遥かなる空の向こうに

第16話:とどまるか、踏み込むか



「さあ、アスカ、どういうことなの?」
 人気のない昼休みの屋上。ヒカリはそう言ってアスカに詰め寄った。
「どういうことって言われたって・・・・」
 元気なく返答するアスカ。そんな態度が、ヒカリをますますいらだたせる。
「だから、そんなにしょんぼりしている理由は何なのか、って私は聞いているの。普段のアスカならそんな沈んだ声、出さないわよ!!」
「・・・・うん・・・・なんでもないのよ。なんでも・・・・」
 内容とは裏腹に、アスカの顔はやはり沈んでいる。
 ヒカリはそんなアスカの様子をしばらく眺めていて、アスカが話し出すのを待つことが無駄であると気づいた。しばらく、逡巡するように宙の一点を見つめていたが・・・・。
「綾波さんのこと?」
 ・・・・ぴくり、とアスカの肩が小刻みに震えた。
「碇くんのこと?」
 今度は、傍目にも分かるほど身体が震えた。そんなアスカの様子を見て、ヒカリはやっぱり、という表情浮かべた。
「そうなの。なにか、あったのね。だから朝からあんなに・・・・」
   
 時間は遡り、朝の教室。  
 退院したヒカリが教室に入って来ると、懐かしさに笑顔を見せる級友たちがたちまち彼女を取り囲んだ。
 「口うるさい委員長」と煙たがられてはいたが、それでも献身的にクラス運営に尽くしてくれている彼女には、軽口を叩く仲間はいても反感を示す人間はいない。とりわけ今は、
「いいんちょー、だいじょうぶか?」
「あ、うん、ありがとう、鈴原」
 まるで姫君を守る騎士のように側にトウジが・・・・あのヒカリともっとも口げんかの絶えなかったトウジが彼女の世話をしているのだ。文句のつけようもない。
 ヒカリは声をかけてくれる一人一人に笑顔で返事をしていたが、ふと、本来真っ先に声をかけてくるべき人のいないことに気づいた。
「・・・・・・?」
 集まる人垣の間から必死にクラスの中をさがしだし・・・。そして、見つけた。自分の席に座り、ぼんやりと外を見つめている少女の姿を。
「アスカ!!」
 ヒカリが声をあげて呼ぶと、しばらくしてアスカははっと振り向いた。そしてそこにヒカリの姿を見て、
「あ・・・・ヒカリ、おはよ!!」
 一瞬の後、顔に笑みを浮かべながら彼女のほうに寄ってくる。
「やっと学校出てきたね。まってたんだから!」
 さもうれしそうにアスカはヒカリの手を取ったが、しかしヒカリは、そんなアスカの仕草の一つ一つにどこか憂いの色が現れていることに気づいた。
 どうしたの、アスカ。何か変だよ。
 ヒカリはそう問いかけようとして、ふっと口をつぐんだ。
 アスカの視線が、ヒカリではなく、その背後に注がれている。先ほどまでのぼんやりしたものでなく、またヒカリが話しかけてきたときのように無理に作った笑顔でもなく。形容しがたい様子・・・・強いて言うならば苦痛にあふれた光をたたえて。
 不審に思ったヒカリは、背後を振り返ってみた。
 別段変わらぬ普通の光景。クラスのあちらこちらで小さな集団が雑談を交わし、笑いさざめく声が聞こえる。そして黒板の横では週番の・・・
「綾波、悪いけど花瓶の水、替えてきてもらえるかな」
「うん、わかったわ」
「その間に、僕が黒板と教卓を掃除しておくから」
 ヒカリはそこに、レイとシンジの姿を見つけた。熱心に週番の仕事をするシンジと、それを手伝うレイの姿。アスカの視線は、そこに注がれていたのだ。
「・・・・・・」
 アスカの顔をじっと見つめてみる。
 苦悩。
 憂鬱。
 悲しみ。
 さまざまな感情を交えた色を見て取れる。
 しばらくアスカはじっとそちらを見つめていたが、ヒカリの視線に気づいたのだろう。
 あわてたようにぱっと表情を作ると、
「さ、まだ足、辛いんでしょ。あっちで座って、話、しようよね」
 そういって、ヒカリの手を引っ張って席へと連れていった。
「・・・・・・アスカ・・・・」
 前を向いて歩くアスカの表情は、ついていく格好のヒカリには見ることができない。
 しかし、彼女の腕を引っ張るアスカの掌は、いつもよりも強い力で握りしめられていた。
 ・・・・何かを耐えているかのように。
   
 無味乾燥な会話。
 ヒカリは何となくそういう思いを抱いていた。
 話の端々に、アスカの心がそこにないことが見えていたからだ。
「アスカ?」
 そう問いかける度に、彼女ははっと振り返り、
「あ、ごめん、なんだっけ?」
「ごめんごめん、ちょっと考えごとしてたの」
 と笑いながら謝り、ヒカリの話を聞き、そして自分も喋る。
 しかし、それもしばしの間のこと。
 ぼんやりと外を見つめ、宙に視線をただよわせ、そして、時折教室の一点・・・・シンジの席、またレイの席に視線を向けているのだ。
 何度か問いかけようとした。
 しかし、聞けなかった。
 騒がしいクラス内とはいえ、だれかが聞いていると困る・・・・そう考えたからだ。
 おそらく、というかほぼ間違いなく、アスカの悩みはシンジとレイのこと。
 本人たちのいるその場で、だれかが騒ぎ立て出もしたらまずいかもしれない。
 ヒカリはそう思って、アスカの様子を気にしながらも、そのまま待った。
 ・・・・そして、昼休み。
 食事を始めたシンジたちをよそに、ヒカリはアスカを屋上に連れ出した。
  
「で、碇君と綾波さんのことで、一体なにがあったの?」
「・・・・・・」
「どんなに悩んでもそれを他人に見せるはずのないアスカがそこまで悩むなんて、何があったって言うのよ?」
「・・・・・・」
 ヒカリが何を尋ねても、アスカは答えない。うつむき、黙り込んだまま。
「アスカ。私たち、友達よね」
「・・・・・・」
「自分の中で全部抱え込んで、どうするつもりなの?」
「・・・・・・」
「確かに私じゃ何も力になれないかも知れないけど」
「・・・・・・」
「それでも、だれかに話をすることで気分が楽になるかも知れない。解決策が見つかるかも知れない」
「・・・・・・」
「アスカにとって私は、悩みを話すことすらできないほどの相手なの?」
「・・・・そんなこと、ない・・・・」
 かろうじて、アスカはそう声をしぼり出した。
「じゃあ、話してみようよ、ね、アスカ」
「・・・・・・」
「二人で考えようね。すこしは、楽になるよ」
「・・・・うん・・・・」
 小さくうなずいたものの、それきり、またアスカは黙り込んでしまう。
 ためらい。
 恐れ。
 そんなものが、アスカの心の中で渦巻いている。
 それを感じたのだろうか。
 ヒカリは、ズバリ、と核心から突いてきた。
「アスカ、まずはっきり聞いておくわ」
「・・・・・?」
「碇くんのこと、好き?」
「え・・・・」
 ヒカリの言っている意味が咄嗟には分からずに、アスカは言葉に詰まった。
「今回の悩みもそれなんだろうけど、まず聞いておかなきゃ。今まではっきりと、アスカの口から聞いたことがなかったからね。どうなの、アスカは、碇君のことが好きなの?」
 ・・・・シンジが好き。
 それはアスカの心の中では当然のことであった。しかし、それをまだ、シンジとレイ以外の・・・・当事者となっている人以外には、まだ話していなかった。
 たとえ行動や仕草で気づかれても、「気のせい」と逃げることができたから。「何でシンジなんかを!」と、自分の心を偽ることができたから。
 ・・・・でも、それではいけないのよ。
 ヒカリは、言外にそう匂わせていた。自分の心にウソをついていたら、ダメ。だれかにはっきりと意志を伝えることで、踏ん切りをつけてしまおうよ。アスカには、そう言っているように感じられた。
「・・・・どうなの?」
「・・・・・・・・うん・・・・・・・」
 消え入りそうなか細い声。屋上を吹く風に吹き飛ばされてしまいそうな声で、しかしアスカはヒカリにそう言った。
「・・・・アタシ・・・・・シンジの・・・・こと・・・・好きなの・・・・・」
「・・・・そう・・・・」
 ヒカリは、笑みをたたえていた。アスカが自分の言わんとすることをわかってくれたこと。自分にそれを打ち明けてくれたこと。色々なことが混じっていたが、とにかく、ヒカリはそれらがうれしくて、笑みを浮かべていた。アスカにとってもその笑みは、ありがたいものだった。
「それで?」
「・・・・だから・・・・レイと、シンジが一緒にいるのを見ると・・・・不安になるの。レイとシンジが楽しそうに話していると、胸が痛いの。レイがシンジを独占しているように思えて、悔しいの。・・・・アタシって、イヤな女だって思うわ。レイはいい娘なのに。友達なのに。それなのに、そんなレイに嫉妬している自分が、イヤになるのよ・・・・・」
 泣き出す、一歩手前の顔。そして、嫌悪の色。アスカは、そんな表情で、言葉を継いだ。時折声が詰まるのは、感情の高ぶりを必死に抑えようとしているからだろうか。
「・・・・碇くんは、そのことについて何か言ってるの?」
「・・・ううん。何も、アタシはシンジに聞いてないから。聞くのが怖いから。だから、何も・・・・」
「何で、聞こうとしないのよ」
「だってヒカリ、シンジがアタシのことを好きかどうかも知らないのに、勝手に嫉妬しているなんてバカみたいじゃないの! だから・・・・」
「ちょっと待って、アスカ」
 ヒカリは、アスカのそんな言葉を遮った。
「好きかどうかも知らないって・・・・・・・まさかアスカ、碇君自身がアスカのことをどう思っているかも、聞いてないってことなの?」
「・・・・うん・・・・」
「・・・・・・」
 絶句。そして、はあっ、とヒカリは大きくため息をついた。
「・・・・いい、アスカ」
 ぐぐっとアスカに顔を近づけ、そのままの勢いで、言葉を発する。
「もしかしたら碇君が好きなのは綾波さんかも知れない。それとも、もっと別のだれかかも知れない」
「・・・・・・」
 途端に、アスカの顔が悲しげにゆがむ。ヒカリはしかしそれを無視して、
「でも、アスカだってその中にはいっているのよ。碇君が好きかも知れないだれかに」
「・・・・・・でも、アタシはレイのことを嫉妬するイヤな女なの! だから、シンジもきっとそう思っているわ!」
「それを碇君自身が言った訳じゃないでしょ!」
 突然、ヒカリはそう叫んでアスカの肩を大きく揺さぶった。
「実際に聞いたの? 「アスカなんかキライだ」って碇君が言ったの? そうじゃないでしょ? それは、アスカの勝手な思いこみよ。碇くんはああいう人だから、感情表現があまりないけど・・・・だから、アスカが勝手に想像してるだけなのよ、きっと。心を通じ合わせるなんて、よっぽど互いのことを分かり合っていなくちゃ無理。だから、それをできる自信がなければ、結局のところ言葉で聞いてみなくちゃ本当のところは分からないわよ」
 そう言って、じっとアスカの顔を見据える。アスカはそれを制止できず、つい、と顔をそむけた。ヒカリのまっすぐな視線が、今のアスカには痛かったから。
 ヒカリの言っていることは、おそらく正しい。
 でも、アタシにはそれができない。シンジに聞いてみること。それが、できない。
「だって・・・・アタシ、怖いの・・・・シンジがもし本当にアタシのことをキライだったら・・・・はっきりと聞いて、「キライだ」なんて言われたら・・・・今の関係すら、壊れちゃう・・・・。アタシ、それが、怖いの・・・・」
「今のものを失うことを恐れていて、何か進展する?」
 アスカは、そのヒカリの言葉にはっと胸をつかれた。失うことを恐れていて、何か進展する・・・・・?
「確かに、碇くんの反応を聞くのは怖いでしょうね。だって、人の心なんて目で見えるものじゃないから。期待通りの答えが返ってくるものじゃないからね。でも、それじゃ今のままの状態が続くだけよ」
「・・・・・・」
「で、アスカは今のままがいやなんでしょ?」
「・・・・・・」
「だったら、聞いてみるしかないわ。逃げてたら、問題は解決しない」
「・・・・ヒカリは、強いね・・・・」
 アスカはぽつり、とそう呟いた。
「そこまで言いきること、アタシにはできないわね・・・・」
「・・・・自分も、そうだったから・・・・」
 言葉に、苦笑いが続いた。
「鈴原のことで、いろいろとあったから・・・・今は安心しているけど。ほら、あれも碇くんと一緒で、すごい感情表現が苦手だったから・・・・」
 わずかに頬を染めて、ヒカリはそう言った。アスカはその顔を横目に見て、綺麗だ、と思った。愛する者、愛される者の顔だと、思った。
「・・・・うん・・・・ヒカリの言いたいこと、何となく、分かった気がする・・・・」
 そう言って、そむけていた視線をヒカリの顔に戻した。まだ声は小さく弱々しいけれど、それでも、先ほどまでの鬱屈した表情はわずかにゆるんでいた。
「まだ、ちょっと怖いけど・・・・」
 ヒカリはその様子を見て、安心した。朝のぎこちない笑みではなく、心配げだが心からの笑みが、アスカの顔にあったからだ。
「がんばるのよ、アスカ。今のままの状態を受け入れるか、それともそこからさらに一歩進むかは・・・・誰でもない、アスカ次第なんだからね」




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