根組戦記−幕末異聞−
一乃章 影と出会った日
「高杉君は嫌な咳をする」
最近、彼と顔を合わせる度にそう言われる。何にしてもそうなのだが、桂小五郎という男は聡く律儀で悪い言い方をすると気ぜわしい。何も顔を合わせるごとに言うことも無かろうと思うのだが、桂にしてみれば彼なりに心配しているのだろう。
「あなたは大事な体なんだ。くれぐれも自愛して貰わないと困る」
いかに長州の藩政を握ったとは言え、その力の拠り所が奇兵隊にある事は桂自身にもよく分かっているはずだ。奇兵隊に何かあればそれがすぐさま自分の身に跳ね返ってくる事を、この聡明すぎるほどに聡明な男は知り抜いているのだろう。今のところは、だが。
いや、桂自身の意識の上ではそんな計算などしていないのかも知れない。あいつはあいつで情にあつい、いい男だ。しかし周囲の人間はどうなのか、分かったものではない。まあ面倒な事だ、俺の身一つ位自分で勝手にしたいものなのだが。
首を一つ振ると、長州藩奇兵隊総督高杉晋作は床から体を起こした。外の天気はいいようだ。まだ多少体が重いが、起きられないほどではない。ならば起きて働かねばならないだろう。寝ている間に仕事が溜まっているし、働いているうちは嫌なことも忘れられるというものだ。
わき上がってきて、二つ咳をした。
こういう咳をするようになったのも、あの上海での出来事からだ。今でも夢に見る。あんなものがこの世に存在するなど見た者でなくては信じられないだろうが、俺はそれを確かに見たのだ。
そして、このザマだ。
帰国してから、俺はひたすらあいつらに対抗する事を考えた。奇兵隊を創ったのも、桂たちと組んだのもその為だ。松蔭先生はこのことを知っていたのだろうか。少なくとも、俺には異国などよりこっちの方がよほど脅威に思えるのだが。
そう、奴らは脅威だ。何とかしなければ、日本の将来に関わる。
しかし俺は果たして、命が尽きる前に奴らを倒せるのだろうか。幕府だけなら倒す自信があるが、しかし奴らと幕府が手を結びでもしたらそれこそ悪夢だ。
「・・・畜生」
だから俺は死ぬまで働かねばならない訳だな。知ってしまった者の宿命だろうか。
この界隈を巡邏していたのは運が良かった。多分監察の誰よりも、つまり隊内の誰よりも早く事件を知ったのは我々のはずだ。
しかしその運の良さも、対象が死んでいるという事実を覆す事はできないのだが。
たまたま付近を通りかかった新撰組一番隊組長沖田総司らが現場に駆けつけた時、死骸はまだなま暖かかった。流れ出る血も固まってはいないほどだ。知らせてくれた町人の話によると、物音がして駆けつけてみると既に絶命していたという。
「でもこの様子だと、介抱しても意味は無かった」
青ざめている町人に聞こえるように、沖田はそう呟いた。
「ありがとう、知らせてくれて助かりました」
あなたのせいではないですよ、と言っているのだ。天才剣士とも鬼の子とも称され、洛中きっての人斬りとして恐れられているくせに、彼にはそういう所がある。もしも隊の制服を着ていなければ、どう見ても気のいい優しげな若者にしか見えないだろう。
「この事は、他の誰かには?」
確認するようにもう一度聞くと、町人は首を振った。
「分かりました。このことは当分多言無用に願います。私は新撰組の沖田です、何かあったら屯所まで来て貰えれば」
「へっ」
あわてて頷く。まあ、好きこのんで新撰組の屯所に来たがる町衆などいようはずがないが。沖田も、自分たちが蛇蝎のように恐れられかつ蔑まれている事ぐらいは十分承知している。
町人が去ると、沖田は改めて死骸を検分した。喉元を正確に一撃されていて、半分首が落ちかけている。間違いなく即死だろう、凄惨なまでの手際だ。
「玄人ですね」
脇からのぞき込んだ隊士が呟く。沖田は小さく頷いた。
「うん、そうだね」
こういう刺突を好むのは、間違いなく修羅場を知っている刺客だ。しかも、抜刀した相手にこれだけ正確で強烈な突きを見舞うというのは、その腕も度胸も半端ではなかろう。しかし、それが誰なのか。
だいたいこの浪人は倒幕派過激浪士の中でも相当に顔の売れた男だ。過激派公家とも親しく、当然連中と関係の深い薩摩や長州とも繋がっていると見るべきだろう。だとすれば、倒幕派に斬られる道理は無い。
では幕府方の誰かだろうか。だが少なくとも新撰組ではないし、見廻組が動いているという話も聞かない。どこにも属さない者がやった事も考えられるが、しかしこの腕はどうだ。市井の素浪人風情とは到底思えない。
思案の挙げ句、沖田は首を振った。
「即断は避けよう。隊に戻って状況を知らせた方がいいね。土方副長や監察方なら何かつかんでいるかも知れない」
「はあ」
死骸を隊まで運ぶ手筈を命じると、沖田はため息をついて通りに出た。最近では日が落ちてからは大抵の場所から人通りが絶えてしまう。当然その理由は治安の悪化なのだが、その治安を維持する新撰組の存在そのものも都衆の恐怖の的になっている。当然、彼のまわりには一番隊の隊士たちしかいない。
はずだった。
いや、一人いる。通りの向かいの軒先からこちらをじっと見ている者がいた。沖田は反射的に刀のツカに手を掛けたが、すぐに苦笑いしつつその手をおろした。
こちらを見ているのは、若い娘だった。年の頃、十四、五といった所だろうか。
その表情が凍ったように動いていないのは恐怖のせいだろう、そう思った彼は軽く手を挙げ、微笑をうかべながら娘の方に歩み寄った。
「やあ、こんな遅くにどうかしたんですか」
娘は相変わらず無表情のままで沖田を見つめている。その瞳の色が血のように赤い事に彼が気づいたのは、通りの半ばまで来たあたりだった。
・・・赤い瞳?異人か?
異人の中には瞳が青い者がいる、その位は知っている。なら赤い瞳の異人がいても不思議ではないかも知れない、沖田はそう考えた。そして彼はそれを綺麗だ、と思った。短く無造作に切った髪は水色で、それもまた異様だったが、どういう訳か彼はそれもおかしいとは思わなかった。
「娘さんの夜歩きは感心しませんね、だいたい危ないし・・・良かったら、家まで送りましょうか?あ、別に怪しい者じゃない、私は新撰組の沖田というものだけど」
新撰組というだけで十分怪しいかも知れないが、自嘲しつつそう言うと、娘は初めて口を開いた。ほとんど感情を感じさせない、妙に冷たい声だった。
「新撰組の・・・沖田」
「ええ」
「沖田。沖田総司。新撰組一番隊組長」
沖田は立ち止まった。背筋を冷たい何かが駆けた。名前を言い当てられた事、ではない。「鬼の一番隊長」沖田総司の名は京洛中で恐怖と戦慄と共に鳴り響いているから、誰が名前を当てようと不思議ではない。そんなことではなく、それは剣士である沖田の中の戦闘機械としての部分が感知した「何か」によるものだった。
そうした感覚が無ければ、そもそも新撰組の幹部など勤まらない。
「!」
瞬間、娘が音もなく踏み込んできた。袖の中に隠し持っていたのだろう、左手で抜く手も見せずに小太刀を一閃させる。普通の腕の剣士なら、それで喉元を切り裂かれて終わりだったはずだ。あるいは首が飛んでいたも知れない。
火花が散った。
沖田はそれを刀で受けた。正確に言えば、抜き掛けた刀の鍔元でそれを辛うじて受け止めている。あと二、三寸で、小太刀は彼の喉に届いたろう。恐るべき迅さだったが、それを受けた彼もやはり尋常ではない。
いや、尋常でないのはその事だけではなかった。
相手の息が感じられるほどの間合いで、沖田は呆けたように娘の顔を見つめていた。
・・・綺麗だ。なんて綺麗なひとなんだ・・・。
白磁のように白い肌。何の感情も映していない赤い瞳。赤い唇。蒼い髪。その一つ一つに、そしてその集合としての娘に、沖田は息を呑んでいる。その間、一呼吸ほどだろうか。
次の瞬間、娘は電光の素早さで小太刀を引き、突きに転じた。今度も正確に沖田の喉元を狙っている。
人間としての沖田はいまだに半ば呆けたままだったが、剣士としての彼はそれに自動的に反応した。そして一つの判断を下している。
・・・間違いない、この娘は人を斬った事がある。どころか、手慣れている・・・玄人の刺客か、それに類する何かだ。まさか、さっきの下手人なのか?
今度は完全に鞘を払い、最小限の動作で突きを流した。同時に後退して間合いを取る。娘はその隙を与えまいとしたが、そこは沖田総司だった。巧みに下がり、構えに入る。やや左前にのめったような独特の構えだ。
このあたりで、ようやく沖田は完全に覚醒している。意識は剣士、戦闘機械としての彼と同調しはじめていた。
「あなた、何者ですか?私が誰だか分かっていますよね」
当然だろう、先ほど名乗った。その上で仕掛けてきたではないか。
「あまりいい趣味とは言えませんね。卑怯ですよ」
彼はそう言うと、かすかに表情を歪めた。
「いえ、あなたを使っている誰かが卑怯だと言うのですよ。あなたのようなひとに辻斬りをさせるなんて、まともじゃない。卑怯だ」
土方さんが聞いたら、餓鬼の喧嘩みたいな事言ってんじゃねぇ、とでも言われそうだ、言いながら自分で思う。何故こんな理屈をこねるのか、自分にもよく分からない。
娘は相変わらず小太刀を構えたままだったが、しかし、その動きが不意に止まったような気がした。少なくとも沖田はそう思った。
彼は続けた。
「・・・私はあなたと戦いたくない、剣を引いて下さい」
本人は気づいていないが、いつもより多少早口になっている。
「今はまだ誰にも見られていないから、私が黙っていればそれで済む。でも誰かが見てしまえば隊規がある、あなたを斬らねばならない。できれば私はあなたを斬りたくない」
言いながら、また彼は思った。もし土方さんがこの事を知ったら、やはり私を隊規にのっとって処断するんだろうか。
その物思いはすぐに中断された。娘が、突然口を開いたからだった。細くささやくような、しかしはっきりした声で、彼女は言った。
なぜ、と。
沖田は聞かれてから戸惑った。
「なぜって?うん・・・そう、あなたは綺麗だ、殺したくはない。それだけ・・・なのかな。よく分からない」
そう言うしかなかった。本当に、何故なのかよく分からない。
娘が目を見開いた。初めて見せた表情だった。
何か言い返そうとしたとき、こちらに駆けてくる足音がした。複数、激しい。視線を上げると、娘はまた無表情に戻っている。沖田は失望しながら剣尖をやや上げた。
先頭の小柄な人影が突っ込んでくる。右手に剣を持っている事を認めると、沖田は半歩だけ踏み込んで剣を一閃させた。すれ違いざまに仕掛けてくる事を予期しての動きだ。娘の事をこの際考えていないのは彼の放胆なところだろうか。
予想通り、人影が仕掛けてくる。予想以上に迅く、しかも相手の撃ち込みかたが妙だったので沖田の剣は届かず、相手の剣を払っただけだった。それはいい、半ば防御的に出した剣だったのは確かだ。
よくないのは、それがまたしても娘だったことだ。右手に異風な剣をかざした彼女は、沖田に突きを払われると機敏に身を翻して彼の方に向き直った。忍び装束のような出で立ち。栗色の髪がなびく。美しい娘だったが、先の娘とは違って表情があった。その秀麗な容貌には驚きと怒りが閃いている。
「アタシの突きを払ったぁ?信じらんない、アンタ一体誰よ!」
参った、これで二人か。沖田は油断無く軒先を背にした。しかも何人かの隊士がこちらに駆けてくる。ああ、ダメだ。これで斬らざるを得なくなった。
実際のところ、自分が斬られる事などまるで考えていない。
「私は新撰組一番隊組長、沖田総司。命が惜しくないなら、来なさい」
そう名乗ると、栗色の髪の娘は驚いたような表情を一瞬だけ見せた。
「アンタが・・・へえ、そう。今日はついてないわね。レイ、アンタ一体何してんのよ。こいつらに感づかれる前に何でやっちゃわなかったのよ!」
怒鳴られたもう一方の娘は、相変わらずの無表情でささやくようにこたえる。
「任務は終わっているわ。でもこの人たちが来るのが早かった。多分、偶然だと思う。それに、この人はとても強い。私には分かる」
その言葉は余計に少女をいきり立たせただけだった。
「あんたバカぁ?なに訳のわかんない事言ってんのよ!さっさと始末しなさいよ!」
「娘、そこまでだ。どうやら君は相当運が悪いようだな」
今度は男の声。沖田には聞き覚えがある。振り向くと、そこにいた声の主は聞き覚えがあるどころではない人物だった。既に抜刀している彼は、沖田の方に軽く会釈した。
「・・・あ、斉藤さん」
「沖田君、足止めして貰えて助かった。危うく取り逃がしてしまうところだった」
娘を追いかけてここまで来たらしい彼、新撰組三番隊組長である斉藤一は、一瞬だけ微笑むと連れていた隊士を下がらせた。そのままゆっくりと剣を構える。得意の左片手からの刺突につながるその構えは、彼が本気である事を示している。
「娘、君は確かにいい腕をしている。だがいくら腕が立とうと、私だけでなく沖田君の相手までするのは無理だぞ。観念するのだな」
「何よ、ただのニンゲンのくせに」
意味不明の罵声と共に、栗色の髪の娘が剣を構え直す。恐らく西洋の剣なのだろう、細身の直剣が月光にきらめいた。
斉藤が踏み込む。
斉藤の突きと言えば、沖田の突きと違った意味で大変な難剣だ。沖田の突きは「三段が一度に来る」と言われる人間離れした速さが売りなのだが、斉藤の場合はその信じがたいほどの伸びと凄まじい威力が身上だった。踏み込みに独特の工夫があるのか、繰り出される突きはその構えからは見当もつかないほど伸び、一撃で相手の首や胸を串刺しにする。平素温厚な彼からは信じがたいほどに凄惨な殺人剣だ。そして、この間合いから斉藤の刺突を外せる者など、日本中捜しても一握りしかいないだろう。
しかし娘はその直剣で、斉藤の必殺の突きを払ってみせた。確かに人間離れした反応だった。
いや、払えなかった。
「えっ!」
甲高い叫びがした。彼女の剣が月の光を反射しながらくるくると宙を舞い、地面に突きたつ。彼女は斉藤の刺突の威力を読み誤っていた。真正面からさばこうとしてさばける代物ではない。
・・・あれでは駄目だ。斉藤さんの突きは、流さないとな。
沖田は呟くと、目を背けた。彼は人斬りのくせに、他人が誰かを殺すところをあまり見たがらない。
斉藤は舌打ちし、剣を引いた。
「いい反応だ。だが、次は無いぞ」
そのまま再び構えに入る。
娘の方は、剣をもぎ取られた右手を呆然と眺めていた。先ほどまで驕慢なまでに勝ち気な色をたたえていた表情は、驚愕と困惑に取って替わられている。
「うそ、アタシの剣を・・・そんな、嘘よ、そんなの嘘よ」
対照的に斉藤の表情はいつものように静かだった。彼は常日頃から口数が少なく新撰組の中では穏やかすぎる性格の持ち主だったが、しかし今の声には怒りが微妙に宿っていた。斉藤をよく知る沖田にはそれが分かる。
「年端もいかぬ娘を斬るのは哀れだとは思うが、君には部下を二人斬られている」
三番隊の隊士と言えば、一番隊や十番隊と並んで腕利きが多い。それを二人も斬ったとあれば、この娘の腕はやはりただごとではなかろう。しかし。
「死んで貰おう」
再び斉藤が踏み込む。
立ちつくす娘。
その時、蒼い髪の少女が何か呟いたかと思うと、その手を前にかざした。のべられた指が斉藤を指している。それが何なのかは分からなかったが、沖田の直感はそれが何か致命的なものだと告げた。
思考より前に、体が動いている。
「斉藤さん、危ないっ!」
飛び出すと、彼は斉藤を突き飛ばした。同時に、その体がなにか妖気のようなものに包まれる。斉藤が機敏に体勢を立て直しつつ振り返ると、沖田の体は糸の切れた操り人形のように力無く崩れ落ちたところだった。
「いかん、沖田君っ!」
慌てて抱き起こす。息はあったが、全身が氷のように冷たかった。きっとして視線を上げる。
そこには、あの二人の娘はいなかった。
背後に一番隊と三番隊の隊士たちの気配を感じた斉藤は、沖田を抱きかかえるようにして立ち上がると声だけ背に向けた。
「・・・奴らは」
「はあ・・・消えました。そうとしか言いようがありません」
「・・・そうか」
俺も視線を外していたんだ。人に文句は言えないか。
気を失ってはいるが、沖田の息はしっかりしている。少し安心して余裕のできた斉藤は、指揮官を倒された一番隊隊士たちの動揺を察した。彼は背後を振り返ると、努めて明るい声で言った。
「今のは沖田君が私をかばってくれたんだ。隊規にはあたらないから安心したまえ。副長や局長には私からそう報告しておく」
新撰組には、組長を倒された隊士はその場で全員斬り死にすべしとの隊規がある。斉藤はそのことを言っている。責任は自分にある、と。
そして、彼は局長である近藤勇や副長の土方歳三がこの件で文句を言わないだろう事を知っていた。特に土方は、ある程度こういうことを予期しているはずだ。被害に遭ったのが弟分の沖田だとまでは予想していないだろうが。
そう、土方さんが言っていた。じきに信じられないような事が起こるだろう。そうすれば、我々は今までとは全く違う相手と全く違う喧嘩をしなければならなくなる、と。
その時が来たのかも知れない。
「誰か、辻駕籠を拾ってきてくれ。沖田君をこのままにはしておけないだろう」
既に誰かが走った、と一番隊の隊士が答えた。機転の利く者がいるらしい。
沖田総司はその夜のうちに意識を取り戻した。しかし、彼が時折妙な咳をするようになったのはそれからのことだった。
それから数日後、新撰組副長土方歳三は珍しく私服で街に出た。彼は大抵外出時も隊の制服で通していたが、今日はそういう訳にはいかなかった。
普段は隊士が死のうと生きようと眉一つ動かさないほど冷徹な彼だったが、ことが弟のようにかわいがっている沖田総司の事となると話が全く違う。いや、日頃冷酷非情を通している分、多摩以来の仲間・・・同門の沖田、近藤勇、井上源三郎をはじめ永倉新八、藤堂平助、斉藤一、原田佐之助といった古い盟友たち・・・への仲間意識、友情のような結びつきはむしろ強いのかも知れない。
親しくしている幕府典医頭の松本良順がいればいいのだが、あいにく今彼は京には滞在していない。とにかく良い医者を捜してやろうと監察方(新撰組の組織の一つで副長直轄。隊の内外の情報収集と諜報を任務とする。軍での憲兵と情報部を併せたような存在で、格は副長助勤、つまり士官と同等)に調べさせ、そうして監察方筆頭の山崎蒸が見つけだしてきた赤木某という医者を訪ねようというのだった。隊服を着ていないのは、京都の町衆には新撰組は嫌われているのを彼もよく知っているからだ。
・・・女で、しかも若いのですが和漢から蘭学にも明るく、腕のいい医者だという評判です。妙な係累も見あたらないのでいいのではないでしょうか。
山崎はそう言ったが、相手が新撰組だと分かると何をされるか分かったものではない。くだんの医者宅につくと、彼は本名ではなく偽名を名乗った。
「私は武州浪人の内藤隼人。赤木殿はご在宅か」
弟が妙な咳をするので心配になり薬を貰いに来た、そう言うと、応対に出た若い娘が微笑んだ。ちょっとかわいらしい感じの娘だ。
「そうですか。お優しいんですね」
先生は今書物の整理をしているのでしばらく待って頂けますか、娘がそう言うと、いつもの彼らしくもなく土方は素直に待つことにした。どうも沖田のこととなると、隊の内外で鬼か羅刹のように恐れられている彼も甘くなってしまう。
娘が茶菓を出してくれた。自然と、何気ない会話をする。
娘は伊吹摩也と名乗った。姓があるのは、家が大坂の材木問屋だかららしい。学問が好きで、ここの女医者の内弟子のような形で蘭学を修めるかたわら診療所の手伝いをしているのだと言う。
「弟さんは連れてこられなかったのですか」
連れてきた方が良かったのですが、と摩也が言うと、土方は苦笑した。
「いや、医者嫌いなのだ。だから私が黙ってここへ来ている」
つられるように摩也も笑う。そこへ、奥から女が出てきた。例の医者か、と思ったがどうやら違うらしい。片手に何か本を抱えている。
「摩也、もう少しかかるみたいよ・・・あら」
女は土方にようやく気づいたらしく、慌てたように会釈した。
「あ、お待たせして申し訳ありません。私は葛城美里と申します」
「内藤隼人と申す」
美里、と名乗った女はここの女医者の友人らしく、書物の整理を手伝わされているようだった。何気なく目をやると、その手にある本の表紙には「孫子」と書かれている。土方はさすがに驚いた。
「あなたは兵書を読まれるのか」
「あ、はい、まあ。父が学者だったもので。興味がおありですか」
「少しは」
「ご覧になりますか」
書物を手に取る。ぱらぱらとめくると、土方はそれを美里の手に戻した。
「魏武注本だな。珍しいものだ」
「お分かりになるんですか」
「少しは、だが。一般に流布しているものより編が古い。私も初めて見た」
摩也のまなざしが尊敬の視線に変わっている。美里も、この浪人に好意を持ったようだった。
「相当お詳しいんですね」
「いやいや。私は兵書しか読まない」
これは事実だ。土方は基本的に学問が嫌いで、学者や書物読みというものはむしろ軽蔑している。ただし、それが実用的なものなら話は別だった。兵書もそうだし、彼は読まないが医学書や科学書などもそうなのだろう。ただ、理屈の本を読みかじって論談するような趣味は全く無い、そういう事だ。
「こういう物もある」
土方は懐から小さな装丁の本を一冊取り出した。表紙には歩兵操典と書かれている。
「オランダの兵書で、より実際に近い事が書いてある。読んでみるとなかなか面白い」
幕府の陸軍局が最近訳したものだ。土方はこれを陸軍歩兵頭の松平太郎から貰った。読んでみると喧嘩師を自認する彼にとって非常に面白く、最近では愛読書になっている。彼が心血を注いだ新撰組の編成が、ヨーロッパでも最新の軍事編成と似通っている事には驚き、かつその自信を深めたものだ。
美里は素早くそれに目を通した。そしてまじまじと目の前にいる浪人を眺めた。浪人にしては身なりもよく、傍らに置いた刀もみごとな拵えのものだ。そして何より、その風貌に改めて驚いた。切れ長の鋭い眼、色白だが引き締まった細面、鼻筋の通った整った顔。役者と言っても通りそうな美丈夫だ。到底、ただの素浪人には見えない。
「どうかね」
いきなりの声に、美里ははっとしたように眼を丸くした。
「あ、ええ。こういうものは初めて見たから・・・面白いわね」
口調が少し蓮っ葉になっているのは、恐らくこの女の地なのだろう。土方は何となく好ましく思った。故郷武州の女にはそんな所があったし、彼自身の義姉がそういう勝ち気な女だったからかも知れない。土方がそんな事を考えて微笑むと、美里は自分の口調に気づいたのか慌てたように頭を下げた。
土方は首を振った。
「いや、それでいい。京の女はうわべだけが丁寧でいい加減辟易していた所だ」
笑ってみせると、美里も笑った。
「そうか。面白いか」
そして兵書読みの女など見たのは初めてのことだ。それに、こうして改めて眺めてみるとなかなかに美しい。これは面白い女と出会ったのかも知れない、と土方は思った。
珍しく機嫌も良かった彼は、一つ頷くと薄く笑った。
「なら、それはあなたに進呈しよう」
「えっ」
この時代、まだまだこういう本は高価なものだ。美里は慌てた。
「えっ、しかしこれは・・・大事なものでは・・・」
「いや、いい。もう何度も読んだし、頭にも入っている。必要ならまた手に入れるあてもあるし、それなら読みたい者が持っているべきだ」
「でも、それでは・・・それでは、じゃあお借りするという事でどうです?私が読み終わったら、お返ししますから」
それでもいいかな、と土方は考えたが、しかし思い返した。
今ここにいるのは「内藤隼人」だ。この女もそれが「内藤隼人」だからこういう対応をしているのだろうが、それが「土方歳三」だと知ったらどうなることか。
いや、やめよう。折角の楽しい時間が台無しになってしまう。
「いや、やはりそれは差し上げよう。私もいつ京を離れるか分からぬし」
そう言い繕うと、彼は本を再び美里に手渡した。美里は本と土方を何度か見比べた後で、仕方なく小さく頷いた。
「分かりました。ご厚意、有り難く頂きます。その替わり」
彼女は着物の帯に手を掛けた。
摩也が腰を浮かしかけ、土方もさすがに慌てたが、しかしその行動は彼らが勝手に先読みしたようなものではなかった。
彼女は帯の飾りにしていた組み紐を解くと、それを土方の方に押しやった。
「元は刀の下げ緒です。父の形見なんですけど、こうして飾り紐に使っていました。よろしければ、お礼に差し上げます」
言われてみれば、確かに刀の下げ緒だ。それも、美しい紅色に染め上げられた上に銀糸を散らしてあり、相当に手が込んでいる。大藩の家老あたりでも持っていないような見事な品だった。
しばしそれを眺めていた彼は、ややあって頷いた。
「これは良い品だ・・・しかし、父上の形見なのだろう?」
「いえ、いいんです。あなたのような立派なお武家様の刀を飾っていた方が、私の飾り紐になっているよりずっといいから」
「かたじけない。ではありがたく頂戴しよう」
土方は玩物趣味がある男ではおよそ無いのだが、美しい女からこういう物を貰うのが嬉しくないわけがない。その場で愛刀の下げ緒を解くと、替わりに美里から貰った紅色の下げ緒を巻いた。
愛刀は会津松平侯より拝領の二代和泉守藤原兼定二尺三寸。言うまでもない、最上大業物の剛刀だ。今までもそれに相応しい作りの拵えになっていたのだが、こうして紅色の下げ緒を施して見るとあたかもそれが本来の姿であるかのように見事に決まっていた。下げ緒の深紅は、まるで刀に巻き付いた紅蓮の炎のようだった。
土方は笑った。本当に珍しいことに、それは新しい宝物を手に入れた少年のような屈託のない笑顔だった。
「これは見事な」
頭の中で、新撰組の隊服を着てこれを差した姿を思い浮かべてみる。さぞかし深紅が映えるだろう。昔から見栄えには気を使うところのある彼にはそれが嬉しかった。
「よくお似合いです」
「気に入った。大切に使わせて頂こう。葛城美里殿、と申されたな」
覚えておこう、と土方は思った。土方歳三として会うのは気が引けても、陰から気に掛けてやることはできるだろう。
奥から女の声がした。摩也、と呼んでいる。美里たちより落ち着いた声だ。
摩也が奥に下がり、すぐに戻ってきた。終わったので奥へどうぞ、との事だった。土方が立ち上がると、美里と摩也は笑顔で送ってくれた。どうやら気に入られたらしい。
奥の間は居間と診療室を兼ねているらしい。例の女医者はそこにいた。白衣を肩から無造作に引っかけ、眼鏡の奥の瞳が怜悧な色を湛えている。
「待たせてごめんなさい。散らかしっぱなしだったから」
ほう、と土方は唸った。山崎から若いとは聞かされていたが、予想以上に若い。せいぜい自分と同じくらいだろうか。そして、これまた滅多にないような美貌だ。
しかし、どこか冷たい印象がする。冷血だの、韓非子の言う酷吏とはああいう人だろうだのとまで言われる土方が言うのも何だが、いや彼だからこその感想なのかも知れない。どことなく自分に近い何かを感じる。
女医者は赤木律子と名乗った。
「それで?弟さんの具合というのは?」
いくら何でも、斬り合い中に見ず知らずの娘の何らかの術を受けて倒れた、とは言えない。
「何の前触れもなく突然倒れた。立ちくらみだと本人は言っているが、目を覚ました後もどうも嫌な咳をする」
その他こまごまと説明をすると、律子は首を傾げた。
「それだけではよく分からないわね。ただの風邪かも知れないし、疲れが重なっただけかも知れない。実際に見てみないと、確かなことは言えないわ」
「それはそうだが、本人がどうにも医者嫌いなのだ。一番悪く取って考えればどういう病だろうか」
「それは」
律子は即座に断言した。
「悪く取れば労咳ね。いえ、普通に取っても労咳と考えるのが自然かも知れない」
「労咳・・・か」
さすがの土方も、目の前が暗くなる思いがした。
労咳。この時代では業病であり、死病と言ってもいい。本人が死に至るだけでなく、伝染することから周囲からも避けられ、村八分にされることさえある。さすがに労咳だからと言って沖田をどうこうするつもりなど全くないが、あの朗らかな天才剣士が労咳だなどとはにわかに信じがたい。
そして、沖田をそうさせてしまったという得体の知れない娘とやらに、土方は改めて殺意を覚えた。見つけだし、この手で地獄へ送ってやらねば気が済まない。
黙り込んだ土方を一瞥すると、律子は一つ首を振った。
「でも、労咳だからと言って必ず死ぬ訳ではないわよ。安静にして、精のつくものを食べて、じっくり養生しながら私の調合する薬を飲めば、治る望みも大いにあるわ」
そんなことができる訳がない。
沖田は新撰組一番隊組長であり、局中きっての剣士だ。それが動けぬとあれば戦力は大きく下がる。いや、そんなことより、沖田自身がそんなことができる性格では無いのだ。おとなしく養生などしたがらないだろうし、第一土方や近藤を置いて自分だけ休むような事を認めようはずがない。
そんな土方の心中を見透かした訳もないだろうが、律子は淡々と続けた。
「養生は絶対に必要よ。そうでなければ、いくら薬を飲ませても意味がない」
「・・・分かった。それでいい。薬を出してくれ、必ず飲ませる」
「・・・そう」
彼女には分かっているようだったが、何も言わなかった。自分でいくつかの薬を調合すると、一つ一つ紙袋に包む。
「もしも病状が変わらないようなら、今度は弟さんを必ず連れてきなさい。実際に見てみない事には有効な手も打てないわ」
「そうする」
「剣術の稽古は一番悪いのよ。防具を付けて道場で汗をかくなんて、労咳には最悪なんだから。やめさせなさい」
いきなりそう言われた土方はさすがに驚いて顔を上げた。
「一体・・・」
「あなたの身のこなし、腕の筋肉を見れば分かるわよ。どうせ弟さんにも竹刀持たせてるんでしょ?やめなさい、弟さんの事を思うならね」
「・・・」
・・・この女、ただ者では無い・・・。
女だてらに医者などやっている事からしてただ者ではないのだろうが、どうもまとっている雰囲気といい何といい、常人では無いような気がしてならない。そして土方は自分の直感は信じる事にしている。
・・・戻ったら監察に洗わせてみるか・・・。
しかし今日の所は黙ったまま引き下がるしかない。刀を取って立ち上がると、それを見送りながら律子が呟くように言った。
「いくら人を斬っても、時代の流れは変えられない。それは歴史に棹さす、愚かな行いでしかないわ」
いよいよ怪しい、土方の直感は確信に変わっている。しかし今ここでどうこうしようとも思わなかった。ただ彼は、今日ここで初めて彼らしい所を見せた。
氷のような視線で律子を一瞥すると、吐き捨てるように言った。
「俺はそんなものには興味はない。歴史も時代も、俺の知った事じゃない。俺はただ、自分が正しいと信じた事をやるだけだ。それ以外には無い」
「考えるのを放棄するの?」
「理屈など後からつければいい。評価も後になって誰かがするだろう。俺にはどうでもいい事だ」
そう言った後で、こう付け加えた。
「町医者には分かるまいが」
「そうね。町医者には分からない事ね」
律子は得体の知れない微笑を浮かべて、そう応じた。
土方が立ち去った後で、律子は美里に人の悪い笑みを向けた。
「随分気に入ったようね、あの浪人のこと」
「あんなにいい男を見るのは久しぶりよ」
「そう・・・でも彼、ただの浪人では無いわね」
「・・・じゃあ、何だって言うのよ」
「それはこれから調べるわ」
彼女は振り返ると、摩也を呼んだ。
「零と明日香を呼びなさい。あの男のことを調べさせるわよ。それから・・・碇頭取に連絡を。手を打つのは早いほうがいいわ」
・・・私の直感が正しければ・・・。
律子はしばらくの間、内藤隼人と名乗った浪士が立ち去った辻を眺めていた。
・・・あの男・・・。
管理人(その他)のコメント
アスカ「はい、せんせぇ。質問〜」
カヲル「ん? なんだい?」
アスカ「んーと。んーと。ここはUN参謀本部黄昏分所よね。なのにどうして幕末モノがはいっているんですかー?」
カヲル「管理人の独断とヘンケンにきまってるじゃないか」
アスカ「・・・・身も蓋もない言い方ね。おつむの堅さがばればれな解答よ」
カヲル「んー。じゃあこんなのはどうだい? 幕末の戊辰戦争後に創立された陸軍は、その母体にかなりの数の武士を抱え込んでいた。奇兵隊などの新政府軍が中核にあったとしてもね。いわばこの話は、帝国陸軍前史とでもいう内容なんだよ。だからこそ、ここに納めても問題ないのさ」
アスカ「へー。そうなんだー」
カヲル「あ、信じてないねその目は」
アスカ「うん。ぜんっぜん」
カヲル「ちぇっ。つまらないな。せっかく僕が30秒かけて一睡もせずに考えたというのに」
アスカ「それは考えたとは言わない! なによ30秒っていうのは」
カヲル「おや、知らないのかい? 時間を計る単位のことさ」
アスカ「・・・・アタシはあんたにそんな幼稚園児レベルのことを教わらなくちゃ成らないほどぼけちゃいないわよ(ぼきぼき)」
カヲル「そこで指をならすのはやめてくれないかなー。太くなるよ。指」
アスカ「昨今の女性たるモノ、格闘技の一つや二つできて当然! そうじゃなきゃこの幕末の世の中は渡っていけないわよ!」
カヲル「君の場合は殺戮術のような気が・・・・」
アスカ「ほー。見たいの。見たいのねアタシの妙技!」
カヲル「ちょ、ちょっとまつんだ!」
アスカ「なによ! この作品では廃人化していないアタシは無敵強敵最適!」
カヲル「・・・・最後は違うよーな気が・・・・それにあっさり剣はじかれてるし・・・・相手の力量を見誤った典型的な例だね」
アスカ「ふ、ふ、ふっふっふっふっふ」
カヲル「ん? なんか地の底からおどろおどろしい笑いが聞こえてくるような気がするけど、気のせいだね。ああ」
アスカ「アンタは気のせいに思えても、やってくるモノはやってくるのよ!」
どかっばきっぐしゃっめきょっ!
カヲル「うぐ・・・・ひ、久しぶりのマサカリは・・・・効くなぁ・・・・ぐはっ!」
アスカ「はー。久しぶりの天誅は気持ちいいわ〜。さあ、京都をこの調子でアタシの草刈り場にするわよ!」
カヲル「・・・・や、やっぱり・・・・殺戮術・・・・」
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