遙かなる空の向こうに
第39話:I Love You -a Long Distance-
レイもアスカも出かけた後の部屋。シンジは最後の片づけを終えると、エプロンをたたみ、そっと卓上においた。
その横に、同じくたたまれた、二つのエプロンがある。隅に縫い取りされた刺繍が視線に止まり、少年は束の間、そこに見入った。
『Asuka Shinji Rei』
三人の子供たち。
自分を含め、多くの偶然と小さな運命と、そのほか諸々の出来事の末にある、今日。
自分がここにいること。
自分たちがここにいることの意味を、少年はしばし考えた。
戦い続けていた。逃げ出したこともあった。争ったことも、助け合ったこともあった。嫌ったことも、好きになったことも、何もかもが、今を形作る一つ一つのパズルの一片となって、僕たちは生きている。
いなくなった仲間も、今いる仲間も、そこに、確かに在る。互いと互いを組み合わせ、一つのパズルを組み合わせている。複雑なピースは一見どこにも当てはまらないように見えて、それでいて本当はちゃんと自分の居場所がある。組み合わさるべき相手がある。そしてその相手と、その相手がまた持っている相手と。それらが合わさっていって、世界は形作られる。
そう気づくのに、僕はどれだけの時間がかかっだろうか。
最後の1ピースが組み込まれて、パズルが完成するのはずいぶんと先のことになろう。いやパズルのピースは常に増えていく。それらを少しずつ、少しずつ組み込んでいくことで人は成長し、学んでいく。
扉の前に立ち、キッチンの電気を消す前に、シンジは再び室内を振り返った。
蛍光灯の下、静まりかえった室内の空気が彼を送りだそうとしている。卓上の電話機が、光を受けて鈍く輝いていた。
父さん。
みんなみんな、自分を作るパズルに欠かすことのできない一ピースなんだね。
「行って、きます」
誰もいない室内に向けてそう呼びかけると、シンジはそっと電気を消し、玄関へと向かって廊下を歩き出した。
退屈だけど、それでも毎日が過ぎゆくことを実感する授業の時間。先生が話す言葉は耳を通り抜けていく。本当に通り抜けていくものがほとんどだとしても、そこには必ず何かが残っていく。ほんの一握りでも、たった一欠片でも。聞いているクラスのみんなの数だけ違うものが残っている。それが個性となって、少年/少女は大人になっていく。
レイはそんな授業の中で、ただ窓の外を見つめていた。
校庭の向こう、陽炎にかすむビルの姿。その向こうに見える山々。彼らを包み込む空の青、雲の白。そして視界から見えない、全ての世界。
本当に本当に、きれいな世界。
霞がかったジオフロントの天井。零号機のLCLの肌に触れる感触。見上げた病室の蛍光灯。パイロットルームのロッカーの冷え冷えとした空気。セントラルドグマの血の臭い。独りで住んでいたマンションから見えた夕日。みんなで住んだあの部屋の、壁と扉と家具と、台所の包丁とフライパンと、それとそれと。
いろいろなものを、彼女は思い出していく。忘れていたと思っていた以前の自分の記憶すら、鮮やかによみがえってきた。
私は、確かにそこにいた。
時間にすれば短い間。それでも、まるで長い長い、ものすごく長い道程を経てきたように思える。最初は何も見えていなかったけれども、徐々に何かが見えてきた。たった一人でしかなかった自分でも、その周りにはいろいろな人がいた。たくさんの人たちが自分に関わっていた。
碇司令、冬月副司令、リツコさん、ミサトさん、マヤさん、日向さん、青葉さん、鈴原君、相田くん、洞木さん、アスカ、そして碇君。
私は、ここに確かにいるんだ。
レイは笑った。こんなことに笑顔を浮かべられる自分が、ものすごく幸せに思えた。病院の病室のなかでは、決して気づくことのなかった多くのことを、自分は学んでいった。それは幸せなことなんだろう。
「・・・あー、それでは、今日の授業は、ここまで、とします」
「起立! 礼!」
チャイムの音とヒカリの号令で、午前中の授業は終わった。我に返ったレイは、周りを見た。先ほどまでの沈黙とうってかわってお昼休みの喧噪に教室が包まれる中、シンジがトウジとケンスケと共に、昼食を買いにに出る姿が見える。
「レイ、お昼、いこ」
傍らに立ったアスカが、にこりと笑みを浮かべた。その側で、ヒカリが同じく笑みを浮かべていた。
「・・・・うん」
微笑で応じると、レイは席を立った。
アスカは、昼食のパンを口にほおばりながら考えていた。
――昨晩、シンジと話をした時のこと。
ミサトが酔っぱらって自室に帰り、ペンペンとレイが休んだ後。片づけを済ましシャワーを浴びて、その後のダイニングで。
「アスカ、もう終わった?」
フロ上がりのお茶を飲んで一息ついていたとき、背後に気配を感じて、そこにシンジが立っていた。
「まだ、起きてたんだ」
「なかなか、眠れなくて」
ここ、いい? シンジはそう尋ね、アスカの向かいにすとん、と座った。
「お茶、飲む?」
「あ、うん、ありがとう」
台所からコップを持ってきて、琥珀色の液体を注ぐと、中の氷がきん、と澄んだ音と立てる。礼を言ってシンジはコップを受け取り、一口、喉に注ぎ込んだ。
「明日のこと、悩んでるの?」
「まだ、ちょっとね」
シンジはそのセリフに、小さく笑った。
「またそーやってうじうじと」
「いや、うじうじと、じゃないんだ」
「じゃあなんなの?」
「綾波の言いたいことはわかるんだ。僕が返事をするとして、それが今の自分にとってアスカか綾波か、という選択以外のものが考えられる訳じゃない。それくらい、二人とも僕の中では大事な存在だと思っている」
「ありがと、お世辞でもうれしいわよそれ」
「冗談じゃないって」
アスカの軽口に、シンジは笑みで答えた。
「どうして、って思うのは、『ぼくは、あなたが好きです』じゃなきゃいけないんだろうか。『ぼくは、あなた達が好きです』じゃいけないんだろうか、ってこと」
「そう、ね」
アスカは少し考えた。
「・・・英語のI Love You、ってさ」
コップのお茶を一口。少し喉を湿らせてから、アスカは言葉を選びつつ話した。
「Youはあなたでもありあなた達でもある。使いようによっては便利な言葉だけど、曖昧でもある。『私は、あなた達が好きです』。それはそれですごくいいセリフだと思うの。前にシンジが言っていた。「君しかいない」っていうのは、周りが見えなくなってしまう危険ももっている、って。そうじゃなく、自分以外のみんなを愛することができる。それはすごくすばらしいこと」
でも。
「でも、その「みんな」っていうのは逆に曖昧にもなってしまう。自分はそのみんなの中で、どれくらいの重さを持っているのだろうか、って」
「そういう重さとか、大事さとかって」
「まあ聞いて。アンタの言うことはわかる」
アスカは天井を見上げた。蛍光灯の瞬きが、まるで昼間の雲のように白かった。
「レイは、あの子は不安なんじゃないか、ってアタシは思う」
「不安?」
「そう。この数週間、いろんな人といろんな経験をした。自分が一人じゃなくて、人との関わりの中で生きているんだっていうのを実感した。好きな人と一緒に過ごして、自分が大事にされているっていうこともわかったんだと思う。でも、その大事にされているって言うのは、自分がシンジにとってのみんな/Youだからなのか、それともレイ/Youだからなのか、それが不安なんだと思う。肌ではレイ/Youだからだっていうのはわかっているのかもしれないけど、それを言葉にして伝えてほしい、と思っている。そんな風に思うの」
そして、それが彼女はいなくなる前に、聞きたいのだろう。自分がシンジにとってのみんな/Youではなく、レイ/Youであることを。
「そんな、分かり切っていることを」
シンジは小さく頭を振った。
「僕にとってはみんな/Youが大事で、でも同時にトウジ/Youだし、、ケンスケ/Youだし、委員長も、アスカも、レイも、同じくそれぞれ/Youで、大事な人なんだ。それは分け隔てなく」
「そうじゃない。大事にしている、ではなく、愛されているか、ってことよ」
新たな一杯をコップに注ぎ、それを口にしながら、アスカはさらに言った。
「愛されたいっていうものの一つの形の、一人の人として大事にされたいって言うのはみんなから一杯受け取った。で、もう一つの形。女の子として、大好きな人に愛されたい、それを実感したいっていうのが、今のレイの思いなんだと思う。自分は、この人にとってただ大事なだけの人なのか、それとも共に同じ人生を歩みたい、求め合いたいと思われる人なのか。さっき言っていた、アタシとレイとどちらも大事、っていうのは、愛し合い求め合いたいと思う意味での大事、っていうものなのか?」
「愛し合い、求め合い・・・・」
反芻するように、シンジは言った。
「無論、誰だってシンジにそれを強制することはできないから、無理なものは無理でもいい。むしろ嘘をつかれる方が、聞いてる側にはつらいくらい」
特に、これが最初で最後のチャンスであるレイにとっては、ね。
「それくらい、綾波にとっては大事なことなのかな」
「少なくともアタシにとっては、大事なことだと思ってる。一人の、女の子としては」
そしてレイにとっては、一人の女の子として何かを残しておきたい。残したというものを証明したい。そう、思っている。アスカにはそれが痛いほどわかった。
と。
「――以前ね」
唐突に、シンジは話題を変えた。
「友達に嘘をつかれたことがあったんだ」
「裏切られた、の?」
「ううん、裏切られた訳じゃない。その友達は僕を信じていた。信じていたからこそ、僕に嘘をついたんだ・・・・と思う」
「それで?」
シンジがなぜそんな話を始めたのか、アスカにはわからなかった。でも、彼が今その話をしているというのは何か理由があるのだろう。だから彼女は、話を遮らなかった。ただ、彼の言葉を聞き続けた。
「もうその友達には二度と会えなくなった。だから本当はなぜ嘘をついたのか、もう僕には聞くことはできなかった。綾波は、それは僕のために、誰かと一緒にいることのできる未来のために、って言ってくれた。彼にとっては、それくらい大事なことだったんだって。でも、それでも、僕は彼を・・・」
「恨んでるの?」
「わからない」
「嫌いになった?」
「そんなわけない! 嫌いになんて!」
「――じゃあ、それでいいんじゃないの?」
「え?」
その言葉に、アスカをシンジは見た。
「さっき言ったように嘘はよくないかもしれないけど、シンジはその嘘が、その友達が自分を信じていたからと思った。そして嘘をつかれても、それを恨むよりもなおまだその友達のことが嫌いじゃないのなら、それで」
彼女の脳裏に、ふっとレイの顔が浮かび、消えた。
シンジは、レイのことを赦してくれるだろうか。大事な、大事なことを隠している彼女のことを。
「・・・・」
かちこちと、時計の音だけが駆け抜けていく。シンジは黙り込んで、アスカはそのシンジを見て。
「さて、と。そろそろ寝ないと」
大きく伸びをして、アスカは椅子から立ち上がった。
「明日のこと、迷うのもいいけど、寝不足にはなっちゃだめだからね!」
「あ、うん・・・・アスカ」
「え?」
「ありがとう。少し、楽になった」
そのままダイニングを出たのが、夜の2時ごろだろうか。
・・・・結局シンジのやつ、ちゃんと寝てないんじゃないかな。
牛乳をストローで一口。パンの空袋を丸めてビニールに突っ込み、大きく振りかぶって扉脇に据え付けられたゴミ箱に向かって投げる。
ビニールはゴミ箱の端に当たって、かさりと床に落ちた。
「アスカ! 行儀悪いよ!」
ヒカリがわずかに眉をひそめてそう言う。
「あはっ、ごめんごめん」
机から立ち上がり、スカートについたパンくずを両手で払い落とす。その足でゴミ箱の傍らまで行って、落としたゴミを改めて投げ込む。
「それにアイツ、ちゃんと答えを、決めたのかな」
・・・ううん、決めている。決めているはずだ。そうじゃないと、シンジに嫌われることを覚悟してまで嘘をついた、レイはあまりに救われない。
「綾波、アスカ」
シンジが二人に呼びかけてきたのは、放課後の掃除が終わり、みんなが徐々に帰り始めた時だった。
「いいかな?」
「あ、うん」
それだけで、何を意図しているのか二人には理解できた。
レイは鞄を手にして、席を離れた。
アスカはヒカリに、先に帰っていてと目配せする。ヒカリは少し迷った後、うなずきを返して、今まさに教室を出ようとするトウジとケンスケの方へ歩いていった。
「こっちもオッケーよ」
「うん」
そして、三人は教室を出て行った。
廊下でその様子を見送ったトウジは、ヒカリに向かって小声で尋ねた。
「なあ、アイツら、何するんやろ?」
「ううん、私にも何なのか」
ヒカリもそう答える以外に理由が見つからなかった。教室を出るときの三人は、どこか緊張感を漂わせていたからだ。
ただケンスケは、廊下の角に消えた三人の背中をじっと見送っていた。
「ケンスケ、おまえはなんか知らへんか?」
トウジの問いに、彼は答えない。
ただ内心で、つぶやくだけだった。
ああ、決着を、つけるんだろうな、と。
雲が天まで伸びゆく空の下、窓から差し込む日差しが、暑かった。
「――まず、何から話せばいいかな」
屋上のフェンスに背を預け、シンジはしばし逡巡するように足下を見た。
アスカとレイは、その様子をしばし見守った。
「そう、この一月近くの間、いろんな事をみんな、学んだと思う」
レイがやってきた初めての夜。朝食と、アスカとの会話。レイとの会話。
「今までの戦いやその中で、三人とも互いが互いを助けて来た。それはこの生活の中でも変わらなかった。それどころかそれ以上にお互いを思いやって来たと僕は思っている。たぶんアスカも綾波もそれは同じだと思う」
うなずきを返す二人を見て、シンジは小さく笑みを浮かべた。
「ふたりとも、僕のことを好きだと言ってくれた。それは僕にとってすごくうれしいことだった。もう何度も話をしているから知っているだろうけど、僕は自分がいらない存在なんだと思っていたから。それは間違いだって気づきはしたけど、それでも、それ以上に自分のことを好きだと言ってくれる人がいるって事はすごくうれしかった」
自分が誰かに心配され、求められ、そして愛されていること。それは至上の幸福。
「そして、その中でさらに知ったことも多かった。どこかで僕は自分の道を間違えていた。それに気づかなければ、僕はただ一人であの暗い道を――孤独な暗い道程を、まだ歩き続けていたと思う」
しかし、様々な人の出会いとふれあいの中で、自分は今の道に戻ってきた。
一人だと思ってしまったときが、本当に一人の時なんだ。
「この先、もしかしたら僕自身はまた間違った道に踏み込んでしまうかもしれない。いやまだ間違った道を進んでいるのかもしれない。それでも、今は心配していない。だって、僕の道程は僕のものだけど、そこにはみんながいて、アスカがいて、綾波がいて、間違った道に進みそうになれば連れ戻そうとしてくれるだろうから」
「それはそれ、お互い様だから。アタシも、シンジに自分の人生を救われた。借りばっかり作るのは性分じゃないもの」
「わたしは、ヒトとしてのうれしいこと悲しいこと、いろんなことを碇君に教わった。ううん、アスカにも、ミサトさんにも、ほかのみんなにも、いろいろと。だから、それが少しでも返せれば、と思う」
レイとアスカは、シンジの言葉にそう応えた。三人の誰もが、同じく思うこと。それがわかって、シンジはさらに笑みを大きくした。
「・・・・そんなふうに、僕は自分が一人だと思っていたころだったら、これからの返事はできなかったと思う。たぶんみんなを気にして、誰も傷つけたくなくて、曖昧な返事をして、それでかえってみんなを傷つけて。そんな事になっていたかもしれない。でも、僕は決めたんだ」
何がもっとも大事なことなのか。自分がどういう返事をしなければいけないのか。いや、どういう返事をしたいのか。
僕は。
「昨日、アスカが言っていたよね。『I Love You -わたしは、あなた達が好きです-』っていう言葉。まず言いたいんだ。僕は、アスカも綾波も、二人が大好きだ」
ゆっくりと二人に背を向け、シンジはフェンス越しに校庭を見下ろすと、一言一言を確かめるようにもう一度言った。
「そう、僕は、二人が大好きだ」
その言葉に、レイは身を固くした。アスカは、一瞬表情をこわばらせた。
「まさか、それがシンジの答え?」
それが、レイの問いに対するシンジの答えなの?
昨日さんざんあれだけ人に話をさせておいて、悩んでいるだのなんだの言っていて、決めた決めないのなんだかんだ言って、それでその答え!?
少女は拳をぐっと握り、一歩、足を踏み出そうとした。それとシンジがこちらを振り返ったのは同じタイミングだった。
「いや、まず、って言ったよね」
その瞳が、アスカをじっと見つめた。少女はそこに、揺るぎのない決意の色を見て取った。昨晩話をしたときにあった迷いの色は、どこにもなかった。
「僕はアスカが好きだ。綾波も好きだ。そんな中でも僕は、どちらかを選ばなきゃいけない。・・・・でも、それ以前に、僕自身に愛してるという言葉が言えるかどうか。言う資格があるかどうか、そう考えてみたんだ」
かつては、その言葉を口にする資格はない。そう自分では信じていた。でも、アスカも綾波も僕を信じて、選ぶことを望んでくれた。そして今、僕は。
シンジは右手をゆっくりと握り、ゆっくりと開き、そして最後に力強く、拳を作る。
「へんだよね。資格だとかそんなことを考えても、どうしても頭を離れないんだ。『この人』に愛してるって言う資格が僕にはあるんだろうか。『この人』に愛してるって言えるんだろうか、って。つまりそれは、僕がその人を好きだいう思いを持っているって事じゃないか、って」
ごくりと、二人の喉が鳴った。
「だから、僕は言うよ。永遠になんて事を言うつもりはない。でも少なくとも今この時点で、僕が『I Love you/僕はあなたが好きです』、という言葉を言いたい、そう思ったのは」
拳を解き、ゆっくりと差し出された右手。少女は、自らの目の前に差し出されたその手を、驚きとともに見下ろした。
――栗色の髪が、わずかに揺れた。
「アスカ、君なんだ」
アタシ?
少女はまず驚き、次に戸惑った。
「なんで、なんでアタシなの?」
そうなればいいと望んでいた。望んでいながら、それが現実となったときに隣の少女に与える衝撃の大きさに恐怖していた。できればあの子になってほしいと思い、同時にそうなったときに自らの落胆を怖れた。どちらも恐ろしかったが、その結論が出ないことがもっともあってほしくないことだった。
だからこそ、今この差し出された手が本当なのかどうか、彼女にはにわかに信じられなかった。
「僕はね、ずっと考えていたんだ。アスカがどんなに強く綾波のことを案じていたか。どんなにたくさん、僕のことを助けてくれたか」
背中を押してくれた。迷っているとき、落ち込んでいるとき。アスカが話を聞いてくれた。その話の中に、次につながる道筋へのしるべがあった。
「人は一人で生きていける。そう思っていても、どこかで誰かの助けを受けている。誰の助けもいらないって思っていても、心の中では誰かを信じて、誰かに助けを求めている。それがあって、互いに支え合って、初めて人は人として生きていけるんだ」
そしてそれが、カヲル君の望んでいた未来でもある。
「昨日アスカと話をして、今朝、僕は父さんに電話をした」
今までどうしても聞こうと思って聞けなかったことを聞いた。聞かなければ、答えは返ってこない。聞いても返ってこないかもしれないけど、開かないとあきらめて叩かない扉は永遠に開かない。そしてそれを教えてくれたのは、アスカだ。
「ううん、アタシじゃない。それはシンジが本当は望んでいたことで、アタシはそのきっかけでしか、いやきっかけでもないのかもしれない。だから」
「アスカはそう思うかもしれないけど、少なくとも僕にはアスカがいなければ、今の自分はなかったと思っている。もしかしたらそうじゃなくて、やっぱり同じくこの場所にたどり着いたかもしれないけど、道程の中でアスカが重要な存在だったことは確かだ」
それは綾波の道程にとっても、同じだろう。いや、彼女にとってのアスカは、より重要だったに違いない。
「僕はそんなアスカが好きだと思う。誰かのためにがんばっているアスカが好きだと思う。今の僕はそう言うことができる」
そしてシンジは、もう一人の少女の方を向き直った。レイはうつむいたまま、シンジの言葉を聞いていた。
「綾波。もちろん、僕は綾波のことが嫌いな訳じゃない。さっきも言ったようにアスカと同様に綾波も好きだ。でも、それが今の自分の中で何かを考えたときに真っ先に綾波のことを考えるかって言われると、残念だけどまだそうじゃない」
「・・・・うん」
シンジの言葉の一つ一つを耳にするたび、少女はああ、と思った。
そうだ。私はアスカに助けられていた。最初から。初めて碇君たちの家にやってきたそのときから。ずっとずっと、私はアスカに助けられて、ここまで来たんだ。
改めてではあるが、レイはシンジの言葉にそのことを思い出した。
「綾波にも、無論教えてもらった。人を好きになるって事がどんなにすごいことなのか、って。それもまた、今の言葉を言うためのきっかけでもあった。だから、もしかしたら次に同じような決断をするとき、僕はアスカじゃなく綾波を選んでいるかもしれない。でもそれはあくまでも仮定の話で、今は言えない。それは、わかってほしい」
「・・・私は、それで十分」
うつむいたまま、レイはそう言った。
だって、碇君が誰かを『愛している』と言えるようになった。あの告白の夕方、まだそこまで言えないと言っていたにもかかわらず。そしてその道程において、自分が何かしらのきっかけになっていた。私は成長した。同じように、碇君も成長している。それがわかった。だから、わたしはこの答えで、満足。
「碇君が私を選んでくれなかったのは残念だと思う。でも、それ以上に嘘偽りなく自分の心を話してくれたことの方が、うれしい。私は、その碇君の思いを、今もらったから」
「嘘は、言わない――もし明日、綾波がいなくなってしまうとしても、僕は同じ事を言うだろう」
「!」
その言葉に、レイははっと視線を上げた。
夏の強烈な日差しがちりちりと屋上のコンクリートを焼いている。その強い反射光の中、シンジは微笑みを浮かべて、少女を見つめていた。優しい瞳の色、ほころんだ唇。風に舞う黒髪が、小さくダンスを踊るその姿。
「碇、くん」
レイはシンジの顔を見つめた。シンジもまた、同じくレイの顔を見つめた。
少女はその視線に、一杯の笑みで答えた。目を細め、赤い瞳に感謝の気持ちを込めて。花がこぼれるような、という表現のもっともよく似合う笑みだった。
長い長い道程。その終着点が、今見えたような気がした。
「ありがとう。本当に、ありがとう」
そして、彼女の視界はそこで暗転した。
「――レイ!!」
アスカの叫び声が、最後に聞こえたような気がした。
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