遥かなる空の向こうに

第7話:なにを、望むの?



「ただいまー」
 ケンスケと別れた後、三人は家に帰ってきた。
「ヒカリが元気そうで良かった」
「ホントにそうだね」
 シンジは荷物を部屋に放り込みながら、そう答えた。
「おなか空いちゃったから、ごはんにしようよ。今つくるから、二人とも、休んでて」
「じゃ、アタシとレイは今のうちにお風呂はいっちゃうわ」
「朝入ったのに、また入るの、アスカぁ?」
 シンジはとっさにそう言ってから、朝の出来事を思い出してはっと顔を赤くする。それを悟られないように、エプロンと付けるふりをしてアスカとレイに背中を向けた。
「う、うるさいわねぇ。朝は朝、今は今よ!」
 そんなシンジに対し、アスカは表面上平静を装っているが、内心ではやはり、シンジと同様に朝のことを思い出していた。
「レイ、先にする、後にする?」
「わたしは、後でいいわ」
「そう、じゃ、お先にね」
 そう言って、アスカはバスルームヘ入っていった。
「綾波も、ゆっくり休んでてよ」
「ううん・・・・わたしは、碇くんの手伝いをするわ」
「でも・・・」
「そう、したいの・・・・」
 そう言って、レイは部屋からシンジにもらったエプロンをとってきた。
「そう言えば、綾波の新しいエプロン、買いに行かないとね」
「・・・・うん・・・・でも、これはわたしの宝物だから・・・・」
「宝物だなんて、そんな・・・・」
 レイは、まだぎこちない手つきでそれをつけようとする。
「あ、ちょっと後ろ向いて。僕が、つけて上げるから」
 そんなレイの手つきを見て、シンジはレイの後ろに回り込み、手早く紐を結んであげた。
 レイは、そんなシンジの行為に頬をわずかに染めた。
 そして。
「・・・・ありがとう・・・・」
 小さな、本当に小さな声でそう、呟く。
「そんな、こんな事くらいでお礼を言われちゃ、僕の方が困るよ」
「・・・・ううん、わたしが、そう思ったから。碇くんに、わたしの心を知ってもらいたかったから。だから・・・・」
「綾波・・・・」
「碇くん・・・・」
 互いに、正面を向き合うことなく、しばしの間、二人は沈黙していた。
 それぞれの胸には、なにが去来していたのか。
 それは、分からない。
   
「あー、いいお湯だった」
 Tシャツに短パンという軽装に着替えたアスカが風呂から出てきたのは、だいたい四〇分ほど後のことだった。
「レイ、次いいわよ」
 台所でシンジの手伝いをしているレイに、アスカは冷蔵庫から牛乳を取り出しながらそう話しかける。コップに注ぎ、おいしそうに飲み干して、
「お湯が冷めちゃうから。早くはいんなさいよ。あとはアタシがかわるからさ」
「うん・・・・でも、また、碇くんの手伝いが途中だし・・・・」
「綾波、ありがとう。でも、もう大丈夫だよ。後はアスカが手伝ってくれるっていうし、それに、アスカのいうとおり、お湯、冷めちゃうからさ。綾波が出てきた頃にご飯ができるようにしておくから、お風呂、入っちゃって」
「・・・・うん」
 シンジがそう言うと、レイはまだ逡巡していたようだが、ようやくその場を動いた。
「それじゃ、アスカ、この野菜を刻んでさ」
「ええ? どうやって刻むのよ!」
「どうやってって、包丁とまな板を使えば、簡単じゃないか・・・・」
「だから、アタシは初歩の初歩なんだから、ちゃんとしっかり教えなさいって!」
「もう、しょうがないなぁ・・・・」
 台所の方から聞こえるそんな二人の会話を背に、レイは部屋に戻ってエプロンを外す。首筋の紐に手がかかったとき、さきほどシンジが結んでくれたことを思い出し、そのまましばらく、紐を握ったまま動かなかった。
「碇くん・・・・」
 そっと、呟いてみる。
 エプロンを外し、両手に持ったそれを見下ろす。
「碇くん・・・・」
 もう一度、呟く。そして、そっとエプロンを抱きしめてみた。
「・・・・・・」
 レイは、自分の中にある感情がよく分からなかった。
 ここに引っ越してきて、二日。色々なことを考え、経験した。
 シンジとの距離を縮めたことで、彼に対する様々な感情にとらわれた。
 ・・・・でも、それが「好き」ということなの?
 レイは、考えてみる。
 エプロンを戸棚にしまい、風呂に入って身体や頭を洗いながらも、まだ考えていた。
 何が、「好き」ということなの? 
 碇くんと一緒にいたいこと?
 碇くんの側に、自分の居場所が欲しいこと?
 碇くんに、わたしを見つめて欲しいこと?
 鈴原君と洞木さんのように、碇くんと互いに支えあいたいこと?
「・・・・わからない・・・・」
 まだ、心の中がもやもやしてる。
 うまく言えない何かが心の中にあるけど、それははっきりしない。
 ・・・・何なのかしら。これは。
 レイは、水面に写る自分の顔を見下ろしてみた。
 ゆらゆらと揺れるお湯の中に、濡れた髪の毛と赤い瞳、上気した頬を持つ自分がいる。
「・・・・あなたは、何を望むの?」
 レイは、水面の自分に問いかけてみた。
 返事は、ない。
「何を、望むの?」
 やはり、返事はない。
「・・・・・・」
 水面は、何も語らない。しかしレイは、返事を期待するかのようにじっと見つめていた。
 ・・・・しばしの後、レイは湯船から上がった。
 バスタオルを手にとり、洗面所へと上がる。
 時計を見ると、三〇分ほど入っていただろうか。
 そろそろ、シンジがつくっていた料理のできる時刻である。
 レイはバスタオルを肩にかけ、頬にへばりつく髪の毛をかき上げる。
 そして、洗面台の前の鏡を見つめようとして。。
  
 頭の隅に、不意に鈍い痛みを覚えた。
  
 それが、薬を使っても治らなかったあの痛みであると気づいたとき、洗面台の上に身体を支えるように手をついている自分を見つけた。。
「・・・・うっ・・・・」
 時を同じくして腕や足など、身体のあちらこちらに痛みが走る。
 声に出さずに苦痛を必死にこらえるが、しかし、身体の自由はほとんどきかない。
 手をついてでもかろうじて立っていたのが、やがて膝をつき、さらに座り込んでしまう。
「・・・・くっ・・・・」
 視界も、少しぼやけている。しばらくすれば治るのだろうが、そこに至るまでの痛みは並大抵ではない。
 レイは、荒い息をつきながら、痛みに絶えていた。
  
「おそいわね、レイ。あの娘、昨日は結構お風呂は早かったのに」
「うん、どうしたんだろうね」
 食卓。
 できあがった料理を前に、シンジとアスカは空席の椅子を前に話していた。
「何かあったのかな?」
「・・・・とか言って、また朝のアタシの時みたいにのぞく気じゃないでしょうね?」
「な、な、なに言ってるんだよアスカ!!」
 てきめんにうろたえ、顔を真っ赤にして、ぱたぱたと腕を振るシンジ。アスカはそんなシンジの仕草を見て、軽やかな笑い声を上げる。
「あははははっ! 冗談よ、冗談。シンジが見なくても、アタシが見に行けばいいことだからね」
「・・・・アスカ・・・・いじわる・・・・」
 シンジは軽くそう拗ねてみせる。しかし、その仕草も、アスカにはかわいく映ってしまう。
「はいはい、シンちゃんいじけないいじけない。うふふっ」
「・・・・もう。でも、綾波、どうしたのかな。ずいぶんたつけど」
 心配そうな表情のシンジ。アスカもそんな様子を見て、
「・・・・そうね・・・・じゃあ、アタシが見てくるわよ」
「・・・・うん、お願いね、アスカ」
 シンジの声に軽く手を振って、アスカは食卓を離れた。
 そして、シンジの視界から自分の姿が見えなくなると同時に、その足は自然と早くなる。
 そういえば、ミサトが言ってたわ。
「普段の生活にはなんの問題もないんだけどね。ときどき、発作的に身体に痛みが走るのよ」
 もし、そうだとしたら・・・・
 足早に洗面所に入ったアスカは、そこで自分の予想が正しかったことを知った。
(あたってほしく、なかったわ・・・)
 内心でそう重いながら、レイの傍らにひざまずき、身体を軽く揺する。
「レイ、レイ、大丈夫?」
「う・・・・・」
「身体が痛いのね? あの、ミサトが言ってたやつね?」
「・・・・・」
 わずかに首を振って、レイはそれを肯定した。声が出ないほど、絶えるべき痛みはひどいのかも知れない。
「アタシじゃ、アンタは運べないから・・・・シンジを呼んで・・・・」
「・・・・ダメ!」
 レイの鋭い拒否の声。
 アスカはそれを聞いて、一昨日の約束を思い出していた。
「そうだ・・・・シンジには、知られちゃいけないんだっけ・・・・」
「すぐに・・・・治まるから・・・・もう少しで・・・・」
「なに言ってんのよ! アンタそんな苦しそうな顔して! せめてベッドで横になるくらいしないと、こんな格好でここにいても!!」
 と、そこまで言って、アスカははたとある考えに思い浮かんだ。
 レイの肩にかかっていたタオルをとり、それを彼女の身体に巻き付けながら、こうささやく。
「・・・・レイ、しばらくでいいから、苦しい顔、我慢できる?」
「・・・・・?」
「シンジには、アンタが湯あたりした、ってことにするわ。これなら、シンジを呼んでも、問題ないから」
「・・・・・・」
「とりあえず、ベッドで休まないと。薬とか、そんなのは後にしても・・・・」
「・・・・・・」 
「いいわね、呼ぶわよ」
 アスカの言葉に、レイは無言だった。否定ではない。
「シンジ、ちょっと来て!!」
 アスカは、それを確認して、台所にいるシンジを呼んだ。
「なにー、アスカー」
「レイがどうも湯あたりしちゃって、ちょっと動けないのよ! ベッドまで運ぶの、手伝ってくれない!!」
「ええっ!!」
 しばしの後、シンジが洗面所に駆け込んできた。そして、タオルを身体に巻き付けたままぐったりしているレイを見つけ、あわてて駆け寄る。
「綾波、大丈夫!!」
「ちょっと気分が悪いみたいだから、ベッドで休ませようと思うの。アタシじゃ無理だから、シンジ、運んであげてくれない?」
「あ、うん、わかったよ」
「アタシはベッドの準備してくるから、お願いね」
 そう言って、アスカはレイに目配せする。
 ちょっとの間、我慢してね。
 そして、部屋に向かって駆け出していった。
「綾波、持ち上げるけど、言い?」
 シンジが、傍らでそう言う。レイは、小さくうなずきを返した。
 ふわっ、と。
 大地が失われるような感覚の後、レイはシンジの腕の中にいた。
「・・・・ゴメンね、ちょっと、我慢してね」
 初めて女の子を抱き上げて、シンジの顔は少し赤くなっている。しかし、レイの身体の方が心配なのだろう。それを振り切って、洗面所からレイの部屋へと歩き出した。
「・・・・・・」
 シンジの顔をこんなに間近に見たのは、レイにとってはこれが初めてだった。
 まだぼやけたままの視界の中、シンジだけが、はっきり映っているようにレイには思えた。
 そして、気がつくと。
 レイは、シンジの首に両手を回し、まるで抱きつくようにシンジににしがみついていた。
「あ、綾波・・・・!?」
 シンジの狼狽する声が、レイの耳に届く。
 しかし、耳には届いても意識には届いていない。 
 ・・・・わたしは、何を望むの?
 なにを、望むの・・・・?
 そう考えながら、レイはシンジの首に巻き付けた腕を離そうとしなかった。



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