遙かなる空の向こうに

第28話:生まれくる人のため




「シンちゃん、あたしカギしめたっけ〜?」
「さっき僕が閉めましたよ! ミサトさんが忘れっぽいから、ちゃんと確認しています」
「荷物は?」
「トランクに入れました」
「ビールは?」
「はいはい、ちゃんとクーラーに入れてます」
「おっけ〜、それじゃ行くわよ!」
「って、言いながらなんでもう缶ビール飲んでるんですか・・・・」
「あっはっは。運転手はあたしじゃないもの〜」
 コンフォート一七マンション前。三台の車の前でひとしきり騒いだ後、ミサトとシンジは一台の車に乗り込んだ。
「じゃ、日向君、レッツゴーよ!」
「・・・・すいません、日向さん」
 二者二様の台詞に日向マコトは笑いながら応じると、アクセルを踏む。
 車はゆっくりと大通りに向けて走り出し、併せて後続の二台も緩やかに滑り出した。
「到着までだいぶあるんですから・・・・そんなペースで飲まなくても・・・・」
 後部座席から困った表情でそう告げるシンジの前で、ミサトの足下には次々と空き缶が転がりだす。
「いーのいーの。今日はもう、全部おまかせなんだから〜。何しろ日向君がぜーんぶセッティングしたんだものね!」
 ミサトは気にする様子もなく新たな一本を取り出し、勢いよくプルタブをひねった。
「ってミサトさん、自分に全部任せろって言って日向さんを使ったんですか!」
「っくぅ〜! やっぱり外で飲むビールはうまいわね〜」
「ミサトさん!」
「ほっときなさいよ、そんな酔っぱらい」
 あきれたような表情のシンジを横からこづいたのは、アスカだった。
「ミサトの酒狂いは一生直らないんだから、心配するだけ損よ。ましてやあんな時にまともな話ができると思う?」
「・・・・」
「せっかくみんなで旅行にでるんだから、シンジも他人の心配なんかしないで、しっかり自分で楽しみなさいよ。ね、レイ」
「・・・うん・・・・」
 シンジを挟んだ向こう側、話を振られたレイは小さなうなずきを返す。シンジはそこでふと、レイに尋ねた。
「綾波・・・・そういえばもう、体の調子はいいの?」
「うん、大丈夫」
「そう。だったらいいけど、調子が悪くなったら、すぐに言ってよね」
「・・・ええ。ありがと・・・・」
 恥ずかしげにレイはうつむくと、そのまま窓の外に視線を向けてしまった。
「だーかーらー! アンタはどうしてそう他人の心配しかできないのよ!」
 アスカがむくれたようにもう一度シンジの脇を小突く。シンジは瞬間顔をしかめたが、そのままようやく視線を外に向けた。
 車外の風景は復興途中の第三新東京市を徐々に離れ、市外へと向かっている。


 旅行に行こうと言い出したのは、アスカだった。
「せっかくの週末なんだから!」
 第三新東京市から車で二時間ほどの場所にオープンした屋外キャンプ場のチラシを振り回し、シンジの前で力説する。「戦災を免れた貴重な自然を心ゆくまで楽しもう」。その謳い文句がシンジの目には印象的だった。
 何のために、と、とりあえずは聞いてみる。
 対するアスカの答えは、レイの休養もかねて行こうということだった。
「でも、綾波の体調があれだから・・・・」
 シンジはレイが退院してすぐだからということで、その計画には反対した。
「だーかーらよ! リツコだって言っていたじゃない。レイには少し、自然の中で精神的にリラックスさせた方がいいって」
「確かにそうだけど・・・・なにも退院してすぐじゃなくたって」
「アンタ馬鹿? 元気になってからリラックスさせたってほとんど意味がないじゃない! 治る過程でその回復を早めようって言うんだから!」
 渋るシンジをアスカがとことんまで言いくるめ、最後にレイの「わたしも行きたい」との一言で勝敗は決した。シンジの完敗である。
 破れたシンジは、しかし最後の砦であるミサトが許可しないだろうと高をくくっていた。
 だが、彼の予想に反してミサトは、
「あら、じゃさっそく準備しないとね〜♪ あ、セッティングは任せなさい! 心当たりがあるから!」
 とばかりにあちこちに電話をかけまくり、移動の手段と同行者をまたたくまに確保。結果的に、シンジ、レイ、アスカ、ミサト、ペンペンに加え、リツコ、マコト、シゲル、マヤ、トウジ、ケンスケ、ヒカリの十一人と一匹が参加することになった。
「・・・・全く、みんなお祭り好きなんだから」
 とは、瞬く間に目の前で予定を汲み上げられてしまったシンジの弁である。
 ・・・・むろん、アスカとミサトが十分な根回しをしていたことは言うまでもない。シンジに説明する前から場所を押さえ、同行者に話をしておいたのだ。知っている人にははっきりとした言い方で。わからない人にはそれらしい理由を付けて。
 そして土曜日を迎え、正午過ぎ、三台の車に分乗した彼らは目的地へと向けて出発した。


 一号車・ワゴンタイプの車にはにはマコト、ミサト、シンジ、レイ、アスカ。
 三号車・四WDのオフロード車はシゲル、トウジ、ケンスケ、ヒカリ、ペンペン。
 二号車・スポーツタイプの車にはリツコ、マヤ。
 割り振りは以上のようになっている。


 以下、三号車。

「ちょっと鈴原! それは向こうに着いてから食べるお菓子じゃないの!」
「ええやんか腹減ってんやから」
「そう言う問題じゃないの! 鈴原のためだけのものじゃないのよ、これは!」
「なに、ちょっとくらい減ってもバチはあたらへんって!」
「鈴原のちょっとは他の人のそれとは違うんだから! ほら、離しなさい!」
 今にも新たな袋を開きそうなトウジの手を一はたきすると、ヒカリはその手からポテトチップの袋を奪い取った。
「なにも叩かんでもええやろに」
 わずかに赤くなった手の甲を撫でながら、トウジはそう抗議する。しかしそれは、
「鈴原・・・・なにか言った?」
 きっと見据えるヒカリの視線の前に、春の淡雪のように溶け去ってしまった。
「ったく、いいんちょはいつもこれやから・・・・」
 聞こえないようびぼそぼそとつぶやき、しばしの後、前の席に座る二人へ声を掛ける。
「そうだ、シゲルさんもケンスケも、腹、減ってへんですか?」
 どうやら仲間を増やして再度アタックをかけようと言う魂胆のようだったが、返ってきた返答ははなはだ彼を失望させるものだった。
「いや、俺は運転手だから結構疲れるだろ? 結構メシ食ってきたし、運転中だからさ。期待に添えなくて残念だけどな」
 シゲルの苦笑と、
「あ、ああ。僕もそんなに、おなか空いてるってわけじゃないから・・・さ」
 と、ビデオカメラを整備しながらのケンスケの返答。
 トウジはあからさまに失望の色を顔に浮かべ、
「そんな、シゲルさんはともかく、ケンスケまで・・・・う、うらぎりもん〜!」
 車内に、トウジの悲鳴が響いた。
「相田くん?」
 シゲルは助手席のケンスケに向かって、しばし躊躇した後、前の2号車から視線を逸らさないままでそう呼びかけた。
「ずいぶんと顔色が悪そうだけど、大丈夫か?」
 よく見ると、ケンスケの顔はわずかに青い。額に一筋、冷や汗が伝う。
「え、あ、ああ。大丈夫ですよ」
 その視線をうけて、ケンスケは笑顔を返そうとする。しかし、それでも顔の青白さは隠しようがない。車酔いであることは明らかだった。
「こんな揺れる車の中でカメラの整備なんかするからだよ。向こうに着いてからでも遅くないから、置いておきなよ」
「え、でも・・・・」
「そうしないと」
 そう言って、シゲルは小さくウインクした。
「向こうに着いてから、麗しきお嬢様やお姉さまの映像を撮るだけの体力もなくなっちまうぞ」
「・・・・置いときましょう」
 ケンスケは一も二もなくカメラを片づけ、体力の温存に走った。
 シゲルは後ろの二人とそんなケンスケの様子を見ながら、ぽそり、とつぶやいた。
「平和だなー」


 以下、二号車。

 マヤは、最初は黙っていた。前方を見据えたまま運転を続けるリツコに向かって何度も口を開きかけた。それでも彼女は、黙っていた。しかしやがて意を決したのか口を開き、リツコに呼びかけた。
「・・・・先輩」
「なに、マヤ」
「・・・・いいんですか?」
「何が?」
「だから、いいんですか、って」
「マヤ。表現は的確かつ端的に。抽象的な言い回しは私は嫌いよ」
 相変わらず前を見据えたまま、突き放すようなそのリツコの台詞にマヤはしばし黙り込んでいたが。
「分かりました・・・・レイのことです。いいんですか? こんな時期に連れ出して」
 倒れた直後で体力もそれほど回復していないかもしれない。その状況で遠距離へと旅行をすること、そしてそれがレイに与える影響についてマヤは危惧していたの。が、
「じゃあ、他のどんな時期にレイをつれていけるって言うの?」
 リツコの台詞に、マヤはぐっと押し黙ってしまった。
「これから先、レイの体力は落ちていくことはあっても戻ることはないわ。それは貴方も分かっているでしょ? だったら今のうちに、そう、今のうちに行けるところ、できることはやっておかなくちゃいけないのよ」
 それが、あの子の望んだことならなおさら。
 リツコの言葉に、マヤは沈痛な面もちで瞳を伏せた。
 レイの体力が、これからは落ちていくであろう事はマヤにも分かっていた。しかし、それでも望まずにはいられなかった。技術者としてははなはだ非論理的ではあるが、奇跡が起きてレイの体が回復していってほしい、と。
「・・・・現実から目を背けることは私には許されないのよ。特に、レイの今を作ったのは母さんや私、そして碇司令よ。だから、その責任の一端がある以上、今の彼女にしてあげられることはやらなければならないの。・・・・罪滅ぼし? そんな言い方が陳腐なくらいよ、私たちが彼女にしたことは・・・・」
 自嘲気味の笑い。リツコのそれをみて、マヤは知らず胸が痛くなった。
 レイの今を作り出したということ。それは作為的とはいえ彼女に命を与えたことでもあり、しかし同時にそれが作為的であるが故、彼女の未来を閉ざしたことでもある。
 希望を与え、奪い取ること。彼女に最初に命を与えたという行為に直接リツコは関わっていないとはいえ、今の彼女はそれに対して責を負う立場にいる。いや、レイの未来を、自由を、奪うだけだった分むしろリツコの苦悩は深いだろう。
「先輩・・・・」
 マヤは、どうリツコに声を掛けて良いのか分からなかった。いや、声を掛けることすらためらわれた。
 リツコの気持ちは分かるが、自分が同じ立場に立たない限り、彼女をなぐさめることはできない。自らの手を汚していない、汚すことを嫌っていたマヤが今何を言っても、それはリツコにとっては憐憫やうわべだけの言葉でしかないだろう。
「わかりました・・・・でも、万が一と言うこともあります。こちらで一応」
「いざというときの要員は待機させている、でしょ?」
「え、あ、ええ・・・」
 見透かされたような台詞に、マヤは一瞬とまどった。しかし、
「・・・・だから」
「え?」
「貴方がやってくれると思ったから、私は何もしなかった」
「・・・・先輩」
 その視線と声に、リツコは応えなかった。再び視線を前に向け、ハンドル越しの光景をじっと見つめるだけ。 
 マヤは、その横顔にをじっと見つめていた。
 貴方がやってくれると思ったから。
 リツコのその言葉をゆっくりと反芻する。
 自分にできることは、先輩を助けていくことだけ。
 マヤはそう内心で思いながら、運転席のリツコをじっと見つめた。
 それに対しリツコは、じっとフロントガラス越しの光景に視線を合わせたままだった。


「わぁー」
 アスカは、車外に広がる緑の光景に思わず感嘆の声を上げた。
 車は高速を降り、一般道を目的地のキャンプ場へと向けて登っていく。最初は広く整備されていた車道だったが、道を登るにつれその幅は狭まり荒れだし、しかし対照的に緑は増えていった。
「普段は、こんな近くで緑を見ることなんてないものね」
 車窓の向こうに、木の葉の間から漏れ出る陽光のきらめきが見える。窓を開けて手を出すと、空気の冷たさが肌に心地よい。クーラーの人工的な涼しさではない、本当の森の涼しさ。
「ドイツじゃ天気が悪くて一年中冬みたいなものだったし」
 こんないい空気の匂い、今じゃ滅多にないわね。
 アスカはそういいながら、さらに車窓を大きく開いた。
 と。
「あ!」
 大きく開かれた窓から吹き込む風に、髪の毛がぱっと舞う。アスカはとっさに自分の栗色の髪を手で押さえた。しかし、窓を閉めようとはせず、緑の香りを体一杯に浴びる。そして、
「ね、シンジもそう思うでしょ!」
「え? あ、う、うん、そうだね・・・・」
 シンジは、そう話を振られて、しかしとっさには答えを返せなかった。
 どきどきしている。
 自分の内心で、彼は木々の光景もさることながら、今の風で舞ったアスカの髪の毛、風に乗ったそのほのかな髪の毛の匂いにどぎまぎしていた。
 木漏れ日の中、緑の木々の手前で栗色の髪が柔らかに舞っている。その髪を白い手で押さえようとしているアスカの姿、横顔。
「きれい・・・だ・・・」
 ぽそり、とつぶやいてからシンジはそのことに気づき、瞬間的に顔を赤くする。
 しかしアスカはそんなシンジの言葉を、木々のことだと受け取ったらしい。嬉々とした表情でレイに、
「レイも、そう思うでしょ?」
 と話を向けた。
「・・・・・・」
 しかし、レイは黙り込んだまま車外の光景を見つめていた。
「レイ?」
 二度、三度、呼びかけてみる。しかし、レイは相変わらず返事を返さない。
 アスカの呼びかけも、シンジの先ほどのつぶやきも、彼女には聞こえていない。
 それほど、レイは車外の景色を熱心に見つめていた。
 緑。たくさんの緑。
 居並ぶ木。森。同じものがいっぱい。いらないものがいっぱい。命の力強い鼓動を、今までは感じることのなかったもの。
 それらは以前の彼女の認識だった。
 しかし今、間近で見てそれが間違いであったことに気づいた。
 太陽に向け、力強く枝をのばす木々。繁る緑の葉。風に揺れる森林。
 それは命の鼓動にあふれ、そしてそれぞれが違う表情を眼前に見せてくれる。
 同じモノじゃない。一つ一つが違う命を持って、そして生きている。
 レイはそれをまじまじと見た思いだった。
「きれい・・・・本当に・・・・」
 ため息を付くようにほう、とつぶやき、そして始めてシンジとアスカがじっと見つめていることに気づく。
「「あ」」
 二人は食い入るようにレイを見つめている自分たちの姿に気づくと、小さく声を上げ、照れたように顔を赤らめた。
「いや、綾波がずいぶん熱心に外を見ているから、つい・・・」
 シンジがわずかに赤らめた鼻をぽりぽりとかきながら、そう笑った。
 確かに、レイの姿にシンジは見とれていた。
 微動だにせず外の緑を見つめるレイの姿は、まるで絵画の中の光景のように思えた。そう、心を打つ、一つの光景のようにきれいで・・・・。
 レイもまた、そんなシンジの言葉に頬を赤らめる。じっと見られていたことに対する恥ずかしさからで、その表情がまた、シンジやアスカにとってははっとするほど美しい・・・・いや、かわいらしい、と言った方がいいのだろうか、そんな印象を与えた。
「でも、ほんとにいいよね、こうやって落ち着いて旅行ができるなんてさ」
 シンジのその台詞に、レイはにこり、と微笑んでうなずいた。
「みんなと、一緒だから、かしら」
 そう言って、アスカとシンジに視線を向ける。アスカは照れたように微笑み、シンジも同じく笑みを返す。
 レイは、そんな二人に小さな笑みを浮かべてそれに応じた。



「アスカ、着いたよ、ほら!」
「んっ・・・・にゅぅ・・・・」
 車がキャンプ場に入ったのはそれから小一時間ほどしてからだった。
 シンジがアスカの方を揺すると、アスカはわずかに瞼を開く。しかし、
「・・・・眠いの・・・・ふぁぁ、お休みぃ・・・・」
「アスカ!」
 再び背もたれに体を預け、夢の世界へと落ち込んでいってしまった。
「アスカってば、せっかく着いたんだから起きようよ。これじゃ何しに来たんだか・・・・」
「いいじゃない。寝かせておきましょ」
 ぽん、と肩に手を置かれる感覚。振り向くと、その手の主はミサトだった。車の中で1ケース近い缶ビールを消費していながら、いつの間にか酔いをすっかり醒まし、その表情はしれっとしたものだ。
「特に今週は、レイの世話をしてくれていたから。アスカも、きっと疲れているのよ。無理矢理起こすってのはちょっと可哀想よ」
 レイが入院していた都合三日間、アスカはその世話を熱心にしていた。学校の授業が終わってから病院に行き、面会時間ぎりぎりまで一緒に付き添っている。そしてその後、家に帰ってきてからはまだ不慣れな手つきで掃除や洗濯などをする。シンジも一緒にやろうとしたのだが、アスカは頑なに自分がやる、といって聞かなかった。
 珍しいことだ、とシンジは思っていた。
「確かに、アスカ、がんばってたからな・・・・」
 そう言って、すやすやと寝息をたてるアスカの寝顔をじっと見下ろす。
「ま、そもそもここに来た目的が都会の喧噪を離れてリフレッシュすることなんだから。そんなに予定予定で遊ぶこともないわよ」
「・・・たしかに、それもそうですよね」
 シンジはミサトのその言葉にうなずきを返すと、トランクからちょうどマコトが引っぱり出したタオルケットを借り、そのままアスカの体にそっとかけてやった。
「ミサトさん、何か書くもの、あります?」
 ミサトが胸元から取り出したメモ用紙とペンを手にして、シンジはすらすらと書き付ける。
『キャンプ場の方に行っています。起きたら後から来てください  シンジ』
 その紙を、そっとアスカの右手に握らせる。
 白く、細い手。シンジも男にしては小さな手の方だが、それでもアスカの方が小さく、そして艶やかだった。
 まるで壊れ物を扱うかのようにアスカの手を元に戻すと、シンジは体を起こした。
「じゃ、行きましょうか」
 起こさないように注意しながら、シンジはそっとドアを閉めた。



「な〜メシはまだかの〜」
 一通りの道具の据え付けが終わると、トウジは真っ先にそう言いだした。
「ワシ、もう腹減ってしもたわ〜」
 そう言いながら、竈の炎と格闘を続けるヒカリの方へずるずると近寄っていく。
「なぁ、はよ食わして〜な〜」
「す・ず・は・ら! 今何時だと思ってるの? まだ五時過ぎじゃないの! それに持ってきたお菓子とかは一番食べてたくせに、もう!」
「んなこというても、ワシが一番働いたんや! ケンスケのアホはまたカメラもってあちらこちらを走りまわっとるし、シンジはシンジで非力やし!」
 一番働いているのはマコトとシゲルなのだが、この際彼らはトウジにとってはどうでもいいらしい。ケンスケやシンジと比べて働いたことを強調しながら、ヒカリの向こうの鍋に視線を向けた。
 竈にかけた鍋の中では、キャンプの定番とも言えるカレーがぐつぐつと煮込まれている。レイのために肉を入れず、代わりに焼き肉を添えて出すことにしているため、中で煮えているのはジャガイモや人参、キノコなどだ。それでもルーの香りはトウジの空腹感を助長するには十分すぎるほどで、我知らず口の中には涎が洪水のようにあふれ出していた。
「な、な、ほんのちょびっとでええから、食わせてくれ〜な、ええやろ?」
 すがるような視線。しかしヒカリはきっぱりと首を横に振った。
「ダメ! 夕食まで我慢なさい!」
「そんな殺生な・・・こんなにうまいにおい漂わせといてそれは、蛇の生殺しや〜!」
 そんな二人の漫才を見て、ビデオのファインダーを覗いていたケンスケが二人に聞こえるようにぽつり、とつぶやいた。
「今から尻に引かれてどうするんだろうな」
 途端に、ヒカリとトウジの言い争いはぴたりと収まり、瞬間的に二人の頬が真っ赤になる。
 そんな二人の様子に耐えきれなくなり、最初に笑い声を上げたのはミサトだった。
「あ、あはははは!」
 シゲルやマヤ、リツコなども巻き込まれるように笑い、ケンスケ、シンジも笑い出す。
「な、なんやなんやみんなして!」
 トウジがようやく反撃の姿勢を整え、ケンスケに猛然とくってかかる。が、赤い顔のままで抗議するその姿ではいささか迫力に欠ける。ケンスケはそんな様子すらもカメラを回して撮りだし、さらに周りの笑いを誘った。
「まあまあ、二人ともそのぐらいにして」
 ぱんぱんと手を叩く音。二人がはっと振り向くと、ようやく笑いを納めたマコトの姿があった。
「キャンプの準備もだいたい終わったようだし、どうだい、ちょっと良いものを見に行かないか?」
「良いもの、ですか?」
 シンジが不思議そうにマコトに問いかける。
「ああ、ここからちょっと登った山の上にね」
「なんですか? その良いものって!」
 好奇心丸出しのケンスケの問い。しかしマコトは、ゆっくりと首を振って応じた。
「それは、着いてからのお楽しみだよ」と。
「ちょっと、って・・・どれくらいですか?」
「まあ、今からでかければ夕食までには帰ってこれる。そのくらいだね」
「・・・って言うと、往復で2時間?」
「さて、それは君たち次第だ。どうだい、たまにはなまった体を動かしてもいいだろう?」
 結局、シンジ、ケンスケ、トウジ、レイ、シゲル、マコトが参加することになった。
 ミサトはすでに酔っぱらっており、マヤとリツコは彼女の相手と火の番、そしてヒカリは登山には向かない体のため、辞退することとなった。
「鈴原、大丈夫なの?」
 出かけるときに、ヒカリは心配そうにトウジに問いかける。
 そんな彼女に、トウジは笑って返事を返した。
「心配あらへん。いいんちょのぶんまで、良いものちゅうやつを拝んで来たるわ!」
 
 

 マコトは1時間と言ったものの、実質五〇分ほどで彼らは目的の場所に着いた。
 途中のほとんどがけもの道と言える状態で、先頭のマコトが草を踏み分け、その後をシンジ、レイ、ケンスケ、トウジの順番で続く。最後にシゲルが歩みを進め、ともすれば転びそうになるトウジを支える。
 日は西に傾き、森の中の気温は徐々に下がりつつあるとはいえ、それでも一時間近くを登山に費やした結果として、到着時には誰もが汗だくになっていた。
「ふぅ、ふぅ、け、結構、疲れ、ますね」
 シンジは肩で息を付きながら、マコトにそう言う。
「ま、苦労しないと、分からない、価値も、あるってもんだから、ね」
 マコトも同じく息を切らしながら、額の汗を拭った。
「みんな、大丈夫かい?」
 レイは小さく息を整えながらうなずいた。
「さ、さすがに疲れたな・・・・」
 ケンスケはビデオカメラを構えたまま返事をする。
「へ、へっちゃらですわ!」
 一番息の上がっていたのはやはりトウジだった。半分シゲルに支えられるようにして歩いていたが、ついにへばったのか、傍らの木にもたれかかるとずるずると根本に座り込んでしまう。
「でも、こんな、ところに、きて、いったい、なにを、見れる、ちゅうんです、か?」
 持ってきた水筒から水を一口。そしてそう尋ねたものの、答えは返ってこなかった。
「聞いとるんですか?」
「・・・・トウジ・・・・みてみろよ・・・・」
 傍らで、ケンスケが惚けたようにつぶやいた。
「あ?」
 ゆっくりと顔を上げる。傍らのシゲルがぽん、と肩を叩き、空の一角を指さした。
 その指の先を目で追って。
 そして、トウジもまた、声を失った。


 夕焼け。
 オレンジ色に照らされた雲の海。その海にまさに没しようとする太陽。半身を沈めたその姿は、まさに空の支配権を夜へと受け渡そうとしている。
 オレンジ色の空は徐々に夜の支配下に移りつつあり、現に空の上端はすでに黒く染め上げられている。
 その黒い空の下、どっしりと腰を落ち着ける山脈。かつて冬には雪を頂いたというそれらの山々は地肌をむき出しにしていたが、それでもこの美しさをそこなうでなく、むしろ雄々しさを強く感じさせるものだった。
 シンジも、レイも、トウジも、ケンスケも。
 誰もがしばしの間、無言でそれらを見つめている。
 夕方の風が全員の頬を優しく叩き、吹き出る汗をたちまちのうちに拭っていく。しかし誰もがそんな事にも気づかず、ただひたすらに夕焼けを見つめていた。
「・・・・ここには、昔来たことがあってね」
 マコトが話し出したのは、太陽がほぼ完全に雲の海に没してからだった。
「あれは大学生のころだったから、もう何年も前だな。物好きな教授がいて、今回みたいに誘われたんだ。『日向君、良いものを見にいかんか』ってね」
 最初は半信半疑でついていき、登山の途中はこんなことを、と文句を言い続けていた。しかし同じくこの光景を見せられて、そんな些細な思いはどこかに吹き飛んでしまった。
「そのとき、教授は言ってたよ。『セカンドインパクトは地球の多くの場所で悲劇と災厄を巻き起こした。しかし人の営みはそこで終わっていない。絶望と恐怖の中に没することなく、人は営みを続けてきた。その成果があって、我々は今、ここでこうして美しい景色を見ることができるのだ』って」
「・・・・・・」
 誰もが、マコトの言葉に聞き入っていた。
「これからもおそらくつらいことも、苦しいこともあるだろう。でもそれらを乗り越えて、後の世に生まれくる人々のために営みを続けること。そして世界の美しい景色を見せてやること。それが今この世界にいる人々のやるべき事なんだと思う。そう、教授は言っていた」
 だから、僕は君たちをここに連れてきたかったんだ。マコトはそう語った。
「シンジ君、レイ、トウジ君。戦いの中では、つらいことも苦しいこともあっただろう。でも、それでもアスカを含めた君たちは戦い続けた。人の営みを絶やすことを避けるために。その結果として今、僕らはこの景色を見ることができる。今後も見続けることができる。そして僕らがいなくなってからでも、後に生まれくる人たちに見せてあげることができるんだ」
 はっと、レイはその言葉に視線を上げた。
 マコトは、じっとレイを見つめていた。
「どういう理由で戦ったか、ってことはこの際おいておこう。経緯はどうあれ、自分たちが守ったものを知っておいてもいいんじゃないかな、と思ってね」
 そう言って、マコトは再び雲の海を見つめた。
「君たちは、もっと自分を誇って良いんだよ」
 ・・・・レイは、黙ってそれを聞いていた。。
 きれいだと感じること。
 残された思い。伝えたい思い。
 傍らで夕焼けを食い入るように見つめるシンジの横顔。
 何のために自分が戦ったのか。
 戦いの時には思いもしなかった感情というもの。
 マコトの言葉。彼が自分のために言ってくれている言葉。
 美しいと感じること。
 この場にいないアスカの笑顔。
 残された時間。
 戦いの結果何が残ったのか。
 目の前の雲海。
 様々なものがレイの胸の中をぐるぐるとめぐっていく。
 何かを言いたい。言いたい。
 言うことができない。言うことができない。
 そこで、はっと、気づいた。
 なにを、考えているの。
 何かを言いたい、と考えることはない。
 いまはただ、思ったことを言えばいい。口にすればいい。
 それは、前の自分にはできなかったこと。でも、今はできる。碇君が、アスカが、それを教えてくれた。
 そう思うと、我知らず口を衝いて言葉がでてきた。
「ほんとに、きれい・・・・」
 そして、さらに継いだ。
「一緒に見ることができて・・・よかった」
 そっと、視線を横に向けた。
 傍らにはシンジ。レイの言葉を聞いて、一瞬怪訝そうな顔をしたが、唐突にレイのつぶやいた意味を悟り、真っ赤な顔をしてうつむいてしまう。
 そんな仕草を見て、レイはふっと笑っている自分がいることに気づいた。
 そしてここ数週間、自分が同じように思ったままに言葉を紡いでいたことを思い出した。
 ・・・・そう、これで、いいのね。




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