遥かなる空の向こうに

第21話:吐露



 機械音だけが、耳に響いた。
 一筋の赤い光が、ゆっくりと目の前をよぎっていく。それは首筋から胸、そして足へとゆっくりと動いていき、足首を通り過ぎ、ふっ、と消える。続いて自分の包み込んでいた筒状の白い機械が鈍いモーター音と共に動き始め、やがて、視界いっぱいに白い天井が見え始めた。
 何度も、何十回も繰り返された光景。記憶の中に、それは刻み込まれている。
 第三神経内科。
 それが、彼女の訪れた場所。
 特別検査室。
 それが、彼女の今いる部屋の名前。
 彼女の体を調べていた機械の駆動音がゆっくりと消え去り、かわって、
「お疲れさま、レイ、楽にしていいわよ」
 傍らのマイクから、リツコの声が聞こえてくる。
 少女・・・・レイはその声に反応し、横たわっていたベッドから起きあがった。
 傍らの小部屋では、心配そうにそれを見つめるミサト、そしてプリンターから吐き出されるデータを真剣な表情で見つめるマヤとリツコの姿がある。
「服を着て、こっちに来てちょうだい」
「・・・・はい」
 レイは傍らのバスケットに放り込まれていた衣服を手に取り、雪のように白い肌にそれを触れさせていく。そして。
 ふと、部屋を出る前に振り返ってみた。
 整然と配された機械類。清潔さをイメージしてか、白に統一された調度。
 無機質な部屋が、圧迫感を持って彼女を包みこもうとしている。
 この部屋は・・・・好きじゃない。
 そう思えたのは、決して気のせいではないだろう。
 レイはきびすを返すと、そのまま部屋を出ていった。
 
 
「・・・・・」
 データを眺めたまま、リツコは無言だった。
 同じく、マヤも難しげな表情を浮かべている。
 ミサトは、そんな様子を苛ただしげに見つめていた。
「どうなの? レイの調子は」
「・・・・この間倒れてから、何か体の不調を訴えてなかった?」
「レイが? いえ、特にこれといって、ないけれども・・・・」
 ミサトはリツコの質問に、不審そうな表情で答える。
「何か、あるって言うの? レイの体に」
 リツコはそれに対して答えなかった。代わりに、マヤが重い口を開く。
「抗体の生成能力・・・風邪や病気に対する体の抵抗能力が、徐々に落ちています。本来MAGIが計算していた下降線に対して、一.二パーセントほど、実測値が低くなっています」
「・・・・・・」
「くわえて、造血能力が8パーセント、骨髄の生成能力が二.五パーセント、消化器系の処理能力が四パーセント、外部からの刺激に対する反射能力が一パーセント、同様に、MAGIの予想を上回って落ちています」
「・・・・・つまり?」
「私たちが予想しているより、彼女の体は速いスピードで劣化が進んでいるということよ」
 リツコは、ぼそり、とそうつぶやいた。
「このままだと、当初の予想である三〇日、彼女の体は、保たないかもしれない」
「そんな・・・・」
「なぜ、そうなったか、はっきりとはわからないけどね」
「はっきりと、ってことは、ある程度は想像がついてるんでしょ? いったい、なぜ?」
「そうね・・・・」
 リツコはほとんどの男性、そして多くの女性が羨望のまなざしで見つめるであろう足をゆっくりと組み替えると、傍らにあるコーヒーカップを手に取った。そのまま一口、褐色の液体を口に運ぶ。
 冷め切ったコーヒーほどまずいものはない、という表情でそれを飲み、さらに言葉を継いでいった。
「MAGIのデータは、発病時初期段階での予想に過ぎないわ。その後のレイの生活パターンの変化、つまり、シンジ君やアスカ達と暮らす新たな環境に移ったことによる不確定要素の発生は、そのときの計算には含まれていないのよ」
「不確定要素・・・・」
「コンピュータでははかることのできないレイの心・・・・感情という計算不能な要素が、みんなとの生活で多大に増大している。そのことで、感情というものを受け入れる能力を本来持っていない彼女の体が、余計な消耗を強いられている、というべきなのかしら」
「感情・・・・消耗・・・・ってことは?」
「そう。今後も、レイがより人間らしくなればなって行くほど、体の劣化・・・いいえ、崩壊は早まっていくこと。それが急激であったり、巨大なものであれば、今までのデータなんか吹き飛ばして、レイは倒れてしまうでしょう」
「そんな・・・・」
 人間らしい生活。それを望んだがために、いいえ、望んで得ているからこそ、レイは与えられた時間をさらに削らねばならない。
「神様は不条理ね・・・・いいえ、神なんて存在しないからこそ、こんな不条理があるのかしら」
 もう一口、コーヒーを飲みながらリツコは自嘲気味にそうつぶやいた。ミサトには、そんなリツコの様子が我慢できなかった。
「ちょっと! なに淡々と話をしているのよ! レイが・・・・あの娘がせっかく得た生活なのよ1 生活だけじゃない、ようやく人として、いいえ、人らしく生きていくことができているって言うのに、それを少しでも長く与えることができないなんて・・・・それを、あなたは・・・・」
 ばぁん!
 ミサトの台詞は、途中で遮られた。
 リツコが、コーヒーカップを机にたたきつけるように置いたからだ。マヤはその音にびくり、と、肩をすくめ、おびえたような表情でリツコの方をそっと見る。そしてミサトは、肩をふるわせるリツコの様子を、呆然と眺めているだけだった。
「私だって・・・・」
 ミサトから視線を逸らし、握りしめたままのコーヒーカップを見つめながら、リツコはゆっくりと話し始めた。
「私だって、救えるものならレイを救ってやりたいわ。かつては碇司令のことであの娘を憎んだりもした。あの娘さえいなければ、と思ったりもした。ダミーシステムを破壊したときも、そう思えばこそのことだった。人形にすら負けた自分が情けなくて、悔しくて・・・・」
 婆さんは用済み。
 婆さんはしつこい。
 そんな言葉が、リツコの脳裏を駆けめぐっていた。記憶の片隅、いつ聞いたのか、誰から聞いたのか、それすらわからないその言葉。もしかしたら、そんな言葉を聞いたことすらないのかもしれない。しかしそれは、リツコのあのときの心情を表すのにもっとも適したものであった。
「自分を見てほしかった。振り向いてほしかった。うわべだけじゃなく、心から・・・・あのときは、それしかなかった」
 あえて誰に、とは言わなかったが、リツコにもマヤにも、それが誰をさすものであるのかははっきりとわかっていた。
「でも、その後に残ったのは空しさだけ。ダミーを消しても、いえ、彼女を消し去ったとしても、司令の中に彼女は生きていたでしょう。それに、あの娘も人形じゃない、って気づいたのはいつのことかしら。最後の戦い・・・あのころかしらね。碇司令の命令しか聞かなかったレイが、それを無視してシンジ君の元へ行ったとき・・・・。私はレイが、初めて自分と同じなんじゃないか、って思い始めたのよ」
 振り向いてほしい。見つめてほしい。愛してほしい。
 人として誰もが持っているべきものに飢えている姿。
 それを、リツコはレイの中に見た。
「好きな人に振り向いてほしいと願うあの娘の気持ち・・・かなえてあげたい。いえ、かなえるなんて傲慢さじゃなく、その結果がでるまで、あの娘の命の炎を、消したくない・・・そう、私だって思っているのよ・・・・」
 リツコは拳をぎゅっと握りしめた。体のふるえを、高ぶる感情を押さえつけるかのように。
 ミサトは、マヤは、そんなリツコの姿を無言のまま見つめていた。
「赤木博士・・・・」
 扉を開ける音、そして淡々とした口調。
 沈黙を破ったのは、特別検査室から戻ってきたレイだった。
「レイ・・・・」
 リツコは、どんな顔をしていいのやらわからず、レイから視線を逸らした。
「私は・・・・私の体は・・・・」
「さっきもミサトに言ったとおりよ。私には、いいえ、私以外の誰にも、あなたがいつ倒れるか、もうわかる状況じゃない。一〇日・・・・二〇日・・・・いいえ、もしかしたら明日かもしれない。砂時計の流れは、いつ止まってもおかしくはないのよ」
「そう・・・・ですか・・・・だから・・・・」
 あんな台詞を、と言いかけ、レイは口をつぐんだ。扉の向こうで、はからずとはいえ話を盗み聞きしていたという事実が、その言葉を続けることに抵抗感を与えたのだ。
「いいのよ、別に聞かれて困るような話じゃないし」
「すいません・・・・」
「・・・・そうね、そうやって謝るところが、今までのあなたと違うところかしら。他人を気遣うってこと、前のあなただったら考えられなかったことだし」
 碇司令の言葉、碇司令の表情。それだけを気にしていた以前のレイとはね。
 暗に、リツコはそういっていた。
「他人を、気遣う・・・・」
「あなた自身は自覚していないかもしれないけど、それは重要な変化。もともと、あなたはそういうことをする風には作られていなかったのだから」
「リツコ!」
 作られた、という台詞に反応したのはミサトだった。
 しかし、リツコはそれを気にする風でもなく、
「いまさら言葉を取り繕っても、事実にかわりはないわ。私が言いたいのは、レイが確実にいい方向に変わってきつつあるということ。生まれがどうあれ、今のレイは誰が何といおうと、人間らしい・・・・いえ、一人の人間である、ということよ」
「・・・・」
 レイは、無言のままだった。
 一人の人間。
 その言葉が、うれしかった。
 かつて、人形を見るような目で自分を見つめていたリツコ。
 その彼女の口から、そんな言葉を聞けたことに・・・・。
「だからレイ。体の調子がすこしでもおかしいと思ったら、正直に話しなさい。シンジ君には隠さなければいけないからって、私たちにまで隠してしまっては、それこそ本末転倒よ。私たちが今あなたにできることは、あなたがやりたいことができるような体調を、整えるくらいしかできないのだから」
 できることならば、もっと手助けをしてあげたい。レイがシンジのことを好きならば、それをかなえてあげたい、残された時間を、幸せのまま過ごさせてあげたい。
 でも。
「作られた幸せは、意味がないものね・・・・」
「え、先輩?」
 リツコのつぶやきを聞きとめたマヤが、聞き返す。
 それに対してリツコはあわてたように、
「な、なんでもないわ。さ、やることはいっぱいあるんだから、仕事仕事、いいわね」
「あ、は、はい・・・・」
 すっかり毒気を抜かれた体で、マヤはコンソールに向き直る。
 ミサトは、そんなリツコの様子を、小さくほほえみを浮かべながら眺めていた・・・・。
 
「で、結局のところはなにもわからず、か」
 陽も暮れかけた山道。点灯したライトの明かりに、ガードレールがすすむべき道筋を示してくれる。
 ミサトはハンドルを握りながら、小さくそうつぶやいた。
 定期的な検診には意味がない。
 受けたとしても、でてくる数値は悪いものばかり。そんなものは、見るだけ時間の無駄だし、かつ気分的にもあまりいいものじゃない。
 だから、なにか不調を感じたときだけ、ここに来なさい。
 リツコはレイにそういっていた。
 予兆を事前に見つけることは、どうせ不可能なのよ。そんなくだらないことに時間を費やすのなら、せめてシンジ君やアスカと一緒にいる方が遙かにましよ。
 残された時間は、少ないのだから・・・・。
 リツコの顔は、そういっていた。
 まったく、リツコの言うとおり不条理ね。
 ミサトはそう思わずにはいられなかった。
 今までのレイが手に入れられなかった・・・・いや、望むと言うことを知らなかった幸せ。いまようやく、その幸せを手にしはじめているというのに、それが限られた時間、限られたものでしかないなんて。
「・・・・ほんと、不条理・・・・」
 そういいながら、かたわらのレイの様子を、そっとうかがった。
 この娘は、なにを考えているのかしら。
 今の状況を、どう思っているのかしら。
 ふと、そう思ったからだ。
 以前ほどではないとはいえ、内心の感情を表にあらわすことが少ないから、いつものようにじっと正面を見つめているのかしら。
 それとも・・・・。
 そう思いながら視線を走らせたミサトだったが。
「・・・・レイ?」
 少女は、小さくふるえていた。両腕で華奢な体をぎゅっと抱きしめ、うつむいた横顔のそばで青い髪が小刻みに揺れている。その揺れる髪に隠れているせいで、彼女の表情はミサトからは伺うことができない。
「レイ?」
 もう一度、ミサトは呼びかけてみる。
「気分が悪いの?」
 一瞬、自分の運転が荒かったのかと考えた。シンジなどは彼女の運転を「平地でラリーレースが体験できる」と時折評するほどだったから。
 しかし、すぐに別の可能性に思い至る。
「まさか、体の調子が?」
 さっきの今で、もう体に異変が生じたって言うの?
「リツコに電話・・・・いえ、今から、戻りましょう」
 病院に。そう言いかけたミサトを、絞り出すようなレイの声が遮った。
「・・・・・いえ。体の調子が悪いんじゃ、ないです・・・・」
「じゃあ、どうしたっていうの?」
 路肩に車を寄せて止め、ミサトはレイに体ごと向き直った。
「・・・・怖い、んです」
 レイは、ミサトと視線を合わせないようにしながら、ぽそり、とそうつぶやいた。
「さっき、赤木博士に言われたこと・・・・いつ、私の命が燃え尽きるかわからない・・・・それを、ずっと考えていました。あのときは、なんでもなかったんです。それはもう、わかっていたことですから。でも・・・・」
「でも?」
「ミサトさん・・・・の車にのって、走っているうちに、だんだんとそれが・・・・自分の内側で膨れ上がってきました。ライトに照らされたガードレールが、細くなって細くなって、ふっ、と暗闇の中に消えていくように、いつか自分もそうやって消えていく・・・・」
「レイ・・・・」
 レイは、ふるえる自分の体をさらに押さえつけながら、言葉を継いだ。
「死ぬことが怖い、そういうわけではありません。それをわかって、今の暮らしを選んだのですから、もうそれは、いいんです」
「・・・・」
「私が怖いのは、ガードレールがふっつりと切れて、暗闇の中に沈んで行くかのように・・・・私自身が忘れ去られてしまうこと・・・・。心の中から、私が消えてしまうこと・・・・そう思うと、なんだか、体が、ふるえてきて・・・・」
 ミサトは、その台詞にざくりと心の中を切り刻まれるかのような思いだった。
 死ぬことが怖い訳じゃない。
 自分の未来が見えていることを達観するだけでも重いというのに、さらに自分が忘れ去られてしまうのが怖いという。
 大人びては見えるものの、レイも、アスカやシンジとおなじ、一四歳の少女なのだ。
 彼女が背負うには、あまりに重すぎる・・・・。
「レイ・・・・」
 ミサトは、両手でレイの頭を抱えるように、自分の元へ抱き寄せた。
 びくり、とレイが驚いたように体をふるわせる。
「人は誰しも、未来を見つめて、そして誰かとともに生きていく。その見るべき未来がとぎれていることは、あまりに酷よね。現実の世界で、あなたと一緒に歩める人がいないんですもの」
「わかっています。みんなが未来を見つめて生きていく以上、その場にいない人は、過去の思い出の中でしか生きていけないことも。でも・・・・わたしは、その思い出の中ですら、自分が忘れ去られていくことが怖いんです・・・・」
 いままでは、そんなことなど考えもしなかった。
 今は、それが心の中を支配している。
「だからこそレイ、あなたは誰かに自分のことを覚えていてほしい。忘れてほしくないから、今の生活を選んだのでしょう? 病室の白い壁に囲まれて人生を終えるよりも」
「・・・・」
「だったら、もっと生きなさい。時間には制限があるけど、想いにはそれがない。限られた時間をしっかり生きて、ありったけの想いを伝えて、自分という存在が忘れられないように。その時間を、あなたがいたことで過ごすことができたと相手が思えば、それは決して忘れることのない思い出になる。あなたは、まだ生きてここにいるじゃない!」
 しっかり生きて、それから死になさい、か。
 どこかで誰かに言ったわね、こんな台詞。
 ミサトは小さく、笑いを浮かべた。
 そのまま、ぎゅっとレイを抱きしめた。
 ・・・・。
 レイは、そのミサトの言葉を、頭の中で反芻した。
 しっかり生きて、それから死になさい。
 忘れ得ぬ思い出を、作って。
 誰と、とは互いに言わなかった。
 レイの脳裏にも、ミサトの脳裏にも、多くの顔が浮かんでいたから。
 アスカ、ミサト、リツコ、マヤ、トウジ、ケンスケ、ヒカリ・・・・。
 シンジの顔が、ひときわ鮮烈に映ったのは、どちらも同じことだっただろう。
 ありったけの想いを、伝えて・・・・。




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