遥かなる空の向こうに

第10話:心を駆けるそれぞれの思い



「お帰りなさい、ミサトさん」
 夕食の用意をしながら、シンジは部屋にはいって来たミサトにそう挨拶をした。
 ミサトはペンペンを連れ、手にはビールを山のように抱えている。
「また今日も飲むんですか?」
 あきれたようなシンジの口調に、
「仕事の後のビールがおいしいのよねー、特に」
 ミサトは笑いながら一本を手にとり、缶を開けてぐいっと飲み干した。
「かーっ、うまいっ!!」
「・・・・全く、ミサトは「狂」がつくくらいお酒が好きねぇ。そんなんじゃ、加持さんに嫌われるわよ」
 アスカが、シンジのつくった料理を卓上に並べながらそう突っ込む。
「いーのよいーのよ。加持の奴はこんなワタシでいいって言ってくれてるし、それに、加持と酒とどっちをとるって言われたら・・・・」
「・・・・言われたら?」
「私は、酒をとるわね〜」
「・・・・・・」
 アスカは一瞬、絶句して立ちつくした。その隙に、ミサトは卓上のおかずを一口、かすめ取ってぱくっと食べる。
 からかわれたことに気づいたアスカは、激昂してミサトに迫る。
「あーっミサト!! 何すんのよせっかくの料理を!!」
「いいじゃないの、どーせこれから食べるんだから」
「そう言う問題じゃない!! せっかくシンジがつくった奴を!!」
「まあまあアスカ。まだまだおかずはあるんだから、そう目くじらたてなくても・・・・」
「甘いわ、シンジ!!」
 取りなすように口を挟んだシンジに、アスカはそうきり返した。
「ミサトの行儀の悪さは筋金入りよ!! こういうときにしっかりと言っておかないと、ますますひどくなる一方よ!!」
「・・・・そうかなぁ・・・・」
「そうに決まってるわ!」
「でも・・・・アスカも、つまみ食いのクセ・・・・直さないと・・・・さっきみたいにサンドイッチを食べてると・・・・」
「う゛・・・・それは・・・・」
 冷静にシンジに指摘されて、アスカは言葉に詰まった。しかも、
「あらまー、二人とも仲がいいわね〜」
 ほろ酔い加減のミサトが茶々をいれてくる。
「何かアンタたち見てると恋人、ってかんじがするわね〜」
「そ、そんな、ミサトさん・・・・」
「・・・・・・」
 てきめんにうろたえるシンジ。一方アスカは、黙りこくったまま反論しない。しかし、その顔は、首筋まで真っ赤になっている。
「あ、あ、あたし、レイを呼んでくるわ!!」
 とっさにいいわけを考え、アスカはその場を駆け足で飛び出していった。
 ミサトは、そんなアスカの後ろ姿を見ながら、内心で考えていた。
 アスカも・・・・辛いわね・・・・シンちゃんへの気持ちと、レイへの気持ちをともに併せ持っていかなきゃいけないなんて・・・・。
 無言のまま、ビールを一口。
 よく考えて見れば、レイのために、と思ったワタシの配慮は、結果としてアスカを苦しめているのかもしれない・・・・あの娘は本当はやさしいから・・・・。
 レイのことを考えている。
 シンジのことを考えている。
 アスカにとって、どちらも大事な存在。
 壊したくない。それぞれの気持ちを。
 そう思えば思うほど、あの娘は自分に我慢を強いているのかもしれない。
 シンジにもっと言いたいことを。態度で表したいことを。
 一四歳の女の子には、それは辛いことかもしれないわ。
「でも・・・・レイも、わたしにとってはアスカ、あなたと同じくらい大事なの・・・・あの娘の気持ちも、尊重してあげたいから・・・・」
 あなたと同様、シンちゃんを好きな、レイの気持ちも・・・・。
「え? ミサトさん、何か言いました?」
 声にでてしまったのだろう。ミサトのつぶやきに、シンジが台所から振り返って反応する。
「え、あ、いや、と、とりあえずごはんまだ? って・・・・あはははっ・・・・」
「・・・・もう、ミサトさん、もう少し待って下さいよ。今つくってますって」
 深い詮索もなく、シンジは再び作業に戻っていく。
 ミサトはシンジの背中を見ながら、手に持ったビールの空き缶を握りつぶした。
「・・・・そして・・・・アスカとレイ、二人の気持ちのどちらを選ぶかは、あなた次第なのよ・・・・シンジ君・・・・」
  
「レイ、起きてる?」
 小さく扉をノックをして、アスカはそう室内に問いかけた。
 返事は返ってこない。
「レイ、寝てるの?」
 返事は、やはりない。
「・・・・入るわよ」
 そう言って、アスカは扉を開けた。
 電気の消された室内。窓からはいる月明かりが、薄暗く部屋を照らし出している。
 レイは、ベッドの上で小さな寝息をたてていた。
「・・・・寝ちゃったのか・・・・」
 無理もない。朝からずっと、アスカと話し続けていたのだ。疲れがたまっていたのだろう。
「・・・・・・」
 アスカは、光にほのかに照らし出されたレイの寝顔を見下ろしてみた。
 白磁のような肌。少しほつれた青い髪。あの印象的な紅い瞳は、いまは閉じられている。
 月明かりの下、ベッドで眠るレイの姿は、アスカがはっと胸をつかれるほど、美しいものだった。
 ・・・・そして、淡雪のように消えてしまいそうなほど、はかなげなものだった。
『何かアンタたち見てると恋人、ってかんじがするわね〜』
 先ほどのミサトの言葉を、アスカは脳裏で反芻する。
 ミサトにそう言われたとき、恥ずかしかった。しかし、うれしかった。
 アタシの勝手な思いこみかも知れないけど、シンジが顔を真っ赤にしていたことが。
 シンジも恥ずかしいんだ、と思ったことが。
 ・・・・でも・・・・。
 同時に、胸がちくりと痛んだ。
 レイ・・・・あなたを、思い出したから。
 アタシはシンジが好き。いつも脳裏からあの顔が離れられないくらい好き。
 そして、シンジにもアタシを好きでいて欲しい。
 レイ、今日あなたと話したことで、この気持ちは一層強くなった。あなたがシンジを好きなことに気づいたように。
 ・・・・でも、レイ、あなたも同じくらい好き。
 以前はいやな娘だと思ったけど、今は違う。
 一緒に、戦っていたから。一緒に、話をしたから。
 そして、あなたがシンジを好きな理由が、分かるから。
 アタシもあなたも、同じだから。
「・・・・だから、レイ、アンタには、傷ついて欲しくない・・・・」
 そう思うのは真実。
 でも・・・・。
「でも、アタシもシンジを好きなのよ・・・・。アンタの気持ちも分かるけど、やっぱり、アタシはシンジにあたしだけを見てもらいたいのよ・・・・そう思う気持ちを、抑えきれないの・・・・」
 この気持ちも、真実。
 二つの相反する気持ち。
 どちらも、壊したくない。
「・・・・どうすれば、いいの・・・・アタシ・・・・」
 アスカは、胸の前でぎゅっと手を握りしめた。
 胸が、苦しかった。
  
 料理をしながら、シンジはさっきのミサトの言葉を考えていた。
『何かアンタたち見てると恋人、ってかんじがするわね〜』
 ・・・・あのとき、恥ずかしかった。顔が火照っていた。
 でも・・・・同時に少し、何か違う気持ちがあった。
 恥ずかしいというのではなく・・・・何と言えばいいのだろうか。少し、うれしい気持ち。
 ・・・・何なんだろう。これは。
 シンジは、包丁を使いながらぼんやりと考えていた。
 そう・・・・日曜の朝に、アスカにキスをしたときとよく似た気持ちだった。
 なんだろう。
 隣で赤い顔をしていたアスカを見たとき、その気持ちは一層強かった。
 ・・・・なんなんだろう・・・・。
 すこし、アスカが気になっている。
 以前に、レイのことが気になって仕方がなかったように。
 でも、あのときとは気持ちが少し違う。
 なんなんだろう。これは。
 なんなんだろう、これは。
 シンジは、戸惑っていた。
 ぐるぐると思いは巡る。料理はもはや上の空。
 だから。
「シンジ、ごはんまだなの!! レイは起きたわよ!!」
 アスカの声が背後から聞こえたとき、びっくりして思わず手を滑らせてしまった。
「痛っ!!」
 左手の先に鈍い痛みを感じる。、包丁を滑らせて手を切ったことに、しばしの後、気づいた。
「どうしたの、シンジ!!」
 シンジの声を聞いて、レイとアスカが、台所に飛び込んできた。
  
「大丈夫、シンジ!!」
 アスカはシンジが左手の人差し指を抑えているのを見て、小さく声を上げた。
「手、切ったの? ひどくない?」
「あ、うん、大丈夫だよ・・・・ちょっと失敗しちゃったね」
「ちょっと見せなさいよ」
 アスカはシンジの手をとると、有無を言わせぬ口調で指をのぞき込む。
「・・・・結構、血が出てるわね」
 そう言うと、ポケットからティッシュを取り出し、傷口に当てる。
「レイ、薬箱から、絆創膏を持ってきて」
「あ、うん・・・・」
 レイは言われるままに棚から薬箱を取り出し、その中から絆創膏を取り出す。
 そして二人の袍を振り返り・・・・。
 はっと、その光景に胸をつかれた。
 アスカが、シンジの横で指をしっかりと握っている。
 心配した表情。
 じっと、シンジの怪我をした指・・・・自分で握りしめている指をのぞき込んでいる。
 その表情に。
 レイは、はっと胸をつかれた。
 わたしは、あんな風に碇くんのことを思えるのかしら?
 アスカは心のそこから、碇くんのことを心配している。
 わたしも、碇くんのことが心配。声が聞こえたときには、びっくりした。
 台所に駆け込んで、碇くんの怪我を見て、すごく心配だった。
 ・・・・じゃあ、なぜアスカに先を越されたの?
 なんで、わたしが碇くんの怪我の手当をしようと思ったのに、先を越されたの?
 わたしは、アスカの心の中に住む碇くんと同じくらい、心の中に碇くんを住ませている?
 ・・・・住ませていると、おもう。
 わたしの心の中に、碇くんは大きな比重・・・・おそらく、ほとんどを占めているはず。
 ワタシも、アスカのようにもっと積極的になりたい。
 碇くんに、自分の気持ちを気づいてもらえるように、積極的になりたい。
「・・・・・・」
 レイは無言のまま、シンジに近寄っていった。
「わたしが、付けるわ・・・・」
 そう言ってシンジの手をとり、絆創膏をぎこちない手つきで付けていく。
「あ、綾波・・・・ありがとう・・・・」
「・・・・ううん・・・・いいの・・・・怪我・・・・大丈夫・・・・?」
「あ、うん、大したことじゃないから・・・・」
「そう・・・・よかった・・・・」
 そう言って、レイは安堵の微笑みをうかべた。
 自然に、笑顔がこぼれた。
「・・・・・・」
 そんなレイとシンジの様子を、アスカは何となく複雑な表情で見つめていた。
 そして・・・・。
 その複雑な表情のアスカを、テーブルから、ミサトがじっと見つめていた・・・・。



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