遥かなる空の向こうに

第17話:錯綜する心、届かぬ思い



「そうそう、それで鈴原ったらね」
「なんやいいんちょー、それはいわんやくそくやろが〜」
「なになに、ぜひそれは聞きたいもんだね」
「ケンスケ・・・・そんなこと聞いちゃ、トウジがかわいそうだろ・・・・うぷぷ」
「センセまで笑うな〜!!」
 ・・・・ヒカリの退院パーティの開場となったシンジ達の部屋は、見事なまでに争乱の坩堝と化していた。
 始まった当初こそは誰もが料理に集中しており、まともな会話はほとんど成立しなかったものの、一時間ほどの間に空腹感を埋め合わせてしまえばそこはそれ、話好きな中学生である。たわいもない雑談を交えながら、時間は刻一刻と過ぎていく。もっとも、約一名は口と手の動きを止めることなく料理を消化していっているのだが。
 テーブルを囲んで、ヒカリを中心にケンスケ、トウジ、シンジが固まり、レイはシンジの横で、会話を聞きながらペンペンにジャーキーを食べさせている。彼らの傍らには堆く積み上げられたケンスケのパーティグッズ、そしてその横で、ビールの缶の中に埋もれて高いびきのミサト。この日のために有給をとったらしく、いつもにも増しての飲みっぷりだった。
 誰もが、その時間を楽しんでいた。
 ・・・・ただ一人、アスカを除いて。
 出された料理にもほとんど手を付けることなく、ちびちびとオレンジジュースを飲む。話しかけられれば答えを返すものの、決して自分から話に加わろうとはしない。話の輪から一つはずれた位置に、ぽつんと座っている。。
 いつもの明るいアスカとは違うその態度に、誰もが不審を抱いてはいた。ただケンスケもトウジも、今日一日中アスカの様子がそんなものであったので、大したことはないだろう、とさして気にすることもなく目の前のことに没頭していた。
 事情を知っているヒカリを除いて、だが。
 昼間の屋上の会話。ヒカリは、それがアスカの今の表情の原因だろうと推測しており、大まかにおいてそれは当たっていた。
 だったら、自分が口を出すことじゃない。
 自分が介入して良いことじゃない。
 ヒカリはそう思い、そのことについてあえて何も言わなかった。アスカにも、シンジにも、その他の誰にも。
 だって、だれかに助けてもらってやるべきことじゃないもの。
 アスカの苦しんでいる理由は、自分が解決できるものじゃないから。
 辛いことかも知れないけど、お節介を焼いたら、あとでまたいろいろ問題が起きるから。
 背中を押すことはできても、代わってあげることはできない。
 だから、ヒカリは惚けたような表情のアスカに声をかけなかった。かけられなかった。
 かわりに・・・・
「鈴原! あれだけ食べたんだからもうお腹いっぱいでしょ! アスカの皿にまで手を出すなんて真似しないで、少しは行儀よくしていなさいよね!」
 小気味いい音と共に、そろそろと手を伸ばしかけていたトウジの腕を叩いたのだった。
 
 複雑な心境。
 恐れ。
 失ってしまいたくない。
 でも、いまのままではいや。
 どちらも怖い。
 苦悩。
 聞くのも怖い。
 でも聞いておかなくちゃいけない。  
 だって、そうしないとみんな後悔するから。
 後悔はしたくない。
 でも、結果を知るのは怖い。
 堂々巡り。
 複雑な、心境・・・・。
 ・・・・アスカは、ぼんやりとそんなことを考えていた。
 気がつけば、ちらちらとシンジを見つめている。盗み見るように、その一挙一動を見つめている。その視線を感じるのか、シンジが時々こっちを振り返るが、その時はあらぬ方向へ目を逸らす。そしてしばらくすると、また瞳はそっちを向いている。わざとらしいかも知れないけど、見つめていることを知られることすら、今のアスカには恥ずかしいことのように思えた。
「碇くんがアスカのことをキライだって、本人から聞いた訳じゃないでしょ!」
 それはそう。確かに、シンジは自分のことを嫌いじゃないのかもしれない。
 でも、それはイコール自分のことを好きだと言うことでもない。
 シンジはやさしいから。
 だから、自分のことを気遣ってくれているだけかも知れない。
 
『私のこと、好き?』

 
 以前の自分が、執拗なまでに人に認められることを求めていたから。
 だから、それを見ているシンジは、自分を気遣っているだけかも知れない。
「・・・・こんな考え、ヒカリが聞いたらまた「それが勝手な思いこみ」っていうだろうけどね・・・」
 誰に呟くとでもなく、アスカはそう自嘲気味に笑う。
 でも、どうしても考えてしまう。
 それこそ、今の自分にシンジのいない生活は考えられないから。
 万に一つ、嫌いだといわれてしまったら。その時、自分がどうなってしまうか分からない。
 見えないヒビの入ったガラスの心。
 耐えられない衝撃を受けるくらいなら、先延ばしにした方がいいのかもしれない。
 アスカは、ついついそう考えてしまう。
 しかし・・・・。
 今、自分の視線の先にいるシンジ。その横に、レイが座っている。
 トウジやケンスケと話しながら笑いを浮かべるシンジを見つめるレイの顔は、喜びにあふれていた。
 シンジの側に座っていられるから。
 その気配を、近くに感じていられるから。
 ・・・・うらやましい。
 アスカはそう思う。
 今の自分にはできないまっすぐな思い。それを隠すこともない。いや、隠すと言うことを知らないその姿が、アスカにはうらやましかった。
 自分が卑屈に思えてしまう。
 こんなことを考えている自分が。
 傷つくこと、傷つけることが怖い。
 複雑な心境。
 堂々巡り。
 アスカはまた、思考に沈んでいく。
 洞窟の中で出口を探す旅人のように。
 その答えは、まだ見つからない。
 
 シンジは、おかしいと感じていた。
 漠然とした印象ではあるが、そう感じていた。
 アスカの雰囲気がおかしい。
 今回のパーティはヒカリの退院祝いと言うこともあって、ヒカリの一番の親友であるアスカが楽しみにしていたはずだった。
「がんばって料理作ってよね!」
 シンジはそのことを知っていたから、アスカのそんな頼みを快く引き受けたのだ。
 しかし、それを喜ぶはずのアスカの笑顔がない。ずっと沈んでいる。
 なんでだろう。
 シンジは不思議に思っていた。気になって仕方がなかった。
 いつもの明るいアスカじゃない。
 苦しんでいるのかな。
 なにを抱えているんだろう。
 知りたい。
 ・・・・そして、できれば助けてあげたい。
 そう思うのは、傲慢なんだろうか。
 余計なお節介なんだろうか。
 でも、気になってしょうがない。
 そう考えて、シンジは不意に軽い驚きにとらわれた。
 自分が「気になってしょうがない」なんてことを思うようになっていることにだ。
 確かに今まで、いろいろなことに意識を傾けてきた。でも、それはあくまで「もの」もしくは「言動」に対してだけで、「ヒト」に対する意識の傾けではなかった。
 唯一、「綾波レイ」という「ヒト」を気にしていたことはあったが、それは今回のものとは違う。何というか・・・・そう、レイに対しては、現実から消えてしまいそうな心配。そんな感じだった。確かに今も、シンジはレイのことを気にかけている、
 そう、アスカとは別の感覚ながら、レイをも、シンジは心配していた。
「碇君?」
 ふいに、名前を呼ばれた。
 ふっと視線を横に向けると、レイが心配そうな顔で自分をみつめていることに気づいた。
「どうか、したの?」
「あ、いや、何でもないよ」
「・・・・そう、それなら、いいけど」
 首をわずかに傾け、レイはシンジが今まで見つめていた視線の先を追う。そこにアスカがいることにどうやら気づいたようだ。しかし、シンジはそれを半ば無視するように思考の淵に沈んでいった。 
 助けてあげたい、っていう気持ち。
 確かに前、アスカがまだ心を閉ざしていたときに、同じような気分にはなった。
 でもあれは、アスカが元気になってくれればいい。そう考えただけだった。
 今回は、違う。
 もし明日、アスカが何事もなくいつものアスカに戻ったとして、でも僕はアスカが何を悩んでいたのかを知りたい。
 シンジは瞳を閉じた。
 瞼の裏で、アスカが笑っている。
 その笑顔を、なにがあんなに暗くさせていたのか・・・。
 本当に悩みはなくなったのか。
 そう考えてしまうだろう。
 だから、今何を悩んでいるのか、僕はそれを知りたい。
 こんなことを考えるのは、なぜなんだろう・・・・。
 瞑目したまま、シンジはそう考え続けていた。トウジの話し声も、ケンスケの笑い声も、その耳には聞こえなかった。
 当然、レイが自分の側を離れ、アスカにそっと近寄っていったことも。
 
 レイ自身、アスカのことが気にならなかったわけではない。
 特に昨日、ケーキを買いに行くと言って別れてから、帰ってきたアスカの様子がおかしかった。
 シンジからのプレゼントであるエプロンを身につけても、無気力そうだったその顔。
 いつもの明るい雰囲気と違った、無言のままの夕食。
 デザートのケーキ。一つだけあったチェコレートケーキ。アスカが好きで買ってきたのだろうと思って、残しておいた。それなのに、アスカはそれを辛そうに食べていた。
 何があったんだろう。
 レイは、アスカの様子の変化、その原因が分からなかった。
 結局の所、今のレイにはそれを推測することはできない。同じ人を好きになった相手。自分が幸せであれば、もう一方はそれを見ているだけの状況におかれる。そういった経験のないレイに、それを理解させることはできなかった。レイも、そのことに気づかなかった。
 ふっと、横を見る。シンジが、いつの間にかトウジたちの話の話から外れ、なにやら考え込んでいた。
 碇くんも、何か悩んでいる。
 なんだろう。
「碇くん?」
 レイはそっと、名を呼んでみた。
 気づいたのだろう。シンジが彼女のほうを振り返る。
「どうか、したの?」
「あ、いや、なんでもないよ」
 そんなレイの問いに、笑顔を作って、シンジはレイに対応する。
 でも、それは偽りの微笑み。
 そして、上の空の返答。
 レイにはそれが分かった。
 だから、シンジが再び考えに沈んでしまい、自分の問いに答えてくれなさそうなことを確認した後、彼が今まで見つめていた方を見てみた。
 そして、はっと胸をつかれた。
 アスカが、そこにいた。
「あ・・・・」
 碇くんも、自分と同じようにアスカのことを心配している。
 せっかくのみんなの集まりでも楽しめないくらい。
 まるで自分のことのように悩んでしまうくらい。
 レイのことを気にするよりも、もっと深く・・・・。
「碇くん・・・・アスカ・・・・」
 レイはいつしか、胸を締め付けられるような思いにとらわれていた。
 それがアスカのことを心配してなのか、それとも今のシンジの姿を見てなのかはわからない。
 そもそも、悩みによるものか、悲しみによるものなのか、それもわらかない。
 知りたい。
 レイはそう思った。
 アスカを心配する気持ちよりも、そちらのほうが強かった。
 アスカに話を聞いて、なんで悩んでいるのかを知りたい。それで胸のもやもやが晴れれば、アスカのことを心配しているから胸が締めつけられるのだろう。
 ・・・・でも、もしそうじゃなかったら・・・・。
 考え込んでいるシンジを邪魔しないように、そっとレイはその場を離れた。
 そして、アスカの傍らへと近づいていった。
 
「アスカ?」
 傍らで不意に自分の名を呼ばれて、アスカは文字どおり心臓が跳ね上がるかほどの驚きを感じた。
 いつのまにか、レイが自分の傍らに座っている。
 心配そうなその表情。真紅の瞳が、真っ直ぐに自分を見つめている。
 それが直視できなくて、アスカはわずかに視線を逸らした。
「どうしたの?」
「・・・・なんでもないわ」
 レイの言葉に、ぶっきらぼうに返事を返す。
 そして、そんな自分が嫌になる。
「なんでもないって、そんな顔をして」
 レイはアスカのそんな様子を見て、さらに問いかける。
 視線を逸らす様子。
 うつろな口調の返事。
 すべてが、さらにレイの不安をかきたてる。
 なにがあったの?
 どうしたの?
 しかし、その思いはアスカには届かない。
 何度か同じような言葉の応酬が続き・・・・。
「いいかげんにして! アンタには関係ないでしょ!!」
 室内に、アスカの怒声が満ちた。
「人がどんなこと考えていようと、どんな顔してようと、べつにかまわないじゃない! アンタにそこまでいわれる筋合いは・・・・」
 憤然と立ち上がり、そう言いかけて、アスカは自分の言葉の意味にやっと気づいた。
 室内の全員が、自分を見詰めている。
 呆然とした顔のトウジ、ケンスケ。驚愕の表情を浮かべるヒカリ。何が起こったのかわからず、アスカを見つめるシンジ。そして・・・・。
 レイが、無言で彼女を見上げていた。その瞳に、わずかな驚愕と悲しみの色。
「・・・・あ、ええと・・・・」
 とっさに、アスカはどう対処していいかわからない。
 しまったとおもったが、もう遅い。
 なんでこんなことを言ってしまったのだろう。
 レイのせいじゃないのに。
 自分が勝手にふさぎ込んでいるのに。
 それを、心配してくれているのに。
 なんで、こんなことを言ってしまったんだろう。
 後悔の念が、脳裏をめぐる。
 ・・・・同様に、レイも惚けたように動きを止めていた。
 なんと言っていいのか分からない。
 なんでそうなったのかもわからない。
 ただ、アスカの悩みが何なのかを知りたかっただけなのに。 
 それが自分の心のもやもやと関係があるのか知りたかっただけなのに。
 いけなかったのだろうか。
 瞳を伏せ、レイは立ち上がった。
「・・・・ごめんなさい・・・・」
 そう、言うのが精一杯だった。
 そのまま、立ちすくむアスカに背を向けて扉のほうへ向かっていく。
「あ・・・・」
 アスカはそれを追おうとしたが、足が動かなかった。
 ぱたん。
 かなしげな響きを立てて、扉が閉じられる。
 それを止められるものは、誰もいなかった。




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