遙かなる空の向こうに

第30話:暗き闇を照らすもの





 ただただ、下草を踏み分ける音だけが響いていた。時折聞こえる梢の擦れ合う音や鳥の鳴き声は、つかの間静寂を破る。しかしそれ以外に聞こえるのは、足音のみ。あとはせいぜい、自分の呼吸音。
 レイは、歩き続けていた。
 シンジがいったと思われる方向を目指し、ただただ歩き続けていた。
 前方に光が見えないだろうか。
 あるいはシンジの声が聞こえないだろうか。いや、足音でもいい。
 目と耳に注意を払いながら、レイは森の小道を進んでいく。
 手には何も持っていない。懐中電灯を持ってくることを失念してしまったためだ。
 それでも、彼女は戻ろうとはしない。
 碇くん。
 どこにいるの?
 どこに行ったの?
 額を汗が伝い、早足で歩いているせいか呼吸も荒くなる。
 10分ほど歩いたが、しかし彼女は目指す少年の姿を見つけることはできなかった。
 そんなに引き離されたのだろうか。
 一度足を止め、ふと考えてみる。
 どこかで道を間違えたのだろうか。それとも、知らず知らず追い抜いてしまったのだろうか。
 後者の可能性は、しかし彼女は即座に否定した。碇くんの気配を気づかず追い越すことは、ぜったいない。あれだけ注意をしていたんだから。
 だとしたら。
 シンジがもし違う道を進んでいるとすれば、このまま歩いていても見つけることはできない。
 戻らなくちゃ。
 踵を返しかけて、しかしレイは動きを止める。
 いや、もしただ単に碇くんが急いで歩いているだけなら、このまま行けばどこかで追いつけるはず。戻ってしまえば、追いつくことはできない。
 どちらが正しいのか。
 どちらが間違っているのか。
 レイは判断に迷った。
 一度迷うと、どちらも正しいように、あるいは間違っているように思えてしまう。
 足を踏み出す決心を決められず、しばらくたたずんでいて。
 レイはふと、周りの暗闇の深さに気づいた。
 先ほどまでは全く意識しなかったものの、周りは一面の闇。鬱蒼と繁る木の葉が頭上を覆い尽くし、下草が風に吹かれて不気味に揺れる。
 ほとんど気にもとめなかった鳥の鳴き声が甲高く響き、それにタイミングをあわせるかのように吹き渡る風が木々を激しく揺らす。
「いか・・・・」
 碇くん。
 いつも傍らに立つ少年の名をとっさに呼びかけて、彼女は今彼が傍らにいないことを思い出した。同時に、いささかも感じていなかった思いが胸の内にあふれてくる。
 恐ろしい。
 寂しい。
 怖い。
 それが何に対してのものか、彼女はほぼ的確に把握していた。
 だから、今の自分にはその思いを消し去る方法がないことも理解していた。
 ただ、今自分にできることはひとつ。
 レイは自らの身体をぎゅっと抱きしめると、呪文のようにその名をつぶやいた。
「碇くん・・・・」
 一人になることの恐ろしさ。
 かつてミサトに語った、あの思い。
 誰もいない、誰も自分のことを思い出さない。
 自分は一人。
 このまま、ずっと一人。
 怖い。それが怖い。
 だから、彼女は今シンジを追っているのだ。
 そしてそのシンジが追っている、アスカを追っているのだ。
 置いていかないで。
 私を置いていかないで。
 二人で、私を置いていかないで・・・・。
 身体の震えを押さえきれず、彼女は瞳を閉じた。
 ・・・・と。
 かさり。
 下草の揺れる音が、彼女の耳に届いた。それは明らかに風によるものではない。
 ふっと顔を上げ、瞳を開く。
 かさ、かさっ。
 再び、音は聞こえてくる。
 規則正しく、草を踏み分ける音。人の歩み。
 音は、彼女の右斜め後ろから聞こえてくる。
 振り向くと、音は徐々に近づいてくる。そして暗闇の中にぽっと浮かび上がる一条の光。懐中電灯のそれは、だんだんと強いものになっていく。彼女の方に近づいてきているのだ。
 いつの間にか、やはり追い抜いていたのだろうか。
 踏み分ける音は徐々に大きくなってくる。
 そして木陰の向こうで音はとぎれ。
「綾波」
 しばしの後、声と同時に人影が洗われた。
 


 シンジはひたすら歩いていた。
 目的地はそこしかない。そう思っていた。
 なかなか帰ってこないアスカを心配しながら後かたづけをすている時から、もしかしたらという思いはあった。2時間近くたって全ての片づけが終わろうとしてもアスカが帰ってこない時点で、これは間違いない、と思っていた。
 探しに行こう。黙々と作業をしているうちにその決意はかたまったが、
「綾波・・・・」
 僕は、アスカを探しに行く。
 そう言いかけた言葉を、不意につぐんだ。
 綾波。
 彼女は自分がアスカを探しに行くと言えば、ほぼ間違いなくついてくるだろう。
 綾波だって、アスカのことが心配なんだから。
 しかし、彼女を連れていくのは、と考えてしまう。
 おそらく、昼間にあれだけ歩いた彼女をさらにつきあわせるには、シンジの目的とする場所はきついだろう。彼女はそれでも付いていくと言うだろうが、やはり心配だ。そもそもシンジの考えている場所にいるかどうかすら分からないと言うのに、レイを一緒に連れていくことは・・・・やはりできない。
 洗い物をしながら考えていて、時折止まる手を無理矢理動かしていた。
 ・・・もしかしたら、アスカはどこかで迷っているのかもしれないし、あるいは怪我でもしているかもしれない。なんといっても夜の暗闇なのだ。何があるかは分からない。
 彼女も一緒に探しに行くのは、ダメだ。
 シンジはそう考えた。
 シンジの言葉に反応した綾波が声をかけてきたが、とりあえずうやむやな返事をして、再び思考に沈む。
 しかし、自分がアスカを探しに行くという以上、彼女は絶対について来る。それを言うわけにはいかない。適当にごまかして、行くしかない。
 そこまで考えたところで、シンジは気づいた。
 いや、心の中でもう一人の自分が話しかけてきた、と言ってもいいだろう。
 結局、こう考えてるんじゃないのか?
 自分はアスカを探しに行くのに、綾波が足手まといになるのがイヤなんだ、と。
 彼女を気遣う余裕なんてないから、切り捨てていこうとしているんじゃないのか?
 そう考えている自分が、シンジはとっさに恐ろしくなった。
 綾波にかまっている余裕がない?
 足手まとい?
 そんなことを考えているの?
 僕は、そんなことを考えているの?
 シンジは心の底にわき上がったその思いを、しかしすぐに否定する。
 ・・・・いや、そんなことはない。
 今はアスカが心配で、探しに行きたいけど、綾波をそれにつきあわせるのも心配なんだ。一緒に探しに行って彼女に何かあったら、それこそアスカも悔やむだろうから。
 だからだ、だからなんだ。
 シンジは自分をそう納得させた。
 ごめん、綾波。 僕と同じようにアスカを心配しているかもしれないけど、おとなしくここで待っていてね。綾波の分まで、僕が捜してくるから。
 シンジはそう決意してつい、と立ち上がり、不審そうな表情をするレイの問いを適当な言葉でごまかし、逃げるように森にはいった。
 今思えば、必要以上に言葉数も多くいいわけじみたものだった。
 ちぐはぐで矛盾した言葉は、あからさまに不審を誘う内容で、事実自分を見送るときの綾波の表情は、完全に納得したものとは思えない。
 ごめん、綾波。
 心の中で謝りながらも、シンジはひたすら歩き続けた。
 でも、行かないと。
 アスカの所に、行かないと。
 それだけを考え、流れる汗も拭わず、彼は早足で歩き続ける。
 傾斜のきつい坂道は息が上がりそうになるけれども、決して歩みを止めようとはしない。呼吸音が耳に荒く響き、風の音はそれにかき消されがちだ。
 もし、自分の想像した場所にアスカがいなかったら。
 僕が、まったく見当違いのことを考えているとしたら。
 それを確かめるためにも、シンジは急ぐ必要があった。
 言いようのない不安が、胸をよぎる。
 なにがそんなに心配なのだろう。
 アスカのことが、どうしてそんなに心配なのだろう。
 人の予感や予知能力というものについて、シンジはあまり信用していない。後からふりかえって「ああ、そういえば」と思うものはあったとしても、それは予感や予知ではない。一方では何事もなかったにしても何かを感じるのは多々あるからであり、偶然それと事件が重なっているからこそ、「あのときに」とこじつけることができるものだからだ。
 だから、アスカの身に何かが起こっているからこんなに心配なのだ、とはシンジは思わなかった。
 では、何が不安なのだろう。
 シンジはそれがわからない。
 わからないだけに、わからないが故に、シンジはどうしても早く行かなければならない、そう思っていた。。
 今のシンジの心のうちを極論すると、こうだろう。
「とにかく、アスカのことが心配だ」と。
 ひたすら、彼は歩き続けていた。



「綾波」
 木陰から現れたその姿。
 レイはそれが誰であるか、しばしの間理解できなかった。
 その人物が手に持っていた懐中電灯が逆光になり、顔を隠していたせいもある。
 また、その声色がレイの予想していた相手、シンジのものでないと気づいたから。
 シンジ以外の誰かが、今のこの状態で自分の名前を呼んででてくることなど考えもしなかった。だから、その相手が誰なのかわからなかったのだ。
 しばしの後、光に目が慣れてきた。同時に、自分の名を呼んだその声に聞き覚えがあることにも思い至る。
 それが誰のものかを完全に思い出したとき、再び相手は彼女の名を呼んだ。
「綾波。よかった、追いつくことができた」
「・・・・相田くん」
 懐中電灯の光の向こうで、ケンスケはほっとした表情を浮かべた。
「いきなり二人していなくなるから、どうしたかと思ったよ。何しろ気づいたらシンジも綾波もいないんだからさ」
「あ、うん・・・・」
 生返事。レイはどう答えていいか分からなかった。
「みんな・・・・心配してる?」
「まあ、そこそこにね」
 ケンスケは苦笑いしながらそう言った。ミサトたち大人は酔いつぶれて寝込んでおり、ヒカリとトウジは疲れていたせいか居眠り中。気づいたのが自分だけだ、とは言わなかった。どちらにしろ、みんなが気にかけていたのは事実なのだから。
「しかしシンジも、一言くらい言ってくれれば良かったのにな。惣流を探しに行くのに、隠れて行かなくてもいいのに」
 はっと、その言葉にレイは顔を上げてケンスケを見た。気づいていたの、と言う言葉が喉元まで出かかった。
 ケンスケは傍らの木の幹に背を預けると、腕組みをして森の奥を見つめる。まるでそちらに、シンジがいるかのように。
「・・・・そりゃ、僕らだって心配していたさ。委員長なんかすぐにで惣流をも探しに行きたそうだったくらいだからね。でも、探しに行くのは僕らじゃダメなんだ」
「え」
「僕らにできることは、待つことだけ。3人の結果が出るのを、待つことだけさ」
 レイは、ケンスケの言っている意味がよく分からなかった。
 僕らじゃ、だめ?
 待つことだけ?
「・・・・なぜだか、分からない?」
 ケンスケは視線をレイに向けると、いささか表情を改めて言葉を継いだ。
「惣流がなぜあのときいなくなったのか。それを考えれば分かるだろ?」
「それは、散歩に出る時に言っていた」
「そうじゃない。それは表面的なものでしかない」
 ケンスケはレイの言葉に対し、ゆっくりと首を振る。
「あのとき、綾波とシンジはすごく楽しげに話をしていた。その前には、彼女だけを置いて景色を見に行っていた。自分の入ることのできない時間を共有していた二人に対して、惣流が『自分が疎外されている』と思うかもしれないだろ?」
 それは、と言いかけてレイは思った。
 もし、自分が今のアスカの立場だったらどう思うだろうか。
 自分を置いてアスカがシンジと貴重な景色を見に行った。待って、待って、戻ってきて、その話で盛り上がっている姿を見る。共有した経験。自分はその輪には加わることができない。じっと見ているだけ。
 それでも、あの場にい続ける事ができるだろうか。二人の姿を見ていることができるだろうか。
 いたたまれない気持ちに、なるんじゃないだろうか。
「・・・・」
「で、そうだとして、僕やトウジ、委員長が惣流を探しに行ってどうなる?」
 僕らが探しに行ってよしんば彼女を見つけたとして、それじゃ何も解決にはならない。
「ちょっと散歩に、っていう風に気を使って出ていったんだから、僕らが見つけたところで何かしらごまかして戻ってくるだろう。惣流はそういう奴だ」
 たしかに、そうだと思う。
 レイはケンスケの言葉にうなずきを返した。
 アスカはきっと、トウジやヒカリに対してはあくまでも隠し通すだろう。自分が沈んだ気持ちでいることなど、微塵も見せないに違いない。
 でも、それは問題のごまかし、先送りでしかない。
「だから、このままにしていいはずはないんだ。はっきりさせなくちゃいけない」
「・・・・そう、かもしれない」
 じっとケンスケの話を聞いていたレイは、そこまで来てようやく言葉を発した。
「いつかははっきりとしなくちゃいけない。それはそう」
 このままでいいわけがないってことも、分かっている。
 そして分かっていて、未だにどうにもできていない事実。レイはぎゅっと胸が締め付けられる思いだった。
「でも、今すぐにそれをする必要は、ないと思う」
「なぜ? なぜそう思う?」
「なぜって、それは・・・・」
 レイの脳裏を、ここ数週間の記憶がざっと流れる。
 いくつもの思い出。シンジとの語らい、アスカとの語らい、3人で過ごした短い、しかし貴重な時間。二人の笑顔が次々と現れ、そして消えていく。中には悲しそうなアスカの顔も見られ、そのたびにレイはわずかに瞳を曇らせる。
「夜は、暗い」
「え?」
 突然切り替わった話に、ケンスケはとまどった。
「闇を怖れる人は、炎を作り、そこに寄り添う」
「・・・・」
「たとえば炎は人の思い。そして闇は忘却の海。世界中にはいくつもの思いが、灯火となって誰かを照らしている」
「・・・・詩人だね、綾波は」
「じゃあ、その灯火からはずれた人はどうなるの?」
 そこに待っているのは、忘却の暗闇。誰もいない、何もない。
「暗闇は怖い。一人になるのは怖い。今まではそんなこと感じなかったけど・・・・今は強く感じる」
 今にも震えだしそうなレイの姿を、ケンスケはじっと見つめていた。
「・・・・つまり、綾波はこう思っているわけだね。『綾波と惣流、どちらが暗闇の中に放り込まれても、その人にとってつらいこと。今はたしかに中途半端だけど、まだこのままで居続けたい。いつかは決めなければならなくても、すぐである必要はない』って」
「・・・・そう、かもしれない」
 レイの言葉に重ねるように、ケンスケはいきなり懐中電灯を切った。
 何を、と彼女が問いかける間もなく、あたりは暗闇に覆われる。
「これが、綾波の言う暗闇だ」
 かさかさと草木の触れる音。遠くに聞こえるフクロウの声。
「怖い? 一人でいる事は怖い?」
「・・・・今は、相田君がそこにいる。一人じゃない。でも」
「さっき、シンジを探して一人でいたときは?」
「・・・・途中までは、怖くなかった。でも」
 碇くんのことを考えているときは、怖くなかった。
「そう、そう言うことなんだよ」
「え?」
「さっき、綾波は言っていたよね。たとえば炎は人の思い、って。たとえば綾波が誰かを思うとき、それは炎となってあたりを照らす。たとえば側にいる僕の思いが、あたりを照らす。その炎は自分だけではなくて、近くにいる人の目印にもなる」
「でも、その炎が近くにないときには」
 やっぱり暗闇、と言いかけたレイの言葉を、ケンスケは手を挙げて遮った。
「綾波。今、周りは真っ暗かい?」
 何も見えないか? 暗闇か?
 その問いの真意を、彼女は一瞬はかりそこねた。
 何を当たり前のことを、と思いながら、返事をかえそうとする。
 ケンスケの瞳を見つめ、声を出そうとして。
 そして、気づいた。
「・・・・そう、僕には綾波が見えるし、綾波には僕が見える。周りの景色もそうだ」
 明かりを消したからと言って、完全な暗闇ではない。
「炎や強い明かりは確かにあたりを照らし出す。でも、その陰に隠れて見えないことが多いけれども、炎を失ったからといって人は決して一人になるわけじゃない」
 自ら望んで本当の闇に隠れでもしない限りは。
 ケンスケはそう言い、レイを手招きしてゆっくりと歩き出した。
 その後を追いながら、彼女は改めてケンスケに問いかけようとした。
「それは、でも」
「たとえばさっきの綾波のように、一人は怖い、一人になるのは怖い、と思う気持ちは分からないでもない。実際にそうだろうね。でもその考えにだけに凝り固まっていたら、本当は自分の周りを照らしているはずの光も見えないことだろう」
 森が切れ、不意に視界が開けた。眼下には小さな川が流れ、切り立った崖が森を二つに分けているようだ。
「本当の暗闇は、周りの明かりに気づかないことにこそあると思うんだ」
 そのまま、すっと頭上を指さした。
 見上げたレイは、ケンスケの指の軌跡を追い、そこで絶句する。
 空は、一面のきらめきに覆われていた。
 星くずのきらめき。砕けたガラスの破片が天に満ちあふれ、その一つ一つが不定期に瞬く。数を数えることなどむろんかなわない。満天の星空、という言葉通りの光景が、そこには広がっていた。
「遠いかも知れない。感じることは難しいかも知れない。特に近くに明かりがあるときにはね。でも、確かに光はそこに存在している。そして互いが互いを照らし出している。誰だっていつも一人になるわけじゃないんだ。炎はなくても、みんなの思いは等しく世界を覆っている」
 それが、人というものなんだから。
 ケンスケは照れくさい笑みを浮かべながらそう語った。
 なんだか言ってて恥ずかしい台詞だな、と。
 彼の言葉を、レイはゆっくりとかみしめてみた。
「無理強いはしないよ。急いで結果が出る訳じゃないことも分かってる。こういうものは、流れに任せるべきなんだろうからね。でも、選ばれなかった方がそれで一人になるという考えだけは、間違ってると僕は思う」
 それを根拠に、ずるずると引き延ばすことはよくないんだから。
「・・・・うん・・・・」
 レイはケンスケの言葉、そして眼前の光景に声もなかった。
(人は闇を怖れ・・・・)
(火を使い・・・・)
(闇を削って生きてきた・・・・)
 自分の台詞。自分のものでないような台詞。脳裏をそんな言葉がよぎる。
 一人だった自分。一人だと思いこんでいた自分。碇司令という炎だけを見つめ、他のことを省みなかった自分。
 あのとき見上げた空に、何の感慨も抱かなかった。
 しかし、今は違う・・・・。
 圧倒的な迫力で自分を見下ろす星々。
 たとえ一時姿を隠すことはあっても、見上げればいつもそこにいる。
「そう・・・・人は、いつだって一人じゃない・・・・」
 今までと違った形容しがたい思い。何か暖かなものが体の中に流れ込んでくるような感じと、いつしか自らの震えが収まっていることにレイは気づいた。
「・・・・ありがとう」
「え?」
「私が今まで気づかなかったことを、教えてくれた。このままじゃ、気づかなかったことを教えてくれた」
 ケンスケの顔をじっと見つめ、レイは真剣な表情でそう言った。
 突然のことに、彼は何も返事ができない。
 そしてレイはその真剣な表情を崩し、にこり、と微笑んだ。
「本当に、ありがとう」
 ・・・・ケンスケは、レイのその表情にしばし見入ってしまった。
 夜空の淡い、銀のように白い光を一身に浴びたその姿、表情。口元を緩やかに笑みの形に引き締め、目元は優しさにあふれている。
 まるで天使のような。
 陳腐な台詞だが、それゆえに多大な説得力を持つ言葉。
 言葉を失ったまま、彼はただただその姿を見つめていた。
「・・・・・・の?」
「え、え?」
 はっと気が付けば、レイが不思議そうな表情を浮かべてこちらを見つめている。
「あ、ご、ごめん。ちょっとぼっとしてた・・・・で、何?」
 あわてた様子のケンスケに、レイは一瞬首を傾げた。そして、
「・・・・どうして、相田君は私たちを追いかけてきたの?」
 アスカを探しに行くのはシンジか自分でなければならない。さっきはそう言っていた。しかし、他のみんなは残っているにもかかわらず、ケンスケは自分たちを追いかけてきた。なぜ?
 レイの台詞は、言外にそう物語っていた。
 ケンスケは、問いかけに対し黙り込んだままだった。視線をわずかにレイから逸らし、腕を組み、口を開きかけては閉じると言った仕草をしばし繰り返す。
 たっぷり5分は経っただろうか。ようやく彼は口を開いた。相変わらず、視線は地上に落とされたままだ。
 心持ち声がうわずっているのは、決して気のせいではあるまい。
「そう・・・3人の問題は3人で解決すべきだ、っていうさっきの言葉には嘘はないさ。僕も、その問題に関して言葉を挟むつもりはないよ」
「なら」
「僕が追ってきたのは、シンジたち二人じゃない。惣流やシンジのことも心配だけど、それが理由じゃない」
「え?」
 唐突なその言葉に、彼女は一瞬声を失った。
 ケンスケは地上に落としていた視線をきっとあげると、レイの瞳を真っ正面から見る。ごくり、とつばを飲み込み、そして言った。
「僕が追いかけてきたのは綾波、君なんだ」
 と。


 アスカはじっと座り込んでいた。
 目前の光景を見るわけでもない。頭上の空を見るわけでもない。
 手頃な大きさの意志に腰掛け、組んだ手のうえに顎をのせ、ぼんやりとしていた。
 もうどれくらい、その格好でいただろうか。
 自分は何をしているのだろう。
 こんなところで座って、何をしているのだろう。
 アスカは自らに問いかけてみた。
 いたたまれない気持ちだった。
 レイとシンジの会話、笑顔、行動。
 全てに自分の居場所がなくなってしまうようで。
 おそらく二人は、故意にそうしているわけではないだろう。
 レイは自らの心のままに。そしてシンジは気づくことなく。
 しかしそれであるが故に、アスカにとってはあまりに悲しかった。
 胸が締め付けた。
 アタシは、何をしているんだろうか。
 もう一度問いかけてみる。
 むろん、矛盾した二つの思いを抱え込んでいるため、答えなど出るわけがない。
「アタシは・・・・」
 小さく、声に出してみた。
「何をしているんだろう・・・・」
 何を望んでいるんだろう。
 心がぐちゃぐちゃで、何も考えられなかった。
 自分がシンジを好きでなければ。
 レイがシンジでない人を好きだったら。
 もっと簡単だったのかも知れない。
 前にも同じ事を考えていた。それが望むべくもないことも知っている。
 しかし、それでも彼女は考えてしまうのだった。
 ぐるぐると、頭の中を意味のない思考が巡っていく。
 結果として、アスカの視界は開けていても知覚せず、音は聞こえていても聞こえず、という状態が延々と続いていた。
 ぱきり。
 突如、不自然に大きな音が背後でした。
 枯れ枝を踏んだ音。誰かが、後ろにいる。
 はっと気づいたアスカは顔を上げた。しかし振り返ることができなかった。
 誰、かしら。
 振り返るのが、恐ろしかった。
 望んだ顔がそこにあるかもしれない。ないかもしれない。
 なかったら失望だろう。あったらあったで、なんて言えばいいのか。
 アスカは振り替えれなかった。
「アスカ・・・・」
 声が聞こえてきたとき、彼女の胸は激しく鼓動した。
 聞き慣れた声。
 聞きたかった声。
 ゆっくりと、彼女は振り返る。


 荒く息をついているシンジの姿が、そこにはあった。




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