遙かなる空の向こうに

第32話:それぞれの愛の形 B-Part





 あれはまだ、小学校の頃だろうか。
 少年は、走るのを拒否していた。
 運動会だったとおもう。
 訝しげな表情を浮かべる先生に、彼はこう答えた。
「だって、走っても一番にならないもん」
 そんなの、わからないじゃない。
 先生は笑いながらそう言った。
 だれだって1番になれるかどうか分からないわ。それでも走るのでしょ?
「ううん。ぼくはかけっこ、遅いから」
 膝を抱えて、地面にうずくまる。自分の番まで、もう少し。
「遅くても、結果はどうなるかわからないわよ。3組の謙ちゃんだって、頑張って走って、1着とったでしょ?」
「でも、ぼくはだめだもの」
 謙ちゃんが頑張ったのは、1着になって誉めてくれる人がいたからだ。ゴールした瞬間に飛び上がって喜んでいた二人の大人。
 父さんと母さん。
 僕には誉めてくれる人はいない。
「ほら、先生達が見てくれるじゃないの。頑張らなきゃ!」
 そう言って、彼女は少年の手を取って起こした。自分の番だ。
 嫌々ながら、少年はスタートラインに立った。
 たしかに先生は見てくれる。でも、僕は先生に誉めて欲しいわけじゃない。
 だって、先生は僕の父さんじゃない。
「位置について!」
 周りの少年達が一斉に体制を整える。少年も、仕方なく右足を踏ん張り、駆け出す姿勢をとる。
 みんな、父さんや母さんが見ているから。
「ヨーイ!」
 応援席の歓声が、どこか遠くの世界のものであるように聞こえた。
「ドン!」
 一斉に、みんな走り出す。
 予想通り、少年は中段から後方。
 地面を蹴り、一生懸命走っているのに。
 しょうがないんだ。僕はだって、かけっこダメなんだもの。
 歓声が遠い。やはり遠い。
 先頭の子は、ずっと向こうの方を走っている。
 ああ、僕ってやっぱり、かけっこ、遅いんだ。
 ふっと、注意がそれた。コースに残っていた小石につまずいたのは、そんなときだった。あっと思う間もない。小柄な身体が宙を舞い、左腕から地面に落ちる。
「痛ッ!」
 激しい激痛が、体中を駆け抜けた。
 そして浴びせられる砂埃。転んだ少年の脇を、後から駆けている少年達が追い抜いた為だ。
 砂埃が目に入り、涙が出てきた。
 やっぱり、ダメなんだ。
 僕は、ダメなんだ。
 涙は、砂のせいだけではなくなっていた。視界がぼう、とかすむ。倒れた拍子に打ったのだろう。頭がずきずきと痛んだ。
 父さん、こんな僕を見たら怒るだろうか。
 ふっと、そんな考えが頭をよぎる。
 ううん、怒ってくれるだろうか。
 見て欲しかった。
 どんな形でもいい。見て欲しかった。そうしたら、ダメでももっと力一杯走っただろう。僕には、父さんしかいないんだから。
 父さんしか、いないんだから・・・・。
 父さん・・・・。
 口の中にも、砂。
 じゃりじゃりという音が、一層涙を誘った。
 僕は。
 僕は・・・・。


「・・・・目、覚めた?」
 一瞬、シンジは自分がどこにいるのか分からなかった。
 懐かしい夢を見ていた気がする。
 何だったのだろう。思い出せない。でも、何か悲しい夢だった気がする。
 ええと。
 僕は碇シンジ。ここは第三新東京市ではなく、キャンプ場。マコトさんに連れられて山登りをして、帰ってきて、ご飯を食べて、アスカを探しに出て、それでアスカを見つけて、それで・・・・。
 そこまで考えて、彼は後頭部が激しく痛むことに気づいた。そっと手を当てようとして触れた瞬間、「痛ッ」と小さく声を上げる。
「ダメ、コブになってるんだから、さわっちゃ」
「あ、うん・・・・」
 と返事をして、はたと気づいた。僕は、だれと話をしているんだ?
 まだぼんやりとする視界。瞬き数度で、ようやくはっきりとしてくる。星の輝きで明るい空が木々の谷間から見える。その谷間の隅に、心配そうな表情で自分を見下ろす顔。
「・・・・アスカ」
「全く、アンタってばバカなんだから」
 笑いながら、しかし悲しそうな表情で、彼女はそう言った。
「暗いんだから、足元くらいしっかり見なさいよ。ホントにドジで、しょうがない・・・人に心配させて・・・」
「アスカ・・・・あいたたた」
 シンジは大地に手を付き、そのまま起きあがろうとする。しかし頭痛に顔をゆがめ、腕に込めた力がふっと抜ける。バランスを崩しかけた彼を支えたのは、アスカの手だった。
「ダメ。まだ寝ていなさい!」
 そのままそっと、再びシンジの体を横たえる。言われるままにシンジは頭をあずけようとしたが、そこがアスカの膝の上であることに気づいてわずかに狼狽した。
「その、アスカ・・・・」
「何?」
「いや、だから」
 もごもごと言いにくそうにし、居心地悪そうに頭を上げようとするシンジの態度で、アスカも彼が何を言いたいのか分かった。しかし首を横に振ると、
「こんな時に、そんなところにまで気を回さない!」
 そのままシンジの頭を押さえつけるようにする。その勢いにシンジは気圧されると、「うん・・・・」ともごもごとつぶやきながらようやく抵抗をやめた。
 しばし、そのまま。
 アスカはシンジがもう抵抗しないことを確認して、ようやく手の力を緩める。そして、
「まったく、いつまでたってもよけいなことに気を回すし、肝心なところでどこか抜けてるし。心配して探しに来たんだったら、その相手に助けられるなんて無様なかっこ、しなくてもいいじゃない」
 突っぱねるようにそう言うと、ぷい、と顔を背けた。
 ―――本当は、今の表情をシンジに見られたくなかったから、アスカは顔を背けた。
 何と言っていいかもわからない。何を話していいかもわからない。
 追いかけてきてくれたことへの喜び。先ほどのシンジの怒りに対する憤り。そして今この場にいないレイのことを考えると、心がちぎれそうに痛かった。
 何でアタシは、こんな思いをしているのかしら。
 このところ何度も考えていることが、また脳裏をよぎる。
 何度も考えている分、答えもわかっている。
 それもこれも全部、コイツのせい。碇シンジっていう、男の子のせい。
 好きで好きでしょうがなくて心が乱れるのも、レイのことを心配してしまうのも、それでいて二人が仲良くしているといたたまれないのも、全部コイツのせいじゃないの。
 ―――そう、全部コイツのせい。
 心臓の鼓動が、触れ合う肌を通してシンジに気づかれないかと、アスカはいらぬ心配をしている自分に気づいた。
 好きになんか、ならなければよかった。
 コイツに会わなければ。そしてコイツを好きにならなければ。そうすれば、こんな思いをすることはなかったのに。心からレイを応援して、心からシンジを蹴飛ばして、レイの方に向けさせることができたのに。
 しかし同時に、そんな仮定が無意味な物であることも彼女は知っていた。
 シンジがいたからこそ。
 シンジに出会ったからこそ、今の自分がいる、昔のアスカでは決して抱かなかったであろう、他人を思いやるその心が胸の内にある。
 その一つの形が、シンジを好きだというこの思い。
 であるならば、自分の思いを否定することは、今の自分を否定することに等しい。
「そんなこと、判ってるのにね」
 我知らず小さくつぶやいたアスカのその声に、シンジは不審そうに問いかけた。
「アスカ?」
「え?」
 シンジの問いかけに、アスカはわずかにうろたえる。
 そしてシンジは一瞬躊躇したが、続けて彼女に問いを投げかけた。
「どうしたの? 今日はずっと、ヘンだよ。いつものアスカじゃない」
 うろたえ、狼狽し、沈み込んでいだアスカ。
 活発で、明るくて、まぶしいいつもの彼女の姿とは、明らかに違っている。
 シンジは、どうしても問いたださずにはいられなかった。
「一体、何があったの?」
「・・・・」
「せっかくみんなで遊びに来ているって言うのに」
「・・・・」
 アスカは、何もしゃべらない。どう答えればいいのか、迷っていたからだ。シンジは、その沈黙を非難と受け取った。
「そ、その、確かにアスカを一人残して行ったのは、僕が悪かったよ」
「・・・・」
「確かに、アスカにもあの景色、みせてあげればよかった。あれだけきれいな景色を見損ねたんだから、怒って当然だとは思う」
「・・・・」
 アスカは目を閉じたまま、少年の言葉をじっと聞いていた。
 夕食時の楽しげな会話。それに加わることのできない自分。
 でも、それはなぜ? 同じく景色を見ていないヒカリは、しかし楽しげに会話に加わっていたじゃない。
 話しに加わらなかったのは、自分自身の心の中にわだかまりがあったから?
 景色を見られなかったからではなく、シンジとレイが同じ時間を共有していたということへの嫉妬?
 シンジが膝の上から見上げるアスカの顔は、星の光と暗闇の加減でよく見えない。少年には、少女の心を知る術はない。
「・・・・でも、それはそれで、みんなを心配させていい理由にはならないはず」
 言わなければいけないこと、とシンジは迷った末、さらに言葉を継いだ。
「怒るなら、僕に怒ってくれればいいのに」
「・・・・違うの」
「え?」
 シンジは、か細いアスカのその声に驚いた。同時に、はたはたと頬をぬらすそれに気づいた。
「違うの。そうじゃないの・・・・」
 アスカは、泣いていた。
 頬をぬらす涙に、少年は言葉を失った。


「悪いと思ったけど、僕は聞いてしまった」
 ケンスケは、レイから顔を背け、そう言った。
「綾波にはもう、時間がない。残されたのは、ほんのわずかな時間だって」
「相田君・・・」
 レイは、呆然とその言葉を聞いていた。
 どうして。
 どうしてそれを、知っているの。
「この月曜日に、惣流と二人で屋上で、話をしていただろ?」
「あ―――」
「あのとき、僕は屋上にいたんだ」
 そして、聞いてしまった。心ならずとはいえ盗み聞きのような形になったことをケンスケは申し訳なさそうな表情で語り、次にレイの表情を見てあわてて手を振る。
「ああ、心配しなくてもいいよ。このことは、シンジは知らない」
 シンジとトウジは、そのまま教室に戻っていたから。
 たまには一人で食べたいときもあるからね、僕は屋上に行ったんだ。
「・・・・そう」
 レイはほっと安堵のため息をもらした。
「二人が屋上に来たとき、僕はなんだろう、と思った。隠れているつもりはなかったけど、ちょうど二人からは死角になっていたからね」
 そしてそのまま、話を聞いてしまった。
「聞いてしまって、なんで、どうして、って思ったよ」
 残されたわずかな時間。それを必死に生きている少女。
 自らの灯火が後わずかであることを知りながら、それでも前を見て歩く姿。
「信じられなかった。最初はこんなこと、聞かなければ良かったと思った」
 盗み聞きの罰としてはあまりに重い十字架に、ケンスケは顔をゆがめて笑った。
 でも、と言葉を継ぐ。
「その後よくよく考えてみれば、全てのことに納得がいった。惣流やミサトさんがあんなにも綾波に気を使う訳も、綾波が自分の映像を撮っておいてくれ、と頼んできた理由も、何もかも」
「・・・・本当は、話してしまえば良かった」
 レイは、うつむくケンスケに向かってそう答えた。
「ううん、これは話をしなければ、いけないことだから」
「でも、それを話すわけには、いかなかった?」
 話をしてしまうと、シンジはきっと自分に気を使うだろう。ああいう性格の奴だから。最後まで綾波に気を使って、大事にしてくれて。
「そう。話してしまえば、それで想い出は残るかも知れない。でもそれが本当の気持ちなのか、それとも碇君が気を使ってくれているものなのか、告げてしまうと、判らなくなってしまう」
「それはシンジに対する侮辱かもしれないよ、聞きようによっては」
「そう思われても、仕方ないこと」
 寂しく、レイは笑った。
「でも、わたしは知りたかった。残された時間の少ない綾波レイじゃなく、一人の女の子の綾波レイとして、碇君がわたしにどう応えてくれるかを」
「・・・・」
「もしかしたら―――いいえ、たぶん、碇君は怒る。こんな大事なことをどうして教えてくれなかったの、と怒る」
「それでも?」
「怒ってくれてもいい。最後には怒ってくれてもいい」
 でも、そんなハンディをつけることなく、自分は碇君と向かい合ってみたかった。
 それが、私のたった一つだけの我が儘。
「それに、話さなかったからこそ、わたしが今こうして悩んで、前に踏み出せなくて、それでもみんな応援してくれて、いろいろなことを知ることができる」
 決して意識しなくても、自分の残り時間が少なければ、周りの人たちはそれを要素の一つとして考えてしまうだろう。現にミサト達大人は、考えていないようでもどうしても彼女の身体のことを第一においてしまう。
「だから、碇君にだけは、これだけは、言うわけにはいかないの」
「―――じゃあ、惣流は?」
 ぴくり、とケンスケの言葉にレイは身体をふるわせた。
「惣流には、どうしてそのことを」
 知ってしまった秘密。知ってしまったからには、どうしてもレイに気を使ってしまう。
「言いたくはなかった。告げたくはなかった」
 ミサトも、自分も。
「アスカにこれだけの苦悩をさせてしまっている。それは本当に悪いこと」
「・・・・」
「最初は判らなかった。苦しむ、ってことをわたしは知らなかったから。アスカに話すことがここまで彼女を苦しめるなんて」
 今は、それが判る。彼女の言動。みんなから教えられた様々なこと。
 彼女が苦しんでいる姿を脳裏に思い、レイは表情を曇らせた。
 ケンスケは、まるで我が事のようにアスカの悩みを思いやるレイの姿を見て、それ以上何も言うことができなかった。
 いろいろと、言いたいことは自分にもある。
 シンジだけではない。レイの命があとわずかであると言うことを教えてくれなかった事への憤りがないといえば、それは嘘になる。
 それでも、その決断を下したレイの心の内を聞いてしまった今では、何も言うことができないではないか。
 そして、レイがそこまで誰かを思いやっていることを知ってしまっては・・・・。
「・・・・判った。もう、何も言わなくてもいいよ」
 一歩、二歩。ケンスケはレイに向かって近づいた。
 夜空の輝きでわずかに見えていた彼女の表情が、さらにはっきりと見える。
「綾波が考えて、やっていることだものな。僕が言って、どうなるわけでもない」
 でも、とさらに彼は言葉を継いだ。
「最後には、ちゃんと言わなきゃいけないよ。みんなに、何があっても」
「・・・・うん」
 レイはその言葉にうなずきを返した。
 そう、言わなくちゃいけないものね。
 固い決意。そして、不意に彼女は思った。
「相田君・・・・。もし、わたしにそれができなかったときは・・・・」
「ときは?」
「自分勝手だけど、相田君、お願い、できるかしら」
 万が一、全てを告げる前に自分が倒れたときには。
「お願い。こんなことを頼んでいいかどうか、わたしには、わからないけど」
 でも、それすら確約できないほど、自分の明日はわからないから。
「綾波」
 ケンスケは、レイの真摯な瞳をみた。
 それは、彼女が自らの姿を撮って欲しい、と頼んできたときの瞳と同じものだった。
 あのときは、彼女はシンジのためだけに望んでいた。
 今は、みんなのために望んでいる。
「・・・・わかったよ。僕にできることなら、なんでも」
 この子のために。
 それが、自分の役割なんだから。
 そう、心に誓ったのだから。
 ケンスケは会心の笑みを浮かべ、レイに微笑みかける。
 レイはその笑顔を、好ましく思った。
「ありがとう・・・・相田君・・・・」


「アタシは、意地悪なの」
 アスカは泣いている自分にどうしようもなかった。
 泣きたくなんかないのに。泣くつもりなんかないのに。
「置いて行かれたことが、くやしいんじゃないの。それよりも、レイとシンジが楽しそうに話しているのを、それを見るのがつらかったの」
 いたたまれない思い。
「アタシの知らない時間を、二人で過ごした」
「アタシの知らない時間を、二人で楽しんだ」
「アタシの知らない時間を、二人で話している」
 それを見て、嫉妬している自分がいた。
「だめ。駄目。ダメなの。頭の中では判っているの。シンジも、レイも、悪くない。一人の人の時間を全て自分のために向けるなんてこと、絶対にできないのも判ってる。そうやって一人の時間を全て縛ろうとすることがよくないことも、判ってるはずなのに。そういうのを見て、アタシはそれにやきもちを焼いて、そんな自分がいやになって」
 だから、あの場から逃げ出した。
「レイがシンジを好きなのは知ってる。あの子はあの子らしく、真っ正直にシンジの方を向いている。それがまぶしいのよ」
 その純粋さが、アタシにはどうしようもなくまぶしいの。
「アスカ・・・・」
 シンジは、突然の事に言葉を返すことができなかった。
「アタシにはできない。レイほどまっすぐにシンジに向かえない。あの子は恋を知ったばかりの子供みたいなものだから、だれかが助けてあげないとそのまま胸の内に思いを抱え込んでしまう―――いいえ、人と人との接し方を知らないから、その思いの伝え方を知らないままだと・・・・」
 そこまで言って、アスカは再び頭を振った。
「ううん、違う。それを言い訳に、アタシが自分の殻の中に籠もっているのよ。レイがいるから。レイを応援しなくちゃいけないから。でもそのレイの好きな人は同時にアタシの好きな人でもあるから」
「アスカ・・・・だから・・・・あのとき・・・・」
 シンジは今、はっと思い至った。
 遊園地。レイの告白。その前に消えたアスカ。帰ってきても開かれない部屋の扉。
「レイを応援しながら、その姿をみるのがつらいなんて」
 二律背反。
 ダメね、と彼女は涙を拭きながら自嘲気味に笑った。
「どうして、綾波をそんなに助けようとするの?」
 シンジは、不思議でならなかった。
 少年も、恋愛のことはよくわからない。
 それでも、自分と同じ相手を好きな少女に、そこまで肩入れするという話はほとんど聞いたことがない。
 何がそうさせるのか。
 いったい、アスカに何がそうさせるのだろうか。
 それに対して、アスカはしばし無言のままだった。
「だって」
「だって?」
「だって・・・・。今のアタシは、それくらいレイが大事なんだもの」
 自分の言葉に、アスカはわずかに胸が痛んだ。
 嘘をついているわけではない。しかし隠している事実が、その言葉の裏にある。
「同じスタートラインに立たないと、正々堂々と勝負ができないじゃない」
 レイの過去を知っている自分に、そんな卑怯な真似はできない。それに、レイに残された時間のことを考えると・・・・。
「確かに喧嘩もした。嫌悪したこともあった。昔は特にそう。でもそれを差し引いても、今はレイが大事。あの子が本当に人を好きだって言う感情を持っているのに、それを表現する方法を知らない時にアタシだけが抜け駆けするわけには、いかないから」
「・・・・アスカ・・・・」
 シンジは、ここしばらくのアスカの行動、レイの行動を思い出してみた。
 いろいろと、思い当たる節はある。足を踏み出せないレイを押し出すアスカ。そういうときには、彼女は決まって苦しそうな顔をしていた。その場から消えてしまうこともたびたびあった。
「正々堂々、っていうけど、綾波に対して、それじゃ大きなハンディを背負っているの、判ってる?」
 綾波に対して譲る立場。どうしても彼女に気を使わなければならないこと。
「判ってるわ」
 だから、こんなにもつらい思いをしているんだから。
 アスカは再びあふれそうな涙をぐっとこらえた。
「でも、それでも、アタシはやっぱりレイにも頑張って欲しい。偽善でもいい。そうしないと、どっちが買っても負けても、アタシは納得できない・・・から・・・・」
 一筋。
 ほろりとふたたび、アスカの頬に涙がこぼれた。
 ああ、むちゃくちゃ言ってるわねアタシ。
 もう、何を言っているのか判らなくなってきた。あっちに話が飛び、こっちに話が飛び。ダメじゃない。こんなことじゃ。
 アタシはしっかりしないと。
 しっかりしないと、どうしようもないんだから。
 それでも、流れる涙はとどまるところを知らない。
「あは・・・・ダメね・・・・泣いちゃうなんて・・・・」
 こんな気持ちは、初めてだった。
 自分の心の中の思いを口にした途端、堰を切ったように涙があふれてきた。
 心の中の堤防が決壊し、大量の水が流れ出すように。
 ―――と。
 そっと、頬に手が当てられ、涙をふかれた。
 はっと目を開けると、シンジの手が、すぐ側にあった。
「アスカ・・・・頑張ってたんだね・・・・」
 シンジの表情は、穏やかだった。
「自分だけじゃなく、綾波のことまで気遣って」
「シンジ」
「僕は・・・・」
 正直、心配だった。
 シンジはゆっくりとアスカの膝から起きあがり、彼女の横にすとん、と腰を下ろす。頭の痛みはすでに消えている。
 アスカの横顔を見ながら、シンジは言葉を続けた。
「以前、アスカが僕のことを好きだと言ってくれた時のこと、覚えてる?」
 うん、と少女はうなずいた。
「あのとき、僕は「ぼくにはこの人しかいない」っていう人がでてくるまでは、って言ったけど」
 でも、それは違うんじゃないか。この一週間で、なんとなくそう思うようになった。
 いや、ずっと前からそう思ってはいたけど、それが具体的な形を取った、というべきだろうか。
「昔から、僕は誰かに見て欲しかったとおもっていた。いや、誰かじゃないな」
 父さん。碇ゲンドウ。
「父さんしかいなかった。父さんに見て欲しかった。父さんに認めて欲しかった」
 そして、父さんに捨てられたと思って、絶望して、自らの中に籠もっていた。
「だから、僕の心がどこか壊れてるのかもしれない、っていうのは前にも話したけど、そのことが僕に、僕にはこの人しかいないっていう風に思えるような人を捜させていたのかもしれない」
 いつも見て欲しい。いつも自分だけを見て欲しい。
 そう思わせるだれかを。
 でも。
「いろいろと考えてみたよ。本当はおじさん夫婦も、先生も、同じように僕を愛してくれていたはずなのに」
 僕はそれを無視した。目を背けた。知らないふりをした。父さんに見て欲しいあまりに、それが裏切られた、と思ったその後に用意された環境を嫌悪した。
「誰かに愛されたいと願うあまりに、他の全てが見えなくなるって言うのは、素晴らしいことかも知れないけどある意味危険なことでもあるんじゃないかな、って」
 誰かの誰かに対する、その人だけに向けられた思い。
 そう思うと、アスカの言葉も、僕には同時に心配だったんだ。
「アスカは「アタシにはシンジしかいない」って言った。僕しかいない。僕だけを見ている。それが行き過ぎるあまりに、周りの全てを嫌っていったら、悲しいことだと思う。それは分かるよね?」
 うん。アスカはこくりとうなずく。
「でも、今の言葉を聞いて僕は安心した。アスカはやっぱりすごいよ。ちゃんと綾波のことを気遣って、ちゃんと綾波のことを大切にして。自分のライバルなのに、その背中を押してあげることができるなんて」
 この人だけを愛しているんじゃない。この人を一番愛していて、それでも他の人に心をむけてあげることができて。
 アスカは、強い。
 僕に、それができるだろうか。
 シンジはその言葉を言うことはなかった。
 アスカの顔がくしゃり、とゆがみ、再び涙がこぼれ落ちたからだ。
「アス・・・・」
「シンジ!」
 彼女の名を呼ぶより早く、アスカはシンジにぎゅっと抱きついた。
「アタシ・・・・アタシ・・・・」
 そのまま、子供のように泣きじゃくる。シンジはそれが先ほどまでの涙とは異なることに気づいた。
「うっ・・・・ううっ・・・・」
 声を殺し、シンジの胸で少女は泣き続ける。
 そっと、シンジはその頭を撫でた。
「つらくても、前に進むっていうのはすごいことだね。アスカはそうやって大人になっていく。綾波も、アスカの助けで、大人になっていく」
 それは素晴らしいこと。
「だから、僕はアスカを応援するよ。変な言い方だけど」
「シンジ・・・・」
 今度は、アスカがシンジをそっと見上げた。
 シンジの表情は、本当に、穏やかだった。にこり、と笑っていた。
「アスカ、頑張るんだよ」
「・・・・うん・・・・」
 再び、アスカはシンジの胸に顔を埋めた。
 ぎゅっと回した手。
 そこから伝わる暖かみが、アスカの心の中の重石を溶かしていく。
 二人はそのまま、重なり合ったまま、動かなかった。
 




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