遥かなる空の向こうに

第18話:揺れるキーホルダー


 
「なあ、シンジ」
 昼食が終わった昼休み。いつものように屋上に行こうとしたシンジの元に、ケンスケがそっと近づいてきた。
「あの件、どうなった?」
 あたりに視線を走らせながら、小声でそう尋ねる。シンジはその様子をみて、ケンスケが何を言いたいのかをだいたい察した。
「うん・・・それが、二人ともやっぱりおかしいんだ」
「綾波も、惣流も?」
「うん、ぜんぜん話とか、してないみたいだし」
 一昨日、アスカとレイが喧嘩・・・に近い状況に陥ってから、二人の間にはどことなくぎくしゃくした空気が流れていた。
 毎朝顔をあわせても声を交わさない。互いに居心地悪そうに視線を逸らし、すぐにその場を離れてしまう。
 いつものようにシンジが三人で学校に行こうとしても、アスカが先に家を出てしまっていた。
 学校も、二人は同じように振る舞っていた。シンジを挟んでいるときは短いながらも会話を交わすが、それでもぎこちない言葉の投げ合いで終わってしまう。
 以前、まだシンジ達三人がエヴァに乗っていたころを思い出させるような、二人の間であった。
「しかし、何が原因でああなったんだろうな」
「そう、僕もそれが不思議でならないんだ。アスカがふさぎ込んでいて、それを綾波が心配して・・・・」
 そして、アスカが綾波に怒鳴り声をあげて。
 そこの繋がりが、シンジには分からない。
 どうしたんだろう、アスカ。あんなに怒るなんて、最近なかったのに・・・。
 なにをあんなに怒鳴ったんだろう・・・。
 シンジには、いったい何がどうなっているのやらわからなかった。
「ケンスケ、何か気づいたことって、ある?」
 一方のケンスケは、アスカとレイの関係・・・・シンジを挟んだそれについてはある程度察しがついていた。二人とも、シンジに単なる友達以上の感情を抱いている。そしておそらく、それが原因で、あんなことが起こったのだろうと。
 しかし、それを気づいていないシンジに言うことは、ケンスケにとってははばかられることだった。本人以外の余計な横やりが、事態を更にこじらせることもある、と思ったからである。
 だから、
「んー、まあ、特に気づいたことはないんだけど・・・・」
「けど?」
「とりあえず、シンジ、おまえがしっかりとフォローしてやることが、一番大事なんじゃないかな」
「フォロー?」
「だから、二人の気持ちを察してさ、一番いいと思う行動をとることだよ」
「一番いい行動・・・・でも、僕が何をしても、あの二人のことなんだからさ・・・・結局、原因が分からないと・・・・」
「だからなぁ・・・・」
 内心、ケンスケはシンジの鈍感さにあきれにも近いものを抱いていたが、それでも更に言葉を続けた。
「なんてったって、シンジはあの二人の・・・・」
「ん?」
「・・・・同居人なんだからさ」
 結局、それとなく言うだけにとどめたのである。
「ん・・・・そ、そうだね・・・・」
 シンジはケンスケの言葉の真意を推し量ることなく、そのままに受け止めた。
「同居人だから、か・・・・」
 そのまま、視線を窓の外に向ける。
 青い空の中、白い雲が緩やかに流れていた。
 
 
 時間はその数分前、購買部から戦利品のパンを山ほど抱えたトウジは、御満悦の表情で廊下を歩いていた。
 無論、ヒカリの作ってくれるお弁当はしっかりと彼の腹の中に収まっている。しかしながら、彼にとってはそれでもまだ物足りない気分だったのである。
「ふんふんふん〜♪ ・・・って、あれ、いいんちょーやないか」
「あ、鈴原・・・・って、まだ食べるつもりなの?」
 向こうからやってきたヒカリが、トウジの抱えているパンを見てあきれたような声を上げる。
「しゃーないやんか、いんちょーのメシもうまいけど、わいはこの購買のパンも大好きやからな〜」
 照れたような表情を浮かべるトウジだったが、ヒカリの背後にいる人物を目に留めて、少しびっくりしたような声を上げた。
「なんや、めずらしいな、綾波がシ・・・・いいんちょーといっしょにおるやなんて」
 正確には、レイがシンジの側を離れて別の人と一緒にいることが珍しかったのだが、トウジはそれを言いかけて慌てて口をつぐんだ。一昨日の喧嘩の原因について、とんでもない事を言わないようにヒカリから事情を聞いて釘をさされていたのである。
「洞木さんに、呼ばれたから」
 微妙に表情をかえながら、レイはトウジにそう答えた。
「ええと、その・・・・ちょっと用事があるから、それで・・・・ね」
 ヒカリは妙に歯切れの悪い口調でそう言い、そのあと、トウジの耳を引っ張って小さく耳打ちした。
「この間の喧嘩の原因、ちょっと聞いてみようと思うの。屋上に行くから、碇くんたちが来そうだったら、ひきとめて」
「え?」
「こういう話は、女同士のほうがしやすいから。そんなところに当の本人が来ちゃったらまずいでしょ」
「あ、ああ、そやな」
「鈴原、悪いけど、お願いね」
 ヒカリはそういうと、何を話しているのか不審げな表情を浮かべているレイにむかってぎこちない笑みを浮かべた。
「じゃ、いきましょうか」
「・・・・ええ」
 ヒカリの様子をいぶかしみながらも、レイはその後についていった。
「・・・しかし、ホンマに珍しいわ・・・・あの綾波が、一時でもシンジの脇を離れるなんてなぁ・・・・いいんちょー、いったいどうやったんやろ・・・・」
 トウジの頭をそんな考えがふとよぎったが、しかしすぐに手にもっているパンの山に意識が移ってしまう。
「ま、とりあえず食べてから考えよか〜」
 そうつぶやくと、ヒカリたちが歩いていった方向とは逆の方へと歩きだしていった。
 
 アスカは、ひざを抱え込むようにして座っていた。
 背後の壁に寄りかかり、瞳を閉じ、脳裏の光景を思い浮かべる。
「人がどんなこと考えていようと、どんな顔してようと、べつにかまわないじゃない!」
 どうしてあんな事を言ってしまったのだろうか。
 後悔にさいなまれる。
 あんなこと、考えてもいなかったのに。
 考えていなかったのに・・・・いや、もしかしたら考えていたのかしら。
 アスカはそう考え、次の瞬間ぎょっとした。
 自分では思っていなかったつもりでも、もしかしたら心の奥底で考えていたのだろうか。
 レイがうっとおしい。
 レイが気に入らない。
 レイが邪魔。
 シンジを自分のものにするのに、レイが邪魔。
「そんなこと・・・・ないわよ・・・・」
 自分で自分を納得させるかのようにつぶやく。しかしその口調は、弱々しいものだった。
「そんなことない・・・・」
 でも、とさらに思う。
 もし、自分がそういうことを考えているとしたら。
「アタシは、いやな女・・・・」
 自分が嫌いになってしまう。
 シンジも、レイも、アタシの事を嫌いになってしまう。
「・・・・レイも、こんなことを考えているのかしら・・・・」
 アタシが気に入らないと思っているのかしら。
 アタシをうっとおしいとおもっているのかしら。
 アタシを、邪魔だと思っているのかしら。
「いやだな・・・・そんなの・・・・」
 ひざを抱え込んでいた右腕をポケットに突っ込む。
 指先に当たる冷たい感触。そっと、それを取り出してみる。
 ちゃりん。
 すんだ金属音を立てるそれは、あの日、三人で分けた銀色のキーホルダー。
 目の前にぶら下げて、アスカはそれをじっと見つめた。
「みんなで、一緒にいようねっていったもの・・・・」
「シンジもレイも、大事だもの・・・・」
 風を受けて、キーホルダーがそっと左右にゆれる。
 アスカには、それが揺れ動く自分の心のように思えてならなかった。
 
「それで・・・・碇くんの事で話って、なに?」
 屋上に上がってくるなり、レイはヒカリに問い掛けた。
「それは・・・その・・・・ごめんなさい、あれ、うそなのよ」
「・・・・え?」
「どうしても二人で話がしたかったんだけど、綾波さん、碇くんの側をほとんど離れないから・・・・」
 だから、シンジに関する話がある、といってレイを引っ張り出した。ヒカリはそう言ってレイに頭を下げた。
「うそをついた事は本当にごめんなさい。でも、碇くんがそばにいると話づらい内容だから・・・・」
「碇くんが、いると・・・?」
「ええ。おとといのアスカとの言い争い・・・・そういえば、私の言いたい事はわかるわよね」
「・・・・・・」
 レイは、ヒカリのその言葉にはっと体を硬くした。
「一体、なにが原因だったの?」
「・・・・・・」
 レイは、黙っていた。
 はなすことができなかった。
 レイのシンジへの思い。
 レイのアスカへの思い。
 そしてアスカの、シンジとレイ自身に対するそれ。
 それらをヒカリに話す事に、ためらいがあったから。
 話してしまう事で、返ってくる反応がどういうものなのかわからなかったから。
 だから、レイは黙っていた。
 以前は単に人と接触する事を避けていたがために口数が少なかったのだが、今回の反応は今までのそれとは異なっていた。
 そしてそんなレイを見て、ヒカリは小さくため息をついた。
 こんな所はアスカとそっくりね・・・・自分自身の本心を話すのに、誰かがちょっと背中を押してあげなきゃいけない所なんて・・・・。
「碇くんの事でしょ。綾波さんとアスカが言い争った原因は」
「・・・・・・」
「アスカは碇くんの事を大事に思っているものね。なによりも、誰よりも、おそらく自分自身のことよりも」
「アスカ・・・・」
 レイはこの場にいない少女の事を思い浮かべ、小さくその名をつぶやいた。
 シンジの事を好きなアスカ。
 自分と同じく、シンジの事を好きなアスカ。
 最近何か悩んでいる様子のアスカ。
 宝玉のように蒼い、蒼い瞳を曇らせているアスカ。
「綾波さん、あなたも同じなんでしょ?」
「・・・・え?」
「綾波さんも、アスカと同じように、碇くんの事を大事に思っているんじゃないの?」
 ヒカリはずばり、たずねてみた。
 レイの態度から見れば彼女がシンジの事を好きなのは一目瞭然である。しかし、それを本人の口から聞いた事は今までなかった。
 彼女もアスカと同じ。アスカも、自分の意志をはっきり口にしたのはこの間の事。
 当事者の三人の中だけで解決すべき問題だけど、それを聞いてあげる人もおそらく必要だろう。抱え込んでいる悩み、思い、それらを吸い出す事のできる人が。
 ヒカリは、それを自分の仕事だと思っていた。
 おせっかいかもしれないけれど、それが、アスカの親友であり、またレイとも少なからず親しい間柄である自分の役目だと思っていた。
 だから、たずねてみた。
「本当の事を言ってみて。綾波さん、碇くんの事が好きなの?」
 しばしの沈黙。二人の間を、からりと晴れ上がった午後の風が吹きぬけていく。
 やがて。
 こくりと、レイはゆっくりと首を縦に振った。
「わたしは、多分・・・・いいえ、多分じゃなく、碇くんが好き」
 
 アスカは、その台詞を聞いた瞬間、顔色をわずかに曇らせた。
 屋上に人が来たとき、なぜかしらないけどとっさに隠れた。
 それがヒカリとレイだった事も驚きだったが、話の内容も更に驚きだった。
 ヒカリがレイに、シンジの事でたずねている。自分に黙って、レイと話をしている。
 なぜか、すこし裏切られたような気がした。
 ヒカリは自分の味方だと思っていたのに。
 自分の事を助けてくれると思っていたのに。
 憂いの色が更に増した。
 ぎゅっと、足を抱える腕に力が入った。
 
「・・・・でも、それと同じくらい、アスカの事も好き」
 レイは一言一言、かみ締めるようにそう言った。
「・・・・?」
「わたしは、あなたの言うとおり碇くんが好き。一緒にいたい。同じ時間を共有したい。でも、それと同じくらい、アスカとの時間も大事にしたい。アスカを、大事に思っている」
「アスカも、碇くんの事が好きだって、知ってるわよね?」
「ええ」
「じゃあ、最近どうしてアスカが悩んでいるかは?」
「・・・・わからない」
 レイは嘘をついていない。ヒカリにはそれがわかっていた。そしてだからこそ、アスカとレイの二人がなぜだかかわいそうに思えてならなかった。
 互いが互いを思う心。しかしそれがかみ合っていないがゆえに、アスカは悩んでいる。そしてレイはあまりに純粋であるがゆえに、その悩んでいる理由に気づかない。
「でも、わたしはアスカがどうして悩んでいるのかを知りたかった。何が原因で悩んでいるのか、気になって仕方なかった」
「それは、綾波さんがアスカのことを心配しているからよ」
「・・・心配?」
 レイの脳裏に、なにかぼやけた記憶がよみがえった。
 だれかに、同じような台詞を言われたことがある。
『シンジ以外の奴の心配なんぞ、めずらしいなぁ』
 鈴原トウジ。確か、彼に言われたような記憶。でも、よく覚えていない。
『・・・・よく、わからないわ』
 そう、答えたような気がする。
 でも、あの時分からなかったものが、今は分かるかも知れない。
 他人を心配する想いとは、こういうものなのか、と。
「そう・・・・これが、心配するってことなの」
「私は二人が碇くんを好きだってことについては何も言えない。三人の間のことだから、何も言えないし、何も言う資格はない。でも、これだけは分かって。あなた達2人が、理由はどうあれぎくしゃくした関係をしている今、アスカも綾波さんも辛いでしょう。でも、一番辛い思いをするのは誰? 仲の良かった二人が、まともに顔も会わせないでいる状況を見たくないのは、だれ?」
 ・・・・碇くん・・・・。
 レイは、瞬間的にシンジの顔を思い浮かべた。
 三人でいるときに笑っていたシンジの顔。楽しく食事をしていたときのシンジの顔。そして、苦悩するアスカを見ていたときのシンジの顔、今朝の、心配そうにしていたシンジの顔。
「碇くん・・・・」
 ぎゅっと、胸元で手を握りしめた。
 ヒカリはそんなレイの様子をじっと見つめていたが、
「心配も、思いも、一方通行じゃだめ。その思う心の一部分、ほんの少しでいいから、綾波さんに関わる他の人の側に立って考えることをしてほしいの」
「私に、関わる人の側に立って、考える・・・・」
 何人もの知り合いの顔が、レイの頭をよぎっていく。
 トウジ、ケンスケ、ヒカリ、冬月、ゲンドウ、リツコ、ミサト・・・・そして、アスカ、シンジ。
「よくわからないけど・・・・」
「けど?」
「わからないけど、それが大事だってことだけは、分かった」
「すぐに分かろうとしても、無理だから。今は、それでいいの」
 ヒカリはにっこりと笑って、レイの手をとった。
 その行為に、レイは少しばかり驚く。しかしヒカリは何でもないかのように、
「さ、そろそろ昼休みが終わっちゃうから、教室、戻りましょ」
「・・・・ええ」
 暖かな人のぬくもりに少し戸惑いながらも、レイはヒカリのなすがままに、引かれていく。
 屋上の扉がきしむように閉じられ、そこには吹き抜ける風の音だけが残っていた。
 その、風の音に混じって。
 
 ちりぃん。
 
 澄んだ金属音が、響いた。
 アスカが壁際から立ち上がった拍子に、ふれあうようにしてキーホルダーが鳴り響いたのである。
「ヒカリ・・・・」
 アスカは、ヒカリに裏切られたなどと考えたことをひどく悔いていた。
 自分の味方だとかそういうことでなく、みんなのことを考えて行動しているその姿を見て、自分のことしか考えていない自分がひどく恥ずかしく見えた。
 相手の側に立って、ものを考えてみる。
「一方通行じゃ、思いも届かない・・・・」
 ここしばらくのアタシって、ずっと勝手に考えてただけだったわね。
 それじゃ、相手に通じようがない。
 盗み聞きみたいな感じになっちゃったけど・・・・
「レイ、ヒカリ・・・・ありがと」
 そういって、幾分軽い足取りで、教室へとアスカは階段を駆け下りていった。
 時折、手にもっていたキーホルダーが揺れて、心地よい金属音を響かせていた。




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