遙かなる空の向こうに

第29話:追いかけて





 シンジたち一行が山を下りてキャンプ場に戻ってきたとき、時刻はすでに七時三〇分をすぎていた。日もとっぷり暮れ、空には星が瞬いている。
 夕暮れの山々を思ったよりも長く眺めていたこと、そしてやはりトウジが予想以上にへばっており、そのために帰りに手間取ったためだ。
「トウジ、大丈夫?」
 シンジが心配そうに傍らを行くトウジに問いかける。
 それに対してトウジは
「な、なに心配あらへんわ」
 そう言って笑っているものの、顔にはいっぱいの汗が浮かび、かなり疲労しているであろう事は明らかだった。
「それならいいけど・・・」
 強がっているのはシンジにも分かっていたが、しかしそれを言うとトウジが怒るであろう事は分かっていたので、あえて何も言わなかった。代わりに、
「ほら、もうすぐつくから。そしたら洞木さんが晩ご飯を用意してくれてるって」
「そ、そやな。はよかえらんと、いいんちょのカレーがまずなってまうわ」
 トウジはそう言って、棒のように疲れた足をさらに踏み出す。
「そうそう、その意気その意気」
 シンジは笑って応じると、さらに後ろを行くレイに視線を向けた。
「綾波も、大丈夫?」
「わたしは、大丈夫。そんなに疲れてないから」
 レイは多少息が荒くなっているものの、それほど疲れている様子は見えない。シンジはほっと一安心すると、
「でも、疲れたらすぐに言ってね」
 と微笑みながらそう言葉を継いだ。
「うん、ありがとう」
 レイはそれに対してわずかに頬を赤らめると、その恥ずかしさを隠すかのように視線をシンジから逸らした。
 シゲルとマコトはそんな三人の様子を見ながら、
「いやーいいもんだな〜仲間って」
 と笑っている。
 ケンスケはカメラを構えたままレイの姿をおさめつつ、無言のまま小さなうなずきを返した。
 六人がキャンプ場に帰り着いたとき、そこには心配そうな表情をうかべたヒカリとアスカの姿があった。帰りが遅いので心配してたようだ。
 一本道を降りてくる一行の姿を見つけて、まずヒカリがカレー鍋の側からはっと立ち上がった。
「鈴原!」
 そのまま不自由な足を引きずりながら、トウジの方へと駆けだしていく。
「お、い、いいんちょ・・・いいんちょのぶんまで、しっかり見てきたで」
 苦笑いを浮かべながら、我慢の糸が切れたのかトウジはその場に尻餅をつくように座り込む。
「無理したんじゃないの? こんなに疲れて」
 ヒカリはポケットから取り出したハンカチでトウジの汗を拭いながら、心配そうな表情を浮かべる。
「何、これくらいの苦労をしたから、あの景色を拝むことができたんや。ワイはなんも苦労したとは思ってへんわ」
「そう、ならいいけど・・・・」
 まだ心配そうな表情のヒカリに、トウジは「えいっ!」と気合いを入れてばっと起きあがった。
「ほらみてみ! まだまだこんなに元気や! それよりメシやメシ! ワイむちゃくちゃ腹減ってるんや!」
「あ、うん!」
 ヒカリはそんなトウジの姿に精一杯の笑みを返すと、まだふらつきがちなトウジの脇を支えるようにして食卓の方へとつれていった。
 一方アスカは、シンジとレイの前で不満そうな顔をしていた。
「アタシをおいていくってどういうことよ! アタシもそのすごい景色ってやつを見たかったのに!」
「あ、ご、ごめん。でもアスカ、ここんところ疲れていたせいでぐっすり寝ていたから、起こすのも可哀想かな、と思って・・・・」
「でも、行くかどうか聞くくらいしてくれたっていいじゃない・・・・」
「アスカ・・・ごめんなさい・・・・わたしのせいね」
 ぷうっっと頬を膨らますアスカに、レイはそう言って申し訳なさそうな顔をした。
「ここのところわたしを看ていてくれたせいで・・・・」
「そ、それは別の話よ! 何もレイのせいじゃないわ!」
「でも・・・・」
「それはそれ、これはこれ! いいから気にしないの! それよりシンジ、アタシがみられなかった分、どんなにすごい景色だったかちゃんと話してくれるんでしょうね!」
「うん。それはもちろん。ケンスケもカメラに撮っているみたいだし」
「ち・が・う! カメラのファインダーを通した景色よりも、実際に見た人が語ってくれる方がアタシは好きなの! だからちゃんと、アタシにそのすばらしさって奴を話しなさいよね!」
 アスカはそう言って、ぷい、っと二人から顔を背けた。シンジが困った表情をしているであろう事は分かったが、それでもそうせずにはいられなかった。
 内心、レイがうらやましかった。
 景色だけをみたいわけじゃない。そこに「シンジが一緒にいる」ことが、アスカにとっては重要なことだった。
 レイはシンジと一緒に思い出になるような景色を見た。
 それがうらやましかった。
 でも、アタシが一緒にいけなかったことをレイに責任として感じて欲しくない。
 複雑な感情を顔に出しそうで、それがいやで、アスカは二人から顔を背けた。
 シンジは、そんな彼女の内心まではわからない。
 ただアスカがふくれているんだな、としか思っていなかった。
 だから、
「アスカ、ほんとにわるかったよ。この通り謝る。だから機嫌を直してよ。次はおいていったりしないからさ。ね?」
 シンジがなだめるようにそう言う。
 アスカには、その一言一言が棘のようにいたかった。


「・・・でな、ワイがへばって座り込んでたら、ケンスケの奴がアホみたいな声で言う訳や、「トウジ、見て見ろよ」って」
「アホみたいってなんだよそれは!」
「なんや自分で気づかへんかったんか、あの抜けた声を」
「抜けたとかアホとか言うなよ!」
 夕食の席は、当然というか先ほどま見てきた景色の話題が独占した。
 身振り手振りを交えて、ヒカリをはじめ残った全員に壮大なパノラマを説明するトウジと、そこに茶々を入れるケンスケ。シゲルとマコトはそれをネタにミサトやマヤに向かって軽口を叩き、座は時折どっと笑いに包まれる。シンジもトウジの話に時折言葉を挟みながら、傍らに座るレイとアスカとの会話を楽しんでいた。
 カレーの匂いが空腹感を誘うのか、会話を楽しみながらも誰もがスプーンを動かす手を休めようとしない。特に山に登っていたメンバーのそれは顕著で、トウジなどいったいいつ食べているのか分からないほどしゃべっているにもかかわらず、すでに三杯目のおかわりに突入している。
「鈴原、その辺にしときなさいよ!」
 見かねたヒカリが止めようとするが、トウジはかまわずスプーンを動かし続ける。
「しゃあないやんか、ワイはむっちゃ腹へっとるんやから」
「そんなこといったってそんなに食べたらみんなの分がなくなっちゃうじゃないの。あんなに作ったって言うのに」
「作ったぶんは食わなあかん。残すなんてもったいないことできるかいな」
「そうじゃなくて、みんなのおかわりまで食べてどうするのよ! アスカなんかまだ1杯目よ!」
「やから、食べへん惣流の分までワイが食ってやろいうこっちゃ」
 アスカの皿は、確かに中身がほとんど減っていなかった。まだ半分も食べていない。
「アスカ、どうしたの? あんまり食べてないじゃない」
 シンジがそう問いかけると、アスカははっと止めていたスプーンの動きを再開させる。そしてシンジにむかって笑みを浮かべながら、
「ううん、別に何でもない。ただ、あんまりおなかが空いてないから」
「そう? それならいいんだけど・・・・」
 答えるアスカにシンジはわずかに首を傾げた。
「でも、綾波だってあんなに食べているのに・・・・」
 レイの皿は小食な彼女にしては珍しく、二杯目に入っていた。シンジの言葉にレイはわずかに顔を赤らめながら、
「ごめんなさい・・・・お腹、空いていたから・・・・」
 恥ずかしげにうつむいてしまったレイに、シンジはあわてて手を振る。
「い、いや綾波を責めてるんじゃないよ。いっぱい食べるのは悪い事じゃないって。むしろ普通なんだから」
「そう、なの?」
「運動したら、その分食べる。健康な人はそれが当然なんだ。綾波っていつも少ししか食べないから、結構心配だったんだよ」
「あ・・・・うん・・・・」
 シンジの言葉に一瞬レイはぴくり、と身体をふるわせた。
 それを先ほどのレイの態度と同じように取ったのだろう。シンジは取り繕うように、
「あ、でも綾波も無理に食べなきゃいけないって訳じゃないんだ。その人が適当だと思うだけの量が、結局は一番なんだから」
「そやそや、食事は健康のバロメータ。食べれば元気になるちゅうもんじゃ。ってことでいいんちょ、おかわり!」
「す・ず・は・ら! 鈴原のそれは適度じゃなくて食べ過ぎなの! 程々になさい!」
 調子に乗って皿を差し出したトウジをきっとにらみつけるヒカリの表情に、座はどっと笑いに包まれた。
 アスカはそんな全員の様子を・・・・シンジとレイの笑い顔をふっと眺めてから、大きく伸びをした。
「あーあ、やっぱり運動してないせいね」
 スプーンを皿におくと、椅子からすっと立ち上がる。
「ん? どうしたの?」
「ちょっとその辺を散歩してくるわ。少し歩いたら、お腹も空くだろうから」
 問いかけるシンジにそう答え、傍らのランタンを手に取った。
「アスカ、危ないよ。もう真っ暗だよ」
「大丈夫大丈夫、そんなに遠くに行くわけないじゃない。明かりもあることだし」
「でも、万が一のことがあったら」
「あら、そのときは無敵のシンジ様が助けに来てくれるんでしょ?」
 小さなウインク。途端に顔を真っ赤にするシンジに笑みを一つ向けると、アスカは再び言った。
「大丈夫だって、すぐ戻ってくるわよ」
 そのままテーブルから離れて森の道へと歩いていく。
「はよ帰ってこんと、惣流の分まで食ってまうで!」
「鈴原! いい加減にしなさい!」
 背後から聞こえるトウジとヒカリの声。
 アスカはその声に手を一つ振ると、そのまま木立の間に姿を消した。
 ランタンの炎が暗闇に消えるまで、シンジとレイはじっと見つめていた。



「ふー食った食った。さすがにもー食えん」
 満足のため息と共にスプーンを皿に置き、トウジは両手でお腹を撫でた。
「鈴原ったらそんなに食べて・・・・太っても知らないわよ」
「なに、だいじょぶや。ワイは食った分はしっかり運動しとるからな。食う寝る遊ぶみたいなヤワな生活ちゃうわ!」
「うげー、マッチョなトウジか・・・・想像したくないなー」
「ケンスケ〜。そないなこというなやー」
「おーこわこわっ」
 たわいない話に花を咲かせるトウジたち。一方大人連中は座を少しずらし、ビールやウイスキーを持ち出して雑談を交えている。
 シンジとレイは彼らの輪からはずれ、黙々と後かたづけをしていた。
 ヒカリは自分もやると言い出したのだが、シンジは
「いや、準備はほとんど洞木さんにやらせちゃったし」
 と言って譲らなかったのだ。
「変な性分だよね、わざわざ洗い物がしたいなんて。でも、何となく落ち着くし、結構たのしいから」
 シンジは申し訳なさそうな表情のヒカリに苦笑しながらそう言っていた。
 鍋一杯に張った水を落とし、こびりついたカレーの焦げをたわしで洗い落とす。まずは粉の洗剤、次に液体洗剤。
 焦げ目はかなりの力を込めないと落ちないしつこさである。こすっては流し、またこすっては流し。その繰り返し。
 一心不乱に洗っていたシンジがふと顔を上げると、傍らで同じく皿の後かたづけをしているレイの姿があった。
「綾波、いいよ僕がやるって」
「ううん。わたしも準備も何もしていなかったし。それに、碇君だけがやるんじゃなくて、わたしも手伝いたい」
「せっかくのキャンプなのに、洗い物なんかしなくたって」
「碇君も、それなら同じ。二人でやった方が、早く終わるから」
 皿を洗う手を止めず、レイはそう言う。
「・・・わかったよ、じゃあ、皿の方をお願い」
 しばしの後、シンジはしょうがないな、と笑いながら再び自分の作業に戻った。
 テーブルから聞こえてくる笑い声。
 たき火の炎の爆ぜる音。
 鍋とたわしがふれあう金属音。
 皿を洗う水の流れ。
 少し離れた森は対して静寂に包まれている。
 レイは、時折視線を横のシンジに走らせてみた。
 炎に照らされたシンジのうつむき加減の横顔は、レイにはどきりとするほど美しかった。美しい、と言う表現はおかしいかもしれない。しかしレイはこのとき確かにそう思った。オレンジ色の光の揺らめきを受けて、横顔は微細にその表情を変える。
 我知らず手の動きが止まっていることにレイは気づき、あわてて作業に戻った。シンジが「ん?」と振り向いたときには、見つめていたことを気づかれたかとどきりとした。
 恥ずかしい。
 そんな気持ちを紛らわすように、レイはことさら大きな音を立てて皿を洗い続けた。
 再び、限られた音だけが支配する静寂の世界が続く。
 一〇分。二〇分。
 レイがほとんどの皿を洗い終わり、最後にスプーンを洗おうと手にしたとき。
「・・・綾波・・・・」
 ぽそり、とシンジが不意に彼女の名前を呼んだ。
「え!?」
 突然のことに、レイはびっくりしてシンジの方に視線を向けた。その拍子に、手にしていたスプーンが澄んだ金属音を立てた。
 そしてその音で、シンジははっと我に返る。
 レイがびっくりした表情で自分を見つめていた。しばし考えて、シンジは自分が彼女の名を呼んだことに思い至る。
「あ、いや、ごめん、なんでもないんだ。ちょっと考え事をしていて」
「・・・・」
「うん、ごめん、ほんとなんでもないから」
 シンジはすまなそうにそういう。
「・・・・そう」
 その言葉に、レイは少し寂しそうにうなずくと、再び作業に戻った。
 手元で水明かりにきらめくスプーンの金属光。その光の中、彼女は思考の海に沈む。
 碇君が自分の名前を我知らず呼んだ。
 一体、なんだったんだろう。
 なんのために、自分の名前を呼んだのだろう。
 心の中で、何を思っていたのだろう。
 先ほどにも増して、レイはシンジの挙動が気になってしかたなかった。
 シンジの指先のひとつひとつ。髪の毛の一本一本が動くたびに、次は何をするのか、と胸がどきりとする。もう一度自分の名前を言ってくれないか、と唇の動きに注目する。
 自然手元が留守になり、あっとレイが気づいたとき、右手に握りしめていたはずのスプーンの束はするりと手の内を抜け、足元に散らばっていた。
「!」
 あわててしゃがみ込み、散らばったスプーンを拾い集める。
 しかし、シンジはそれにも気づかない様子で目の前の鍋に視線を落としている。よく見ると、たわしを握っている手はいつしか動きを止めていた。
「碇君・・・・」
 レイはそっと呼びかけてみる。しかし返事は帰ってこない。
「碇君?」
 もう一度。しかし相変わらず、シンジは自らの手元を見つめたまま微動だにしない。
 いささか、レイは焦れてきた。
 今までには無かったことだ。シンジが彼女の呼びかけをここまで無視することは。
 もう一度、さらに声を大きくしてシンジを呼ぼうとする。
 呼吸を整え、息を吸い込み。
 その瞬間、シンジが突如ばっと立ち上がった。
「きゃっ」
「あ・・・・ごめん、水でもとんだ?」
 レイのその声に。シンジはようやく彼女の方を振り向きあわてたように尋ねる。
「そうじゃないけど。碇君、なんだか考え込んでいたから、いきなりで、その、びっくりして・・・・」
「そう、よかった。ごめんね、驚かせちゃって」
 蛇口をひねり、鍋についている洗剤を水で洗い流しながら、シンジはそう言った。レイは落としたスプーンを水の中で再びすすぎながら、改めてシンジの方を見た。
「・・・・その・・・・碇くん」
「え? 何?」
 おずおずと問いかけるレイの言葉に、シンジはふっと振り向く。レイは言葉を続けようとしてしばしとまどう。そして、
「えっと・・・・ううん、なんでもない」
「・・・・?」
「いいの、なんでもないの」
 結局、何も言わなかった。
 ・・・・本当は、何を考えていたのかを聞きたかった。自分の名前を呼んだ訳を知りたかった。でも、口をついて出てくるのは違う言葉。
 レイは、もどかしさと共に手に持っていたスプーンを水の中から引き上げた。
 小さな水滴がミサト達が囲んでいる炎に映え、オレンジ色の宝石となってあたりに飛び散る。
「・・・・さて、と」
 その飛沫があらかた消えた頃、シンジの方の作業も終わった。
 鍋を傍らの台の上に置くと、手ぬぐいで濡れた掌をふき取る。大きな伸びを一つして、ペットボトルを取りキャップをあけて口を付けた。そのまま喉を鳴らして水を飲むと、ほう、とため息を付く。
「綾波も、今日はこのくらいにしようか」
「あ、う、うん」
「さっさと片づけちゃおう」
 レイはスプーンを先ほど洗い終わった皿の上に置くと、シンジから手渡された手ぬぐいで手を拭いた。あたりに洗い忘れたものがないかを確認して、ミサトやトウジたちのいるたき火の方へ歩き出そうとする。
 そして。
「碇くん、行かないの?」
 レイは、シンジが彼女の向かう方向とは異なる場所へ歩き出していることに気づいた。
 懐中電灯とペットボトルを手に、森の中へと歩き出しているシンジは、レイの言葉に足を止め、彼女の方を振り向いた。
「あ、うん、ちょっと散歩がてらあたりを歩いてこようと思って」
 こんな場所に来る事なんて、滅多にないからね。一度くらいは夜の森って言うのを見てみたくて。あ、いや。別に何を見に行こうって訳じゃないんだけど。シンジはそう言いながら頭をかいて笑った。
 しかしレイには、その笑顔がどこか作り物のように思えてならなかった。
 心の奥に何かが引っかかるような感じ。それが何かは分からないが、レイは今のシンジが何か普通の彼ではないように思えた。
「じゃあ、わたしも・・・・」
 一緒に行く。そう言いかけた彼女を、シンジはしかし手を挙げて制する。
「いや、綾波はミサトさん達と一緒にいた方がいいよ。昼間あれだけ歩いたんだし、疲れてるでしょ? それに安全だっていっても、夜は暗いからさ」
「・・・・・」
 レイは、じっとシンジの様子を見てみた。
 外見はいつものシンジだ。当たり前のことだが、彼以外のだれでもない。
 しかし言葉の端々、態度のあちらこちらにどこかいつもの彼でないものが見える。
 なんと表現すればいいのだろうか。それは今の彼女には分からない。
 ただ、どうしても不安がつきまとった。
「大丈夫?」
「え? 大丈夫って、なにが?」
 漠然とした不安にとらわれてレイはそう問いかけたが、逆にシンジから問い返されたことでとっさに返す言葉を見つけられなかった。
 自分は、何を心配しているのだろう。
 碇くんの何かがおかしいと思っても、それがなんなのか分からない。言葉に表すことができない。
 根拠のない心配なのかしら。
 彼女は自分に問いかけてみる。
 何が心配なのかしら。
 結局、レイはその答えを見つけることができなかった。
「ううん、何となく、そう思ったから」
 自らの言葉を濁すようにそう言うと、シンジは怪訝そうな顔をしたあと、軽く笑った。
「大丈夫だよ、夜道が暗いって言っても、懐中電灯もあるんだしさ」
 じゃ、ちょっと行ってくるね。すぐ帰ってくるから。
 シンジはそう言ってレイに背中を向け、ゆっくりと森の方へと歩いていった。
「あ・・・・」
 無意識にのばされたレイの手。
 それは宙を虚しく泳ぐ。
 彼女はシンジの消えた木々の隙間を、じっと見つめていた。
「・・・・・・」
 ふと、違和感を感じた。
 先ほどのそれとは違うそれは、記憶の片隅でレイ自身に話しかけてくる。
 そう、どこかで。
 コノ光景ヲ、ワタシハ。
 見タコトガ、アル。
 脳裏に語りかける声は、彼女にそう訴えていた。
「そうだ」
 そう、わたしは、どこかで、これと同じ光景を、見た。
 既視感。デジャヴ。
 レイはゆっくりと自らの記憶を振り返る。
 彼女がその原因にたどり着くまで、それほどの時間を要さなかった。
「アスカ・・・・!」
 夜の森。木立に消える後ろ姿。それを見送る自分。
 つい先ほどの光景が、鮮やかによみがえってくる。
 そして同時に、シンジが何をしに森へ入っていったかもレイは理解した。アスカを探しに行ったんだ。
 ・・・・そう言えば、アスカが散歩に出てから軽く2時間はこえている。ちょっとそこまで、にしてはあまりにおかしい。
 鈴原君たちは気づいていない。ミサトさん達も気づいていない。
 不覚にも、レイ自身もそのことに気づいていなかった。
 碇くんだけが、彼だけがそれを気にかけ、そして探しに行った。
 そして、自分が森に入る目的を言えばきっとわたしも探しに行くであろうことを察していたのだろう。だから理由をつけて、わたしをここに残していった。
 碇くん。
 アスカ。
 レイの脳裏に、二人のビジョンが重なる。
 そして、わたしはここに一人。
 ここに・・・・一人?
 何をしているの、と自分に問いかけてみた。
 碇くんはアスカを探しに行った。
 自分は何をしているの?
 碇くんがわたしのことを気遣ってここにいていい、と言ってくれた。
 それに甘えていいの?
 言いようのない不安。
 心の中に、何かが渦巻いている。
 どこか置いて行かれるような、そんな焦燥感。
 彼女はそっと、背後を振り向いた。
 たき火の側、ミサト達は相変わらず雑談をしている。こちらの様子に気づいた雰囲気はない。
 ・・・・行く、と言えば彼女たちは自分を止めるだろう。
 特にミサトとリツコ、マヤなど自分の「真実」を知っている人たちはそうだ。
 でも。
 それでも、わたしは行かなくちゃいけない。
 ここにいて、二人の帰りを待っているのでは、ダメ。
 碇くんを追いかけて。追いかけなくちゃいけない。
 探さなくちゃいけない。
 レイは、みんなに気づかれないようそっとその場を離れた。
 一歩、二歩、森に向かって歩き出す。
 光の及ぶ範囲が徐々に狭く暗くなり、その端に来た時点で。
 レイは、するり、と光の輪を抜け出し、森の中へと駆け込んだ。そのままシンジが歩いていったと思われる方へ早足で進む。
 ・・・・彼女は、気づいていただろうか。
 森の中を歩きながら、自分が心の中で何を考えていたかを。
 探しに行かなくちゃいけない。
 探しに行かなくちゃいけない。
 ・・・・そう、碇くんを。
 暗闇の中をひたすら走る彼女の中は、それだけでいっぱいだった。




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