追記

 原稿を見せた友人に、「戦史関連の話が分からない」という指摘を受けました。
 話の中で説明するとくどくなるし、登場人物が皆プロなので会話で流したのですが、やはり説明不足は否めないのも事実なので補足を書いておきます。

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アウステリルッツ会戦について

 1805年12月に行われたナポレオンの絶頂を示すこの会戦は、「史上最も華麗な戦争芸術」と賞賛されるものです。フランス皇帝ナポレオンの他、オーストリア皇帝フランツ、ロシア皇帝アレクサンドルも直接戦場で指揮を執っており(それが名目上であるにせよ)、三帝会戦という異名を持っています。
 
 この会戦に先立ち、ナポレオンが意図していたのは「敵野戦軍の完全な撃破」でした(トラファルガーで海軍が敗れた借りを陸で返そうとしたのです)。そうすれば有利な講話を強要できると踏んでいたたらです。
 そこで、ナポレオンはわざと敵にとって有利(に見える)状況を作り出しました。要衝であるアウステルリッツを一旦占領しておきながらロシア・オーストリア連合軍が接近してくるとこれを放棄、更にこの一帯で最も標高のあるプラッツェン高地からも兵を引きます。そして川の対岸に布陣しました。
 労せずしてアウステルリッツとプラッツェン高地を抑えた連合軍から見ると、川向こうのフランス軍の意図は消極的に見えました。特にその右翼にはスルト元帥指揮の第W軍の一部(一個師団弱に過ぎませんでした)が薄く展開しているに過ぎず、後続の本隊とダヴー元帥の第X軍はまだ前線に到着していませんでした
 連合軍首脳は、これを好機だと考えました。このまま敵の態勢が整わないうちに敵右翼に攻撃を集中して撃破すれば、ズラン高地の敵本隊を包囲する事が可能だと踏んだのです。
 しかし恐るべきことに、全てはナポレオンの作戦だったのです。
アウステルリッツ会戦図
 そして会戦は皇帝の意図の通りに進みました。
 プラッツェン高地を抑えていたビグソーデンの左翼部隊はフランス軍右翼を強襲しますが、第W軍の前衛は最初からそのつもりだったのでしぶとく防戦します。焦った連合軍は更にクトゥーゾフらの部隊も投入しますが、そこへタイミング良くダヴー元帥(ナポレオン麾下随一の名将とされる。アウエルシュタット公)の第X軍が到着して直ちに戦闘に参加、数に勝る連合軍の猛攻をしのぎました。
 そして、それを待っていたナポレオンはスルト元帥にプラッツェン高地奪取を指示。「何分で取れるか」と皇帝に問われたスルトは「30分で奪います」と豪語、折からの霧を衝いて突進した第W軍はスルトの言葉通り30分の死闘の末高地奪取に成功しました(この功績で、スルトは皇帝より「ヨーロッパ随一の戦術家」との激賞を受け、第W軍は後に「スルトの擲弾兵」と呼ばれるようになりました)。更に第W軍は第X軍と連携して連合軍左翼を完全に包囲し、撃破します。
 驚愕した連合軍はロシア皇帝近衛軍を投入、近衛騎兵がプラッツェン高地の奪回を図りましたが、フランス軍も親衛軍(当時無敵と言われた精鋭部隊「老親衛隊(オールド・ガーズ)」を含む、最強の予備戦力)とミュラ元帥率いる騎兵集団でこれに対抗、連合軍最後の反撃は失敗に終わりました。

 この会戦はナポレオン戦術の極致を示すものと言われています。
 敵を思うままに動かし、そうして作った隙を速攻で叩く。それが彼の十八番でした。



ワーテルロー会戦について 
 
 1815年、幽閉先のエルバ島から脱出したナポレオンは再び帝位に返り咲きました。連合軍の対応がもたつく間に軍を再整備した彼は、対仏大同盟連合軍の要であるイギリス・プロイセン両軍を叩く事を決意します。この二つさえ何とかすれば後はどうにでもなる、彼はそう確信していましたし、それは間違っていなかったと言われています。
 その時期、プロイセン軍とイギリス軍はベルギー付近に位置していました。一応連携は取っていたのですが、軍事的天才である皇帝はその連携が甘い事を察知します。その隙を捉えてまずプロイセン軍を撃破、そして返す刀でイギリス軍を屠る、彼はそう考えました。機動力を生かした速攻で敵に集中の機会を与えない、それがナポレオン流だったのです。
 そして実際に、彼はまずリニーにてフォン=ブリュヒャー率いるプロイセン軍を捉え、これを敗走させました。ブリュヒャーは負傷し、総参謀長グナイゼナウが指揮を代行しなければならないほどの痛手ではありました。
 ナポレオンはド=グルーシー元帥に3万の兵を与え、プロイセン軍を追撃させました。そして当初の予定通りにイギリス軍を叩くべく、ブリュッセル方面へ移動します。
 プロイセン軍敗走の知らせを聞いたイギリス軍司令官ウェズリー元帥(ウェリントン公として有名)は、ブリュッセル街道の要衝ワーテルローにてフランス軍を阻止する事を決意しました。

 モン=サン=ジャンの丘陵地帯とその前面に布陣したイギリス軍(実際はイギリスとドイツ諸邦の連合軍)は、とにかくここを死守することにしていました。ここを抜かれるとブリュッセルまでフランス軍を遮る者はなくなりますし、またプロイセン軍との共同作戦もありました。プロイセンのグナイゼナウ参謀長はリニーでの敗戦は予定に入れており、敗走も計算に入れていました。退却しつつ態勢を整え、フランス軍を挟み撃ちにしようとしていたのです。
 イギリス軍はモン=サン=ジャンの前面にあるラ=エイ=サント、ウーグモンの両農場を防御拠点にしていました。この二つは農場と言っても小さな要塞のような作りになっており、なかなか強力な拠点になり得たのです。
 一方、ナポレオンもそれは承知していました。彼はここを叩く事によってイギリス軍の注意と兵力を引きつけ、その隙を衝こうと考えていました。陽動と速攻、今回もそれでケリをつけようとしたのです。
 しかしウェリントンはその手には乗りませんでした。前線からの救援要請をあしらいつつ頑として兵力を動かすような真似はせず、頑強に抵抗を続けました。業を煮やしたナポレオンは砲兵部隊に猛射を命じます。これにはたまりかねたウェリントンは全部隊に100歩後退を命じました。
 それを敵の前面退却だと誤判断したフランス軍はネイ元帥を先頭に騎兵1万を投入した総突撃を敢行します。イギリス軍はそれに方陣を組んで抵抗、敵味方共に大被害を受けました。ネイはナポレオンに親衛軍の投入を要請しますが皇帝はこれをためらいます。フランス軍はそのまま攻勢を続けましたが、騎兵の不足により思ったような効果が上がりませんでした。一方イギリス軍も損害がひどく、抵抗が困難になりつつありました。
 それを見て取ったナポレオンはようやく親衛軍の投入を決意しましたが、これは遅すぎました。その直後にフランス軍の右翼側面にプロイセン軍が出現、疲労しきっていた上に不意を撃たれたフランス軍に抵抗の術は残されていませんでした。
 
 こうしてナポレオンは命運を断たれ、絶海の孤島セント=ヘレナへ流刑されて孤独にその一生を閉じることになります。


 

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