遥かなる空の向こうに

第20話:僕しかいない



 静かな、静かな、静かな室内。
 二人とも、無言のままだった。
 顔を赤くしてうつむいたままのアスカ。
 泡まみれのスポンジと皿を持ったまま立ちつくすシンジ。
 どちらも、何も言わず、何も言えなかった。
 なんて答えればいいんだろう。
 シンジは、それだけを考えていた。
 アスカが僕を好きだといった。
 シンジしかいないの、と言ってくれた。
 こんな僕を必要としてくれる人がいた。
 こんな僕を、好きだとはっきり言ってくれる人がいた。
 ・・・・で、僕はそれに対してなんと答えればいいんだろう。
 なんて、答えられるだろう。
 終わり無き螺旋階段を登っているように、思考は同じことを繰り返している。
 人を好きだということ。人に、好かれるということ。
 ・・・・僕は、それができるんだろうか。僕には、その資格があるのだろうか。
 どれくらいそんな風に考えていただろうか。
 ぽそりと、背後でアスカがつぶやいた。
「やっぱり・・・・迷惑かな・・・・」
 心臓が、跳ね上がるようにか細い声だった。
「アタシがシンジのこと好き、なんて言って、迷惑だったかな・・・・」
「そ・・・・」
 がたり、と椅子を立つ音がした。
 佇立したまま、シンジは後ろを振り向くことができなかった。
 振り向いたとたん、アスカが逃げてしまいそうな気がして、それがこわくて、振り向くことができなかった。
 ・・・・スリッパの足音が、自分の方に近づいてくるのがわかった。
 それでも、シンジはまだ振り向くことができなかった。
 足音は、シンジの背中、すぐ後ろで止まった。
 アスカが、立っている。
 僕の背後に、すぐ後ろに、立っている。
 心臓の鼓動が、いっそうはやまっていく。
「・・・・シンジは・・・・必死にがんばっていたものね・・・・」
 つぶやくように、アスカはそう語りだした。
「みんなを守るために・・・・みんなを、幸せにするために・・・・いっぱい怪我して、いっぱい傷ついて・・・・」
 そっと、肩にアスカの指が触れた。それだけで、シンジの肌はびくり、と反応しそうになる。
「アタシの時も・・・・拳銃で撃たれて・・・・」
 指が、肩からそっと動く。それはシンジがアスカをかばったときに撃たれた傷・・・・右肩から、右脇腹へと動いていく。
「痛い思いして、苦しい思いして・・・・」
 今度は、手のひらの感覚。アスカの手が、脇腹の傷跡にそっと当てられている。
「それでも、必死にがんばっていたシンジ・・・・だから、アタシはシンジのことが好きになったのかもしれない・・・・」
「・・・・・・」
「前に、アタシに言ったわよね・・・・『ぼくは、アスカにもっと幸せになってほしいんだ』って。・・・・シンジも、他人を幸せにするだけじゃなく・・・・自分で幸せに・・・・なろうよ・・・・。そして・・・・アタシは・・・・それを、手伝いたいの・・・・」
「・・・・・・」
「アタシは・・・・シンジを見ていたい・・・・幸せになってほしい・・・・いいえ、一緒に、幸せになりたい・・・・」
「アス・・・・カ・・・・」
「でも・・・・アタシじゃ・・・・やっぱり、アタシじゃ・・・・だめなのかな・・・・」
脇腹に当てられていた右手が、さらに前へと進んだ。併せてアスカの左手もシンジの脇腹を回り、前で組み合わさる。
 アスカは、シンジの背中から手を回して、そっとシンジを抱きしめていた。
「いやならいやって言ってくれればいい。そうすれば、つらいけど、アタシはあきらめる。泣いて、泣いて、それで今までの関係に戻るわ。だから・・・・答えて・・・・シンジの・・・・気持ちを・・・・」
 シンジは、アスカの両手がふるえていることに気づいた。
 答えを聞きたくて、それでも、怖くて、ふるえているアスカの手。
 ひとつ、ふたつ、大きく深呼吸すると、シンジはその体勢のまま、語り始めた。
「アスカ・・・・まず、聞いてほしいんだ」
「うん・・・・」
「僕が、早くに母さんを亡くしてから、先生のところに預けられたのは、知っているよね。父さんに捨てられたと思っていた僕が、誰にも心を閉ざして、自分一人の世界にこもっていたことも」
「・・・・・」
「全てに無気力に、なににも興味を持たなかったあのころから、僕の心はどこか醒めていたんだ。自分を好きになってくれる人なんかいない。他人を好きになれば、裏切られたときに悲しいだけだから、それなら誰も好きにならない方が傷つかない、って」
 流れる水音。食器を置き、手についた泡を流しながら、シンジはさらに話を続けた。
「そんなせいか、僕の心はいつしかおかしくなってしまったんだ。誰にも嫌われたくない。誰かに「おまえなんか嫌いだ」って言われるのが怖い。でも、本心から人を好きになることができない。そんな風に」
「シンジ・・・・」
「不思議なもので、今アスカに「好きだ」って言われても、どう答えていいかわからないんだ。情けないかもしれないけど」
 嘲笑にも似た笑いが、口元に浮かんだ。アスカにその顔を見られないことが、今のシンジには幸いだった。
「ここにきてから、ずいぶんと僕は変わったと思う。みんなに幸せになってほしいと思うようになったし、自分の殻に閉じこもることもやめた。でも、まだ、これだけは・・・・人を好きになるってことだけは、まだ今の僕にはわからないんだ・・・・」
 蛇口の水を止める。部屋に、静寂がしばし満ちた。
「アスカのことは、大事に思っている。以前からそうだった。でもそれは、「アスカには僕しかいないんだ」っていう思いであって、「僕にはアスカしかいない。ぼくにはアスカが絶対に必要なんだ」って思っていたわけじゃないんだ・・・・」
「シンジ・・・・」
「アスカが自分の中に閉じこもってしまった。それを助けられるのは僕しかいない。自分の中からはでてきたけど、まだアスカは傷つきやすい。それを守ってあげられるのは僕しかいない。思い上がりかもしれないけど、そんな風に」
「ほかに、好きな人が・・・・いたから?」
 泣き出しそうな声。アスカのその声に、シンジは首を振って答えた。
「そういうことじゃない。そういうことじゃないんだ。・・・・つまり、アスカにそういう思いを抱いていないってわけじゃなくて、ぼくにはまだ、アスカみたいに「ぼくには君しかいないんだ」って思えるような人が、いないんだよ・・・・」
「・・・・レイ、もそう思う人じゃないの?」
「綾波・・・・? そうだね。綾波も、ぼくにとってはアスカと同じように大事だ。でもそれはやっぱり、彼女は一人だったから放っておけない、って思ったから・・・・」
「じゃあ、好き、っていう気持ちじゃないの」
「好き・・・・その気持ちがまだよくわからないんだけど・・・・たぶん、違うと思う・・・・」
「じゃあ・・・・やっぱりレイへの感情も、アタシと同じもの・・・・?」
「・・・・たぶん・・・・」
 そして、シンジは頭を振って、卑屈に笑った。
「笑ってくれていいよ。馬鹿な奴が思い上がっているって。みんなを幸せに、なんて言うことのできるほど、ぼくはいい人間じゃないんだから。カヲル君を殺して、みんなを殺して、ぬくぬくと生き延びているような奴なんだから」
「そんな風に言うのはやめて!」
 アスカの怒鳴り声に、シンジははっと身体を固くした。その声は、半分以上泣いているものだった。
「シンジはがんばってるわ。逃げ出しても誰も文句を言わないのに、逃げ出さないで、それ以上に人の重荷を背負っているんだもの。だれもシンジを馬鹿になんかできない。だれも、シンジを悪く言える人なんかいないわ」
「ア・・・・・スカ・・・・」
「それはアタシが知っている。いいえ。アタシだけじゃない。レイも、ミサトも、みんな知っている。だから、自分を悪く言わないで!」
「・・・・・・」 
「アタシもレイも、シンジがいたから・・・・シンジのおかげで、今こうして生きていられるのよ・・・・シンジは、立派に人を幸せにしているわよ・・・・だから、アタシはそんなシンジに惹かれたのよ・・・・そして・・・・」
 レイも、といいかけてアスカは思いとどまった。自分の口から言うものじゃない、と思ったから。言っていいものではない、と思ったから。
「アタシは・・・・そんなところも含めて、シンジが好きなの・・・・」
「・・・・・・」
「今は、好きだっていってくれなかった。でも、いつか、そう言ってくれるのを待っている・・・・いえ、そう言ってもらえるようになる。「ぼくにはアスカしかいないんだ」って思ってくれるまで、アタシはがんばる」
「アスカ・・・・」
「シンジがアタシのことを大事に思っていてくれる。今はそれだけでいいの。レイも、同じように大事に思っているんですものね・・・・」
「・・・・・・」
「でも・・・・一つだけ・・・・」
 そう言って、アスカはシンジを抱きしめる腕にさらに力を込めた。
「お願い・・・・しばらく・・・・こうさせていて・・・・」
 そっと、シンジの背中に身体を預けた。
「夢の続きを、今だけは・・・・」
 それは、広くて暖かな背中だった。
 
 時計だけが、時を刻んでいった。
 
 キッチンにたたずむ、二つの影を見下ろしながら・・・・。




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