遙かなる空の向こうに

第22話:思いめぐらす夜



「ところでシンちゃん、明日の予定は〜?」
 ビール片手にミサトがそう尋ねたのは、夕食の席でのことだった。
「明日・・・・ですか?」
 ミサトの唐突な質問に、キャベツのお浸しを口に放り込みながらシンジはしばし考えている。
 その隙を狙ってアスカがシンジの皿から肉団子をかっさらっていく様子を、ミサトはあらあら、という表情で見つめている。シンジはそれには気づかなかったらしく、口の中身を飲み込んでから、
「うーん。特にないんですけど、とりあえず洗濯と掃除をして、それから、ゆっくり過ごそうかと思っていますけど」
 そう答えた。
「せっかくの日曜日なのに、家でごろごろ過ごすつもりなの?」
「せっかくの日曜だから、たまっている洗濯物なんかを片づけなきゃいけないんですよ。それに、ごろごろすごすわけじゃないし」
 まじめな表情で答えるシンジに、ミサトはあちゃー、とばかりに片手で顔を覆った。
「健全な中学生が、たまの休みに掃除洗濯なんかしないわよ。有り余る体力を放出するために遊ぶ! これが世間の常識じゃな〜い」
「あいにく、僕の健全な中学生としての生活は阻害されているもので」
「それは、どういう意味かなシンちゃん?」
「あれ、何か意味深な言葉に聞こえましたか?」
 すました顔でみそ汁をひとすすり。そしてシンジは肉団子に取りかかろうとして、数が一つ足りないことに気づいた。
「あ・・・・」
 しかし、今更どうなるわけでもなく、恨めしそうに犯人をみつめて、しょうがなく残りの物に手をつけるしかなかった。そんなシンジを後目に、
「まったく、日本中で一番年寄りじみた中学生よね。そう思わない? 二人は?」
「え?」
「んぐ?」
 突如ミサトから話をふられたレイとアスカは、その言葉にどう答えていいのかとっさには分からなかった。
 手もとの箸に視線を落としたまま、言葉を選ぼうとしているレイ。口一杯にほおばった肉団子と格闘しながら目を白黒させているアスカ。
「あっちゃ〜」
 そんな様子を見て、ミサトは再び顔を覆った。
 どっちもどっちね。まったく。
「あー、つまりね」
 こほん、と一つ咳払いをしてから、ミサトは決定的な一言を二人の前に投げ込んだ。
「中学生の男の子がここに一人、日曜日に何の予定もなく家でぐーたらしているってことを、私は言いたかったんだけどね」
 見えない爆弾が一つ、そこで破裂した。二人の表情の変化は、後にミサトが、「いやーあれはおもしろかったわ」と言うほど劇的な物だった。
 明日は日曜日。シンジの予定はない。一緒に出かけるのにいい機会だわ。
 明日は日曜日。碇くんの予定はない。一緒に、どこかに行けるかも・・・。
 間違いなく全く同じことを考え、さてどう切り出そうかと考えている二人。それをミサトはおもしろそうに見つめており、一方で当の本人であるシンジは状況がつかめず、きょとんとした表情をうかべている。その箸が所在なげに動いているのは、先ほどアスカに取られた肉団子を取り返そうかどうかを考えているからだろうか。
 そして、腫れ物にさわるかのような覚悟でシンジが肉団子にそっと箸をのばそうとしたとき。
「碇くん、明日・・・暇?」
 レイが、まずそう口火を切った。
 たまらずミサトは、ビールを口から吹き出した。
「うわっ! み、ミサトさん、何するんですか!」
「ゲホゲホッ! ご、ごめんごめん。ちょっち思い出し笑いが・・・」
 せき込みながらミサトはそうシンジに弁解する。
 今、私が暇にしているって言ったばかりなのに、その聞き方はないんじゃないの。
 内心でミサトはあきれにも似た感情を抱いたが、レイはそんなことには気づかず、さらに言葉を続ける。
「碇くん・・・明日、暇なの?」
「あ、いや、だから、洗濯・・・・」
 じっとレイに見つめられて、シンジはどこか居心地の悪さを味わっていた。いや、居心地の悪さとは言わないだろう。なんというか、こう身体がむずがゆくなるような思い。レイの真紅の瞳に見つめられると、何となく恥ずかしいような、気持ちいいような、そんな思いだった。
「忙しいの?」
「い、いや、忙しいって訳じゃないけど、その、掃除・・・とか・・・・洗濯でも・・・・しようかな、と・・・」
「・・・・そう・・・・」
「あ、いや、別に綾波と出かけるのがいやって訳じゃないんだけど・・・」
「・・・・そう・・・・」
 ミサトさんは暇だって言った。でも、碇くんは用事があるって言っている。
 どこかに出かけたいけど、碇くんの用事を邪魔するのは悪いかもしれない。
「綾波・・・?」
「・・・・・」
 唐突に黙り込んでしまったレイに、シンジは不審そうに声をかける。そしてミサトは、やっぱり、と内心でつぶやきながら新たなビールの缶を開けた。
 レイのことだから、シンジが何かするつもりだっていったら、それをあえて邪魔してまでどこかに連れ出そうとはしないだろう。だからこそ、最初に私が「シンちゃんは暇だ」っていって、シンちゃんに有無を言わせず「どこかに行こう」って切り出せる態勢を作ったっていうのに。
 ま、そう言うところがレイらしいといえばレイらしいんだけどね。
 喉を流れ落ちる冷たい感覚と共に、そんな言葉を胸の内に流し込む。
 と、
「あーもうじれったい!」
 考え込んでいるレイを押しのけるように、アスカが話に割り込んできた。
「よーするにシンジ! そんな洗濯なんかいつでもできるから! 明日は出かけるの! いいわね!」
「い、いいわね・・・・って・・・・」
「なによ。健全な中学生が、せっかくの日曜日に家で洗濯なんかしなくていいの!」
「でも・・・・」
「あー、そんなものはミサトにでも任せておけばいいのよ!」
「ちょ、ちょっと待ちなさいアスカ!」
 あわてたのは、傍観者として事態を楽しんでいたミサトである。いきなり自分に話が回って来るとは思っていなかったらしい。
「何で私が洗濯なんかしなくちゃ行けないのよ!」
「だってミサトが自分で言い出したんじゃない。健全な中学生が外で遊ぶなら、やっぱりその仕事は誰かがやらなくちゃね〜」
「それは確かにそう言ったけど!」
「じゃ、きまり、よろしくねっ♪」
 黙りこくってしまったミサトを後目に、アスカはシンジに向き直った。
「と、いうこと! 掃除洗濯はミサトがやってくれるから、明日はシンジは気兼ねなく遊べるわよ!」
「ミサトさんに任せた方がよっぽど心配なんだけどな・・・」
「ちょっとシンちゃん、それどういう意味よ」
 何気なく漏らしたその一言に、ミサトはぴくり、と反応した。シンジはしまったと思ったが、もうおそい。
「あ、いや・・・・」
「アスカやシンちゃんにそこまで言われて、この葛城ミサトがおとなしく引き下がれますか! いいわよ。私が完っ璧に掃除洗濯やってやろうじゃないの。いいわよ、シンちゃん、気にしなくて」
「あ、いや、だから・・・・」
「なに? そんなに私の腕が信用できないって言うの?」
「・・・・いえ。何でもないです」
 酔っぱらってきているせいもあるだろうが、かなりすごみのきいた視線でミサトはシンジを睨め付ける。
「・・・・まあ、たまには、いいか・・・・」
 ふっと笑いを一つ漏らして、シンジはそうつぶやいた。
「わかりました。じゃあ、ミサトさん、お任せします」
「じゃあ、シンジは明日はお出かけね!」
「うん。どこへでもつきあうよ」
「やった!」
 そういって、アスカははしゃいでいる。
 そんな様子を眺めながら、シンジは、今朝のことをふっと思い出していた。
 背中に感じたアスカの息づかい。背後から回されたアスカの腕。そのぬくもり。
 今朝の出来事がまるでなかったかのようなアスカの今の振る舞い。すこし、無理をしているようにも思える。
 でも・・・・。
 こうやって明るく笑っているアスカを見ると、何か安心するんだよな・・・。
「・・・で、どこへ行く?」
「そうね・・・やっぱりこう、一日楽しめるところがいいわね〜」
「だったら、ちょうどいいものがあるわよ」
 ぽん、と手をうつと。
 箸を加えたままミサトがそう言って、手近の鞄をごそごそとあさりだした。
「あ、あったあった」
「なんですか?」
「遊園地の一日招待券。ちょうど余ってるのをもらってきたのよ」
 そう言って、一通の封筒を取り出す。
「・・・・どこでですか?」
「どこって、ネルフに決まってるじゃない」
「・・・・どこの遊園地が、特務機関に招待券を送って来るんですか?」
「・・・・さ、さあね〜。私も余っていたやつをもらってきただけだから、その辺のところはわからないわ」
 内心、冷や汗をかきながらそう弁解するミサト。事実、このチケットはミサトがシンジたちのために買ってきたものだった。
 なかなか、シンちゃんの観察力も鋭くなってきたわね。
「ま、まあとにかく、経緯はどうあれちょうどここにチケットがあるのは事実だから、行ってらっしゃいよ、三人で」
「チケット、三枚あるの?」
 アスカが、お茶を飲みながら、そう聞いてきた。
「あたりまえでしょ。私がみんなにプレゼントをするときに、誰か一人をのけ者にできると思う?」
「・・・ま、そりゃそうね。二枚だったら、誰が行くかで喧嘩になったかもしれないし」
「もし二枚だったら、僕が家にいるから・・・・」
「だから! それじゃ意味がないのよ!」
 アタシにとっても、レイにとってもね。
 内心で、アスカはそうつぶやいた。
 シンジと行くことにこそ、あたしたちには意義を見いだせるんだから。シンジがいなくちゃ、どこに行っても楽しくないから。
 でも・・・・。
 アスカは、そこまで考えを進めて、不意に瞳を曇らせた。
 三人・・・・。
 三人で行く、遊園地・・・。
 明日、アタシはシンジとカップルにはなれない。
 レイが、いるから。
 まだ、レイは何もシンジに言っていない。今は、アタシはシンジに自分の気持ちを伝えた。そんな状態でアタシとシンジがペアになっている姿を、レイに見せてしまうわけには行かない。そんなわけにはいかないし、それじゃシンジがレイを恋愛対象として意識できないままになっちゃう。
 譲る譲らないは別として、まだ、アタシとレイは同じスタートラインに立っているわけじゃない。アタシが一人、フライングした状態。
 このレースは、仕切り直しはきかない一度きりのレース。だったら、せめてレイがスタートするまで、アタシは待たなくちゃいけないから。
 明日は、シンジをレイに譲ろう。
 アタシは、我慢しなくちゃ。
 シンジの隣に座りたい。
 シンジの体温を感じながら、楽しく遊んでいたい。
 そんな思いを封じ込めて。
 ・・・・どうせなら・・・2枚で良かったのに・・・・。
 アスカは、誰にも聞こえないような声でそうつぶやいた。
 傍らで見つめているのは、つらすぎるから・・・・。
 

 食事も終わり、明日の予定を決めて、今日はみんな早々に寝ることにした。
「じゃ、アタシ寝るわ」
 風呂から一番に上がり、テレビを見ていたアスカはそう言って、真っ先に部屋に引き上げていく。その表情がいささか暗いことがシンジには気になったが、理由を聞き出すことはできなかった。
「おやすみなさい・・・・」
 続いて風呂からあがったレイが、髪を乾かした後部屋に戻る。こちらはいつものように淡々とした口調だが、明日のことを考えてか、かすかに顔がほほえんでいる。心なしか足取りも軽いようで、そんな様子は台所から見送るシンジにはうれしかった。
 ただ・・・・。
 ヒカリのパーティで言い争いをしてからの、二人の間に流れるぎくしゃくした空気は相変わらずだった。さっきの夕食も、表面上は楽しそうだったけど、二人が互いに会話を交わしてはいない。
 どちらかというと怒鳴りつけたアスカがなんとかしてレイに話しかけようとしているが、逆にレイがアスカをさけているようだ。
 それを思うと、シンジはどこか心配な気分だった。
 自然、食器を洗う手も鈍くなりがちだった。
 明日、三人で出かけるのに、こんな雰囲気でいいんだろうか・・・。
 食器を洗い終わり、周りをきれいにする。タオルで手を拭き、そのまま風呂場へと足を向ける。
 湯がまだ温かいことを確認して、シンジは服を脱ぎ、湯船に全身を浸けた。
 温かな湯の感触が、一日の疲労を取り去ってくれるかのようだ。
「ふ〜・・・・」
 大きく息をついて、視線を天井に向ける。そこには、オレンジ色のライトが無言のままシンジを見下ろしていた。
 みんな一緒だよ。
 そう、言ったのにな。
「みんな、一緒だよ・・・・・」
 目を閉じ、そのままざぶんと勢いよく湯船に頭を沈めた。
 熱い湯の感触が、しばしの間でもよけいな考えを追い払ってくれるように・・・。


 電気を消すと、カーテンの隙間からほのかな月明かりが室内に差し込んでいる様子がよく分かる。
 レイはベッドの上に全身を投げ出し、うつぶせになって枕の上に頬を重ねた。
 室内に音はほとんどない。ただ、シンジが台所で使っている水音がわずかに聞こえて来るのみだ。
 まだかすかに湿り気を残した髪が、頬に垂れてくる。それを無意識のうちに指でつまみ、ゆっくりともみほぐしながら、レイはぼんやりとさっきのことを考えていた。
 アスカはいつものように私に接してくれている。まるで、この間怒鳴りつけたことがなんでもなかったかのように。
 三人で行く遊園地。碇君と、アスカと行く遊園地。
 そんなところに、自分が遊びに行くなどとは考えたこともなかった。
 遊びに行くという考えすらなかった。
 楽しみ。そう、楽しみという言葉を、初めて使った気がする。
 そう考え、月明かりの下でふっと、レイは笑いを浮かべた。
 台所から聞こえていたはずの水音はいつしかやみ、かわりに風呂場の扉を開けるがらがらという音が聞こえてくる。
 ・・・・私も、アスカのように振る舞えばいいのかしら。
 再び、レイは思考の縁に沈んだ。
 何にもなかったかのように、以前のようにアスカと言葉を交わし、笑い、過ごしていけばいいのだろうか。
 そうすれば、アスカとの関係がぎくしゃくしたまま日々を過ごさなくてもすむ。
 明日だって、楽しい思い出のまま終わることができる。
 ・・・・でも。
 枕から頬を離し、天井を見上げるように仰向けになって、レイは薄暗い室内の天井をじっと見上げた。
 ・・・・あのときの胸のもやもやは、どうなるの?
 あの胸の痛みの訳を知らないまま、私はそのまま・・・・。
 ぎゅっと、目を閉じた。
 ミサトの車の中から見た、闇夜に消えるガードレールが瞼の裏に蘇ってくる。
 細くなって、細くなって。そしてふっと、漆黒の闇の中に消えていく一本の白い線。
 ぶるっと、身体がふるえた。
 我知らず、両腕で自分の身体を抱きしめていた。
 アスカ・・・・碇くん・・・・。
 眠りの園に引き込まれながら、レイはぼんやりと二人の名を呼んだ。
 私は・・・・。




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