遙かなる空の向こうに
第25話:風吹く屋上にて
「レイ、ちょっといいかしら?」
アスカがそういってきたのは昼休み。教室がざわめく時間だった。
教室内は退屈な授業から解放され、かつ人生最大の楽しみである食事時とあって、誰もがうれしそうな顔をしている。たわいもない会話に興じる者、母親の(あるいは姉妹の)作ってくれた弁当箱を開く者、購買部に向かって教室を勢いよく駆け出す者、また教室外で食事をしようとでていく者など、人それぞれである。
「・・・・なに?」
「ちょっと、ここじゃ・・・・ね」
周りを見回しながら、彼女は声を落としてそういった。
「あっち、いいかな?」
そういいながら、左手の人差し指を天井に向ける。
「・・・・ええ」
その意図するところを理解して、レイは読んでいた本を閉じ、椅子から立ち上がった。そしてふと気づいて、
「碇くんは?」
「ああ、あいつなら、鈴原につきあって購買部よ。おおかた三バカ同士、どっかで食事でもしてるんでしょ」
そういって、手に持っている弁当箱の一つをレイの方に差し出す。
「たまには、邪魔者はおいておいて、女同士で食べましょ」
そういって、彼女はにこりと笑った。
「・・・・ええ」
立ち上がったレイに背を向け、アスカは教室の出口に向かって歩き出す。と、思い出したように、
「ヒカリ!」
窓際でたたずんでいた少女は、アスカの声にはじかれたようにこちらにかけてきた。
「悪いけど、アタシたち、ちょっとでてくるわ。さっきも言ったけど、もし三バカが帰ってきたら、悪いけどそっちでお弁当、食べてくれる?」
「うん、わかった」
「くれぐれも・・・・屋上にはつれてこないでね」
それとなくレイに目配せして、アスカはそう言う。ヒカリはその言いたいことを理解して、こくん、とうなずきを返した。
「それじゃ、いきましょうか」
「ええ」
アスカに続いて、レイは教室を出ていく。その間際にヒカリに視線を走らせると、ヒカリはすべてを納得しているように小さくほほえむ。
大丈夫よ。ヒカリの瞳はそう語っているように、レイには思えた。
彼女はそれに対して感謝の意を込めて笑みを返すと、少し先に行ってしまったアスカの後を追っていった。
教室の喧噪は、相変わらずだった。
扉を開けると、まぶしいばかりの日差しが二人の目を灼いた。
この暑さを嫌ったのだろうか、屋上には幸い誰もいないようだった。
日本が四季という季節を失って久しいが、変わって得たのがこの夏の爽快な空気である。吹き抜ける風は日陰であれば涼しさを与え、太陽の下であれば噴き出す汗をたちまちのうちに乾かしてくれる。
ほとんど汗をかかないレイにはそれほど気にするものでもないが、それでもこの肌をなでる風は心地よいものだった。
「みんな日陰に好んで行くけど、やっぱり太陽の下で食べる食事っていいわよね」
そう言いつつ、屋上の適度な場所に場所をとり、さっさと座り込む。レイはその横の並ぶように座ると、手にしている弁当箱の包みをそっとほどいた。
アスカは弁当のふたを開けると、箸を取り出しておかずに手をつける。
今日のおかずはアスパラガスや人参のゆで野菜、そしてアスカはミートボール、レイはそこにひじきなどの煮物やこんにゃくの醤油煮が入っている。
「シンジはすぐに食事を作りたがるけど、アタシたちだって女の子なんだから、これくらいできるようになってないと」
おかずを口に運び、自らの出来に満足げな笑みを浮かべながら、アスカはレイに無勝手そう話しかける。
「ええ。でも、まだまだ練習しないと」
「大丈夫よ、こつをつかんじゃえば、上達なんてすぐだって・・・・あ、ちょっと食べさせてね」
レイのおかずをちょっと横取りして、アスカはそれを口に放り込む。
「んぐ・・・・レイも、そうはいってもだいぶ上手になってきてるじゃない」
「そう?」
アスカのその言葉に、レイはちょっとうれしそうな表情を浮かべる。毎日の努力の成果がでていることを認められて、満足げだった。
「うん、だいじょぶだいじょぶ。これだったらシンジの料理と並べたって問題なしよ!」
「アスカのも・・・・ちょっとちょうだいね」
そう言って、付け合わせの野菜に手を出すレイ。
「どう? いい具合にできてる?」
「ええ。アスカのも、おいしくできてるわ」
レイの言葉に、アスカは満面の笑みを浮かべて応じた。
「まだまだ野菜の湯で加減くらいしかできないけどね そのうちにはレイみたいに、こったものを・・・・」
アスカの作る料理は、どちらかというと素材をゆでたり焼いたりと言った簡単な調理をする系統が多い。対してレイの場合は、そこにさらにいくつかの加工を施すもので、ある意味料理の上達という面ではレイの方が著しかった。
「レイには負けてられないものね。アタシもしっかり勉強しないと」
ミートボールをほおばりながら、アスカはそう言って苦笑する。
「そう、負けてられないものね」
「負けてなんて・・・・そんなことない」
レイはそう言って、口元にはこぶ箸の手を休めた。
「昨日の夕食だって、すごくおいしかったし・・・・」
そこまで言って、はたと口調が止まった。
昨日の夕食。その席に、アスカはいなかった。
作っておいてあった夕食。そして空白の席。その理由を思い出して、レイは口をつぐんでしまう。
アスカもレイが黙り込んでしまった理由を悟り、同じく箸を動かす手を止めた。
そしてしばらくして。
「・・・・・昨日、どうだったの?」
やおら、そう尋ねた。
遠くから眺めていた観覧車。そして背を向けて走り去った夕刻。
聞くのが怖いと言えばやはり怖い。シンジがレイの思いをもし受け入れていたら。そう思うと、やはり彼女にとっても聞くのにはかなりの勇気を要した。
でも、それは自分がそうしむけたこと。そして、それを聞く義務が、自分にはある。
だから、こうしてレイと二人の時間を作った。
話を切り出すきっかけがなくて、だらだらとお弁当の話なんかをしていたけど、本当はすぐにでも聞きたかった。
それ故、こんなストレートな尋ね方になってしまった。
もうちょっと、やんわりと聞いた方がよかったかしら。
アスカは言ってしまってから、そんなことを考えている。
「・・・・・・」
対してレイは、その問いにしばし無言のままだった。
どう答えればいいのだろう。
昨日のシンジの言葉の一つ一つが、脳裏に思い浮かんでくる。
それをどう、彼女に伝えればいいのだろう。
まだ、レイの思いには答えられない。
それは否定でもなく、しかし肯定でもない。
ある意味、浮かんだままの風船のよう。落ちたわけではないが、しかし誰かの手に持たれているわけでもない。
考え、考えて。
風の天使が数十回近く頬をなでた後、レイは口を開いた。
「・・・・碇君は、まだだめだ、って言っていた」
「・・・・」
「わたしの言葉はうれしいけれど、自分はまだそれに応えることはできない、って」
まだ、人を好きになると言うことがわからない。
まだ、誰かが自分には必要だという気持ちが分からない。
シンジはそう言っていた。
「だから・・・・まだだめだ、って」
「・・・・そう・・・・」
アスカは、レイのその言葉を半ば上の空で聞いていた。
予想されていた通りの答え。
そしてレイにとってはある意味厳しいそのシンジの返答。自分にもまだ望みがあることを喜ぶ気持ちと同時に、しかしレイの気持ちが実らなかったことへの失望。
アスカは自分でも、内心でどう思っているのかわからなかった。
こういうのを、ドイツでは魔女の大釜っていうのよね。って、アタシなにを考えてるんだろ。そんなことどうでもいいのに。
「アスカ・・・・」
「え、え?」
上の空の彼女の様子に、レイが不審そうに声をかけてくる。あわてて返事をした拍子に、膝の上に置いていた箸が転がり落ちてしまった。
「・・・・はい」
かがもうとしたアスカより先に、レイがそれを拾って返す。
「あ、ありがと」
「碇君の反応、びっくりした? それとも・・・・予想してた?」
自分に言われたことと、同じ内容だから。
レイのその言葉を聞いて、アスカは心臓が止まりそうなほどびっくりした。
「碇君に聞いたの」
アスカにも、気持ちをうち明けられた。
シンジはそう語っていた。
「だから、こうやってわたしと話がしたかったんでしょ?」
「・・・・ええ」
アスカは、かろうじてそう返事を返した。
どんな顔をしてレイを見ればいいのか、わからなかった。
こういうことを予想していなかったわけではない。しかし、実際にレイから告げられて、それに対してどう返事をすればいいのか、彼女にはわからなかった。
先を越して思いを告げておいて、その結果を知っていた。にもかかわらず、レイにも同じ返事を返すことがわかっていながら、彼女に自分の気持ちを伝えるようにしむけた。
「ごめん・・・・アタシって、卑怯よね・・・・」
「いいの。アスカが謝ることなんて、なにもない」
言葉に詰まったアスカを助けるように、レイはそう言って小さくほほえんだ。
「むしろ、感謝している」
背中を押してくれたこと。自分の好きな相手に告白しようというのに、それでも助けてくれたこと。
「わたしはわたしの気持ちを伝えることができた。そして、碇君の今の言葉を聞くことができた。今は、それだけでも満足だもの」
アスカがきっかけを作ってくれなければ、それすらできなかった弱い自分。
レイはそれ故に、アスカに対して怒る、などという気持ちを持つことはなかった。
「まえにアスカ、こういったの、覚えてる? 「恋愛に関しては譲るつもりはない」って。でも、それでもアスカはわたしのためにいろいろと無理してくれている。わたしのせいでつらい思いをいっぱいして、自分の気持ちを思い切り碇君にぶつけることができなくて」
ここしばらくの元気のなさそうなアスカの姿。それを思い出して、レイはすまなそうな表情を浮かべた。
「本当に卑怯なのは、わたしなのかもしれない・・・・」
アスカの好意に甘えてしまうこと。
本当はそれは、罪なのかもしれない。
彼女の好意を利用して、自分の望みを叶えようとするその行い。
「謝らなくちゃいけないのは、わたしのほう」
「レイ・・・・」
アスカは、レイの言葉に返す言葉が見つからなかった。
同時に、自分の考えを恥ずかしいと思った。
レイが怒っているだろうと言うその考え方は、結局は自分の物差しでしかなかった。しかし同時に、自分がその立場に立ったら怒るであろうと思ったことを、自分はレイに対してしていたのだ。
それは、もしかしたら恋をしたことのないレイを助けてやっているんだ、という驕慢さがあったからかもしれない。
しかし考えてみれば、本当に恋した経験が今までなかったのは自分も同じではないか。人を拒み、うわべだけのつきあいに終始してきた自分とレイの、どこが違うというのだろうか。
「・・・・やっぱり、アタシは卑怯だ。謝らなきゃいけないのは、アタシよ」
「アスカ・・・・」
「自己満足かもしれないけど、やっぱりアタシはレイ、あんたにごめんなさい、っていわないと気が済まないの」
「・・・・ありがとう」
「え?」
レイの口をついてでてきたその言葉に、アスカはびっくりしたように視線を向けた。そこには、レイの笑顔があった。
「アスカはわたしのことを真剣に考えてくれている。だから、そんなふうに謝ろうとしている。わたしは、それがうれしいの」
自分のことを大事に思っていてくれる人。それほどかけがえのない者はないだろう。
そう思ったら、自然とその言葉が口をついてでていた。
「ありがとう・・・・そう、言わせて」
「レイ・・・・」
目の前の少女の笑顔が、ゆがんで見えた。うつむいたアスカの頬を、一筋、涙が伝わった。
「ありがと・・・・レイ・・・・」
しばしの間、少女二人は無言のまま向かい合っていた。
今までのわだかまりが、夏の日差しの下の氷のように溶けていった。
「この間の土曜日、検診を受けたの」
レイがそう切り出したのは、お弁当が完全に空になってしまったときだった。
弁当箱を片づけていたアスカの手が、ふっと止まる。
「・・・・どうだって?」
「赤木博士の話では、三〇日っていう時間ももう危ないらしいの」
「そ・・・・!」
「わたしが人間らしくなって行くほど、残された時間は少なくなっていく。もうMAGIでも、わたしの寿命を計算することはできない、って」
寂しげな笑み。レイのそれは、ある意味すべてを悟った者だけが浮かべることのできるものだった。アスカは、そんな笑みをみたいとは思わなかった。そんな笑みなどいらないから、ずっと一緒にいたかった。
「でも・・・・それは無理なのよね・・・・」
「ええ。たぶん・・・・この二週間がわたしの最後の自由だと思う・・・・」
自分の体だから。何となくの雰囲気で、それがわかる。
「レイ・・・・」
「いいの。だからこそ、わたしは残された時間を精一杯生きるの」
後悔なんて、後からすればいい。少なくとも死ぬまでは、後ろを振り向いている余裕なんかないから。
「そう言う生き方を、わたしは教わった。みんなから、そして、アスカや碇君から・・・・」
だから、お願いだから、笑ってわたしをみていてほしいの。
レイはそう言って、アスカの手を取った。
「わたしは、笑っているアスカが好きだから」
笑っているアスカから、いろんなものを貰ったから。
「レイ・・・・」
アスカは、自分の貧弱な語彙が恨めしかった。
こういうときはもっと気の利いたことを言わなきゃいけないのに。
なのに、どうしてこうただ名前を呼ぶことしかできないのかしら。
ああ、なんて言えばいいの。なんて言えば、いいの?
結局アスカはなにも言わなかった。
代わりに、レイの体をこれでもか、というほどぎゅっと抱きしめる。
「アスカ・・・・」
レイは突然のことにびっくりしたが、アスカの手に自分の体を預けたまま、彼女の肌のぬくもりを感じていた。
「レイ・・・・いろいろ考えたけど、アタシにはこう言うしかできないの」
がんばってね。
「白々しいかもしれないけど・・・・」
「ううん、いいの、いいの・・・・」
レイは、アスカの気持ちが痛いほど分かった。
だから、なにも言い返さず、自分の手をアスカの背中に回した。
「ありがとう・・・・・アスカ・・・・」
感謝の言葉。初めてではないけど、この言葉を作った人はすばらしいと、レイは思う。
だって、こんなにもすばらしい使い方ができるんだもの。
キーン コーン カーン コーン
昼休みの終了を告げるチャイムが、鳴り響いた。
「そろそろ、戻らないと」
「そうね」
向かい合ったアスカとレイ。どちらともなく、手を出して握手をする。
「お互い、ほんとに。がんばりましょ」
「ええ・・・・アスカも、わたしも」
「そう、がんばって、がんばって・・・・二人に残された時間を、後悔しないように」
レイにとっては命の炎のともっている時間、アスカにとってはかけがえのない親友と一緒にいることのできる時間を。
「じゃ、行きましょ!」
アスカはそういって、レイの手を引っ張って屋上の扉へと向かって駆け出していく。
重い扉を二人で開くと、そのままロケットのように扉の向こうへと消えていく。
チャイムの最後の音に、がしゃん、という重々しい扉の閉まる音がかさなった。
そしてしばしの後・・・・。
風にのって、うめくようなつぶやきが聞こえてきた。
「そんな・・・・馬鹿な・・・・」
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