遙かなる空の向こうに
第26話:青い髪、白い肌、そして赤い・・・
ペンペンの朝は、シンジたちの朝食の時間にあわせて始まる。
目覚めてまず、ちいさなあくびをひとつ。住処となっている冷蔵庫の扉を開き、大きく伸び。夏の熱気が体を押し包み、瞬きをふたつ、みっつ。クーラーのタイマーは働いていないようだ。ミサトが、またつけるのを忘れて寝てしまったらしい。
台所にはミサトが飲んでいた缶ビールが乱立。そして散乱するつまみの群。
困ったものだ、とあきれたように周囲を見回す。当のミサトはまだ起きていないようだ。昨日もまた、さんざん飲んだのだろう。
とてとてと冷蔵庫から降り、台所を出て、玄関の扉を開ける。そのまま隣の扉へ進み、ペンペンのために取り付けられているボタンを押す。ぷしゅっという音とともに扉が開く。
廊下の向こう、こちらの部屋の台所からは、まな板とふれあう包丁の音、くつくつというみそ汁の匂い。そして忙しく動き回る足音が聞こえる。
廊下を進み、台所につく。少年が、流しの前に立って作業をしている。
「くえっ」
やってきたペンペンに気づき、シンジが包丁を動かす手を止めた。
「おはよう、ペンペン」
その挨拶に応じると、そのままシンジのの足下に近寄る。下から見上げ、じっとその視線はシンジの顔に固定されたまま。
「わかってるよ、朝御飯だよね?」
いつものことと、シンジはそう答える。
ちいさなうなずき。よくわかってるじゃないかと、ペンペンの顔がほころぶ。
「昨日はおいしそうなアジが売ってたから、買っといたよ」
さらにその顔はほころぶ。こちらの主は、ミサトと違ってしっかりしているようだ、と。
「今準備するから、ちょっと待ってね」
そういって包丁を置き、水道の水で手を洗う。そのまま冷蔵庫に近づき、扉をあけかけて・・・。
「そうだ、準備しているうちに、アスカと綾波を起こしてきてよ」
「く、くえぇ・・・・ぇ」
とたんにペンペンの顔は渋面に変わる。
今まで何度か二人を起こしにいったことがある。レイは素直に目覚めるのだが、アスカはお世辞にも寝起きがいいとはいえない。け飛ばされかけたことも何度かあるほどだ。
「まあ、そういやそうな顔しないでさ」
ペンペンの言いたげなことがわかったのか、シンジは苦笑いを浮かべながら一言。
「アスカだってそうそうペンペンをけっ飛ばしはしないよ」
だと、いいんだけどね。
そうわずかな危惧の色を見せたのだが、
「一匹、魚多くしておくからさ」
・・・・結局、ペンペンはその誘惑に負けた。
きびすを返すと、台所をでて二人の部屋へと向けて歩き出す。
「戻ってくる頃には、準備しとくからさ」
シンジのそのせりふを背後に聞きながら、ペンペンは廊下へと出た。
それは、いつもの朝と何ら変わるところはなかった。
「もう、わかったわよ。わかったから、さっさとあっち行きなさいよ!」
アスカは相変わらず不機嫌だった。低血圧なのか、それとも昨日も夜更かししたからなのだろうか。おそらくその両方だろう。ペンペンはけり飛ばされなかったことをわずかに喜びながら、続いてレイの部屋の前に立った。
こんこん。
人間が叩くのと比べると、あまりに小さなノック。
返事はない。
「・・・・くえ?」
ペンペンはわずかに首を傾げた。
寝起きの悪いアスカと違って、いつもならば今のノックだけでレイは目覚めて、自分が起きたことを知らせてくれるはずだった。
なぜそこまで小さな音で目覚めるのか。
おそらくは理由があるのだろう。しかしペンペンはそれを知らない。習慣なのだろう、と勝手に納得している。
ならばなぜ、今日に限って起きてこないのだろう。
とんとん。
もう一度、扉をたたいた。
今度は先ほどよりも強く・・・・ペンペンにとってはかなりの力を込めて。
しかし、それでも応答はない。
代わりに、強く叩いた衝撃で扉がわずかに動いた。薄暗い室内がわずかにのぞく。電気はついていない。ただ、閉められたカーテンを通して朝日が射し込んでいるだけ。
「くえっ?」
中のレイの気配。それは眠っているものではなかった。
隙間から滑り込むようにペンペンは室内にはいる。
そして、それに気づいた。
レイは、ベッドの上にいる。
「う・・・・」
かみ殺すようなうめき。
時折混じる激しい咳。
そのたびにふるえる体。
・・・・そして、室内に漂う血の匂い。
「くえっ、くえええっ!!」
叫び声をあげ、ペンペンはシンジとアスカに急を報せるべく、扉をけ飛ばして出ていった。
「うぐ・・・・」
レイは、そのペンペンの声に気づいてわずかに顔を上げる。しかし断続的に襲う頭痛に再びうずくまり、苦しそうに咳込む。
口元を覆う雪のように白い右手。
その隙間から赤い一筋の糸がつっと流れ、シーツに染みを作った。
ペンペンの様子がおかしいことに気づいたのは、まずアスカだった。
自分が気持ちよく眠っているところに、いきなり体の上に飛び乗られるという起こされかたをしたのだ。ペンペンを追い出して、ぶちぶちと文句を言いながらベッドから降り、制服に袖を通していた。髪型の乱れが無いかどうかを確認しているときに、廊下を騒ぎながら走り抜けるペンペンの声が聞こえたのだ。
「まったく、なによいったい・・・・」
ひょいと扉から顔を出す。不機嫌な顔で左右を見回すと、台所に向かって大声で叫んでいるペンペンと視線があった。
「アンタ、アタシの体に飛び乗るだけじゃ飽き足らなくて、今度は騒いで何しようって言うの?」
とびきり不機嫌な顔でそう文句を言ってやる。
しかし黙り込むかと思ったペンペンは、相変わらず甲高い鳴き声をあげて廊下を走り回っている。
「ああもう、いったいなんなのよ! アンタ、それ以上騒いだら三枚に下ろして朝御飯のおかずにするわよ!」
冗談とはいえかなり過激な台詞を吐いたアスカだったが、ペンペンの騒いでいる場所がレイの部屋の前であることに気づいてわずかに眉をひそめた。
「くぇっくぇぇぇぇっ!」
「・・・・まさか・・・・?」
「どうしたの? ペンペンがうるさいけど?」
シンジも何かおかしいと思ったのか、台所から顔を出す。アスカはそれを無視するようにレイの部屋の扉を開け、中をのぞき込んだ。
そして一瞬の後。
「シンジ! 電話! 救急車、早く!」
日本語の文法をこのときばかりはアスカは忘れてしまったかのように、断片的な単語をシンジの耳に叩きつけた。
「え? え?」
突然の事態に、シンジはなにをしていいかわからない。
「早く、レイが血を吐いて・・・!」
「!」
アスカのその台詞に、シンジははじかれたようにリビングに駆け込み、受話器に飛びついた。そのまま救急車を呼び出す。
「それが終わったらとなりからミサトをたたき起こしてきて!」
アスカはシンジにそういい残すと自分の部屋に飛び込む。登校準備をしていた鞄をひっくり返し、携帯電話を取り出すとそのまま電話番号をプッシュした。
響くコール音がもどかしい。
やがて数回の後、彼女の目指すべき相手が受話器に出た。
「アスカ、この回線は緊急連絡用よ! よほどのことがないと・・・・!」
「わかってるからかけてるんじゃないの! 緊急事態よ! レイが倒れたの!」
受話器の向こうで相手が息をのむのがわかった。
「救急車は呼んだ?」
「ええ、今シンジが」
「じゃあ、特別病棟に収容できるようこっちで手を回すわ。ミサトは?」
「今たたき起こしに行ってる」
耳を澄ますと、隣でどたんばたんという物音が聞こえる。おおかた寝ぼけたミサトが話を聞いて、ベッドから転げ落ちでもしたのだろう。
「じゃあ、レイについて救急車に乗ってちょうだい。あとは病院で」
「わかったわ!」
電話の相手・・・リツコの返事を聞かずに回線を切ると、そのままとって返してレイの部屋に飛び込む。
相変わらず、レイは激しくせき込み、時折小さな血の塊を吐き出す。口元を赤く汚し、手を赤く汚し・・・・彼女は時折、命の塊を吐き出す。アスカにはそれは、恐怖以外の何物でもなかった。
「レイ、大丈夫!?」
「ア・・・・スカ・・・・」
「しゃべらないでいいわ、今シンジが救急車を呼んでる、大丈夫だから、大丈夫だから、ゆっくりと呼吸して・・・・」
それが気休めでしかないことは、アスカ自身もわかっている。いくら言葉を紡いでも、レイの病がそれで治るわけではない。そして今の医術を以てしても、それは同じ。
しかしそれでも、アスカはレイに声をかけ続けた。大丈夫、大丈夫だから、と。
そうでも言わなければ、涙がこぼれそうだから。
ついに、始まったのか。
アスカの脳裏を、悪夢のような現実が横切った。
わたしはもう、何時倒れてもおかしくない。
昨日、レイはアスカにそう言った。
その記憶が新しい今朝、この出来事。
レイ・・・・アンタはまだ、あっちに行っちゃいけないのよ・・・・。
答えを見つけるまではだめ。絶対に、行っちゃいけないの。昨日言ったじゃない。お互い、がんばりましょうって・・・!
「レイ・・・・!」
ぎゅっと、彼女の両肩を握りしめる。
分けられるものなら、自分の寿命をわずかでも分け与えたい。
そう思わせるくらい、アスカはレイの肩をぎゅっと抱きしめた。
「ア・・・・スカ・・・」
「レイ、しゃべっちゃだめだって・・・」
レイがとぎれそうな声を出しながら、アスカの方を振り向く。その顔はいつにもまして青白く、そして口元を汚す血は対照的なほど赤く、それは見ているアスカをどきりとさせるに十分なものだった。
「碇・・・・君・・・・」
「シンジは隣の部屋! 今ミサトをつれてくるわ!」
連れてきたところでどうなるわけではない。しかし、だからといって知らせないわけにはいかない。
「違・・・・碇君に・・・このこと・・・・」
あ、とアスカは小さな声を上げた。
確かに、これがレイの体に関することであることはシンジに告げるわけにいかない。
レイは、それを心配しているのだった。
「わかってる。わかってるわ。シンジのことはこっちに任せて。だから、とりあえず横になって、呼吸を整えて・・・」
弱々しい、あまりに弱々しいうなずき。レイはアスカのその言葉に安堵の表情を浮かべると、そのまま再びベッドに崩れ落ちた。
げほ、げほ、げほ。
激しい咳。ベッドに新たな血の染み。
ますます、アスカの不安は高まった。
だめよ、レイ。
まだ、アンタはここにいなくちゃいけないの。
ダメ! ダメだからね! いま行っちゃうのは!
「リツコさん、これはいったいどういうことなんですか!」
シンジは病室から出ると同時に、リツコにそうくってかかった。
「綾波に、いったい何があったって言うんです!」
「シンジ君、そう興奮しないで」
「これが落ち着いてなんかいられますか!」
朝、突然の吐血。呼んだ救急車で運ばれた先は、ネルフの特別病棟。そしてそこにはご丁寧にリツコが待っている。これで何かあると思わない方がおかしい。
「何かあるかもしれない。確かにそうかもしれないわね。でもシンジ君、逆に考えてみて。それがどんな病気であれ、普通の病院にレイを診せることができると思う?」
「あ・・・」
リツコのその言葉に、シンジは絶句した。
「確かにレイは一人の人間よ。シンジ君をはじめとしてみんなそう思っている。でも、医学の世界は時に残酷。レイの体は彼らにとっては実験材料にしかならない。だから、彼女のためにも、普通の医者には診せるべきじゃないの。そう思ったから、私はここにレイを運ばせたの」
「・・・・・・」
「シンジ君」
「はい?」
居住まいを正したリツコの言葉に、シンジははじかれたように視線をあげた。
「レイの病気が何か、知りたいの?」
「・・・・ええ」
「本当に?」
「・・・・はい」
しばしの沈黙。リツコはやれやれと首を振ると、
「わかったわ」
とそう言った。
シンジの背後で、アスカとミサトが息をのむのがわかった。
「レイは・・・・」
「リツコ!」
小さな声でアスカが注意を喚起する。しかしリツコはかまわず言葉を継ぐ。
シンジはその次の台詞に聞き入ろうとぐいと身を乗り出した。
「レイは、環境の急激な変化に伴って著しく体調を崩しているわ。今回のはそう・・・・急性の胃潰瘍、ってところかしら」
「胃・・・・潰瘍ですか?」
「そう。検査結果はそう判断してるわ」
「にしても・・・・何でいきなり・・・・」
まだ、シンジはその言葉に不審の表情を浮かべている。それに対してリツコは、今の台詞を聞いていなかったのかと眉をひそめた。
「だから言ったじゃない。レイの場合、生活環境の急激な変化に身体がまだ適応していないのよ」
「環境の・・・・?」
「そう。あの子は元々他人との接触なしに一人で暮らしてきた。それがこの間の戦いでは様々なことを経験し、そして戦いが終わって元の環境に戻ったと思ったら今度はシンジ君たちとの共同生活。これだけ周辺環境が変わったら、誰だって体調を崩すくらいするわ」
「でも・・・・それを言うなら僕やアスカだって・・・・」
「そうね。でも、あなた達は曲がりなりにも他人と接する機会も多かった。変化といっても、たかがしれている。でも、あの子はそうじゃなかった。これだけでも、違いは大きいのよ」
シンジは、リツコのその言葉を脳裏で反芻した。
環境の変化・・・・確かに、そうかもしれない。今までの綾波の生活と比べたら、ここに至るまでの生活の変化は激変、という言葉がふさわしいだろうから。
「二日も入院すれば大丈夫でしょう。まあ、この週末はゆっくりとどこかで療養でもするのがいいかしらね。ああ、あの子には、人気のない山かどこかで一日のんびりするくらいがいいかもしれない」
たまには落ち着いた環境に置くこと。それが一番だと、リツコは言った。
「そうですか・・・・わかりました。その・・・・取り乱したりして、すいませんでした」
シンジはリツコに向かってふかぶかと頭を下げた。
その表情は、リツコからは見ることができない。
「・・・・で、シンちゃんちょっち頼みがあるんだけど」
「はい?」
「レイの入院手続きとかでごちゃごちゃしちゃって、ちょっちここ離れられそうにないのよ。アスカにはレイについていてほしいから、悪いんだけどいったん家帰って、着替えとか後かたづけとか、してきてくれないかな?」
「僕がですか?」
「おねがい、ほかに頼める人いないのよ」
「でも、僕だって綾波の側に・・・・」
「まあまあ、アスカがついていてくれるから心配ないわよ。学校にも欠席の連絡を入れておかないとだめだしね」
そう言って、ミサトは顔の前で両手をあわせ、拝むように頼み込む。
「・・・・わかりました。じゃあ、一度戻って、夕方にでも・・・・」
「ホント悪いわね、感謝してるわよ」
にっこりと微笑むミサト。「相変わらずですね、その笑い」、シンジはそう応じ、アスカのほうへと向き直った。
「綾波が起きたら、僕らにまで隠し事、しないでよね、って言っておいてよ」
「え、ええ・・・・」
アスカは一瞬、どきりとした。
シンジのその台詞が、レイの体のことを言っていると思ったからだ。
思わず動揺し、返事の声がうわずる。体がわずかにびくり、と震えた。
しかし、シンジはそんなアスカの様子に気づいた風もなく、
「それじゃ、また後で」
わずかに右手をあげると、ちょうど止まっていたエレベータに乗り込んだ。
アスカには、扉が閉ざされる寸前、シンジがわずかにこちらに視線を走らせたかのように見える。しかし、その表情までを見る暇はなく、エレベータは階下に向けて降り出す。
しばしの無言。
そしてリツコが、ぽつり、と呟いた。
「シンジ君・・・・何か、気づいたのかしら」
誰もが、黙り込んだままだった。
病室の中。
空調がわずかにカーテンを揺らす。
うっすらと瞳を開いたレイは、時折差し込む木漏れ日に瞳を伏せる。
日差しを避けるために、かざした手。
太陽の光に透かした手は白く、白く透き通った肌だった。
そう、まるで人のそれではないような。
「・・・・まだ・・・・」
ちいさな、か細い声。
気怠げにレイは呟く。赤い瞳が、願うように自らの手を見つめる。
カーテンの隙間から、青い空が見えた。
今日も、空はよく晴れている。
レイは、再び呟いた。
「まだ・・・わたしを連れていかないで・・・・」
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