遙かなる空の向こうに
第27話:黄金色の刻
廊下を行き交う人々の足音で、目が覚めた。
見上げた天井には大きな蛍光灯。すでに灯りは消されており、代わりに窓から差し込む光が室内をうっすらと明るく照らし出している。
横たわっているベッドは大きく、清潔な白いシーツが掛けられている。体の上には空調による冷えを防ぐためか、薄い毛布が一枚。傍らの台には時計と小さな水差し、コップ、そして薬の袋。
それは、いつもとは違う朝。望まずして迎えた、病院での朝。
ネルフ特別病棟。四〇五号室。
レイは暫しそのまま、白い天井を見上げていた。
昨日からのことを、ぼんやりと考える。
それは、ちょうど今と同じような朝。目覚めた直後、脳を突き抜けるような激しい痛み、吐き気、体中を荒れ狂う倦怠感が襲ってきた。声を出すこともできず、起きあがろうとしてもかなわず、ただ時間だけが過ぎゆき、やがて扉の向こうでシンジが目覚めたらしく動く音が聞こえてきた。そしてさらに時が過ぎ、異様な体の調子が収まったか・・・・と思った瞬間。
悪寒、激痛、衝撃。
体の内から一気にこみ上げてくるそれらが、あふれる鮮血となって自らの口からほとばしった。とっさに押しとどめようとあてがった手の隙間から、赤い塊がこぼれ落ちるようにあふれ出る・・・・。
・・・・レイは、ゆっくりと手を目の前にかざしてみた。
ほっそりとした指。そして透けるような白い肌。光の陰影がその白さをさらに際だたせている。白く、白い肌。そして昨日は、自らの赤い血に染まった手。
「・・・・・・」
吐血してから後のことは、ぼんやりとしか覚えていない。
ペンペンが入ってきたこと。
アスカが飛び込んできて介抱してくれたこと。
救急車に乗り込むとき、シンジが心配そうな表情で手を握ってくれたこと。
そしてここに運ばれてから、懇々と眠り続けた時間。
何か、夢を見ていたように思える。
自分で、何かを口走っていた気もする。
しかし、思い出せない。
そして、それら一連の出来事が夢であったかと思えるほどに、今のレイの体はまったく異常を感じなかった。
右手も、左手も、自らの思い通りに動く。激しかった頭痛も吐き気もない。今すぐにでもこの無機質な部屋を出ていき、アスカやシンジの待っているマンションへ帰ることができる・・・・そう思えてしまうほどだった。わずかに残っているけだるさだけが、昨日のことを現実として理解させているのみ。
・・・・帰りたい。
レイはわずかに唇を噛んだ。
その思いが、胸の中をいっぱいに占めていた。
帰りたい。
あそこに帰りたい。
わたしのいる場所は、ここじゃない。
碇君のそばにいたい。
アスカにそばにいてほしい。
この部屋には・・・・いたくない・・・・。
「・・・・・・」
いつしか、自らの頬を一筋の涙が伝っていることにレイは気づいた。
涙。
悲しみの涙。
悲しみのために流す、初めての涙。
胸を締め付けるような思い。
今までに経験したことのない思い。
・・・・もし。
不意に、想像が脳裏をよぎる。
もし、あのとき。
『一つは、第二東京市の遺伝子研究所に入院し、治療を受けることだ。現時点の可能性はゼロとはいえ、今後何らかの解決策が、見いだされるかもしれないからな』
そのゲンドウの問いに対し、是、と答えたならば。
自分は、どうなっていただろうか。
今と同じような無機質な部屋の中、そして自らの傍らには誰もいない生活。毎日の時間が検査に費やされ、生き延びるための絶望的な戦いが続く。
もしそうだったとして、今と同じように誰かに会いたいと願っただろうか。涙を流すほどに願っただろうか。
おそらくは、願ってはいただろう。
シンジに会いたい。そばにいたい、と。
しかし、ここまでの思いはしなかったに違いない。
この二週間。アスカやミサト、シンジから貰った多くのもの。それが、今の自分の涙を呼び起こしているのだ。
・・・・生き延びるための戦いから、自分は逃げ出したのかもしれない。可能性はゼロであると断言されたからとはいえ、この一月を費やせばあるいは、ということも考えられる。しかし、レイはそれを拒み、今の生活を選んだ。
なぜあのとき、それを選ばなかったのか。そう言う人がいるかもしれない。生き延びる試みが成功すれば、一月といわずその先の未来も見ることができるのに。
しかし。
レイはこの先の見えない未来への希望より、現実の残る時間を有意義に過ごすことを選んだ。生き残るための試みが失敗に終わったとき、そこには何も残らないから。同時に、わずかに芽生えた感情をここまで成長させたのはこの二週間の生活なのだから。その生活がなかったら、ここまでの悲しみを持たなかっただろうから。
あるいは、そんな感情を持たなかった方がよかったのだろうか。
喜びを知ってしまったから、こんなにも悲しむ。だとしたら、知らないままの方がよかったのだろうか。
レイは自らにそう問いかけ、しかしすぐに「否」と答える。
だって。
喜びを知らないままの死は、悲しみも少ないが自らが残すものも多くない。
自分の事を覚えていてほしい。
自分のいたことを、大事な人に覚えていてほしい。
そう願ったからこそ、今の生活を選び、そしてその思いは確実に伝わっている。
かつてアスカはレイのことを毛嫌いしていた。
「優等生」「ファースト」と呼び、決して自分のことを名前では呼んでくれなかった。
しかし、今は違う。まるで自分のことのように心配してくれ、自らを苦しめる事となっても、それでもレイのために心を砕いてくれる。
これほどの仲間を、今までの自分は得ることができただろうか?
そう。その一つだけでも、自分が今の生活を選んだ価値はあった。
だから。
「悲しいけれども、後悔はしていない」
レイは自らにささやくようにそう言うと、カーテンの向こうに広がる景色に視線を走らせた。
「まだ・・・・まだ大丈夫。わたしには、時間が残っている」
ジオフロントの大地に差し込む柔らかな光。
やがて日暮れが訪れるとしても、今はまだ、そのときではない。
だから。
「そう。わずかな時間でも生きるが・・・・わたしの、残されたすべきこと」
レイは、ゆっくりと涙を拭った。
目の高さに持ってきた指先には、一粒の滴。
どうしようかと考え、それを口に含んだ。
「しょっぱい・・・・」
涙は、塩の味がした。
当たり前のことだけど、今まで気づきすらしなかったこと。
それを成長・・・・というのだろうか。
レイはそのまま瞳を閉じ、やがて規則正しい寝息が室内に聞こえだした。
太陽は、中天にかかろうとしている。
午後四時過ぎ。
外はまだ明るいが、太陽の傾きにともなってジオフロントもうっすらと暗くなり始める時間帯。
目が覚めたとき、視線を本に落としているシンジの姿がそこにあった。
まず、それに驚いた。
レイの気配に気づいたのか、シンジが視線をあげる。
「おはよう」
にこり、と微笑み。
この時間におはよう、でもないのだが、レイはそんなことを気にしている心の余裕はなかった。
シンジがそこにいる。笑っている。レイはその笑顔にじっと魅入ってしまい、次の瞬間、そのことに気づいてわずかに頬を赤らめる。シンジは、それに気づいた様子はない。
「よく眠っていたから、悪いと思ったけどしばらくいさせてもらったよ」
「あ・・・・う、うん・・・・」
もそもそと毛布から起きだし、レイは上半身を起こす。枕を背にして楽な姿勢をとる様子を見ながら、シンジは栞を本に挟み、それを鞄の中にしまう。
ぱたん、という乾いた音が室内に響き、暫し沈黙が満ちた。
「・・・・まぶしくない? カーテン閉める?」
「ううん、大丈夫」
「食事、食べる?」
傍らには、いつ置かれたのか、トレーに乗った病院食。しかし、レイはゆっくりと首を横に振る。
「ううん・・・・今は、いい」
「そうだね、食欲は、ないよね」
そう言って、シンジはさらに言葉を継いだ。
「じゃ、水は飲む?」
そう言われて、レイは初めて喉の渇きを覚えている自分に気づいた。
寝ている間に汗をかいたのだろう。体のけだるさはもうない。しかし代わりに、体が流した汗を補う水分を欲している。
今度は、迷うことなく首を縦に振る。
「うん」、と。
「わかった・・・ちょっと、ごめんね」
一言そう言って、シンジはレイの前に手を伸ばした。
「え?」
突然のシンジの行動に、レイは暫しとまどった。シンジの手はレイの体ごしに、ベッドの反対側に置かれている水差しを取る。
こぽこぽと、冷たく澄んだ液体が空のコップに満たされていく。その様子を見ながら、しかしレイは心そこにあらずといった感じだった。
シンジが水差しを取る瞬間、ふれあうほど近くを通ったその腕から、シンジの肌の暖かさをレイは感じたような気がした。
自分のためにいろいろ気を使ってくれている。
心配してくれている。
うれしい。
なのに。
・・・・どうして、こんなにしゃべれないのだろう。
レイは、シンジの言葉に満足な返事がでてこない自分に驚いていた。
碇君がそばにいるのに。
胸が高鳴る。
心臓だけが、鼓動を早めている。
しかし、それに反して言葉はでない。
形状しがたい思いが胸にあふれ、レイは何も言うことができなかった。
「・・・・波・・・・綾波?」
「あ、え?」
気づけば、コップを差し出したまま怪訝そうな表情を浮かべているシンジがそこにいる。
「どうかした? まだ、気分が悪い?」
「あ、ううん、その、ちょっと考え事をしてたから・・・・」
あわててコップを受け取ると、ガラスと水の冷たさが肌を通して感じられた。同時に、激しい喉の渇きも再びよみがえってくる。
ゆっくりと一口。乾いた唇を潤し、喉を流れ落ちるその冷たさが心地いい。体の隅々に染みわたるような感触に、最初はゆっくりと、最後はむさぼるように喉をならす。気がつけばコップに満たされた水はほとんど空になっていた。
「ふぅ・・・・」
満足感。そのため息を聞いて、シンジはふふっと小さな笑いを漏らした。
「あ、いや、ただの水なのに、おいしそうにのむな、って思って」
笑い声にびくり、と反応したレイに、あわててシンジはそう言葉を付け加える。
「別におかしいな、とかいうんじゃないんだけど、ただなんとなく、そう思えて」
「・・・・」
「あ、いや、気分を悪くしたら、謝る」
「・・・・ううん、そうじゃないの」
レイはシンジのその言葉に、あわてて頭を振って否定した。
「ただ、わたしがそう言う反応をしているんだ、って碇君にわかるのが・・・不思議」
「・・・不思議かなぁ? あんなにわかりやすい仕草なのに」
そう言って、シンジは笑う。
レイはそのシンジの様子をまた、うれしいと思った。
以前の自分ならば、そんな仕草などみじんも見せなかった。
水分補給、あるいは薬を飲むための水。おいしいと思ったこともない。
しかし今は、自分がそれを飲む仕草を見てシンジは「おいしそうに」と言ってくれた。そしてそのレイの仕草が普通であるかのような返答。
今までのような無機質な自分ではなく、感情を表に出した自分がいる。
それを、レイはしみじみと実感していた。
「あ、そろそろ面会時間が終わりだっけ」
いろいろと会話をしていたシンジが、ふとそう言って時計を見た。
時計の針は午後五時をすぎている。すでに陽は暮れかけ、採光板を通して室内に射し込む陽は黄色から赤へと変わりつつある。
「明日にはここを出られるって医者もいってるから、今日はゆっくり休んでね」
「・・・・うん」
シンジの言葉にうなずきを返しつつ、レイは「もう、帰るの?」とシンジに言いたかった。
面会時間の制限があるから仕方がない。でも、本心はやはり、側にいてほしかった。もっと、いろいろと話をしていたかった。
「それじゃ、また明日・・・」
そう言いつつシンジは立ち上がったが、手に持った鞄に視線を落として、あっと小さく声を上げた。
「そうそう、すっかり忘れてた」
そう言って、鞄の口を開け、小さな紙袋を取り出す。
「何か綾波でも食べられそうなものっていって、作ってきたんだっけ」
そう言って、紙袋から箱を取り出す。
「これは医者にも許可もらってるから」
シンジの手からレイはそれを受け取った。
「・・・・あけても、いい?」
シンジのうなずきを待って、レイは箱を開ける。
瞬間、何ともいえない甘い香りがあたりに漂った。
夕日を切り取ったような黄金色のそれの匂いが、レイの鼻孔をくすぐる。
「カステラくらいなら、食べられるよね」
照れた様子で頭をかきながら、シンジはそう言ってはにかんだ。
「うまくつくれたかどうかはわからないけど・・・」
「あ・・・・ありがとう・・・・」
レイはしばし小箱の中身に視線を落としていたが、ふっと顔を上げて、シンジに恥ずかしそうに言った。
そして同時に。
ぐううう。
一日何も食べていなかったレイの体も、同じくシンジに礼を言ったようだ。
「!」
一瞬の後、状況を理解してレイは顔から火が出たかのように真っ赤になる。
シンジはきょとんとした表情を浮かべた後、肩をふるわせ、くつくつと出てくる笑いをかみ殺そうと必死になる。
しばし、二人のそんな状況が続いた。
「ご、ご、ごめん、わ、わらうつもりはなかったんだけど、その、つい・・・・」
笑い涙を拭いながらシンジはそう弁解する。「一日何も食べてないんだから、仕方ないよ」、と言ったが、レイはまだ顔を真っ赤にしたままだった。
「いや、恥ずかしがることはないって。うん」
肩で切っていた息をようやく落ち着かせ、シンジはそう言う。
そして冷え切った昼食のトレイに目を走らせ、
「どうせ昼御飯はもう食べないでしょ? お腹がすいてるんだったら、夜ご飯の前にちょっとカステラくらい食べてもいいんじゃない?」
「・・・・いいの? 食べても」
「いいのもなにも、綾波のために持ってきたんだからさ。それは」
「うん・・・・」
暫しためらった後、
「碇君・・・・その・・・・」
レイはシンジに声をかけた。
「ここで一緒に・・・食べてくれる?」
「え、僕?」
シンジはレイのその言葉に一瞬驚きの表情を浮かべる。
「綾波のために作ってきたやつだけど・・・・」
「いいの、わたしは、碇君と食べたいから」
さらりと出てきたその言葉。目覚めたときの胸の鼓動は再びよみがえってきたが、しかし言葉を失うことはなかった。
「・・・・だめ?」
立ったままのシンジを、そっと下から見上げる。
そんなレイを見ながらシンジはしばし暫し考えた後、ふっと笑みを浮かべた。
「ま、時間を気にしててもしょうがない、か」
そう言って、さきほど立ち上がった椅子に再び腰を下ろす。
「箱、いい?」
そういってレイの手から小箱を受け取ると、その中から二切れ、カステラを取り出した。一つを自分の手に取り、もう一つをレイに手渡す。
「ありがとう」
レイは受け取ったカステラを両手で持つと、ゆっくりと黄金色のそれを口に運んだ。
ふわり、と。
口の端に当たる柔らかな感覚と共に、甘い味が口の中いっぱいに広がる。
カラメルの香ばしい匂いと、スポンジの甘い匂い。どちらも互いを圧倒することなく、しかしはっきりと感じ取ることができる。
「甘い・・・・」
レイはほおばったカステラを飲み込んだ後、ほぅ、とため息と共にそう言った。
涙のしょっぱさとは対照的なその甘さ。
「おいしい・・・・」
もう一口、さらに一口とカステラを食べていく。
シンジはレイのそんな様子を見ながら、自分のカステラをゆっくりと口に運んでいる。その口元に笑みが浮かんでいるのを、レイは視界の端に捉えていた。
沈黙。互いに何も言わず、黙々とカステラを口に運ぶ。
部屋を支配する、黄金色の夕陽。
それは、黄金色の刻。
レイは、この味を絶対に忘れることはない。そう心に思いながら、新たな一口をほおばった。
甘さの中に、太陽の味がする。
そう感じたのは、気のせいだろうか。
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