遥かなる空の向こうに

第9話:初めての気持ち



 時計の針は、すでに昼の三時をまわっていた。
 どれくらい話しただろう。何を、話しただろう。
 アスカとレイは、話し続けていた。
 今までのこと。最近のこと。これからのこと。
 互いの過去の話が多かったのだが、それは双方にとって、驚きであった。
 レイにとっては、あの強がりだったアスカの心の内を知ったことで。
 アスカにとっては、レイの過去を知ることで。
 ・・・・もっとも・・・・。
「・・・・こういうのもなんだけど、アタシたち二人とも、波瀾万丈の人生を歩んできたのね」
「・・・・ええ・・・・」
 しみじみと呟くアスカに、レイはそう、答えを返した、
「でも、わたしは後悔してない」
「アタシもよ・・・・そりゃ、一時期は自分なんかいらないって思ったこともあったけどね」
「・・・・碇くんが、いるから・・・・でしょ?」
「ふふっ、そう、そうね」
 ほとんどの会話の行き着く先は、シンジであったが。
 何を話していても。いつの間にやら、話題はシンジのことになっていく。
 何で・・・・かしら。
 レイは、自問してみる。
 やっぱり、アタシもレイも、あいつのことしか考えてないからかしらね。
 アスカは、そう自答してみる。
 そして、唐突に黙り込んだ二人が互いに顔を見合わせたとき。
「ただいまーっ」
 その話題になっていた少年が、帰ってきて玄関で声をあげた。
  
「どう、綾波。元気になった?」
 シンジは荷物もそのままにレイの部屋にはいると、そう問いかけた。
「おかえり、シンジ。レイならもう大丈夫よ。元々たいしたもんじゃないし。さっきまでずっと、アタシと喋ってたくらいだから」
 アスカが、そう返事をしながら立ち上がってシンジに席を譲った。
「そう、良かったね、綾波」
 小さくアスカに礼を言って椅子に座ったシンジは、レイに向かってそう言ってほほえんだ。
「う、うん・・・・あり、がとう・・・・」
 レイは、シンジのそんな笑顔を見て、なんだか言葉が返せなかった。
 かろうじてそう言うと、何となくシンジの顔を見ることができなくて、顔をそむけてしまう。
「どうしたの、綾波? まだ、調子が悪いの?」
「ううん・・・・なんでも・・・・ないの・・・・」
 シンジが、レイの様子が朝と違うことに気づき、心配そうに問いかける。
「なんでも、ないの・・・・気にしないで・・・・碇くん・・・・」
「そ、そう・・・・?」
 シンジはいまいち不審げである。
 そんな様子を見て、アスカは先ほどまでの会話を思い出していた。
 レイ・・・・・アンタ・・・・。
 そして。
「シンジ、悪いんだけどさ」
 アスカはそう言ってシンジの方を軽く叩いた。
「実はずっと話し込んでて、アタシもレイも、何も食べてないのよ。帰ってきたばかりで悪いんだけどさ、なんかレイに、軽いもの、つくって上げてくれない?」
「え、二人ともお昼、食べてないの?」
「しょうがないわよ。アタシの作ったもの食べさせて、レイに何かあったらどうするの? まだ、アタシは料理始めたばかりなんだから」
「・・・・もう、アスカ・・・・」
 苦笑いを浮かべながら、シンジは椅子から立ち上がった。
「夜ごはんも近いし、ホントに軽いものだけど、いいかな?」
「うん、お願いね」
「分かった、じゃ、ちょっと待っててね、二人とも」
 そう言って、シンジは小走りに部屋をでていった。
 その足音が聞こえなくなって。
「レイ、アンタどうしたのよ! そんなにシンジのことを意識して!」
 顔をくっつけんばかりにレイに迫ると、アスカはそう小声でささやいた。
「いつも通りに振る舞っていればいいのよ」
「・・・・でも・・・・」
「でも、なによ」
「うん・・・・何でかしら・・・・碇くんの顔・・・・まともに、みれないの・・・・」
「みれない?」
「碇くんの顔を見ようとすると・・・・何か・・・・こう、胸がドキドキして・・・・今朝までは、そんなことなかったのに・・・・」
 レイは、そう言ってわずかに頬を染めた。
「こんなこと、初めて・・・・」
「・・・・アンタ今朝アタシと話をして、シンジのことが好き、って指摘されて、それで、そう思うようになったの?」
「・・・・そうなの・・・・かもしれない・・・・」
「うーん。あんた、ホントに素直ねー。思ったことがそのまんま顔にでるなんて」
「そう・・・・なの?」
「だいたいシンジのことが好きって指摘されただけでそんなに意識してて、この先どうするのよ!」
「・・・・・・」
「いい? 好き、っていう気持ちに素直になることも大事よ。それを相手に伝えようとすることもね。でも、いちいちそんなに過敏に反応してて、どうするのよ。あんた。シンジとまともに会話すらできなくて、それでどうやって自分の心をあいつに伝えるつもりなの?」
「・・・・うん・・・・」
「無理に、とは言わないわ。徐々にでいいから、慣れていきなさいよ」
「・・・・うん・・・・」
「しかし、初々しいわね、アンタって。なんか」
「初々しい?」
「初めての気持ち。初めて気づいた気持ち。それに戸惑ってるアンタがね。なんか、そう思えるわ」
「・・・・・・」
「ま、さっきから何度も言ってるけど、がんばっていきましょ!」
「・・・・・・うん・・・・ありがとう・・・・」
「じゃ、ちょっとアタシはシンジの方をみてくるわね」
 アスカはそう言って、軽やかな足取りで部屋をでていく。
 後には、レイ一人だけが残された。
 なんなの、この気分は・・・・。
 一人になって、改めてレイは考えてみた。
 碇くんのことを考えているのは、いまも前も同じ。
 でも、なぜ?
 いままではなかったのに、考えていると心臓がドキドキする。
 顔が火照ってくる。
 碇くんを前にすると、言葉が見つからない。
 碇くんを見ていたい。それなのに、見ているとなぜか目をそむけたくなってしまう。
 目をそむけているのに、それでもまた、碇くんを見たくなってしまう。
 なんなの?
 ・・・・アスカはこれを好きだ、ってことのあらわれだ、みたいに言っていたけど。
 これが好きってこと?
 そうなの?
 ・・・・いままでに感じたことのない気持ち。
 初めての気持ち。
 でも、イヤじゃない。
 むしろ、心地いい気分。
 なんなの?
 まだ、理解しきれない。
 それでも・・・・。
「でも、何となく、分かったような・・・・・分からないような・・・・」
 レイは、ぎゅっと自分で身体を抱きしめてみた。
「・・・・・・」
 この気持ち・・・・・。
「初めて・・・・ね・・・・こんな思いをするの・・・・」
  
「あ、アスカ。もうちょっと待ってね。いまできるから」
 シンジが、慣れた手つきでパンを切りながら背後のアスカにそう言った。
「何をつくってるの?」
「うん、冷蔵庫の残り物でサンドイッチでも。これならそんなにお腹にたまらないから、夕食も安心して食べられるでしょ」
 傍らの皿には、いくつか出来たサンドイッチが並んでいる。
「どれどれっと・・・・」
 アスカはそれを見つけると、さっそくとばかりに一切れ、つまんでぱくっと食べてみた。
「アスカ! 立ち食いなんて行儀の悪い・・・・」
「いいのいいのっ・・・・ん、やっぱりシンジの作るものは何でもおいしいわね」
 一口食べてみて、アスカは感心したようにそう言った。
「ここまでできるのって、女の子でもそうはいないわよ」
「あ、ありがと・・・・アスカ」
 照れたようにシンジはそうう。
「前から聞こうと思ったんだけどさ、シンジって、どうしてそんなに料理がうまいの? っていうか、何でまた料理なんか・・・・」
「あ、ああ、僕? ・・・・ええっとね・・・・」
 シンジはアスカの質問にちょっとびっくりした表情を浮かべたが、しばし考えた後、おもむろに口を開いた。
「やっぱり一番の原因は、先生のところでの生活のせいかな」
「・・・・ここに来る前の?」
「そう。先生のところにに行く前、僕はおじさん夫婦のところで暮らしてたんだ。そこではおばさんが何でもしてくれたけど・・・・先生に引き取られてからは、家事一般は僕がやることになってたんだ。先生は早くに奥さんをなくしていたから・・・・」
「・・・・ふーん」
「分からないところはおばさんに教えてもらってね。そのうち、掃除洗濯炊事、だいたいはこなせるようになっちゃったんだ。ま、一つの慣れだね」
「やっぱり、実感こもってるわね。そういうのって」
 アスカはサンドイッチをちびちび食べながら、シンジの話に聞き入っていた。
「でも、実を言うとね。そのころ、家事なんて全然楽しくなかったんだ」
「ええ? 今じゃあんなに楽しそうにやっているのに!」
「だってアスカ、考えてみてよ。ごはんをつくっても掃除をしてても、それは全部先生のためだけじゃない。あそこは何もない平穏な場所だったけど、それってつまり淡々とした同じ生活の繰り返しってことだよ。毎日ごはんつくって、掃除して、学校行って、帰ってきて、またごはんつくって・・・・」
「・・・・うーん。そうか・・・・じゃ、いまは何で、そんなに楽しそうにできるわけ?」
「・・・・そうだね・・・・強いて言えば、みんなの反応を見ることができるからかな」
「みんなの?」
「そう、みんなのだよ」
 シンジは最後のサンドイッチを切り終えると、包丁を洗って濡れた手をてぬぐいで拭いた。
「アスカやミサトさんや綾波が、僕のつくった料理を食べておいしい、っていってくれること。しょせんは自己満足かも知れないけど、そういう反応が返ってくると、こっちも結構やる気になるんだよね。いまじゃ、何をつくったらみんな喜んでくれるのかな、って考えてることも楽しくなってきたし」
「へぇ・・・・そう思えるって、シンジって結構、すごいのね」
「そうかな・・・・」
 照れたような笑顔。シンジは、アスカの言葉に表情をわずかにゆるめた。
「アタシなんか、家事をすること自体めんどくさいって思う方だったから。そういう思いになったことなんか、いままで一度だってなかったもの」
「・・・・じゃあ、なんでまた、最近は僕のことを手伝ってくれるようになったの?」
「・・・・それは・・・・」
 アスカは、心持ち声を小さくする。
「それは?」
「アタシも、そう思うようになったからかしらね・・・・」
「ん?」
「・・・・シンジに、アタシが作ったものをいつか食べてもらいたい、って・・・・」
 か細い、消え入りそうな声。アスカは顔を真っ赤にして、かろうじてそれだけを言った。
「まだなんにも作れないけど、いつか、アタシの料理を食べて、シンジに喜んでもらいたいから・・・・初めて、そう思ったから・・・・」
「・・・・アスカ・・・・」
 シンジは、そんなアスカの姿を見て、なんだか自分も恥ずかしくなってきた。
「今はまだダメよ! まだ、アタシは下手だから・・・・でも、でも、いつか・・・・」
「・・・・うん・・・・ありがとう、アスカ・・・・僕も、アスカの料理が早く食べられるように、期待して待ってるよ」
 にっこりとした笑み。シンジのそんな顔と返事を聞いて、アスカはぱっと顔を明るくした。
「うん、アタシもがんばるから、シンジ、いっぱい教えてね!!」
「分かった、一生懸命教えるからさ。僕も」
「うん・・・・って、そうそう、レイにも、教えて上げてね。あの娘も、結構やる気だから」
「そうだね。綾波と三人で、仲良くやろうよ」
 アスカの言葉の意味を深読みせずに、シンジはそう答えた。
「さ、綾波のところにサンドイッチ持っていって、みんなで食べようよ」
「・・・・うん、そうね」
 シンジの後について台所をでながら、アスカは少しだけ表情を暗くした。
 あたしはシンジのことが好き。でも、レイ・・・・あの娘のことを考えなくちゃ・・・・。
 アタシ一人のわがままで、あの娘を、悲しませたく・・・・・。
 「・・・・悲しませたく、ないわ・・・・」



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