに感じていた、と言ったけど、今は曲なんかなくても、僕は思い出すことができる。そばに感じることができる」
 胸に手を当てて。シンジは言った。
「僕の心の中にあった、過去。そこには今、別のものがある。だから、そのプレーヤーは、綾波に、ずっと持っていてほしいと、思って」
「私に?」
「あのとき、僕は過去を持っていてほしい、って言った。それは僕の心の中から彼の思い出を取り出すように渡した。で、今そこには別のもの・・・・つらい思い出ではない彼の姿や、それを埋めるきっかけをくれた綾波たちがいる。取り出した過去はもうそこには戻れない。でも、その全てを否定する訳じゃない。だからそれを綾波に、持っていてほしい、と思う・・・勝手かな?」
「・・・・ううん、そんなことない。そんなこと、ない」
 レイは、シンジの言葉に自らの両肩を抱き、喜びをぎゅっと抱きしめた。
「碇君がそう言ってくれたのが、うれしい」
 預かっていたものを、返した。そして、再び預かった。傷をふさぐためではない。乗り越えた過去の証として。それが、レイにはうれしかった。
 ああ、これで、本当に最後の、心配が、消えた。
 

「――外が、見たい」
 ひとしきりのおしゃべりの後、レイがふっとそんなことを言い出した。
「なに、いきなりどうしたのよ」
 アスカが、怪訝そうな顔でレイに問いかける。
「ううん、この花の青を見ていたら、何となく」
 花瓶のネモフィラに視線を追いながら、レイは笑った。
「ジオフロントは過ごしやすい場所だけど、空気も空も、何て言うのかな、この青とはすこし違う気がして。そう思ったら、無性に」
「ふーん、アタシなんか、あの暑いところから逃げ込めただけでシアワセって感じなのに」
「そうかな。やっぱり、変かな」
 アスカの言葉に、レイは困ったように笑った。シンジの方を向いて、だめかな、という表情を浮かべる。
「綾波が見たいって言うならいいけど、一応、リツコさんに言っておかないと」
 内線電話の受話器を取って、リツコの部屋へと電話をかける。
「もしもし、シンジです。ええと、綾波が外に出たいって言ってるんですけど」
 そのまま一言二言。受話器を置いて、オッケーのサインを出す。
「ちょうど暑い時期なのに、物好きね、って笑っていたよ。四階の十八番エレベータが地上直通だから、それを使うといいって」
 その言葉に、レイはありがとう、といって床に足をつけ、立ち上がろうとする。しかし上体を持ち上げた瞬間、足下がわずかにふらつき、バランスを崩した。
「あっ!」
 とっさに出したシンジの手の中に、少女の身体が倒れ込んだ。
「やっぱりずっと寝たままだったから、歩いていくのは無理だよ。車椅子、持ってくる」 レイをベッドに座らせようとするシンジの手を、しかし彼女はしっかりと握りしめた。わずかに顔を赤らめ、小さく言う。
「その、だめなら、いいんだけど・・・・」
「え?」
「ええと、できれば、私・・・・」
「?」
 胸の中、もじもじと言うレイの言葉にシンジは首をかしげる。ああ、とうなずいて助け船を出したのは、アスカだった。
「バカ、アンタが連れてってあげなさいよ!」
「だから、車椅子――」
「だぁぁぁ、そうじゃなくて、その手で抱・き・あ・げ・て!」
「!」
 アスカの言葉に、体中の血が集まったのではないかと言うくらい、シンジの顔は赤くなった。レイはというと、さらに顔を赤らめたまま、うつむいてしまっている。
「抱き上げて、ってアスカいったい何を」
「何をじゃなくて! それくらいしてあげなさいよ! アンタ男の子なんだから!」
「いや男の子とかそういう問題じゃなくて」
「そう言う問題なの! 乙女心ってものが相変わらず理解できない奴ね、ホント!」
 突き放すようにそう言うと、どん、と勢いよくシンジの背を押した。
「ほらほら、それとも女の子一人抱いていけないほど、碇シンジ君、非力なわけないよね」
「そんなわけ! ・・・・っていうか、その、綾波が」
「レイがそうしてほしいって言ってるんだから、なんも問題なし! ほらほら!」
 しばし躊躇した後、シンジはためらいながら綾波に手を差し出した。そのかいなの中に、レイは頬を赤らめたまま、身を預けた。
「ええと、その、綾波、ごめんね」
 そう言いながら、シンジは回した手の中の少女をゆっくりと抱き上げる。少女は両腕をシンジの首に回し、身体を、少年の胸に預けた。
 何を、あやまってるんだか。
 そんな表情のアスカに向けて、レイは小さな声で言った。
「アスカ、ちょっと碇君、借りていくね」
「バカ言ってんじゃないの。借りるも貸すもないでしょ?」
 お茶目にウインクしながら、アスカは笑った。
「せっかくの機会だから、うんと甘えてらっしゃい」
 そして相変わらず顔を赤くしたままのシンジに、
「ほら、王子様、がんばってお姫様をお連れしなさいよ!」
 そう言って、二人を送り出す。
 照れ笑いの表情のレイと、妙にしゃちほこばって前を向いたままのシンジが廊下に消えるまで、アスカは笑いながら見送った。



「アスカのあの茶目っ気も、困ったもんだね」
 廊下を歩きながら、シンジは笑った。そんなシンジを見上げて、レイも笑った。
「でもまあ、あれがアスカのアスカたる所以なんだろうけど」
「ううん、アスカも私のこと、気遣ってくれてるから」
「それはそうだけどね。・・・っと、綾波、身体痛くない? 大丈夫?」
「うん、碇君がちゃんと抱きしめてくれるから」
「あ、あははは。・・・・でもよかった。綾波、重くないから。まるで天使みたい」
「碇君、女の子に体重の話はなしよ」
 あ、とシンジがうつむくと、レイは小さく笑った。
 レイが冗談を言うのは珍しいことだ。ほんの小さなことだけど、少女が変わっていることを感じて、シンジはうれしかった。
 足音が、静かな廊下にこだまする。角を曲がり、階段を上ってエレベータの方へ。
「――本当に、楽しかった」
 不意に、レイがそうつぶやいた。
「え?」
「ううん、何となく、そう思ったの。この一ヶ月、いろんなことがあって。今まで一度も経験したことのないいろんなこと。それが、楽しかった、って」
「まだ、楽しかった、っていうには早いよ。綾波がまだまだ経験してないことなんて一杯ある。これから、もっともっと、楽しんでいけば、いい」
「・・・・そう、かな」
 エレベーターの前。ボタンを押そうと手を伸ばすシンジを制して、レイはそっと右手を伸ばし、ゆっくりとボタンを押した。
「ありがと、綾波」
「ううん。私の方こそ、――ありがとう。碇君」
 そして再びぎゅっと、シンジの首に回した手に力を込める。
「本当に・・・・心から」
「あ、綾波」
 さらに顔を赤くするシンジを見て、レイはにっこりと微笑んだ。空調の風に青い髪が揺れ、赤い瞳が、夜空の星のように柔らかく輝いていた。雪のような肌がほのかに赤く染まっている。吐息が感じられるほど近くにあるその笑顔は、少年の心をぎゅっとつかむ。
「・・・・そう、これから、もっと、楽しめば、いいのね・・・・」
 少女は、繰り返すようにそう言って、少年の肩にそっと顔を埋めた。
 ベルの音と共にエレベータの扉が開く。シンジは地上エリアへのボタンを押し、エレベータはゆっくりと上昇を始めた。
「・・・・綾波」
 シンジは、天井を見上げながらレイに呼びかけた。
「僕はね・・・・こんな言い方は変だろうけど、綾波は幸せなんだと思う。そりゃずっとつらいこともあったかもしれない。自分がどうして生まれてきたのか、考えることもあったかもしれない」
 それでも、そのままでずっと生き続けてる訳じゃない。
「父さんと出会い、アスカと出会い、僕も含めて、そんなみんなとの出会いの中で綾波は人形なんかじゃなく、一人の女の子として、生きてくようになったんだ」
 そして、この世界にいるんだ。
「始まりなんか気にしなくてもいい。昔のことなんか気にしなくてもいい」
 今が、自分の生きている今が幸せであれば、それはとてもとても、素晴らしく幸せなことなんだから。
「だれだって笑って過去を話せれば、それが一番なんだ」
 そして、その過去を忘れ去るのではなく糧として、まだ見ぬ未来へと。
 エレベータの表示はゆっくりと上へ上へ、地上へと上っていく。
「まだまだ、綾波はいろんなことを体験しないと」
 青い空の下や緑の大地の中、あるいは人の築いた都市の狭間で。そこでみんなと、もっともっと、いろんなことを。
「そうすれば、自分の生きているこの世界がどんなに素敵なものか、わかると思う。楽しかった、じゃない。楽しい、って思えるようになる」
 かくん、と地面が揺れ、表示が、地上階をさした。低い機械音がおさまり、ぶぅん、という音を最後にゆっくりと扉が開いていく。閉じられた箱の中から、世界への扉が。
「・・・・ほら、ついたよ」
 開かれた扉の向こうに、まぶしく光り輝く太陽と、何もかもを飲み込む空の青と、あでやかに燃える森と草の緑。その向こうに太陽を反射して輝くガラスを持つ、人の作り上げたビルの群れ。。
 シンジはエレベータを下り、その世界のへと一歩、足を踏み出した。
「――こんなにも、僕たちの生きている世界は素晴らしいんだ」
 悲しみも喜びも、全てがそこにある。この愛すべき、今という場所。
 だから。
「だから、さ・・・・」
 シンジは、レイの身体をそっと起こした。首に回された手をほどくと、自然に肩から顔が離れる。その頬を優しくなでる風。髪の毛が、乾いた風にそっと揺れた。陽の光に、レイの白く透き通った肌が輝いた。そこに小さな雫が一つ二つ、はじけて、そして散った。
「だからさ、綾波・・・・目を開けて・・・・見ないと・・・・ちゃんと見ないと・・・・だめだって・・・・」
 雫の数はさらに増え、うつむいた少年の声は詰まり、そしてくぐもった。それが嗚咽に変わるまで、わずかな時間を要しただけだった。
「・・・・目を開けてよ・・・・綾波・・・・あや、なみ・・・・」
 少女は何も言わなかった。
 ただ微笑むようにほころんだままの口元が、見下ろす少年に応えたのみだった。


 笑顔。心からの笑顔。







 少女は残された時を――生ききった。





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