けほ、けほ、けほ。
乾いた咳だけが聞こえる。
カーテン越しに差し込む朝日の中、まだ冷たい空気が肌を優しく撫でる。
けほ、けほ、けほ。
口に当てられた手の隙間をぬうように。小さな咳が漏れ出る。
肩を小刻みに揺らし、喉を震わし、咳は続く。
けほ、けほ、けほ。
ややあって、手が口元を離れた。
視線が下を向き、その手をじっと見る。
白い、繊細な手。透き通るほどの肌が、朝日の中に浮かび上がる。
「もう、駄目なの・・・・?」
少女―――レイは、小さく小さく、そうつぶやいた。
遙かなる空の向こうに
第34話:決意の日
「再計算?」
リツコは投げかけられた言葉に、わずかに眉をひそめた。
「はい」
「それは、今までのデータを全て忘れろって事を言ってるの?」
その問いに返ってきたのは、うなずきだった。
「最初は、一月でした。その後、状況は変化しました・・・・いえ、現在も変化しています。当初の計算は現在ではほとんど意味を為しません。最終的な判断を補強する材料にはなるかも知れませんが、もう一度計算をし直すべきでは。当初の差分から導き出されたものではなく、本当の今、残された時間がいったいどれだけか」
「・・・・今」
手元の画面上にデータを呼び出し、リツコはそれにちらりと視線を走らせた。流れるデータの中から、いくつかの数値を引っぱり出す。
「今まで通りの生活をできるであろう時間は、MAGIによればあと5日。これは当初より5日間縮まっている。ただこれもあやふやであることは確かだわ。何しろすべての計測値が最善の結果を導き出したときのものだから」
「そうです。ですから本当はあと、どれだけの時間が残っているかを」
「マヤ」
―――リツコの声に、伊吹マヤはぴくり、と体を震わせた。
「あなた、本気で言っているの? そんな数字がどれだけの意味を持っているか、よく知ってるでしょうに」
数字なんて。リツコの表情は雄弁にそれを物語っていた。計算された数値など、わずかな結果で崩れてしまうほどあやふやなものでしかない。本当にそれを保証できるものなど、どこにもない。
「それにもし、計算された数値が」
それきり、リツコは黙り込んだ。マヤもまた、無言のままだった。
もし、計算された数値が最悪のものであったならば、わずかに残された希望すらうち砕くのではないか。
互いに口にしないものの、二人の胸の内は同じだった。
すがるような一つの糸。今のデータは、悪いとはいえまだわずかなカウントを残している。もし、本当の数値がこれよりも低かったら・・・・いや、数値が悪くなることはあっても、良くなることはないのだ。
レイの希望を、奪い取ることになるのか。
思うと、胸が痛まないわけがない。しかし。
「先輩」
マヤの固い声に、彼女ははっと顔を上げた。
「先輩。それでも、私はやらなきゃいけないと思います」
硬い表情。しかしその顔に表れているのは、確固たる決意。
「私は、本当のことをレイに教えなければ」
「マヤ」
「私たちは結果を知ることができます。でもその知った結果をどう生かすか、という判断まではできません。レイは、私たちの助けなしでは結果を知ることはできません。でも、その結果をもとにした判断は決めることができます」
「所詮、傍観者でしかないから」
「そうです。この件について、私たちはどう頑張っても主役にはならない」
だからこそ、とマヤはさらに言葉を継いだ。
「先輩、私たちは事実を隠すべきじゃないです。主役は舞台の状況を知らなくちゃ、最善の演技はできません。その舞台の状況を知ることができるのであれば」
そこまで言って、マヤは違うとばかりに首を振った。
「ええ、いいえ、演技じゃない。レイが彼女のやりたいことをやるためには」
「それがたとえ悪夢でも?」
「それがたとえ、悪夢だったとしても、です。事実を知ること、告げることは私たちにとってはつらいことかも知れませんが、事実を告げないことは、少なくともレイにとってはさらに残酷です。それに、私たちの仕事はそういうものだって」
リツコは、マヤの言葉にわずかに肩を震わせた。
「私たちの仕事は、どんなにつらいことでも、残酷なことでも、事実を知ること、それを告げること、そしてそれらを求めていくことだって」
「そんなこと、言ったかしらね」
マヤは、わずかに笑みを浮かべた。
「汚れたときに分かる、そうおっしゃったはずです」
「そう言う意味で、言ったつもりじゃないのだけど」
「でも」
「でも?」
「私自身は、先輩はそう言いたかったと思っています。いいえ、思うことにします」
その言葉に、リツコは言葉を失った。
「思うことに、ってあなた」
「だめですか?」
「だから、私はそんな意味で行った訳じゃないのよ」
どういう意味で、あの言葉を言ったのだろう。あのころの自分を思い出しながら、リツコはマヤにそれをどう伝えようか言葉に苦しんでいた。
汚れていた自分。汚れてまいとしていたマヤ。それをうらやましく、また妬ましく思ったこと。できることなら、自分もそうありたかったという思い。そしてそれでもなお、そのときは突っ走ろうとしていたこと。
「だから」
珍しく狼狽した様子のリツコに、マヤはしばし黙り込んだ後、ゆっくりと口を開いた。
「先輩がどういう想いであの台詞を言ったか、それは私には分かりません」
「・・・・」
リツコは無言のままコーヒーカップを口に運んだ。冷たく冷え切ったそれは苦いはずだったが、舌の上で踊る味など今の彼女にはほとんど感じられなかった。
「でも、私はその言葉を、そういう風にとることにしました。だって、そのほうがいいじゃないですか」
「それはそうかも知れないわよ。でも、今さらそんな風に言っても」
「言ってしまった言葉は取り消せませんけど、後からならどんな風にでも、勝手に解釈はできます」
その言葉に、リツコは飲み込みかけたコーヒーを吹き出しそうになった。
およそ伊吹マヤという人間から想像しがたい言葉を耳にしたことが、彼女にとっての驚きだった。むせかえりそうになる呼吸を整え、平静を保とうと努力する。
「やってしまった事は、後悔はしてもいくらでも取り返しが聞きます。・・・・それを取り戻すための時間さえあれば」
「時間・・・・」
時間。
その二文字が、今の彼女たちには重くのしかかっていた。
自分たちにはあるもの。そして「彼女」にはもはやほとんど残されていないもの。
「だから、取り返しの憑かない後悔をする事のないように、私たちが彼女を支えてあげないと」
「自分たちならそれができる、と?」
彼女はリツコの言葉に、ぐっとうつむきながら、しかしはっきりと答えた。
「自分たちにしか、それはできないと思っています」
ややあって、リツコは小さくため息を付いた。
「・・・・そう。なら、仕方ないわね」
「先輩!」
「だったら、貴女がやりたいようになさい」
「!」
マヤがはじかれたように顔を上げたとき、視線の先のリツコの顔はすでに元の厳しいものに戻っていた。
「何をぐずぐずしているの? もう一度レイの体を調べるわよ。一部の好きもないくらいにね。どうせあなたがここにきたってことは、きっとレイも近くにいるのでしょ? 第2病棟のB検査室が空いていたはず、そこに今すぐ機材を運びこんで。MAGIのスタンバイも平行して、今すぐロジックプログラムの再確認。それから緊急度Cクラス以下の処理過程は全てキャンセル。時間がないのだから急ぎなさい!」
「は、はい!」
はじかれたように部屋を飛び出すマヤ。その背中をリツコはわずかな笑みと共に見送った。
「・・・・ずっとまだまだだと思っていたのに、ね」
飲み干したコーヒーの苦さは、不思議と感じられなかった。
「綾波、先に行くって」
玄関で靴を履きながら、シンジは思い出したように振り向き、背後のアスカにそう告げた。
「なんだか急いでいたようだったけど、今日、何かあったっけ?」
その言葉に、鞄の中身を確認していたアスカは首を横に振る。
「今週の当番はヒカリだったし、宿題もあったわけじゃないし・・・・ないわよね、宿題?」
「うん。そのはずだよ。僕も何かあったかなぁ、と思ってるんだけど」
とん、とんと靴を蹴りながら、シンジは小さく首を傾げる。アスカはそんなシンジの背中を見つめながら、笑い声をあげてその背を叩いた。
「アンタが思い出せないんだったら、宿題もなにもあるわけないでしょ!」
「おわたたた!」
叩かれた勢いで玄関の扉に体をぶつけそうになり、シンジはあわてて手で体を支える。その拍子に肩に掛けていた鞄がずり落ち、床にどさりと落ちた。
布がこすれ合う音にまじって、ちりん、と澄んだ金属音が響く。
「あ、いけない」
シンジは小さく声を上げて鞄を拾い上げると、その脇につけられている「それ」を心配そうにのぞき込み、続いて安心したように声を漏らした。
「よかった、傷ついたかとおもった」
「あ、それ、つけてるんだ」
アスカはシンジの手の中をのぞき込んで、にこりと笑いながら言う。
「うん。だって、せっかくアスカと綾波がくれたものなんだから・・・・アスカは?」
「そりゃ、もちろんに決まってるでしょ!」
そう言って、アスカは鞄から財布を取り出す。チャックの端、銀色の天使のキーホルダーが、電球の光を受けて白く輝く。
「つけないでどうするっていうのよ」
「だよね。よかった僕だけじゃなくて」
シンジは満面の笑みを浮かべると、玄関の扉を開けた。
「さ、早くいこ」
そう言って外に出ていく。アスカはそれに続いて玄関におり、靴を履きながら、片手にまだ持っていた財布とキーホルダーをじっとみつめた。
シンジにはああは言ってみたけれども。
さっきまでの笑顔とは裏腹に、アスカの内心には黒い何かが渦巻いていた。
レイが自分に何も言わずに先に学校に行った。
いいえ、いいえ違う。
内心でアスカは自分の言葉を否定する。
行き先は学校じゃない。多分、いえ、間違いなくジオフロント。
何のために行ったのか、そこまではわからないけれども。それでも、あの子がシンジと一緒にいる時間よりもそっちを優先したって事は、よほどの事なのだろう。この残り少ない時間を使う価値のあるほどに。
―――それとも。
外にいるシンジには聞こえないように、アスカは小さく、小さくつぶやいた。
「そうしなくちゃ、アイツと一緒にいることもできないから?」
アスカの予想通り、やはり学校にレイはいなかった。
午前中の授業が終わっても、彼女の姿は現れない。
じっと、手を見る。
白皙の細い指が、窓から差し込む昼の陽光を受けて白くまぶしい。
一度、二度、ぎゅっと拳を握ってみた。
指先の一本一本が、その度にゆっくりと動く。固く握りしめると、爪がゆるやかに掌に食い込みわずかな痛みが走る。
そのまま握り続ければ、皮膚の間から血が流れるのだろうか。
そう思って、しかしレイはそっと手を広げた。
数本の筋。食い込んだ爪痕が、赤い線となってそこにある。
掌に、痛みを感じる。
左手の人差し指で、その爪痕をそっとなぞってみた。指先の暖かな感触。右手の、痛みの交じったわずかなくすぐったさ。
感じる。感じることができる。
まだ、感じることができる。
かつーん。かつーん。
遠くから、鉄筋コンクリートの打ち砕かれる音が聞こえてくる。
室内の、冷蔵庫の緩やかな駆動音が聞こえてくる。
聞こえる。まだ聞こえる。
そして視界の中の、自分の手。
見える。まだ見える。
まだ私は、見て、聞いて、感じることができる。
レイはその事に、安堵のため息をもらした。
なぞっていた両手をそっと離し、そのまま視線を天井に向けると、無機質な灰色の壁が冷たく自分を見下ろしている。蛍光灯の切れた室内は薄暗く、それがより寒々とした雰囲気を感じさせる。
かさり。
右手が、傍らに置いてあった紙束に触れた。
クリップで留められた20ページほどの紙は、マヤが彼女に手渡してくれた物だった。「細大漏らさず、ここに書いてあるから」
そう言って、彼女は封筒に入ったそれを渡してくれた。
難しいのは、分からない。
そう言ったレイに対し、マヤは緩やかに首を振った。
専門用語は極力省いたから。わかりやすいように、現在までの経緯と現状を書いてある。・・・・それから、これからのことも。
灰色の封筒。小さく書かれたネルフのロゴがなければ、その辺の文房具屋で売ってそうなものだった。その封筒は、紙束のさらに下に置いてある。
マヤは封筒を手渡した後、レイの体を優しく抱いた。
何を、と思う暇もなかった。
マヤの胸元に顔を埋めたレイには、彼女がどんな表情をしているのかは分からなかった。でも、
「がんばらないとね」
そう一言、耳元でつぶやいたときの彼女の口調は、泣き笑いのそれだったように思える。感じた肌の暖かさ。両肩に回されたマヤの両腕から、彼女の思いが伝わってくるようだった。
そして、レイはその中身を見た。
マヤと別れ、ジオフロントを出て。
文字を追ううちに、今までの日々が鮮やかによみがえってくる。
始まりの日、ゲンドウと交わした言葉のひとつひとつが思い出される。
始めて倒れた日の前後、アスカとの間にぎくしゃくしたものはあったが、それを契機に彼女とは一種の連帯感を抱く友達となれた。
そして続く平穏な、平穏でいて幸せな日々と、再びの吐血。
リツコやマヤ、ミサトとの会話、そしてシンジへぶつけた思い―――アスカの後押し。
ページをめくるたびに、レイの脳裏をいくつもの想いがかけめぐっていく。
望んでも得られないようないくつもの経験。後押ししてくれる人たち。
そして最後の一行を読み終えたとき、マヤの言葉が鮮やかに耳元によみがえった。
―――がんばらないとね。
つっと一筋、涙が頬を伝った。ぱさりと、紙束を傍らに投げ捨てた。
なぜ涙が出るのか、レイには分からなかった。
ただ、暖かな流れを、彼女は身じろぎ一つせずに流し続けた。
息が苦しい。頭の中にいろいろな事が思い浮かんでは消える。それらが重なり合った末の涙であることを、彼女はゆっくりと、確実に悟っていった。
「私・・・・私は・・・・」
涙と共にいろいろなものが流されていく。そして最後に残ったのはなにか。
それはちょっと頼りない笑顔。
それは黒い艶やかな髪。女性と見まごうばかりの、しかし節々には、青年の兆候を見せている体格。
白いシャツ。黒いズボン。碇シンジという名の少年。
確かめたかったこと。そして今はもう、当たり前のこと。
私は碇君が好き。
彼が好き。
人を好きになることで、自分は変わった。
いろんな事を教えてもらった。いろんなものをもらった。目に見えないもの。目に見えるもの。人が人として生きていく中でいろんな人に与えられるものを、自分は両手に抱えきれないほどにもらった。
自分はどうだろうか。
誰かに何かをあげられただろうか。
自分がもらったように、誰かに何かをあげられただろうか。
碇シンジに、自分は何かを揚げられただろうか。
それを知りたい。
「そう、私は」
それを、知りたい。
レイはそれ以上言わなかった。
ゆっくりと立ち上がると、ぎしりという音と共にベッドが揺れた。
開け放たれたブラインドの向こうに見える団地の群。
自分のいた場所。そこだけだと思っていた場所。
でも、今は「いた場所」と言い切れる所。
レイはそれらのものに背を向けると、ゆっくりと扉の方に向かって歩き出した。
いま「いる場所」に帰るために。
これからも「いる場所」に帰るために。
・・・・どんな形でも。
ぎぃぃ。
耳障りな金属音と共に、扉が開かれ、そして閉じられる。
ばたんと言う音で部屋の空気が揺れ、床に降り積もっていた埃が薄く舞い上がった。
室内に差し込む光の中、ゆるやかに踊るそれらの向こう、ベッドの上にレイの置いていった書類が残っている。
最後の一行。
現在の計測結果―――可能と思われる活動日数。
そこにはただ一つ。数字が書かれていた。
『0』、と。
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