遙かなる空の向こうに

第36話:告知の刻





 ノブを回すと、きしきしという錆び付いた金属音が耳を叩いた。
 重い鉄扉はその外観にふさわしい抵抗感と共に開く。少女が手を離しても自らの重みで閉まることはない。蝶番の手入れが悪い、いやそもそも手入れをするということがなかったのだろう。
 少女は扉を開け放ったまま、無言で室内に入った。置いてきぼりになった少年も続いて扉をくぐると、むっとする熱気と共に、カビと埃の入り交じった空気が鼻腔をくすぐる。―――ただし、程々に、ではあるが。
 後ろを振り返り、まず力を込めて扉を閉じた。耳障りな音と共に光が消えると、彼はわずかに後悔した。廊下は薄暗く、足元がわずかに見える程度だったからだ。手探りで電気のスイッチを探そうとして、すぐにあきらめた。そういえば廊下の電球はずっと前から切れていたもんな・・・前に僕が来たときも、そうだった。
 シンジは靴を脱ぎ、廊下を歩いた。向こうから薄く差し込む光の中、埃の上に先に行ったレイの足跡が浮かび上がっている。おそらく彼女の足跡であろうそれが一つではないこと、つまりつい最近ここに来たようであることに気づき、シンジはわずかに疑問を抱いた。何の、ために?
 シンジの疑念が答えを見つける前に廊下は終わった。部屋へ一歩を踏み込み、そのまま足を止める。調度品と呼べるものが何もない室内には、ベッドと冷蔵庫、小さな机、そして椅子が一つ。以前に訪れたときと全く変わらぬ室内の様子。
 ただ廊下と同じく室内にも埃は薄く積もっており、ここしばらく手入れがされていないことが分かる。冷蔵庫の上のビーカーの水は干からび、傍らの薬には綿埃がつもっている。ベッドの上に紙束が乱雑に投げ出され、天井の蛍光灯はちりちりと明滅を繰り返し、夕暮れ近い光を補うように部屋を照らし出している。
 そしてこの部屋の主である・・・・いやあったと言うべきか、レイはといえば、窓際、ベッドの横にたたずみ、シンジに背を向けたままじっと窓の外を見つめていた。
 なかば壊れかけたブラインドの向こう、燃えるような紅を背景に浮かび上がるマンションの群、そして遠くの山々。全てが逆光に染まり、黒と紅との二色のコントラストがどこかもの悲しさを感じさせる。レイの姿もその二色に溶け込み、部屋の入り口に立ったままのシンジには彼女の様子をうかがい知ることができない。
 彼には、レイが自分をここに連れてきた理由が分からなかった。
 重要な内容であろうことは想像がつく。クラスのみんなに聞かれたくないような話だからこそ、あの場から自分を連れ出したのだろうと。
 しかし、なぜここなのか。
 それだけが不思議だった。
 人気のいないところだったら、校舎の屋上などでもいいはず。少女が以前住んでいたマンション。一人で、たった一人で暮らしていた部屋。碇ゲンドウという人だけを見つめていた頃の心の牙城は、それ以外のものをみつめるようになった今の彼女には必要ない場所のはずだと、シンジは思っていた。このマンションが解体されるという話は、奇しくもシンジにとってはレイの心の成長を象徴しているようにも思えたのだ。
 しかし、彼女はここにシンジを連れてきた。いや、その前にも、レイはここに来ていた。どうして、またこの場所に。
「まだ、残っていたんだね、このマンション」
 居心地の悪さに耐えきれなくなって、シンジはレイにそう話しかけた。
「取り壊されるって言っていたのに。でもさ、家具とかそういうの、運び出さなくてもいいのかな? このままだと、一緒に壊されちゃうだろうし」
 どうでもいいことだと自分で分かっていながら、シンジは口を開かずにはいられなかった。何より、部屋に入って以来ずっと黙ったまま外をみつめているレイの様子に、先ほどから感じていた違和感がさらに強くなってきたからだ。 
 一体、どうしたの、綾波?
「そうだ、こんどみんなで、この辺の荷物を片づけにこようか。取り壊しになる前の、天気の良い日にでも」
「―――いいの、必要、ないから」
 シンジの言葉を遮るように、ようやく綾波は口を開いた。しかしその視線はまだ外に向けられたままで、シンジの方を振り返ろうとしない。
「必要ない、って」
 その言葉の意味を、シンジは量り損ねた。
 どういう意味で、彼女はそう言ったのだろうか。
 言葉通り、ここのものはもう必要ないと言うことなのか。
 あるいは、過去との決別のために、あえてこれらのものを捨て去ろうというのか。
 あるいは、全く別の理由なのか。
「綾波」
 この部屋に入って初めて、そして強く、彼女の名を呼んでみた。
 その言葉に、ぴくりと彼女の肩が震えた。シンジは言葉を継がず、そのまま彼女の返事を待った。
 僕に話っていうのは。
 なぜここに来たの。
 その必要ないって言うのは、どういうことなの。
 一体・・・・どうしたんだよ。
 尋ねたいことはいろいろあった。
 それでも、シンジはじっとレイが口を開くのを待っていた。少女の後ろ姿を見続けていた。以前の自分なら、それらの言葉が間違いなく奔流のようにあふれ出てきただろう。相手の意志を理解するためには、明確に言葉で聞き出さないと分からない、そう思っていたから。相手がなぜ黙っているのかを考える余裕が、なかったから。
 しかし今のシンジには、彼女が黙っているのには何か理由があるのだろうと言うことが分かる。そんなところにたたみかけるように質問の嵐を投げても、無意味なだけ。
 疑問はある。言葉にしないと分からないこともある。しかし、時に言葉を発するために時間を要することも、今のシンジには分かっていた。自分が父に対した時。ミサトが加持リョウジに対した時。トウジがヒカリに対した時。そして、アスカが自分に対した時。
 だから、彼は待った。どうでもいいことは口にしても、聞きたいことはいわず、ただレイが話してくれることを。
 何のために彼をここに呼んだのか。
 何を一体、話そうというのか。
 時間は、刻々と過ぎていく。大陽が稜線の彼方に三分の二ほども沈み、室内の蛍光灯が紅と黒のコントラストだった少女の背中を白く照らし出すようになった頃。
 ひとつ、ふたつ。彼女が大きく深呼吸をした。
 そしてゆっくりと、窓に向けていた視線を室内に戻す。それがシンジの視線と交錯し、一秒、二秒。
 もう、レイは視線をそらさなかった。
「碇君。わたし、あやまらなければいけないことがあるの」


 視線の先に、ただ一つ灯りのともった窓がある。
 ここから室内の様子をうかがうことはできない。
 夕陽は稜線に遠く、空のあちこちに星が瞬き始めている。人気の感じられないかつての集合住宅。その中に見える、窓が一つ。
 アスカは道ばたから、じっとそこを見上げていた。
 レイとシンジがここにいると聞いてから、いてもたってもいられなくなった。ネルフ本部を出た後、つい足を向けてしまった。
 そういえば、ここに来たのは初めてだった。
 辺りを見回し、その寂しさに背筋が寒くなる。なま暖かい風が頬を撫でると、何か得体の知れない気配を感じるのではないかと思ってしまうほどだ。
 彼女は、こんなところにたった一人で住んでいたのか。アスカは今更ながらにレイの生活を思った。
 あの子の昔はよく知らない。興味を持とうとも思わなかったから。でも彼女がここで暮らしていたとき、自分はシンジと、ミサトと、その体温を身近に感じながら生活していた。一概に比較するのはおかしいけど、なんと大きな差違だろうか。
 でも。
 今はここに帰ってきているけど、あの子はこの一月、みんなの中にいた。みんなと一緒に生活して、みんなと一緒に笑って、楽しんで。
 それがあって、今彼女は、ここでシンジと話をすることを選んだのだろう。
「レイ」
 アスカは、再び窓を見あげた。
 ちりちりと瞬く蛍光灯のせいか、窓は時折暗く、明るく姿を変える。
「アンタはこの一月近く、ちゃんと、ちゃんと生きてきたんだから」
 ファーストであり、アダムであったあとの、綾波レイとして、生きてきたんだから。
「できるよね・・・・ちゃんと」
 アスカはそれだけを、聞こえぬ相手に呼びかける。
 ちくりと胸は痛む。
 偽らざる思いとして、もしシンジが彼女を選んだら、という危惧もある。
 でも、それはシンジに対する自分の想いであって、レイに対する自分の思いはまた、同程度に彼女を心から応援したいと思っている。
 一時はつらいと感じた。どちらも大事だから、レイとシンジと、どちらを選べばいいのかと悩んだ。
 しかしあの日。キャンプの夜、シンジと交わした会話の中。
 この人だけを愛しているんじゃない。この人を一番愛していて、それでも他の人に心をむけてあげることができて。
 そう言ったシンジの言葉が、アスカの何かをきれいに押し流していた。
 シンジが好き。でも同じくらいレイも好き。
 それで、いいんだ。どちらを選ばなきゃいけないなんてことはない。
 シンジにありったけの想いを。そしてレイにも同じだけのありったけの想いを。
 だからアスカは、胸の痛みとレイへの想いを心に同居させながら、大きく一つ、星空の下でのびをした。
「さて、夕ご飯でも作って、帰りを待つとするかな!」


「わたしが碇君たちのマンションに来たとき」
 レイはまっすぐにシンジの視線を受け止めたまま、ゆっくりと話し始めた。
「あのとき、ミサトさんは、わたしのすむ場所がなくなってしまうから、と言ったこと、碇君、覚えてる?」
「そうそう、あれはびっくりしたよ。いきなりミサトさんが綾波をつれて帰ってくるんだもの。いったい何があったのかと思ったよ」
 ものすごい剣幕で怒鳴っていたアスカが、シンジが買い物から帰ってきたらびっくりするほどおとなしくなっていた。シンジの帰宅を待つまでもなく酔っぱらったミサトさんと、落ち着いて机に座ってた綾波。よくわからないままに始まった歓迎パーティ、そしてつぶれてしまったミサトさんを介抱し、気づいたらアスカはレイと一緒に部屋に戻ってしまって・・・・。
 まるで遠い昔のことのように、それでいて昨日のように、記憶がよみがえる。
「そういえばあのときから、アスカと綾波、ずいぶん仲がよくなったよね。なんていうか、ああまでアスカが変わっちゃうなんて、やっぱり一緒に住んでみないとわからないっていうのかな。そういう意味では、ここのマンションが取り壊しになるって言うのは、寂しいかもしれないけどいいきっかけになったんじゃ―――」
「違うの。ここのマンションが取り壊されるっていうのは」
「―――え」
「わたしの、嘘」
 シンジは耳を疑った。レイは、彼の目の前でゆっくりと首を振っていた。
「取り壊されるって言うのは、嘘。だから、わたしは碇君にあやまらないといけないの」
「どう、して」
 声がうわずっていた。シンジにとってまず、綾波が嘘をついたということが信じられなかった。今までの彼女からは想像もできないことだった。
 本当ならば、レイがそこまで―――嘘という、あまりに人らしい行動―――したことを、複雑な気分ながら喜ぶべきなのかもしれない。いや、喜ぶという言葉もそれはそれで変なのだが。しかし今の彼にはそんなことを考える余裕はなかった。先ほどまでじっと待っていたレイの言葉、その出てきたものの意外さに、とにかく頭の中が真っ白になっていた。
「わたしは」
 そんなシンジの前でレイは唇をかみしめ、大きく一つ、息を吸い込んだ。
「戦いの後、ここに戻ってきた。扉を開け、部屋に入り、明かりを灯して、そして思ったの。ここにはわたし一人。ただわたし一人だって」
 レイは珍しく饒舌だった。ゆっくりながら、一言一言、かみしめるように発するその声に、シンジはただ聞き入ることしかできなかった。
「初めて、寂しい、ということを感じた。どうしてだかわからない。いえ、あの戦いの中でわたしに生じた変化が、そんなことを感じさせたのかもしれない」
 手に入れた力。それを失った時、ともに失われたもの、同時に得たもの。それらが複雑に入り組み、彼女の器を歪め、正し、そして再形成する。結果、表れた感情。
 彼女は天井を見上げ、瞳を閉じた。
「あのときも同じように天井を見上げていた。同じように目を閉じた。―――そのとき、わたしが思い浮かべたのは・・・・」
 言いつつ、レイは視線を戻した。立ちすくむシンジを正面から見据え、わずかに微笑みを浮かべて。それはまるで、その時の気持ちを思いだしたかのような笑みだった。
「碇君。あなた、だった」
「綾波・・・・」
「一緒に乗った観覧車。あのとき、言ったことを覚えてる?」
 誰かと一緒にいたい・・・・そう思う気持ち。一人は、寂しいから。喜び、悲しみ。そんな感情を分かち合う人が、誰もいない世界は、寂しいから。
「それを知ったのが、碇君の顔を思い浮かべたときだった」
 戦いの時に感じていた、碇シンジという少年を守りたい。それとは全く異なる感情を持ったとき、少女の気持ちは激しく揺れた。
「その気持ちが『好きだ』、っていう気持ちだと知ったのはまだ後のことだけど。とにかく、碇君と一緒にいたいと思った。無性に、そう思った」
「それで、ミサトさんに頼み込んで?」
 シンジの問いに、レイはしかし首を振った。
「ううん。碇司令がミサトさんに話をして、うまくいくように、って取りはからってくれた」
「・・・・父さんが!?」
 シンジにとって意外な人物の名に、こくんとレイはうなずいた。
「碇司令は、わたしのしたいようにしなさい、って」
 それが、司令にできる全てだと。
 レイはそれだけを言うと、しばしシンジの様子をうかがった。
 ・・・・父さんが。
 先日、久しぶりにあった碇ゲンドウの姿。交わした言葉。
 息子をまっすぐに見つめた父の視線は、今までにないものだった。
 それが、ゲンドウという人間のいまいとつの切り口だとしたら。
 シンジはそう思うと、レイに対する彼の思いも納得できないことではない。
「わたし、碇司令には感謝している」
「父さんに・・・・綾波が?」
「ええ」
「このことだけじゃない。わたしをこの世に生み出してくれたことにも。確かにいろいろとあった。わたしにとって苦しいことも、碇君にとってつらいことも、いっぱい」
 それでも、全てを差し引いて最後が不幸であるよりは、今が幸せであることを喜べばいい。
「以前のわたしは、感謝も、恨みも、何も知らなかった。ただひたすら、碇司令だけを追っていた。それが全てだった。でも今、わたしは碇君とこうして話をしている。碇司令がいなければ、もしあの人がわたしを生みださなければ、あの人が碇君を生み出さず、この街に碇君がこなかったならば。そしてわたしが碇君のところに」
 それ以上、レイは語らなかった。しかしシンジにはそれで十分だった。
 しばし、彼は黙り込んだ。レイはそんな様子を見ながら、きびすを返し、窓際に近づいた。壊れかけたブラインドを開け、窓の鍵をはずす。軋んだ金属音とともに開かれた夜空への出口からは、熱気を帯びたそよ風が入ってきた。よどんだ室内の空気が、わずかにかき回される。シンジは襟口を濡らす汗に今更ながら気づき、ハンカチを取り出して汗をぬぐった。
「・・・・あの人を、今でも恨んでる?」
 背中越し、レイの表情を伺うことはできない。
 レイのその問いに、シンジははっと顔を上げた。しかし、不思議と心は乱れなかった。
「わたしがどうこう言えることじゃないのはわかってるけど。それでも、司令は」
「綾波」
 レイの言葉を遮るように、シンジは呼びかけた。室内に歩を進め、冷蔵庫の上、おかれたままのゲンドウの眼鏡が入れられたケースを手に取った。薄くつもった埃を手で払い、ふたを開け、ひび割れた眼鏡を取り出す。
 じっと視線をおろすと、ゲンドウの、父の顔が脳裏に浮かんだ。
 冷たく彼を見つめる顔。腕を組み、シンジを見据える父の顔。
 それらが浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。いろんな時、いろんな場所で、父と向き合ってきた表情が流れ去り、最後に残ったのは、先ほど思い出した、エヴァとの別れの時にみた顔だった。
「父さんには・・・」
 一呼吸。浅く息をつき、少年は穏やかな口調で言った。
「恨むとか恨まないとか。そんなのはもう」
 かたくなに拒んで失った時は戻らない。しかしそれを引きずる必要はない。
「少しずつでもいい。長い時間をかければ、いつかは」
「・・・・そう」
 その言葉に、レイは背中でうなずいた。
 わずかに肩が震えたことに、少年は気づかなかった。気づかぬまま、言葉を継いだ。
「それに綾波のことも、父さんがよかれと思ってしたことだし、何よりそのほうがみんなにとってもいいことだったじゃない。一人でいるより、みんなでいた方が。この3週間近く、それにこれからも、ずっと」
「・・・・・うん」
 レイは、その言葉になぜか小さくうなずいただけだった。
「ありがとう、碇君」
 感謝の言葉も、どこか弱々しかった。
「それで、ね・・・」


 心が、痛んだ。
 シンジの言葉が、針のように突き刺さっていく。
 本人に悪気はない。いや、悪気どころか、心底から彼女のことを思っているのだろう。しかしそれであるがゆえ、自分が選び、口を閉ざした真実をえぐるその言葉は、痛かった。
 わたしにもう、これからという時間はない。
 彼と彼の父とが積み上げていく長い時間を、自分がみることはおそらくできない。
 それを知らない少年の笑顔。
 心からの、笑顔。
 ―――全てを、話すべきなのだろうか。
 レイは自らに自問する。
 最後には、話さなければいけないよ。
 ケンスケと交わした言葉を思い出す。
 その通り。相田くんの言うとおり、碇君には話をしなければいけない。
 わかってる。でもまだ。
 まだ、わたしが選んだ結論を得るまでは。
 苦しくても、それがわたしの望んだこと。
 アスカの想いにこたえるためにも。
 みんなの気持ちに、こたえるためにも。
 わたしは―――知りたい。


 レイがさらに言葉を継いだことに、シンジはわずかに首をかしげた。
 彼女が自分をここに呼んだ話は、もう終わったんじゃなかったの?
「ん? まだ、何かあるの? そろそろ遅いし、アスカも心配してるかもしれないから帰らないと」
「ううん・・・待って」
 強く、引き留めるような言葉。どこかすがるようなその言葉に、扉の方をむきかけたシンジの足はぴたりと止まった。
「まだ、もう一つ、話をしたいの」
「今じゃなきゃ、だめな話?」
「うん」
「ここじゃなきゃ、だめな話? 帰りながらじゃなくて」
「・・・・うん」
 強いうなずき。
 シンジはそのレイの言葉に、しばしの後、わかった、という風に首を縦に振った。室内に戻ると、再びレイと向き合う。
「そこまで真剣に言うなら、それなりの理由があるんだろうからね」
「わたしにとって、大事なことなの」


 ごくりと、喉が鳴った。
 話し出すまで、少しばかりの時間を要した。
「・・・・三週間」
 そして出たつぶやきには、レイ自身でも信じられないほどの落ち着きがあった。
「え?」
「碇君の家に来てから、三週間、いろいろなことがあった」
 最初の夜、アスカの剣幕はすごかった。
 次の日の朝、初めて作った朝ご飯。
「最初の一日だけで、わたしは碇君やアスカやミサトさんから、いろんなものをもらった」
 そして、もらい続けた。
 シンジから手渡された過去。
「いつかは返さなきゃいけないけど、碇君は大事なものを預けてくれた」
 共に支え合う、トウジとヒカリの姿に、人の強さをみた。
 みんなで食べる夕ご飯の味。
 楽しかった買い物と、初めてもらったプレゼント、初めてあげたプレゼント。
「このキーホルダーが、何よりうれしかった」
 ちりぃん、と澄んだ音色をたてる銀色の天使たち。最初は怪訝そうに話を聞いていたシンジも、レイのソレをみて、同じくポケットから取り出す。
 重なり合う音色。自然、二人の顔に笑みがこぼれる。
 一緒に食べたケーキの味。
 ヒカリの退院祝いパーティでの、交錯した想いの果ての口論。
「仲がいいだけじゃない。みんな大事なことがあって、そのためにがんばっていると、どこかでぶつかることもある。それはいけないことじゃない、って知ったのはあのときだった」
 そして、ヒカリと自分が初めて交わした言葉。アスカ以外にも、自分たちを見てくれている人がいること。それがうれしかった。
 初めていった遊園地。
 初めての告白。
「あのとき、碇君がわたしのことを大事に思ってくれているって、それがなによりの喜びだった」
「綾波・・・・」
「あのとき、碇君が答えを聞かせてくれるまでわたしは待つ、って言った」
 シンジの表情が、何かに気づいたかのようにわずかに変わった。
 レイの言わんとすることを、理解したのかもしれない。
「碇君が誰かを好きになれるようになるまで、答えは待つ、って」
「まさか、大事な話って言うのは」
 レイは、小さく、小さくうなずいた。
「碇君たちと一緒に住み始めて、いろいろなことがあった。わたし自身が、こんなにも変わっていくなんて想像できなかった」
 信じられない。たった、たった三週間。
「時間じゃない。その中で何をしてきたか、だと思う。だからわたしは知りたいの。わたしだけじゃなく、みんなが変わっていることを。この過ごした時間が生み出したものを。わたしに、アスカに、碇君に、もたらしたものを」
「つまり僕に、答えてほしい、と」
「・・・我が儘だってわかってる。碇君を悩ませるのはわかってる」
 それでも。
「別にこれが結論じゃなくてもいい。今の、今の碇君の気持ちを聞きたいの」
 そしてわたしにとっては、それが最後の願い。最後の日々を生きた証。選んでくれても、選んでくれなくても。
 ―――内心でそう語り終えて、レイはシンジをみた。
 先ほどの笑顔から一転して、少年は硬い表情だった。
「はじめての我が儘なの・・・・わたしは・・・・知りたい」
「今、すぐに?」
 とまどうような、怖れるような少年の声。
 レイはゆっくりと頭を振った。
「ここで、とは言わない。でも、できるだけ、はやく」
「どれくらい、で」
「そう・・・・」
 レイはわずかに首をかしげた。
 自分に残された砂時計の粒は、どれだけの時を流すことを許すだろうか。
 強制はできない。でも、答えは聞かなければ意味がない。
「・・・・明日。明日には」
「明・・・・日」
 シンジの表情が、さらに硬いものになった。
 レイは、すがるような視線でシンジをみた。
「碇君」
「・・・・綾波・・・・」
 レイは、唇をかみしめるシンジに、そっと近づいた。
「碇君を苦しめたい訳じゃないの。でも、これだけは」
 互いの鼓動が聞こえるかのような距離。
 彼女は手を伸ばしたい衝動に駆られた。
 両腕を少年の背中に回し、胸に顔を埋めたい。鼓動を感じたい。息吹を、感じたい。
 しかし、すんでの所で意志がそれを押さえつけた。
 まだ、まだ私はそれをしてはいけない。
 例えようもなく甘美な果実。でも、それを手にするには。
「お願い、碇君」
 そして、少女は少年の傍らをすり抜けた。扉に向かい、少年に背を向けて。
 ―――ごめんなさい。
 先ほどと違った痛みが、胸をちくりと刺した。


 廊下を足音が遠ざかっていく。軋むドアを明ける音。同時にどっと窓から風が吹き込み、室内から扉へと抜けていく。埃が吹き上がり、ベッドの上の紙束が室内を舞った。
 シンジにとって、レイの様子は驚愕だった。
 あの綾波が、あそこまで言うなんて。
 何が、いったいどうしたのだろう。
 まったくもって彼にはわからなかった。
 答えが、ほしいの。アスカか、自分か。今の気持ちでかまわないから。
 あらゆる要素をそぎ落として残ったレイの言葉はそれだった。
 あまりに唐突な。
 なかば呆然と、シンジは一人立ちつくしていた。
 なるほど、こういう話だったら、場所を選ぶわけだ。
 今日の綾波の態度も、今の話を聞いた後では理解できないわけではない。悩んで悩んで、言うべきかどうか悩んで、そして結論づけたんだろう。
 綾波・・・・。アスカ。
 僕にとって、どちらも大事だ。アスカも綾波も同じくらい。
 どちらかを選ぶということは、どちらかを切り捨てると言うこと? いやそういう訳じゃない。別に選ぶことが、今一方をなくすことではない。
 自分でもわかっている。10の愛は10ではなく、この人にも10、あの人にも10。
 それでも、その10の愛をまず誰に向けるか、ということは確かに存在する。
 それを、綾波は教えてほしいという。僕は、二人のどちらにまず自分の心を向けるのだろうか。
 生半可な答えは、かえってみんなを傷つける。曖昧な答えは、アスカも綾波も望んでないことだ。
 考えろ。考えるんだ。
 逃げるんじゃなく。
 ・・・・・・しかし、なぜ?
 なぜ、今なんだ?
 シンジにはわからなかった。
 あまりに唐突な綾波のその思い。
 二つの考えがともにせめぎ合うなか、彼はどれくらい立ちつくしていただろう。
 はっと我に返ったときには、室内の熱気は窓から逃げ去り、かわってひんやりとした夜気が体を包み込んでいる。
 ああ、帰らなくちゃ・・・な。
 まだ混乱する頭の中で、シンジはようやく動き出した。のろのろと窓際に歩み寄り、鍵をかけ、ブラインドをおろす。
 そして散らばった紙を手に取ろうと床に視線をむけながら。
 綾波、本当にどうしたんだろう。何で、こんなことを。
 それが、不思議でならなかった。
 指先に触れる紙の感覚が、奇妙に遠く感じられた。




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