遥かなる空の向こうに
第19話:君しかいない
「行ってきます」
ミサトの後に続いて扉を出るとき、レイはそう言ってにこり、と笑った。
正確にはややぎこちない笑みだったが、笑う事自体、以前の彼女にはないことだった。
「行ってらっしゃい」
シンジはそう言って微笑み返した。レイが笑う事がうれしかったからだ。
彼女の心が普通の人に近づいている。彼女の行動が普通の人に似てきている。以前の、誰にも笑わない。誰にも心を開かなかったレイを知っている分、シンジにはそれがうれしくてならなかった。
・・・・ただ。
アスカは、その場にはいなかった。
部屋にこもったまま。扉を叩いても、出てこない。眠っているのか、起きていて出てこないのか。
レイの見送りもしないアスカの事を考えると、シンジの心は少し痛んだ。
結果として。
レイのぎこちない笑みが、ただ笑う事に慣れていないだけの理由ではない、という事に気づかなかったのである。
「ミサトさん・・・・碇くんには、なんて?」
「え、あ、ああ」
本部に向かう車の中、レイはハンドルを握るミサトにおずおずとそう問いかけた。
「シンちゃんには、レイ、あなたは定期検診を受ける、って言ってあるわ」
「それは・・・・」
「全部隠してもどうなるわけでもないし、かえって怪しまれる。それならむしろ、一部の真実の中に一部の嘘を交えたほうが怪しまれないわ」
「・・・・」
「いままでも、レイが定期的に本部で診断を受けていた事はシンちゃんも知っている事だしね」
「・・・・ええ」
いままでは、自分がダミープラグの実験台となるための本部通いだった。そして、使っている体が壊れたときのための魂のバックアップ・・・回復作業の補助にするための本部通い。
でも、新たな容れ物はもうない。容れ物があっても、そこに中身を注ぎ込む事はできない。
以前は嫌悪していた新たな肉体。
今はそれができない事に、焦燥すら感じていた。
生きていたい。生きて、碇くんと一緒にいたい。
今、本部に向かう目的は、砂時計の残りの粒を数えるためのでしかない。
その事が、レイにとってはくやしかった。
ハンドルを握る、ミサトにとっても。
こん、こん。
「アスカ、寝てるの?」
シンジは扉を遠慮がちにノックした。
返事はない。
こん、こん。
今度は、さっきよりも少し強く叩いてみた。
やはり、返事はない。
「寝てるの?」
無言。
「ご飯、できてるよ。綾波もミサトさんももう出かけたんだから、そろそろ起きてよ、アスカ」
反応はない。しばしためらった後、シンジはおそるおそる、扉を開いてみた。
部屋の中は、暗かった。カーテンは閉められ、朝の光は遮断されている。わずかに、細い線のような光が、室内を照らし出していた。
アスカは、ベッドで眠っていた。
毛布に包まり、規則正しい寝息をたてて、気持ちよさそうに。
「寝てたの、か」
あまりいい事ではなかったが、シンジはつい、その無心の寝顔に見入ってしまった。
そういえば。
前にも、こんなことがあったかな。
ミサトさんが同じようにいなかったとき、アスカが寝ぼけて僕の隣で眠っていたんだっけ。
あの時は、アスカは眠りながら涙を流していた。
今は、何の夢を見ているんだろう・・・・。
なんとなくそう思いながら、それでもシンジは、アスカベッドの脇にひざを突いて、やさしく肩をゆすった。
「アスカ、おきてよ。朝だって」
「ん・・・・んんっ・・・・」
「ミサトさんも綾波も、出かけてるんだからさ、朝ご飯、食べちゃってよ」
「うぅん・・・・・ん・・・・」
「アスカ、起きてよ」
「シンジ・・・・」
次の瞬間、シンジは何がどうなったのかわからなかった。
自分の名前を呼ばれたとき、一瞬アスカが目覚めたのかと思った。しかし、そうではなかった。
そうでなければ、こんなことがある訳がない。
シンジは、顔を真っ赤にして、アスカをゆすぶった。
「アスカ・・・・そ、その・・・・離してよ・・・・」
自分の首に回された腕が、ぎゅっと力を込められた。シンジはアスカに抱きしめられたまま、身動きすらできなかった。
「シン・・・・ジぃ・・・・」
「あ、アスカ・・・・」
目の前に、アスカの顔がある。その顔は、無心に笑っていた。気持ちよさげに、笑っていた。
何の夢を見ているんだろう。僕の名前を呼ぶなんて。
頭の中が真っ白のまま、シンジはそれだけを考えていた。
抱きしめられた腕を離す事もできず、じっと、アスカの寝顔を眺めていた。
と。
「うぅぅん・・・・・ん!!」
うっすらと瞳を開いたアスカがそこにシンジの顔を見つけた。
寝起きの頭では、とっさに何が起こっているのか把握できない。ただそこにあるシンジの顔を、惚けたように眺めている。シンジも、同じようにアスカの顔を見詰めていた。
一瞬。しかし二人にとっては、長い長い時間。
その沈黙を破ったのは、アスカの悲鳴だった。
「き、き、っきゃああああああああ!!」
金縛りが解けたように、シンジはその声で我に返る。そして今置かれている状況を思い出し、とたんに耳たぶまで真っ赤になりながらアスカの腕を振り解いた。
「あ、あ、あの、その、ええと・・・・」
自分はアスカを起こしに来たんだ。そうしたら、アスカは寝ていて、それを起こそうとしたら、いきなり抱きしめられて、それで。
頭の中の一部ではそういう状況を説明しようとする意識が働いている。しかしその一方、残りのほとんどはパニック状態。口を衝いて出てくるのは、ただただしどろもどろの声ばかり。
「な、なんでシンジがアタシの部屋にいて、それで、それで、アタシがシンジにだ、だ、抱きしめられているのよ!!!」
抱きしめていたのは実際には自分だったが、そんなことすら、今のアスカは気づいていない。シンジと同じく、アスカもパニック状態だった、
夢を、見ていた。
内容は覚えていない。
ただ、すごくすごく、気持ちのいい夢だった。
シンジが、そばにいてくれた。
シンジを見つめていた。
シンジも、自分を見つめていてくれた。
瞳を閉じた自分を抱きしめてくれた。
夢なら、さめてほしくなかった。
まどろみの意識の中、自分がベッドで眠っている事に気づいたときは、やはり夢だったのかと残念だった。
しかし、瞳を開いたその先に、シンジの顔があった。
視線が、まともにぶつかった。寝ぼけ眼のアスカにとっては、それが夢なのかどうかもわからなかった。
現実だが、確かにシンジがそこにいる。そう理解した瞬間、アスカはとっさに悲鳴を上げていた。
恥ずかしい。って感じなの?
まだ朦朧とした意識の中で、アスカはそう考えていた。毛布を、ぎゅっと握り締めた。
一方のシンジは、顔を真っ赤にしたまま、しどろもどろに言葉を紡ぎ出していた。
「その、だから、ええと、アスカ、その・・・・僕は、アスカを起こしにきて、それで、それで・・・・起こそうとしていたら、その、僕の名前を呼ぶから、ええと・・・・」
聞かれた!?
アスカは先ほどの夢を思い出し、全身が恥ずかしさに火照っていくような思いを感じていた。
「と、とにかく、その、あの・・・・ご、ごめんね!」
そう言って、シンジはさっと身を翻して部屋を飛び出していく。
「あ・・・・・」
とっさに、手が出た。アスカ自身も何でそうしようと思ったのかはわからなかったけど、シンジの背中に向けて、右手が伸びた。
でも。
その右手に、シンジが気づくことはなかった。
扉が、閉じられた。
後には、ベッドに座り込んだままのアスカだけが残された。
「・・・・バカ・・・・」
小さな呟きが、もれた。
部屋から出てきたアスカに、シンジは声をかけようとした。
でも、できなかった。
なんて言えばいいんだろう。あやまるべきなんだろうか。でも、しがみついてきたのはアスカのほうだし・・・いや、そもそもアスカの寝ているところに入ったのは僕だったし・・・・。
ぐるぐると、同じ思考が頭を巡っていた。先ほどまでの心臓の鼓動が、まだ収まっていない。ともすれば顔が赤くなりがりになる。まともにアスカの顔を見ることができないまま、シンジは用意しておいた朝食をアスカの前にならべていった。
今日のメニューはアジのみりん干しに豆腐の味噌汁。そして海苔とご飯。アジの焼けるいい匂いがあたりに漂っていたが、シンジにとってはそんなことなどまったく気にもならなかった。
アスカの一挙一動に、どうしても意識が向いてしまう。
何か言わなくちゃ。何かしゃべらなくちゃ。
そうしないと、この空気には耐えられない。
シンジはそう思っていた。
無味乾燥に近い食事が終わり、食器を片づける頃になっても、シンジはまだそう思い続けていた。
アスカのことが気になる。アスカが思い出したようにちらちらとこちらを見ているのが、すごく気になる。怒っているんだろうか。視線を返したいけれども、それをやったらどうなるか不安でしょうがない。
背中を向けて食器を洗い始めて、初めて少し安堵した。アスカの視線を背中に感じてはいたけれども。
「・・・・ん?」
と、ふとシンジは気づいた。
何だ・・・・?
なにか、何か頭の中で引っかかるものがある。
なんだろう・・・・この感じ。
部屋から出てまずシンジの顔を見て、アスカは何かを言おうとした。
でも、なにも言葉がでてこなかった。
頭の中が真っ白になっている。
いつもの習慣・惰性で椅子には座ったが、アスカ自身そのことに気づいたのは目の前にシンジが料理を並べ終わったときだった。
和食中心のメニューだが、そんなことはどうでもよかった。いつもなら、「アタシはパンとスクランブルエッグ!」と言うところを。
アスカは・・・・考えていた。
どう思っているんだろう。さっきのこと。
いや、どう思っている、じゃなく、怒っているんだろうか。それともあきれているんだろうか。いつもならいろいろと話をするシンジが、こんなに黙り込んでいるんだもの。アタシをまともにみようとしないのも、あきれたからかしら・・・。
聞いてみなくちゃわからない、ってヒカリは言っていたし、アタシもそうおもう。互いの考えがわからない以上、聞いてみるのが一番いいんだろうだけど・・・・でも、こういう雰囲気になると、やっぱり聞きづらい。
そう思いながらも、シンジの方をついちらちらと見てしまう。シンジもそんなアスカの様子には気づいているようだが、何も反応を返してこない。
シンジが無言のまま、アスカと自分の分の食器をもって流しに立った。食器を下げるときさえ、アスカとまともに視線を合わせようとしない。
沈黙が怖い。
空気が重い。
アスカはまさに息の詰まるような思いだった。
何か話さないと・・・・何か・・・・。
と。
「・・・・・あれ?」
ふと、アスカはなにか引っかかるものを感じた。
記憶の片隅で、何かがちかちかと点滅している。
岩の隙間から清流がわき出すように、その点滅は徐々に強さを増していく。一筋の流れが小さな流れになり、それが大きな一本の川となって、アスカの脳裏を浸していく。
そして。
あ・・・・!
アスカは、思わず叫びそうになる自分を必死に押さえた。
同じだ。
あのときと同じだ。
シンジとキスをしたときの、あのときと同じだ。
アタシの裸を見てしまい、謝っていたシンジ。怒ったふりをして、でも気持ちの整理ができていなかったあのときのアタシ。
「・・・・・・」
あのときのアタシの台詞は、とっさに言ったことだった。気持ちの整理ができていなかったけど、そのままの気持ちを初めて言えた時だった。
今は。
自分の気持ちは、はっきりとわかっている。
シンジのことが好きだ。
嫌われたくないけど、でもシンジがそれをどう思っているのかを知りたい。
あのときのアタシからは、成長しているんだ。
・・・・これで、今なにも言えなければ・・・・それは、自分があの時のままでしかないこと、いや、それ以下であるってこと。
そんなことない。
そんなこと、あるわけない。
アスカはテーブルの下で、ぎゅっと拳を握りしめた。
アタシは強くなったんだ。今までのように、誰かに嫌われたくない、でもみんなに好かれたいと思っている訳じゃない。そんな都合のいいことなんてないって、わかったから。
傷つくことを怖がっていちゃ、何も手に入らないって知ったから。。
ヒカリに言われ、そして自分でも納得したじゃない。
だから・・・・だから・・・・。
「シンジ・・・・」
アスカは、思い切って口を開いた。
「・・・・シンジ・・・・」
その言葉に、シンジはぴくり、と反応した。食器を洗う手が、はたと止まった。
「その・・・・あの・・・・」
声が詰まる。言いたい言葉が、でてこない。
ふるえる身体を、押さえつけるようにさらに拳を握りしめる。
「さっきは・・・・ごめんなさい・・・・」
下を向きがちな視線。しかし勇気を振り絞って、シンジの方を見つめる。
その背中は、固まったかのように動かない。
「ほら、アタシ、寝起きが悪いから・・・・」
何を言っているんだろう。
「なんていうの、だから・・・・」
脈絡のない言葉。動かないシンジの肩。アスカは、もどかしさに身をよじらんばかりだった。
「その・・・・覚えて・・・・いる?」
ぴくり、と。
再び、シンジの肩がふるえた。その手に持った皿が、かちゃりとふれあう音が聞こえてきた。
「前にも・・・・同じようなこと、あったよね」
「・・・・」
「ヒカリのお見舞いに言ったとき、同じように、気まずい雰囲気で、それで・・・・」
消え入りそうな声。しかし、アスカはためらいながらも、その台詞を口にした。
「あのとき、アタシが言った言葉・・・・覚えて、いる?」
アスカが話しかけてきたとき、シンジはどう反応していいかわからなかった。
言葉を返すべきだったんだろう。でも、それがでてこなかった。
背中を向けていた姿勢を変えて、アスカに向き直るべきだったのだろう。でも、それができなかった。
黙って、流しのところに立ちつくしていた。
アスカの話すままに、言葉を聞いていた。
そして、おもいだした。
あの、朝のことを。
アスカとの会話。台詞。そして・・・・唇の暖かみ。
シンジは、納得した。
先ほどのもやもやは、これだったのか、と。
アスカの言葉は、さらに続いた。
「あのとき、アタシは言ったよね・・・・」
『・・・・アタシは・・・・シンジなら・・・・シンジなら・・・・いいと思っているから・・・・』
その台詞が、スパークしたようにシンジの脳裏によみがえってきた。
あのときのアスカの姿も、共に思い出された。
かわいく、愛らしく見えたアスカの姿。
「でも・・・・シンジの答え・・・・アタシは・・・・聞いてないから・・・・」
普段の活発なアスカからは想像もつかない細い口調。背中を向けているからわからないが、一体どんな表情で、今その言葉を口にしているのだろうか。
シンジは、心臓の高鳴りがいっそう早くなるのを覚えていた。
「だから・・・・教えて・・・・アタシは・・・・」
一時の無言。そして、アスカの次の言葉が、矢のようにシンジの耳に飛び込んできた。
「アタシの気持ちは・・・・あのときと、変わってないから・・・・」
心臓が、さらに跳ね上がった。手に持った皿を、危うく取り落としそうになった。
「アタシには・・・シンジしか・・・・いないから・・・・」
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