遥かなる空の向こうに

第5話:抜け駆け


 アスカの朝風呂は長い。 日本に来た頃はシャワーばかりを使っていたが、いまでは風呂が一番のお気に入りである。シンジが微妙に湯加減を調整してくれているおかげで、アスカはいつも気持ちよく風呂にはいることができる。そのため時間もどうしても長くなりがちで、最近では1時間もざらである。
「ふう、風呂は命の洗濯っていうけど、ほんとよね〜〜〜」
 いつものように湯船で鼻歌を唄いながら、アスカは誰にいうとでもなくそう呟いた。
「アスカ!! まだ出てこないの!! ごはんがさめちゃうよ!!」
 台所の方からシンジがそう叫んでいるのが聞こえる。
「まったく、シンジはうるさいんだから・・・・」
 アスカはシンジの声を黙殺して、あいかわらず湯船に体を沈めている。
「少しぐらいゆっくり入らせてくれてもいいのに・・・・って、ま、寝坊したアタシが悪いんだろうけどね・・・・」
「アスカ!! 早くしないと、みんなに迷惑がかかるよ!!」
「ふう・・・・あいかわらずシンジは心配性なんだから・・・・」
 しぶしぶ、という感じで、アスカはようやく湯船から立ち上がった。傍らに置いてあったタオルを手に取り。濡れそぼった淡い栗色の髪についた水滴を拭う。玉の滴となって身体にまとわりつく水滴を手で払うと、髪の毛を吹いたタオルで改めて身体を拭く。
 風呂場から洗面所へと出ると、アスカは鏡の前に立ってみた。
 端正な顔立ちの少女が、鏡の中から自分を見返している。
 アスカがにっこりと笑うと、その少女も同じように笑い返してくる。男だったらだれもが振り返るような、輝くような笑顔。アスカはそれに満足したが、すぐにその顔色を曇らせる。
「どうして・・・・シンジは振り向いてくれないのかしらね・・・・」
 瞼を閉じると、初めてあったときのことがまざまざとよみがえってくる。今はもう沈んでしまった空母、オーバー・ザ・レインボーでの上のこと。すでになつかしいと思える、ガキエルとの戦い。二人で乗ったエヴァ弐号機。あのころはなんてさえない奴だろう、って思っていたけど・・・・。
「一番変わったのは、シンジよね・・・・戦いの中で・・・・」
 普段は頼りないままだけど、心の奥に確固たる芯が出来たような。アスカは、最近のシンジをそう思うようになっていた。何より、精神的に死に等しかった自分を、あの場所から救い出してくれたこと。
 アスカはいつしか、シンジに惹かれている自分に気づいていた。
「なのに・・・・あのバカは全然気づいてくれない・・・・」
 鏡の中で、憂いを含んだ顔が自分を見つめている。
「アタシがもっと素直になればいいのかな・・・・いつも、シンジの前だと自分が素直になれないから・・・・・なのかな・・・・」
 自分が出せない。恥ずかしいからなのか。シンジを前にすると、素直な自分を出すのが恥ずかしいからなのだろうか。
「・・・・どうしてだろう・・・・」
 小さく呟き、アスカは再び瞳を閉じて考えに沈む。
 と。
「アスカ!! まだ出てないの!!」
 がらっと洗面所のシャッターを開けて、シンジが入ってきたのだ。
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
 タオルを肩からかけたままのアスカと、エプロンにスープのお玉を持ったままのシンジは、しばしの間たがいに硬直していた。そして、
「っっきゃああああああああ!! ば、バカシンジ!! 何いきなり入ってくるのよ!!」
「ご、ご、ごめんんっ!!」
 弾かれたようにあわてて風呂場に飛び込むアスカ、ばっと背中を向けるシンジ。二人とも、予想外の状況に顔を真っ赤にしている。
「ア、ア、アスカが、な、な、なかなか出てこないから、ま、まだ入ってるのかな、って思って・・・・そ、それで・・・・・」
「ゴメンじゃないわよっ! レ、レディの裸をみ、み、見るなんて・・・・!!」
「ご、ゴメン! わ、わざとじゃないんだ!! 信じてよ!」
「わ、アタシの裸を見ようと思ったんじゃないの!!」
「そ、そんなことないって! アスカの裸を見ようだなんて!!」
「なによ! アタシの裸なんか、みたくないっていうの!」
「ア、アスカ、何言ってるんだよ!! 全然言ってることが違うじゃないか!」
 二人とも、内心の動揺が如実に声に出ている。アスカは特に、シンジに裸を見られたという事で普段の以上に強気な声になっている。言っていることも支離滅裂である。
「と、と、とにかくアスカ、ご、ゴメンね!!」
 シンジはそういって、トマトのように顔を真っ赤にしてあたふたと台所の方へ戻っていってしまった。後には、同じように顔を真っ赤にしたアスカだけが取り残された。
「・・・・・・」
 その表情は、どこか複雑なものだった。
  
「・・・・ふうっ」
 シンジは、台所に戻って一息ついた。
 まだ顔が火照っている、心臓はばくばくいっている。それほど、さっきの出来事はシンジにとってインパクトの強いものだった。
「・・・・まずいこと、しちゃったなぁ・・・・。アスカ・・・・きっと、ものすごく怒ってるだろうな・・・・」
 呆然とした表情のアスカ、顔を真っ赤にしたアスカ。その後は背を向けていたので、どういう顔をしているかは分からなかったが、常識的に考えて、裸を異性に見られて怒らない女の子がいるわけがないだろう。シンジはそう考えて、暗鬱な気持ちになった。
「・・・・そういえば・・・・前に綾波のマンションに行ったときも、同じ様なことがあったっけなぁ・・・・」
 セキュリティカードを届けにいったレイのマンションで、シャワーを浴びて出てきた裸体のレイと鉢合わせしたことを、シンジは思い出していた。
 あのとき、レイは全くの無反応で、ひとり真っ赤になったシンジがいた。
 今回、アスカはシンジと同じように狼狽し、同じように真っ赤な顔をしていた。
 そのせいだろうか・・・・。
「なんか、今回の方が・・・・恥ずかしい・・・・というか・・・・うーん、何て言えばいいんだろうな・・・・綾波の時とは、全然違う・・・・女の子の裸・・・・って・・・・あんなに・・・・きれいだったんだろうか・・・・」
 自分で言っていて、シンジは知らず知らず再び頬が赤くなっていった。
 瞼を閉じれば先ほどのアスカの姿が思い浮かぶだろう。しかしそれはとても悪いことのような気がして、シンジにはできなかった。
 がらっ。
 と、洗面所の扉を開けて、服を着たアスカが出てきた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 ふたりとも、無言のまま。
 シンジは気まずい雰囲気のまま、焼き上がっていたパンを皿にのせ、温めておいたコーンスープを器によそう。アスカはシンジと視線を会わせないようにしながら、椅子に座った。
 シンジがおそるおそるパンとスープ、サラダなどをアスカの前に置く。しかし、それに手を触れようとせず、彼女は無言のままだ。フォークとナイフを持とうとすらしない。
「・・・・アスカ・・・・」
 しばしの後、シンジはついに絶えきれなくなって、声を発した。
「さっきのことは、本当にゴメン」
「・・・・・・」
「僕の不注意で、アスカにとんでもない恥を・・・・その、かかせちゃったとおもってる」
「・・・・・・」
「男の子に・・・・その・・・・裸を見られるなんて・・・・その・・・・恥ずかしいことだからね・・・・ほんとうに、悪かった」
 頭を下げ、シンジは言葉を続けた。
「言い訳かも知れないけど、ほんとうにわざとじゃなかったんだ。それだけは信じて欲しい。それに・・・・」
「・・・・・・」
「それに・・・・・」
「・・・・それに・・・・なによ・・・・」
「・・・・いや・・・・こんなことを言っちゃうと、またアスカに悪いかも知れないけど・・・・」
「・・・・なによ・・・・はっきりといいなさいよ・・・・」
 アスカは、かろうじて心の内を隠した単調な声でそう言った。
 まだアスカは、さっきの出来事に対する心の整理ができていなかったからだ。
 シンジに裸を見られた。
 確かにその瞬間は恥ずかしかった。が、今になって考えてみると、それほどの怒りを感じない。というか・・・・。
 以前、オーバー・ザ・レインボーの艦上で、同じように着替え中の時にシンジに裸を見られかけたとき、アスカは思った。
「男の子ってどうしてこうスケベなの!」
 と。
 しかし、今回はそういう思いがほとんどないのだ。
 なぜだろう。
 むしろ・・・・。
(何も、力一杯否定しなくったって・・・・)
 と思っている自分がいることに気づいたのだ。
 矛盾する二つの思い。それに、今のアスカは戸惑いを隠せなかったのだ。
「で・・・・なんなのよ・・・・」
「う、うん・・・・その・・・・ええと・・・・きれいだった・・・・そう、思っちゃったんだ・・・・」
「・・・・・・」
「ご、ゴメン! こ、こんな事、全然言い訳にはならないよね」
 きれいだった・・・・・。
 アスカにとって、それは新鮮な言葉だった。何でかは分からないが。新鮮だった。
(シンジが・・・・アタシのことを・・・・きれいだって言ってくれた・・・・)
 また、頬が熱くなってくる。
 うれしいのかしら。アタシ、シンジにそう言われてうれしいのかしら・・・・。
「・・・・ア、アスカ・・・・」
 シンジは、そんなアスカの様子を見てまたおろおろした。
 また、まずいことを言っちゃったなぁ・・・・。そんな思いが、内心で駆けめぐる。
 だから、次のアスカの台詞を聞いたときにはびっくりした。
「もう、いいわよ・・・・」
「・・・・え?」
「もう、いいって言うの。シンジがわざとそんなことするはずないことくらい、アタシだって分かってるわよ」
「・・・・・・」
「長々とお風呂に入っていたアタシも悪いんだし・・・・」
「で、でも・・・・それじゃアスカが・・・・」
「・・・・じゃあ・・・・・一つだけ、アタシにして欲しいことがあるの・・・・」
 アスカは、口の中が乾いてくるのに気づいていた。
 言っていいの? シンジに嫌われない? こんな事言っても、大丈夫?
 何か、恐ろしいことをしようとしているみたいな気分だった。
 ・・・・でも、やっぱりアタシは・・・・さっきの事で、シンジに怒りを感じないって事は・・・・やっぱり・・・・シンジのことが好きだから・・・・。
「・・・・なに?」
 シンジが、おずおずと問いかけてくる。しばし躊躇した後、アスカは思い切って、思い切って声を出した。顔が真っ赤になっているのが分かる。。
「・・・・お詫びに・・・・キス・・・・して」
「・・・・・・・・え、ええっ!!」
 シンジは、文字通りびっくりして飛び上がった。
「き、き、キスって・・・・アスカ・・・・」
「人の裸を見たんだから、責任とってよね!!」
「せ、責任って・・・・アスカ・・・・」
「アタシじゃいやだって言うの?」
「い、いや、そういう訳じゃないんだけど・・・・アスカは・・・・」
「・・・・アタシは・・・・シンジなら・・・・」
 語尾が、消え入りそうな声だった。それでもアスカは、やっとの思いでそれを口にした。
 初めて、シンジに心の内を口にした。
「シンジなら・・・・いいと思っているから・・・・」
「・・・・・・・・・・・」
 シンジは、沈黙したままだった。顔を真っ赤にしたまま、沈黙していた。
「だから・・・・キス・・・・して・・・・シンジが・・・・アタシを大切に思ってくれるなら・・・・」
「・・・・アスカ・・・・」
 シンジの声に、アスカは瞳を閉じて答えた。
 何か強制しているような気がして、罪悪感が心にはある。それでも、アスカは瞳を閉じたままだった。自分の心をシンジにさらけ出した今、ここで逃げ出してしまうことはシンジから逃げることになる。そう思って、瞳を閉じたままだった。
 シンジは、そんなアスカをじっと眺めていた。
「アスカ・・・・」
 どこか、不思議な気分だった。
 決して、いやな気分ではなかった。いや、瞳を閉じて自分を待っているアスカの姿が、なぜか非常にかわいく、そして・・・・愛らしく見えた。
「・・・・・・」
 ゆっくりと、顔を近づけていく。
 アスカはその気配を肌で感じていた。
 そして、二人の唇が触れる寸前・・・・。
(・・・・・レイ・・・・)
 もうひとりのシンジを慕う少女の姿が、アスカの脳裏に浮かんだ。
(ゴメンね・・・・アタシ・・・・抜け駆けみたいなことして・・・・)
 その姿を無理やり脳裏から追い払い・・・・
 そして、二人の唇がゆっくりと重なった。



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