遙かなる空の向こうに

第38話:その言の葉に想い乗せて





 鳴り響く電話に手を伸ばし耳に当てた。
 一言二言。回線が切り替わるのを待って、ゆっくりと言う。
「・・・・私だ」
「父さん」
 聞こえてきたのは、少年の声。
「シンジか」
 ゲンドウは、わずかに咽を鳴らした。。
 少年からの電話の度、緊張を隠すのに苦労する。元々惜しむ言葉が、さらに少なく、無感情になる。
 いつからだろう、こうなったのは。
 ユイを喪ってすぐ、自らの道を歩むために突き放した我が子。それ以降拒んだ接触。それは自らに親たる資格なしと言い聞かせ、その実、最愛の人をなくした悲しみから自分一人逃げだし、それを分かち合い癒しあうべきだったもうひとつの最愛の人を捨てたのではないだろうか。
 そう感じたのはそれほど遠いことではない。そして気づいても、なにを今更。
「何の用だ。私は、忙しい」
 突き放すような台詞に、しかし電話の向こうの声は動揺した様子もなかった。
「昨日、綾波に言われたよ。知りたい、って」
「・・・・」
「僕の今の気持ちを、知りたいって、言われた。・・・・今日、その答えを、出さなきゃいけない」
「・・・・そうか」
 それだけを言うのが、精一杯だった。動揺が伝わらないか、それだけを気にした。
 レイの時間がもうない。昨日のレポートを見たときには、ついにくるべきものがきたと覚悟は決めた。あの子に、あの子に自分ができることはもうない。そう知っていながらも、できる限りの幸せを得てほしいと、シンジの元へ送り出したのが遠い昔のことに思える。自ら望むものの答えを求めるまでに変わったレイ。かつて自分だけを見つめ、そして自分もまた喪ったものを重ねて見た少女。
 彼女にとっての自分は、もう必要ない。そう、ゲンドウは思った。
 あとは。
「それで?」
「父さんに一つ、聞きたいことがあるんだ」
 それは、どこか感情を押し殺した口調だった。自然、ゲンドウの反応も固いものとなる。
「なんだ」
「・・・・カヲル君のことを、父さんは、知っていたの? 彼が、使徒だったという、ことを」
 一つ一つの言葉をゆっくりと区切り、シンジは問いかけてきた。見えない表情は、あふれそうな意志の奔流を必死で押しとどめているに違いない。
「仮に、そうだとしたら?」
「だったらなぜ、教えてくれなかったの? 僕は」
 ボクハ。
 ボクハトモダチヲコロシタ。コロシテ、シマッタ。コロサナキャ、イケナカッタ。
 血を吐くような、つぶやきだった。
「もう、トウジの時でこんな思いはたくさんだと思っていたのに」
 参号機との戦いの後、うつろな瞳でこちらを見るシンジの姿をゲンドウは思い出した。その後、確固たる瞳で初号機に乗り込んだシンジを思い出した。そして、ためらいの後にフィフスチルドレンを手にかけた初号機を思い出した。
「それを父さんは、知っていてなぜ、教えてくれなかったの。それを、知りたい」
「・・・もし、私がそれを知っていて、教えたとしておまえはどうした」
 話しながら、ゲンドウの脳裏に、よみがえる顔がある。
 にこにこと笑顔を振りまく、少年。
 フィフスチルドレンとして司令室に挨拶に来た彼は、人払いの後、自らが使徒であることをあっさりと告げた。
 絶句する冬月に向かって、僕は地下のアダムの元に還るつもりだ、とまで言った。
 しかし、と彼は言葉を継いだ。
『でもその前に一つ、僕は確かめたいことがあるんだ』
 人が、すべてを無に帰さなければならない存在なのか。それとも、自らを消し去る価値のあるものなのか。
 碇シンジという少年を通して、僕は知りたい。
 彼はそう言った。
 ゲンドウは、それを認めた。無論、結論がどちらであれ、使徒は倒さなければならないつもりではあったが。
 その少年が、シンジを通してヒトという種をみつめたいという言葉に、心揺れたのだ。
 あのときからだろう。自らが纏っていた心の鎧に綻びが生じたのは。使徒という唯一つの存在にすら関心を抱かせる、ヒトという種、そして碇シンジという少年。
「・・・・教えていたら、おまえはフィフス心許すことはなかったと?」
「それは」
「知っていれば、使徒として戦いなんの憂いもなく殺していた。その方が、おまえはよかったと?」
「それは。いや、そんな」
 シンジの声は、思わぬ父の言葉に戸惑っていた。
「束の間の時であれ、フィフスはおまえと同じ時間を過ごした。使徒としてではなく、ヒトとして。ヒトとはどのように心通わすのか。どのように心の壁を持つのか」
 絶対障壁。ATフィールド。心の壁。
「そんなとき、使徒と知ってなお、同じく心許すことができたか? 使徒であるフィフスに、使徒と戦うおまえが親しく言葉交わしたか?」
「僕は」
「確かに彼はおまえの手にかかった。おまえが傷つくことを承知で。では、おまえ以外のいったい誰が、彼を殺すことができる。あれがあの時おまえ以外の手にかかったなら、おまえはその誰かを許すことができるか。あるいは彼がおまえの仲間を殺したときには?」
 誰が誰かを殺したとしても、それはシンジにとって憎悪の対象にしかならない。
 トモヲ、コロシタ。
 トモダチヲ、コロシタ。
 ソイツハボクノトモダチヲ、コロシタ。
 トモダチダッタノニ。ボクノトモダチダッタノニ。
 自らの内に向けられている刃の先、その恐ろしさは自分自身が一番知っていることだろう。ゲンドウの言葉に、シンジの反駁はなかった。
「すべてをさらけ出して生きて、それがよい結果を生むなど無理だ。ヒトとはそこまで完璧ではない。しかし完璧ではないからこそ、互いに寄り添い、求め合う」
 自分が求めていたのは、その完璧さだった。互いに一つに交わり、何人も、何も隠すことのない補完された世界。しかしそれはヒトのヒトたるゆえんである、心交わるということも、何かを学び続けるということもない。すべてが始まりから終わりまでわかっている、完璧に、完璧すぎる世界。悲しみも喜びもない、たった一つの世界。
 自らが悲嘆にくれているときは、悲しみのない世界こそヒトの幸せと信じていた。かつてユイが目指したものもそれであると信じた。信じたかった。しかし悲しみは喜びの影。悲しみをなくして喜びをつかめるほど、ヒトは成熟していない。笑うというのは、何かに比べてうれしいときに浮かべる表情なのだ。
「知らないからこそ築き上げられるものもある。それもまた、一つのヒトとヒトとの関係だ」
「・・・・」
「それに、なぜおまえは戦った」
「え」
 唐突な質問に、うろたえる声が還ってきた。
「フィフスを手にかけた後、それでもおまえは戦い続けた。友の血にまみれたエヴァに乗り、友を殺せと命じた私の命令で」
「違う! 僕は父さんの命令で乗っていた訳じゃない! 最初はそうだった。エヴァに乗ることが父さんに認められることだと思ったから、でもそのときにはもうそんなことはどうでもよかった!」
「では、なぜ」
「カヲル君が言った。『君たちには、未来が必要だ』って。自らが生きて掴むこともできたんだ。それを、僕たちに託してくれた。だから、それを守らなきゃいけない。守らなきゃ、カヲル君の死は無駄になっちゃうから」
「それで」
「・・・・加持さんが言ってた。自分で考え、自分で行動しろ。後悔のないように、って」
 そして、山城さんも言っていた。自分自身の大切なもの、譲れないものを守るためには、どんなことでもやる、と。
「だから僕はエヴァに乗った。乗り続けて、戦い続けることで、未来と、そして大事な人たちを守ろうと思った。それが、譲れない僕の決意だった」
「その決意は、フィフスの死無しに得ることができたか?」
「!」
「フィフスは、おまえに何を与えた? 悲しみ、後悔、それだけだったか? それ以外に何もおまえは、その死から得ることはなかったわけではあるまい」
 失意と絶望の後にえた決意。それこそが、本当に与えられたものではないのか。
 ゲンドウはそう感じていた。信じていたと言ってもいい。初めて見たフィフスチルドレンの笑顔の下に、もしヒトが生きるに値するものならば、という決意を見て取ったからだ。
「そんな、そんなことでしか与えられないものなんて。そんな決意をもらっても、死んでしまったカヲル君はかえってこない。いなくなってしまったじゃないか」
「しかし、おまえは覚えている。レイも、覚えている。そして忘れることはない。彼が語ったこと。言葉に乗せた思い。違うか?」
 生きていた証を覚えてくれる人がいる。その思いを受け止めてくれる人がいる。
「フィフスチルドレンがおまえに託したのは未来だけではない。自分自身も、また託したのだ・・・ガラスのように繊細な心が、傷つくことはあっても砕け散ることのないように、そのひとつの支えとして、自分自身を」
 傷つかない心などない。ただ美しいだけの宝石など存在しない。光を受けたときに輝くその鮮やかさは、原石を切り、磨き上げ、その上に成り立っているものだ。
「フィフスは確かにおまえに隠し事をしていた。しかし隠し事のない者などどこにもいないし、どうしても譲れない秘密は時に人を傷つけるかもしれない。それでもそれを理解しようとすれば、自ずと見えてくるものがあるはずだ」
 ・・・・それはまた、自分に欠けているものでもあるのだがな。
 自嘲気味にゲンドウは笑った。偉そうに説教できる立場ではないことはわかっている。他人の痛みを理解しないというのは、まさしく自分自身のことをさしている。嫌われ、畏怖され、そのベールの中に自分を隠している一方で、何人も、何ものも隠すことのない世界を望んだなど、自己中心の極みではないか。
 内心の思いのあまり、受話器を握る手に、ぐっと力がこもった。唇を噛みしめかけて、はっと我にかえる。
「それを、見逃すな。見逃せば、私のようになる」
「・・・・!」
 反面教師でもよい。今の、そしてかつての自分のように、シンジにはなってほしくない。ゲンドウは今初めて、我が子のことを真剣に思った。
「悲しみや怒りは、なくなるものではないしなくすこともできない。しかしそれだけに身を浸せば、前を見ることもできなくなる。あるいは前を見ているつもりでも、歩いていく先は過去でしかない。悲しみも怒りも全てを抱いて、先を見ること。その行く先こそが、フィフスの残した未来・・・そう思うことは、決して間違いではない」
 そこに彼がいなくても。いやいないからこそ、その未来を託した者のことを、託された者が忘れなければいい。シンジよ、おまえは忘れることはないだろうから。
「父さん・・・・」
 しばし、ゲンドウもシンジも無言だった。
 言葉に乗せた意味。言葉の外に乗せられた意味。それらを噛みしめるように、二人はだまりこんでいた。
 ややあって。
「――おまえの、答えは、でたのか」
 大きく息を吸って、かすれるような声で。ゲンドウは問いかけた。
 しばし、電話の向こうは沈黙だった。
 答えは、返ってくるのだろうか。
 受話器を握る手袋の下で、掌がじっとりと汗ばむ。左手の指が、知らず机の上をとんとんと叩いていく。
「レイの、問いに、答えは」
「・・・・うん」
 やがて小さく、しかしはっきりと。シンジの声は、ゲンドウの耳に届いた。
「実は少し、迷っていた。どう答えていいのだろうか。僕にとってはアスカも綾波も、どちらを選ぶと言っても、どうすればいいのか。そう思っていた」
 でも。
 シンジはそう、言葉を継いだ。
「今の話を聞いて、決めた」
「―――そう、か」
 言葉とともに、安堵の息がその口から漏れた。
 シンジが、レイの最後の願いを叶えてくれそうなことに。たとえ結果がどうであっても、レイの真摯な想いを受け止め、そしてそれを返そうとしてくれること。そしてなにより、彼の問いに、答えてくれたこと。
 拒絶し、拒絶されていた時は安堵とともに悔悟が胸の内にあった。逃げている自分をに安住を見いだし、その実は寂寥感を抱いていた。
 今は、違う。
「ならば、それを伝えてやれ。・・・レイに。どんな答えであれ、おまえを恨むことはあるまい。言葉に、本当の思いがのせられているならば」
「わかってる。綾波がヒトとして・・・・一人の、ただの女の子として、僕に接して、望んだことだから」
「そう・・・・だな」
 ただ、一人の少女として。
 少女の顔が脳裏に浮かび、そして、消えた。
 そこに妻の面影が重なったのは、気のせいではあるまい。
 その表情は、笑みにあふれていた。


 ゲンドウは受話器を置くと、大きく一つ息をついた。
 そして。
「・・・・なにを、笑っている」
 その問いに対する返答は、ぴしりと将棋盤に駒を打つ音だった。
「可笑しいか? 私が偉そうに説教など」
「いや、おまえも人の親だったかと思ってな」
 冬月は手にした本からわずかに視線をあげると、くすりと笑みを浮かべた。
「ユイ君が言っていたのを思い出した。あの人はとても寂しがりやで、可愛い人なんですよ――と」
「ふん、くだらんことを思い出す」
「可愛い人かどうかについては大いに異論の余地ありだが・・・まあ、前者については、なるほどというところか」
 その言葉に、ゲンドウの返答はなかった。いつものように両手を組み、視線を窓の外に向けたままもはや冬月の方を振り返ろうとはしない。
「言葉に、本当の思いがのせられているならば・・・・か」
 それに続く言葉を、彼は小さくつぶやいた。
 ならば、おまえの息子も理解してくれただろうよ――碇。




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