「暑ぅ・・・」
郊外のモノレール駅前。先程まで汗を拭っていたハンカチを今は団扇代わりに閃かせながら、呟く女性が一人。
「・・・っとサイテー、日本って」
チェック柄のスーツの上着は脱いで腕に掛けている。年齢は二十代半ばといったところの白人女性。やや赤みの強い栗色の髪をアップに纏めている。
仕事のできそうな感じの美人である。だが、酷暑は普段は才気走っているであろう顔を歪ませる。深林の湖を思わせる碧眼も焦点を失い、品よい色合いの紅が引かれた桜唇から漏れるのは既に何度目か判らなくなった、この一言。
「暑い・・・」
膚を刺すのは野方図な白い光。汗がべとつき、目尻が染みる。シャワシャワ、ジージー・・・脳に沁み入る蝉の音。茹だった思考は詮無い悪意をぶつける対象を求め、彷徨う。夏の暑さは人を苛立たせる。
「早く来なさいよね、あのバカ」
左腕の時計に目をやる。十時五十分。午前中にしてこの暑さは尋常ではないが、それよりも先刻より針が二分と進んでいないことに眉を顰める。
『何よこの時計、壊れてんじゃないの?』
内心で呻きながら時計をねめつける。しかしこの場合、壊れかけているのは彼女の堪え性であろう。
『大っ体、先に来て待ってるのが当然でしょ、男として。くそっ・・・どうしてくれよう・・・』
まだ約束の時間には間があるのだが。炙り殺すような光と熱が理性をも蒸発させるのか。・・・アイツがノコノコやって来たら、顔面に跳び膝蹴りを喰らわしてやろう。地面に組み伏せてヒールを手にして殴りつけてやるのも良いかも知れない。そう、鼻血が出るまで、ボコボコに・・・。とそこまで考えて、自分ながら余りの馬鹿馬鹿しさに、呆れる。だが、暑いのは変わらない。
『ふぅ・・・まったくあの子もよりによってこんな暑いときに・・・』
四季を忘れた日本、と人は云う。だがやはりかつて冬だった時期はそれなりに涼しい。梅雨は無くなり、その代わりやたらと台風が来る。そして、その年はじめの台風が来る直前のこの時期が一番、暑い。クソ暑い。
「・・・死ななくても、良かったでしょうに」
あぶら蝉の声はひときわ高く。
待ち人、未だ来たらず。
(遅れた記念投稿兼「遙かなる空の向こうに」外伝)
surveyor
郊外にある副指令の邸宅で執り行われた葬儀には大勢の人が参列していた。クラスメイトは全員。ネルフの関係者も、作戦部の上級職員はもとより、開発部の技術者や整備士とおぼしき人まで。座敷につながる中庭に運動会のときのようなテントが設営されていて、入りきらない人はそこにいた。無宗教葬とかで、僧侶の類は招かれていなかった。みんなが泣いていた。
喪主を務める副指令が、挨拶していた。
『メソメソしやがって、どいつもこいつも・・・』
アスカは怒っていた。正確に言えば、きわめて不機嫌かつ不愉快だった。レイの死が三文小説染みたお涙頂戴物語で粉飾されることに激しい嫌悪を感じていた。こちらは何度も何度も腑が千切れるようなおもいをしてきたのだ。何処の誰とも判らない輩に気軽に泣いてもらいたくはなかった。
「・・・彼女は、精一杯生きました。逃げ出して当たり前の運命を正面から受け入れ、抗ったのです。・・・友達と接するときは最期まで微笑みを絶やさず、決して弱音を吐かなかったと聞いております・・・」
『そうよ!』
指令の弔辞に心の内で叫んだ。
一番辛く苦しかったのはレイに間違いなかった。その彼女が、自分たちに涙を見せなかった。それに・・・
左に座る少年に目をやった。
『コイツが泣かないのに、泣けるわけ無いじゃない』
シンジは怒らなかった。そして、そのことが少なからずアスカを当惑させた。彼にとって大切に違いない人の重大な秘密を彼にだけ隠していたのだ。どんな事情があろうとも、彼一人を除け者にし、騙し続けていたという事実は変わらないのに。
こんな状況で自分だったらどうするだろう、どうなるだろう。この日が訪れる前からアスカは考えていた。シンジが不治の病に冒されていることを自分だけ知らされずに、創られた日常の幸福の中で突然、死んでしまったら。
・・・絶対に平静でいることなどできないだろう。たとえどんな理由があったにしても。ふざけた運命に対する怒りを自分を騙した者にぶつけずにはいられないだろう・・・
だから、シンジが自分やミサトを口汚く罵っても当然だし、拳で殴りつけられることさえ覚悟していた。
だが、シンジは怒らなかった。取り乱しも泣き喚きもしなかった。ミサトと自分が事情を説明したときこそ、瞬間、驚いた顔を見せたが、それだけだった。
余りのことに少し変になってしまったのではと疑いたくもなった。が、シンジの沈痛な面持ちを見ればそれが下種の勘繰りだと知れた。シンジは、余人に測りかねる想いを胸に、ただ険しい顔で口を真一文字に結んでいた。ずっと。
だからこそ、自分だけが泣くわけにはいかなかった。ペテンの片棒を担いだ自分が空々しく泣けるわけがなかった。少なくとも、彼の前では。
そういうわけで、アスカは葬儀の間、ずっと座敷の畳を睨んでいた。顔を上げると、腹が立つくらい綺麗で愛らしいレイの笑顔を写した遺影が嫌でも目に入ってしまうから。後ろに座る親友のヒカリが啜り泣く声も、ただただ煩わしく、邪魔だった。
『みんな、泣くんじゃないわよっ!畜生、シンジがどれだけ辛いか、レイがどれだけ辛かったか、万分の一も解らないくせに!司令たちの話や場の雰囲気だけでピーピー泣いて・・・笑わせるんじゃないわよ・・・畜生・・・』
誰かが二の腕をこづいた。見ると、ミサトだった。何の用か訊ねようとしたが、何か喋るとそれだけで涙がこぼれそうなので、結局口を尖らせて訝しげな顔をすることしかできなかった。ミサトも、何も喋らず視線で前方を示すだけ。
仕方がないのでなるべくレイの遺影に意識を向けないようにしながら前を見ると、制服を着たクラスメイトたちが柩の前で行列を作っていた。献花の列らしく、用意された花を一輪ずつ手に、柩の中に供え入れているようだった。その列に加われということらしい。正直思った。これは拷問だと。
拒む理由があるはずもなく、よろよろと立ち上がった。足が、自分の足で無いようで、どうやら痺れているようだった。足の痛みは、ほんの少しだけ心の痛みを軽くしてくれるような気がして、寧ろ嬉しいくらいだった。倒れないように注意して歩を進めた。
歩きながら、何故かさっきのミサトの顔が思い浮かんだ。随分と凄い形相をしていた。でも、自分もきっと同じような酷い顔をしているのだろう。・・・可笑しくもなんともなかった。
胸の上に合わせられた白い手が見えたときはかなり危なかったが、奥歯で舌の横を噛んで、なんとか堪えた。花を入れるために柩の前に屈んだとき、時間にすれば数秒のことだったのだろうが、かなり悩んだ。レイの顔を見たら、涙を抑えることができるかどうか、甚だ怪しかった。でも、これが最後だから・・・。
さらさらとした銀色の髪の側に雛菊を置くと、両の拳を握りしめ、意を決して伏せていた目を上げ、レイの姿を見据えた。
既に色とりどりの花たちに囲まれたレイは、ちょうど花畑に横たわっているようだった。ドライアイスから湧き出る雲が、花たちの間をたなびいていた。着ている白いドレスは、この朝シンジがミサトと一緒にデパートで見立ててきたものだった。シンジのレイへの最後のプレゼントは、躰の細い彼女には少し大きいようだったが、それでも、とてもよく似合っていた。薄い死化粧を施された顔は、シンジと腕を組み、はにかんでいる時のように、華やいでいた。
ふうん、良くできてるわね。王子様のキスを待つ白雪姫、か・・・。
目を背けた。爪は掌に食い込み、噛んだ舌は鉄の味がしたが、そんなことは何でもなかった。太い金属のパイプで胸を抉られるかのような凶暴な痛みに較べれば。そして、喉が張り付くような感触がした。
『こん畜生ぉっ!!』
泣けない。泣いてはいけない。泣くんじゃないっ!!
ポン、と肩を叩かれた。ぎくりとして振り向くと、リツコだった。
「無理をすることはないわ」
『はあ?・・・何なのよ、この女・・・』
『・・・』
追憶が白日夢に化ける寸前に、なんとか正気を取り戻す。が、頭は依然寝起きのようにぼうっとしている。強すぎる光に煙る風景のように、はっきりしない。・・・遠くの建物たちが揺らぐのは、アスファルトから立ち上る陽炎か、はたまた末期の際に目が霞むのか・・・。
なぜ、ここまで日陰がないのだろう。改札を出るのを早まったかもしれない。高天に南中せんとする太陽は影の脚を伸ばすことを許さず、蝉たちの留まり木は遙かあなたの中央分離帯。目の前の電話ボックスの中は、どうせサウナに違いない。余りの悲惨さに、笑いたくなる。
モノレールの客であったのだろう、日傘を差した老婦人がゆっくり歩いてゆく。
『・・・帽子くらい持ってくりゃよかったな・・・』
日傘が小さくなって、白く細長い棒のような物と擦れ違う。棒に見えたのはどうやら青年である。半袖のワイシャツにサスペンダー、薄いクリーム色のスラックス。だんだん大きくなってきて、こちらに目を向けると、肘のあたりまで中途半端に右手を挙げて挨拶する。
『?』
黒目勝ちの目、柔和だが少し神経質そうな顔、女性のように生白い肌。180センチ以上ありそうに見える痩身の青年は、まさしく碇シンジその人。
『随分とまあ、ひょろ長くなったものね』
標的の位置が高いため、跳び膝蹴りを食らわすのはやめにする。代わりに左手を腰に、脚は肩幅に開き、暑さに歪んだ顔を引き締めると、右手の人差し指を相手の眼前に突き立て、宣う。
「遅い!」
「これ、貰うわよ」
助手席に座るやいなや、ホルダーのウーロン茶の缶に手を伸ばす。まだ半分以上残っている。ゴキュゴキュゴキュ。『間接キス』などと気にする年齢でも、関係でもない。よしそうだったとしても、今はそんなことを言っている余裕は無い。
「眼鏡、かけてるんだ?」
ブラウスのポケットに収めた金縁を見留め、キーを回しながらシンジが訊ねる。
プハァー・・・。一気に飲み干すと、今度は動き始めた空調のレバーを最大に。風が正確に喉元に当たるように羽板を調節。ブワァー・・・。資源エネルギー論的にはやや問題があるが、火照ったからだには効きすぎの冷房が丁度良い。はぁ〜、極楽極楽。気分爽快ぃ〜!・・・そういえば、隣の奴が何か言っていたような・・・。そうか、眼鏡か。
「うん、そんなに目、悪いわけでもないんだけど」
首を反らし、恍惚として目を閉じたまま応答する。なかなかに色っぽい。
「喫茶店にでも寄ろうか?まだお昼には早いけど・・・」
遅れたことを気にしてか、水を向ける。
「いいわ。もう汗も引いたし。遅くなると余計に暑くなるでしょ?」
「そうだね。じゃあ、シートベルト・・・」
「ん」
カチャリ。白いベンツが滑り出す。電気自動車、音もなく。
二十五歳の若さでフンボルト大学の助教授を務める才媛、惣流アスカは京都での国際会議のため、十一年ぶりに日本を訪れていた。そして、会議の最終日は綾波レイの命日の前日。何か運命的なものを感じた。
遠く離れた場所に暮らしているとはいえ、一度も墓参りをしていないことは酷く薄情なような気がした。それどころか、レイの墓が何処にあるのかすら知らないのだ。毎年、レイの命日が迫ると何か後ろめたいような感じがずっとしていた。
十年以上音信不通にしていた人物と連絡を取るのはかなり抵抗があったが、会議の間滞在するホテルに到着した後、勇気を振り絞って受話器をとった。碇シンジの家の電話番号は案外、簡単に判った。留守電にメッセージを入れておくと、その日の内にホテルに電話があった。
毎年、レイの命日に墓参りをしているので、そういうことなら是非一緒に行こう、と言った。どうやら葛城ミサトと洞木ヒカリにも連絡を取ってみてくれたようだが、二人とも都合がつかなくて残念ながらということ。実際、シンジの電話のすぐ後で、ヒカリから電話があった。シンジにも聞いたことだが、来年が十三回忌とかで、無宗教なので法要は行わないが、レイを偲ぶ会合が催されるので、その時是非会いたい、と。必ず行く、と約束した。
どうしようもなく不義理な自分にここまで親身になってくれる人がいる。受話器を置いてしばらくの間、胸が熱かった。
「えぇ?ウッソォ〜?!」
黄色い声は助教授になっても相変わらずのアスカ。
「そこまで驚くこと無いだろ」
ハンドルを手に、苦笑しながら応じるシンジ。別に涙の再会を期待していたわけではないがここまで緊張感がないというのも・・・と思っているかどうか。
「驚くわよ。でもそれホントに本当?ヒカリと話したとき、それらしいこと何も聞かなかったけど」
本当にかなり驚いたという調子で、矢継ぎ早に。
「まだ父さんにしか話してないからね」
「ほほぅ。すると、まだ殆ど誰にも言ってない秘密を私にだけ打ち明けてくれたという訳ね〜、シンジ」
悪戯っぽい笑みを浮かべて顔を覗き込む。
「・・・アスカの尋問が巧みなだけだよ」
そう、彼女の追及・論難の手管たるや、天性のもの。学生時代より、ゼミでの餌食は数知れず。押しては引き、寄せては返し、宥めすかして、隙をつく。正面・側面・背面・内面、自由自在。一点突破の全面展開、疾風怒濤、風林火山。智に働きながら、情に棹さしつつ、意地を通す。兎角にアスカは御しにくい・・・。
「しっかし、驚いたわ。お医者さんになってるってことだけでも驚いたのに。ふうん、碇シンジ君も遂に結婚か・・・」
フロントガラスに吸盤で付いているマスコットを指でぴん、と弾く。
「私はまた、こいつ一生レイを想って泣いてんのかと思ったけど」
言ってしまってから、失言だったかなと思う。
「一度だけだよ。僕が綾波のことで泣いたのは」
『・・・そうよね。アンタ、意外と薄情だもんね・・・』
自分も、あの時、リツコに冷水を浴びせられなければ、間違いなく泣いていた。今は、涙が眼の下の方に鈍い痛みを伴いながら許容量を超えて溜まっているような、それはそれで凄く嫌な感じがしていたが。
助手席から、後部座席をサイドミラーで伺った。シンジは、唇を噛んで耐えていた。
『バカ。こんなところで頑張っても、誰も褒めてくれないわよ』
もしかしたら、シンジはレイに聞いて全てを知っていたのではないか。心の痛みが一つの時間に集中しないように。そんな思いに捕らわれた。それならばまだ合点が行ったが、やはりそれはあり得なかった。二人がそのことを自分に隠す理由が見つからなかった。嫌がらせならば、これ以上のものは無いが、そんな馬鹿馬鹿しい被害妄想に陥るほどにはアスカは度を失っていなかった。
道が空いていたので、火葬場にはすぐ着いた。
車から降りると、ぞくりと鳥肌が立った。嫌味なくらい天気が良くて光が溢れていたが、暑くも、暖かくもなくて、うそ寒かった。
一時間半ほど待つことになるという話をミサトから聞いた。待合室は冷房が効いていて窯の炎をモニターで見られるという話だったが、そんな物を見てどうするのか解らないし、暑くもなかったし、シンジが此処に居続けるようだったので、自分もそうした。せめて日陰に入りなさいと言われ、従った。
シンジが何かを見上げていたので、見ると、今まで気づかなかったが、高い煙突が立っていて、真っ黒な煙が吹き出していた。
『!』
レイが焼かれているのだ。そう解ると、胸がぎりぎりと締め付けられた。心臓が停まるかと思うほど。悲しいとか、辛いとか、そんなものではなかった。気がくるいそうだった。
シンジを睨んだ。余程、頬を打ってやりたかった。眉間に皺を寄せ、奥歯を噛み締めるくらいであの煙を見続けることのできる神経が信じられなかった。物凄く腹が立った。
シンジが、目を落とした。ちらと煙突を見ると、もう煙は上がっていなかった。時間の感覚はわからなくなっていたが、それにしても一時間半は経っていないような気がした。
「窯が冷えるのに時間がかかるのよ」
誰に言うでもなく、ミサトが言った。
窯が冷えるまで待って、どうするのかそのときは解らなかった。レイの体は燃やされてしまったのだから、それで終わりだと思った。ただ、窯が冷えるまで待つしきたりがあるのだろうと思って、待つことにした。
煙が上がっている時間より大分長い間、待っていた。少し、汗が出てきた。待合室に行こうかと思ったとき、別の場所に集まるように火葬場の人が伝えにきた。
煤けた薄い金属の箱が中央にあった。それが棺だとわかったときには、吐き気がしたが、前の日から殆ど何も食べていなかったので胃液がこみ上げただけだった。日本人の心性をこれほど激しく疑ったことはなかった。何かの悪夢を見ているような気がした。
自分を含めたみんなが箱を取り囲んでいた。箱の中には沢山の灰と、薄汚れた感じの小さな骨の欠片のような物が散らばっていた。目の前のことはもう現実ではなかった。ようやく、シンジの心境が解った、とその時は思った。
竹の箸が差し出された。これを二人が一本ずつ持って骨を拾い、壺に入れるのだと説明された。下手なオカルト映画だった。無宗教というのは悪魔を崇拝するという意味なのかと思った。先ず、シンジと自分の二人で拾うように言われた。もう何も考えられず、箸を受け取った。
だが、シンジは受け取ろうとしなかった。
「さあ、シンジ」
指令が言った。この時、シンジの様子がおかしいのにようやく気がついた。
全身、ぶるぶると震えていた。震えは次第に大きくなってゆくようで、特に肩を大きく上下に揺らしていた。喉が引きつけを起こし、紫色の唇を金魚のようにパクパクとさせていた。
『あ・・・』
目が覚めたような感覚がして、箸を取り落とした。シンジ一人が正常だった。異常なのは他のみんなとこの儀式の方だった。
瞬間、シンジの顔が情けなく歪んだ。あんなにしわくちゃな顔は初めて見た。声は立てなかった。ただ両の瞳から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちていった。
アスカの中で、張り詰めていた何かが壊れた。
「・・・ぁ、うぁあ・・・、わあああああ!!!」
この後どうなったのか、覚えていない。
「アスカ?」
シンジの顔は、記憶の中のものより、少し長い。状況を把握するのにやや時間を要する。ええと、私は、二十五歳で、ベルリンに住んでて、助教授やってて、論文煮詰まってて、学生はパーで、・・・そうじゃなくて、今、日本に来ていて、ここは、車の中。さっきのは・・・夢。見ながら頭のどこかで夢と判るような、中途半端な。
『サイッテー・・・』
半分起きていたから何か寝言を言ったことが判って、却って恥ずかしい。
時差ボケ温度差ボケと会議の疲れがここにきてどさっと出てきている。その上、この数日、レイやシンジのことばかり考えているし、今は隣にシンジがいて、レイの墓に向かう途中だ。妄想醸成志向型最強スクラムと言って良い。あんな夢も見ようと言うもの。
とりあえず、潤んだ瞳は欠伸で誤魔化す。ふわ・・・あああ・・・
「疲れてるね」
「・・・」
「ちょっと、花買ってくるから」
車は停まっている。左手に花屋が見える。おそらく、シンジはいつも此処でレイに供える花を買っているのだろう。
「あ、じゃあ私が買ってくるわ」
少し体を動かしたい。
「え、でも・・・」
「なによ。花を選ぶ私のセンスに文句でもあるわけ?それともレイにあげるものは自分で買わないと気が済まないって言うの?」
寝起きでも、アスカの舌は能く滑る。憎まれ口は彼女の十八番。一見、友達を無くすタイプに思えるが、罪を感じさせないところは得な人柄である。
「そういう訳じゃないけど・・・、じゃ一緒に行こうか」
「二人で行ったって仕方ないでしょ。いいから、私に任せてアンタはここでおとなしく待ってなさい」
シンジは不満そうだが、構わずとっとと車を降りる。重たい空気がまとわりつく。雲が出てきて、殺人的な日射しは無くなったが、どんより湿って、蒸し暑い。覚悟はしていたが、かなり応える。「ひ〜」という感じで、花屋に逃げ込む。
「いらっしゃいませ」
中は涼しい。花を保たせる意味もあるのだろう。花弁と葉緑素の匂い。バラにチューリップにカーネーション、所狭しと。鮮やかな色彩、雑然の美。
「今日は何に致しましょう」
花は、結構好きだ。派手なのも、可愛らしいのも。レイにあげるのは何にしよう。菊とかも渋くていいが、他の花との相性が悪そうだ。色々と種類があった方がよい。ユリにランにガーベラに、そうそう、カスミソウは外せない。あ、見たことのない花。これ、何ですか。
何だかやたらと沢山買い込んでしまったような気もする。ま、いっか。ジーンズ地のエプロンの小柄なおばさんは、花束を作りに奥に消える。
『まだ、十二時前・・・』
今日は一日が長い。レイの夢も見るし・・・。ま、今日はあの子の命日だし、偶には想い出に浸るのもいいかもしれない。
雨の音。スコールだ。亜熱帯性気候の日本ではよくあることだ。どしゃどしゃ降っても、どうせ直ぐあがる。
オレンジ色のアーケード状のひさしを叩く雨音を聴きながら、フッと、笑う。
ヒカリと学校帰りにかき氷屋なんか寄るんじゃなかった。あるいはソフトクリームでも追加して後五分ダベっていればよかった。ヒカリと別れてすぐ、夕立に祟られた。鞄を頭に走って帰ったが、風が強くて、横殴りの雨に全身、濡れ鼠になってしまった。
自分の部屋で下着と服を取ってきてから、浴室に向かった。キッチンを通ったとき、少し焦げ臭いにおいがしたが、シンジがペンペンに魚でも焼いたのだろうと思って、気に留めなかった。回っていた換気扇は、止めておいた。
熱いシャワーは気持ちがよかった。心の澱を洗い流してくれるような気がするから、シャワーは好きだった。
『もう二週間か・・・』
時間が経つのはあっと言う間だった。最初の三日間は、部屋に閉じこもって泣いているうちに過ぎた。妙に優しいミサトが気持ち悪かった。シンジは食事のこととか、必要なことしか話さず、相変わらず何を考えているのか判らなかった。
三日目の午後に、ヒカリが心配して様子を見に来てくれた。丁度涙も涸れていた。大した話をした記憶はないが、随分と気が晴れた。次の日からは普通に生活した。
シンジと話をしたかったが、何を話して良いかわからなかった。自分がシンジを好きなことは間違いないし、おそらく、愛してもいた。だが、自分が彼に何をしてあげたいのか、彼に何をして貰いたいのか、わからなかった。レイが生きていたときはわかっていたような気がするのだが、思い出せなかった。そして、シンジの寡黙さがアスカの腰をさらに重くさせた。
『やめやめ、考えたって仕様がないわ』
喪に服す、という言葉をミサトに聞いて知った。きっと、今はレイの死を悼むときなのだろう。焦ることはない、ただシンジの側にいるだけでよいと思った。今はまだ。
シャワーから出た。バスタオルとドライヤーで適当に髪を乾かした。Tシャツとキュロットパンツを身に着けた。
シャワーを浴びる前につけておいたエアコンがよく効いていて、キッチンは涼しかった。麦茶を一杯飲んだ。冷凍庫にアイスクリームがあったので、食べることにした。シンジを呼んで一緒に食べようかとも考えたが、何だかわざとらしい気がしたので、やめた。
紙に包装された薄い木でできた匙があって、紙を剥がして捨てたつもりが、手に残っていたのは紙だった。
『何やってんだか』
ゴミ箱には生ゴミを入れていないことを知っていたので、大丈夫だろうと思い、覗き込んだ。匙は小さな黒い板のようなものの上に落ちていた。何だろうと板を取ると、ビデオテープだった。どうやらラベルを剥がした跡が付いていた。
『?』
気になったが、とにかく食卓の椅子に座り、アイスクリームを食べることにした。冷たくて、なかなかに美味しかった。少し退屈だったので、卓上のラジオをつけてみた。
「「大型で並の強さの台風9号は時速約20キロメートルでゆっくりと北上を続けています。中心付近の気圧は900ヘクトパスカル・・・今夜半から関東・東海地方の広い範囲でところにより雷を伴った強い雨が降る見込みです」」
『台風が来てるんだ』
そういえば、ヒカリもそんなことを言っていた。
アイスクリームの匙をしゃぶりながら、ビデオテープを見つめた。・・・ミサトは貧乏性だから、多分捨てたりしないだろう。でもシンジも結構貧乏性なのよね・・・
瞬間、何かを閃いた様子でにやりとほくそ笑んだ。
『そうだ、これはきっといかがわしいビデオなんだ。シンジが観た後に自己嫌悪に襲われて、捨てたんだわ』
我ながら名推理、といった風に、力強く二度頷いた。すでにそれがエッチなビデオだと決めてかかっていて、これをネタにどうシンジをいじめてやろうか考えていた。久しぶりにシンジとじゃれあえると思うと居ても立ってもいられず、大急ぎでアイスクリームを食べ終わると、居間に駆け込んでビデオを再生した。
『?!』
『・・・レイ・・・』
『なんで?』
「なんでよ!!」
勢いよくシンジの部屋の扉を開け放った。
部屋の床には段ボールの箱が三つ並んでおり、その脇に座って衣服を畳んでいた最中のシンジがアスカを見上げていた。
「・・・アンタ、何、やってんの・・・」
何が何だかわからなくなって、消え入るような声で訊ねた。
「引っ越すんだ」
衣服を畳む作業を再開して、落ち着いた声で言った。
「引っ越す・・・って、何処に?」
「先生のところ」
「そん・・・そんな話、聞いてないわよ!」
「今話したよ」
「ふざけないで!」
「ミサトさんには、今朝話したんだ。アスカはまだ寝てたから・・・」
「人と話すときは相手の眼を見なさい!」
作業の片手間にあしらうような態度に腹が立って、襟元を掴んで、引き立てた。
「わかったよ。ゴメン」
乱暴な振る舞いに抗議するでもなく、正面からアスカの眼を見つめ、申し訳なさそうに言った。
「ミサトさんにも、最初は反対されたよ。でも説明したら、解ってもらえたんだ」
「・・・じゃあ、その説明とやらを聞こうじゃないの。私だって同居人の一人なんだから、その権利はあるはずよ」
シンジのしおらしい様子にやや気勢をそがれたが、納得できる回答が得られるまで引き下がるつもりは毛頭なかった。
やや時間があって、シンジが答えた。
「辛いんだよ」
拍子抜けした。今更何を言っているのか。
「そんなこと、何処に行ったって同じじゃないの!」
シンジは、小さく溜息を付くと、少し考えてから、ゆっくりと口を開いた。
「確かに、何処に行っても、辛いのは無くならないと思うよ。でも、僕には此処が一番、辛いんだ。・・・楽しかった想い出が、心に突き刺さるみたいで。台所にいると、綾波と、アスカと、僕で料理したことを思い出すし、学校も、何処でも、綾波の想い出が染みついてるし・・・アスカを見ても、綾波と仲が良かったなとか、綾波と喧嘩してるんじゃないかと心配したことや・・・」
言いたいことは大体わかった。でもそれは大なり小なり自分も同じだ。
「そんなこと、私だって同じよ!何よアンタ、結局また逃げてるだけじゃない!」
「逃げてる、ってのは、その通りかもしれないね」
「じゃあ!」
「でも、アスカと僕は同じではないと思う」
「アンタにだけ黙ってたから?確かに悪かったわよ!そのことは・・・そのことはいくらでも謝るわ。本当に、ごめんなさい・・・。謝っても、仕方のないことだけど・・・」
「違う・・・いや、違わないのかもしれないけど・・・」
「何言ってるのよ・・・」
「アスカのことは、全然怒ってないんだ。むしろ、綾波の望みを叶えてあげてくれて、とっても感謝してるんだ」
「・・・」
言葉がとぎれて、二人とも黙りこくった。時計の針の音が響いた。
先に沈黙を破ったのは、シンジだった。
「秘密を知ったら自分を偽ってしまうから・・・、同情の中で死にたくないって事は、よくわかるんだ。・・・わかると思う。でも、それって一方的なんじゃないかな」
「どういうことよ。・・・確かに、ある意味、アンタは一方的に騙されてて、私たちは一方的に騙していたけど・・・」
「騙すとか、そういうことじゃなくて、・・・口下手だから、巧く言えないけど、つまり、僕は自分を偽らずにすんだけど、綾波が、偽りの綾波を、偽りって言っても、騙すんじゃなくて、本当のところを僕に見せてくれないっていうか・・・」
「・・・そんなこと、無いわよ。いくらアンタが鈍くたって、わからないはず無いでしょ?レイはいつだってシンジを見ていたし、シンジのことを、誰よりも想っていて、ちゃんと、そのことを、シンジに・・・告白もして・・・」
喋りながら、喉が詰まった。胸の内に納めているのにはもう慣れたが、言葉にすることで痛みが倍化されるようだった。
「わかってるよ、それは。でも・・・」
言い淀んだ。
「でも?」
「・・・でも、やっぱり、見せてくれない部分があったんだ。・・・綾波って時々、凄く寂しそうな顔をするんだ。ほんの、見逃してしまうような、一瞬だけど。それも、みんなで楽しく話したり、笑っている最中とかに・・・でも寂しそうな顔はすぐに消えて・・・」
「!」
衝撃を受けた。レイの、それを演技と呼ぶことが許されるなら、その演技は、どう見ても完璧だった。全てを知っている自分でさえ、そのことを忘れ、レイに対する嫉妬を禁じ得ないほどだったというのに。
シンジを、見くびっていた。
「・・・なら、なら!なんでそのことをレイに問い質さなかったのよ!なんで悲しそうな顔をするのか、自分を好きだと言ってくれた人が、なんで、そんなに、悲しそうな顔をするのか!」
言いながら、熱いものが一筋頬を伝ったが、構いはしなかった。
「そうだよね。悪いのは結局、僕だよ」
「責任を追及してるんじゃ無い!理由を訊いてるのよ!」
次のシンジの一言はとっさに意図が測りかねた。
「・・・アスカは綾波が・・・その、綾波の出生に纏わる話って聞いてるの?」
「何よ、いきなり。・・・知ってるわよ、ミサトとレイから聞いて。それが何なのよ。関係無いじゃない。クローンだって、人間だし、それより、何よりレイはレイなんだから!・・・アンタ、まさかそんなこと気にしてたの?」
「綾波が、何人もいたことも?」
「ええ、聞いたわ。でも、レイの魂は一つで、レイの妹たちは、みんなあの赤木リツコに殺されて・・・」
金髪の美人科学者が脳裏に浮かんだ。顔が苦んだ。この話を聞いてからというもの、リツコはアスカにとって憎悪の対象でしかなかった。
「そうだよね。綾波の魂は一つだったんだ。やっぱり」
薄く微笑んで、シンジが言った。
「・・・どういうこと?」
「綾波って、よく笑ったよね」
シンジの言いたいことが、少しずつわかりかけてきたような気がした。しかし、それは痛みを伴う理解だった。ただ、こくりと頷いた。
「でも、前の、自爆して死んだ綾波は、殆ど笑わなかった」
「・・・」
「綾波にさ、一回、言われたことがあるんだ。今の綾波に。アスカがまだ病院で寝てるときだったんだけど・・・僕のことなんか知らないって」
「・・・」
「前の綾波と、今の綾波と、綾波は綾波だって・・・ただ、そう思えば良かったのに・・・できなくて、それで、今の綾波に一緒に生きてゆきたいって言われたとき、すごく複雑で・・・」
「・・・」
「綾波が、寂しそうな顔をしたとき、何か、前の綾波のような気がして、でもきっとそれは、ただの思いこみで・・・都合のいい考えで・・・自分が凄く、卑怯な気がして・・・でも、今アスカが持ってる、それを見て・・・」
「もぅ・・・もう・・・いい・・・わよ。・・・みな・・・まで・・・いわ・・・ない・・・でよ・・・」
随分と長い間、二人は向かい合ったまま立ちつくしていた。
「これ要らな、・・・いの?」
右手に持ったままのテープを差し出して訊ねた。
もう泣いてはいなかった。ただ、時々喉がしゃくり上げて、言葉が途切れるのが、小さな子供のようで嫌だった。
「うん。欲しかったらあげるよ」
シンジは終始、涙を見せなかった。
「欲しいわけないで、・・・しょ。目障りだからアンタがせきに、・・・ん持って処分しなさい」
ぐいと胸に押しつけて、受け取らせた。
「ゴメン、写真は焼いたんだけど」
「フ、フフ・・・。アンタ、ホントに変わら、・・・ないわね。悪くないのに意味も無く謝っ、・・・て」
「・・・」
「いつここを出る、・・・の?」
「今、台風が来てるから、多分明後日になると思う」
「見送りに行ってもいい、・・・よね?」
「うん」
また、沈黙が訪れた。
暫く経って、思い出したようにシンジが荷物の整理に取りかかった。衣服は殆ど完了しており、程なく教科書を段ボールに詰め始めた。
『行っちゃうんだ・・・』
淡々と作業を進めるシンジを見ながら、何か、今までにない感情が胸にじわじわと広がった。
『なによ、死んだレイなんかのために・・・』
・・・自分はこんなにもシンジを想っているのに。シンジと一緒ならどんな苦しみにでも耐えられる。シンジのためならいつでも喜んで死ねる。シンジが自分の体を求めてきたら少し焦らして、応じてあげる。シンジは、私の全て。でも、シンジは・・・シンジの心は・・・
一冊ずつ消えてゆく教科書と参考書たちが、残された時間のような錯覚を覚え、思わず呟いた。
「認めない・・・」
「逃げてるだけよ。アンタは」
「おかしいんじゃない?笑ってるより、悲しい顔の方が好きだなんて・・・。変よ!レイが可哀想よ!今逃げ出してレイが喜ぶとでも思うの!?」
もっともらしく言葉を並べても、理屈が通っていないことは自分でもわかった。
「何とか言ったらどうなの!?アンタなんか、何処に逃げたって同じよ!無駄よ!写真を焼いたりしても。死ぬまでレイの亡霊に追われて苦しむのよ!今逃げ出したら!」
つくづく嫌な女だと思いながら、叫び続けた。
「アンタなんか、後追い自殺でも何でも、勝手にすればいいのよ!」
シンジは表情も視線も動かさなかったが、手は停めていた。
アスカは、肩で息をしていた。
「見送りなんて、行かないからね・・・絶対・・・」
暫くあって、なにげなく、シンジが尋ねた。
「アスカはどうするの?これから」
「えっ?」
もう、すっかり暗かった。激しい雨が窓を打ち付けていた。時折、雷が鳴った。
電気も点けず、部屋のベッドで枕に顔を埋め、アスカは泣いていた。
『畜生!畜生!畜生!畜生!』
もう一生分泣いたと思ったのに、涙は止めどなく溢れてきた。
レイが死ぬ前、自分が何を考えていたのか、今漸く思い出せた。
『最低・・・』
死という現実は甘くなかった。解っていたつもりで、少しも解っていなかった。慰め合うことなどできる種類のものではなかった。その傷口は、舐めればより大きく開き、他人の舌は鈍い刃物に過ぎなかった。自分でさえそうなのに、あんなに妥協のない真剣さでレイのことを考えていたシンジの気持ちは・・・少しでもわかった気になるのは単に傲慢と言うだけでは足りなかった。
レイに同情しながら、レイがいなくなったらシンジの心の傷を自分が癒やし、二人の愛の糧にしようと心のどこかで考えていたに違いない自分を、今はぶちのめしてやりたかった。
『・・・レイ、アンタ天使の複製から生まれたんでしょ。それなら、復活とか、再臨とか、それくらいのことしなさいよね・・・生き返って、シンジと二人で、幸せになりなさいよ・・・』
電線が暴風に泣き叫んでいた。
ひときわ強く、枕を抱いた。
『バカ!レイのバカ!シンジのバカ!』
「・・・バカ・・・」
また、雷が鳴った。
振り向くと、異様に仰々しい花束を抱えたおばさんがいる。顔の上の部分を残して、上半身は花束で隠れている。私は人気テノール歌手じゃありません、とはさすがに言わずに、それが自分の注文したものであることを思い出す。十一年ぶりだし、これくらいで丁度だろう。
「すごい雨。ビニール傘で良ければ、お貸ししますよ」
「大丈夫です。そこに車を待たせてますから」
それが合図だったかのように、小降りになる。
結構な値段だ。カードで払う。一括払い。
おばさんが、「お綺麗ですね」と自分を褒める。同性に容姿を褒められるのは気分がよい。チップをはずみたくなるが、残念ながらこの国にはその習慣がない。
会計を終える。車に乗るときに濡れないように、わざわざ店の外まで出て傘を差しだしていてくれる。親切な人だ。
「なんか文句でもあんの?」
後部座席に置いた花束と自分の顔を交互に見比べるようにしているシンジに言う。詰問口調。
「ありません・・・」
「なら、とっとと車を出しなさい、碇シンジ君」
命令口調は助教授センセイ。
「はい・・・」
出来の悪い生徒は従うのみ。
だんだん人家が少なくなって、道が上り坂になってくる。シンジの話だと、レイの墓は小高い山の中腹にあるという。霊園から綺麗な湖を見渡せるそうだ。
窓の外を見る。雨はもう殆どあがっている。ワイパーの速度を落として、シンジが言う。
「よかった。着くまでにはやむよ。一応トランクに傘は入れてあるんだけど」
「それは残念。せっかくシンジ君と相合い傘ができるチャンスだったのに」
「はあ?」
頓狂な声を出して助手席に目をやりかけるが、慌てて前に目を戻す。運転中だ。
「結婚前のひととき、数奇な運命に翻弄され、別れた男女が十一年ぶりに出逢う・・・ねぇシンジ、アバンチュールなシチュエーションだと思わない?」
蠱惑的な笑み、とはこういうものを言うのかもしれない。幸か不幸か当の碇シンジには見えていないが、甘い声と発言内容だけで十分動揺している。
「な・・・何言ってんだよ・・・」
「助手席に座るのは、いつもと違う女性。背徳感が二人を高め、うたかたの恋の炎を燃え上がらせる・・・」
「な・・・なにを・・・」
『相変わらずからかい甲斐のある奴』
笑いを噛み殺す。もう雨は降っていない。
車が霊園の駐車場に到着する。すっかり晴れ上がっている。後部座席の花束を取る。シンジは、やはり後ろに置いてあった柄杓と手拭いの入った背の高い桶とビニール袋、それに畳んだ上着の下から長方形の箱とライターを取り出す。
「何?それ」
「線香だよ」
『線香ねえ・・・』
日本人の宗教もいい加減だが、日本人の無宗教も同じ位いい加減だ。結局、坊さんにあげる金をケチりたかっただけなんじゃないの?どうでもいいことを考えていると、シンジが言う。
「虹だ」
シンジの遠い目の先に視線を移すと、確かに、虹が架かっている。しっとりと濡れたような雨上がりの空に、大きな虹が。もう消えかかっているけれど。
思わず、プッと、吹き出す。痙攣する腹を抱えて笑い出す。
そのアスカを、シンジは変なものを見るような目で見つめている。
「何が可笑しいんだよ」
「だって・・・あんまり、できすぎだから」
まだ、ヒーヒー、苦しんでいる。
「何が?」
「何でもいいでしょ。早く行きましょ」
泊まったホテルのテレビで観た『懐かしの時代劇特集』の『水戸黄門』の主題歌を思い出したということは、あんまり馬鹿馬鹿しいから、言わない。
霊園へは、森の鬱蒼とした木立に挟まれた石段がつづいている。さっきの雨のせいもあるかもしれないが、ひんやりと涼しい。蝉たちの合唱も街の中のものとは違い、不快ではない。日本の中学校で習った「しづかさや・・・」の句は、芭蕉が暑くてうるさくてヤケクソになって作ったものだとずっと思っていたが、そうではないのかもしれない。
石段を昇りきると、はたして、霊園である。自分のイメージしていた共同墓地は、だだ広い空間に、石版が並んだもの、というものだったが、かなり違う。四角いのや、上が丸くなったのや、屋根がついたのや、大きいのや、小さいのや。色々な墓石がニョキニョキと生えている。もっとも、きちんと区画されて、基本的には整然としているのだが、それでも何か楽しげな気がする。
桶に水を汲んで、いよいよ、レイの墓に向かう。
レイの墓は、どうやら霊園の隅の方に位置している。別にどうということのない墓だが、レイらしく品の良い墓だと思う。木立の切れ間から青い湖面を見はるかすことができ、湖から涼しい風が吹いている。
髪留めをはずして、自慢の髪をなびかせる。気持ちよい。目を細め、少しなまめかしげに首を回す。
『案外、いいところね』
シンジが、ズボンのポケットから軍手を取り出し、しゃがんで雑草を毟り始める。ビニール袋は何に使うのかと思っていたが、このためかと納得する。自分も、花束を脇に置いて、腰をかがめる。だが、見ればレイの墓の周りは、その周囲の墓に比べて、やけに小ぎれいである。訝しく思っていると、シンジが説明する。
「リツコさんが毎週、週末に来て、手入れをしてるんだよ。今日も、夕方になれば来ると思うけど。ほら、これも」
墓石の手前の地面に立てられた細い竹筒にマーガレットの花が一輪、生けられている。しおれているが、まだ新しい。
『ふうん』
自分の中で、ほんの少しだけ、リツコの罪を軽くしてやってもいいという気になる。断じて赦すわけではないが。
「でも、リツコさんは、正確に綾波の敷地しか掃除しないんだ。だからこんな風に、周りに草の仕切みたいなのができて、恥ずかしいから僕が適当に抜いて置くんだけど」
リツコらしい話だと思うのと同時に、それを恥ずかしく思うシンジもシンジらしいと思う。何か、微笑ましい気がして、シンジに協力して、仕切が目立たないように草を抜く。片方の軍手をシンジが貸してくれる。先ほどの雨で地面が湿っているため、抜きやすい。
適当に雑草を抜いたところで、シンジが墓石に柄杓で水をかける。雨で濡れているから本来その必要はないのかもしれないが、アスカもそんな無粋なことは言わない。それから、手拭いを濡らして墓を拭き始める。自分もハンカチを使って拭こうかと思ったが、汗を拭ったもので拭くのはレイに悪いような気がして、そのことを相談する。
「じゃあ、表は僕が拭くから、その後、裏をアスカがやってよ」
「どうせなら、私も表側を拭きたいんだけど」
「わかったよ。はい」
桶と手拭いをシンジから渡される。
改めて、柄杓で水を注ぎかける。
『久しぶりね、レイ』
二人で墓を拭き終わった後、シンジが線香を灯し、供える。アスカは、花束を置く。こうして見ると、別にそれほど不自然でもない。シンジは、立ち上がったまま、やや背をかがめ、お腹のあたりで両の掌を合わせ、目を閉じている。アスカも、それに倣い、黙祷する。
様々な想いが胸を去来してゆく。初めて逢ったときのこと。共に闘ったこと。何故かシンジとの仲が気になったこと。最後の戦い・・・。突然家に来たこと。仲良くなったこと。嫉妬。自己嫌悪。それから・・・。
楽しかったことも多いが、辛かったこと、苦しかったことの方が、やはり多い。でも、今は、そういったこと全てが、徐々に美しい想い出へと昇華されてゆくのを感じている。本当に、漸く。
まだ、完全にレイの呪縛から解き放たれてはいなくて、上手く恋愛ができなかったり、シンジが結婚することを聞いて寂しくなったりもしている。でもきっと、それもいつか克服される。寂しいような気もするけれど、きっと、それが生きてゆくということなのだから。
レイのことを忘れるというわけじゃない。ただ、もうレイのことでくよくよ悩んだりしない。レイのことを想い出すと今でも胸が痛むけど、心で流す涙は以前のように残酷で苦いものではなくて、優しく、麗しく、仄かに甘く、それ自体、広く深く心を潤してくれる。
レイに逢えて良かったと、いつか心から言えるように、きっとなってみせる。大好きなレイのために、自分のために。きっと、できる。私はレイに沢山の贈り物を貰って、すでに前よりずっと強くなっていると思うから。
顔を上げる。横のシンジは、まだ黙祷を続けている。線香の煙が頬をなでている。見ながら、とてもいい顔だと思う。
無理をしていない。叶わぬ救いを求めてもいない。絶望してもいない。もちろん、呆けているわけでもないし、変に悟ったつもりになっているわけでもないだろう。
でも、それは同時に完成でもない。完成することは、おそらく永遠にあり得ないのかもしれない。人は、自分も、周囲も、常に絶え間ない変化に見舞われ続ける。一つの解決は、常にどこかでなにがしかの変化を生んで、完成したと油断したとたんに、足下から崩れ去ってしまうのだ。
だから、シンジも、私も、まだまだなんだ。駄目というわけじゃない。いたずらに野心を鼓舞しているわけでも、永遠に見果てぬ夢を追っているわけでもない。ただ、まだまだ。
暫くして、シンジは静かな微笑みを浮かべてゆっくりと顔を上げる。結婚のこととか、仕事のこととか、他にも、色々報告することがあったのだろう。
こちらを振り向いて、言う。
「お待たせ」
「うん。待たされたわ」
「じゃあ、行こうか。空港まで送ればいいんだよね」
「うん・・・」
やや、寂しげに。
石段を降りている。シンジより五・六段開けて。後ろ手に、木々を見上げながら、ちょん、ちょんと。
何気なく腕時計を眺める。シンジの話から予想していたより、ずっと早い時間だ。ん、てことは、まだ大丈夫。
「シンジ!」
シンちゃん、どうやらこの音声刺激に対する条件反射がまだ抜けていない。恐怖を感じて、振り返る。見ると、記憶の中のものとほぼ違わず、赤毛を振り乱した美しくも恐ろしげなる人が高所から勝ち誇ったような笑みを浮かべて睨み付けている。片手は腰に、片手はびしりと、人差し指。
「空港から少し足を伸ばしたところに、美味しいパスタの店があるのよ。これまでレイとつるんでさんざん私を弄んだお詫びとして、おごりなさい!」
正午を過ぎた太陽は、いまだ空の高みで一段と輝きを増している。
小説、しかも他の人が土台を用意してくれた上にちょこっとのせるものなど、簡単に作れるだろうと高をくくっていたが、なかなかに難しかったぜ。
ということは、「遙かなる〜」の作者がやっていることはもっと大変な作業ということなのだろう。脱帽してやるぜ。別に、頭は下げないけどな。
目端の利く人は穿ってみたかもしれないが、俺のこの小説の中のキャラクターたちについてはともかく、俺自身にとっては、レイちゃんは少しも「過去形」ではないぜ。
こんなところで信仰告白をしてもどうなるものでもないかもしれんが、俺はアヤナミストだ。思想や信念が伴っていないわけではないが、それよりも趣味や習慣、悪癖といった性向の方が強い。御意見無用、夜露死苦、といったところだ。
一人称をアスカちゃんにしたのはこのページの方向に合わせた意味もないではないが、それよりこうしたシチュエーションでシンちゃんに同一化する事の難しさが主な理由だぜ。
有り体に言って、シンちゃんがレイちゃんから受ける痛みも苦しみも、全てこの身に引き受け、切り刻まれたいとすら俺は思うが、一方、渦中のシンちゃんにすればおそらくそんな呑気な考えが浮かぶはずがないわけだ。フッ・・・いつまでも対岸の人間だぜ、俺は。
暑くてたまらんな。レイちゃんに会いたいがためだけに五月にDVDを買ってしまったため、どうやら今年もエアコン無しだ。笑わせるぜ、俺。
だがそんなことより弐拾壱話以降を観ていないという状況を何とかしなくてはいけないな。まあ、気長にやるぜ。
漂流者たちの掌編にも似たカタストロフへの道程あるいは緩衝器としてはこれくらいが適当だろう。じゃあな。
お姉さん「ということで、50万ヒット記念の投稿も最後の一つを迎えました〜」
管理人 「最後の作品は今回初登場のsurveyorさんの「遙かなる〜」の外伝ですね」
お姉さん「この外伝、シンジ君はアスカちゃんを選ばなかったんですね〜」
管理人 「そして11年目の再会。うーん。読んでしばらく、感慨深いものがありましたね」
お姉さん「それは、どういう意味でですか?」
管理人 「surveyorさんのおっしゃるには、「他人の土台の上にのせる」ということですけど、その土台になるって言うのはある意味すごいうれしいことですからね。それが一点と、こういう結末のその後を読むって言うのは、みなさんがこの作品の最後にいろいろと思うところがあるんだなぁ、と感じることができますから」
お姉さん「surveyorさんの作品、やっぱりレイちゃんへの愛を感じますね〜」
アスカ 「こらこらこら。私への愛は感じないって言うの!」
管理人 「あ、でてきた」
アスカ 「何よ、でてきちゃ悪いって言うの!」
管理人 「いえいえ、そういう訳じゃないんですけどね」
アスカ 「なんか一部に、「コメントは謎のお姉さんよりあたしたちの方がいい!」っていう意見があるらしいじゃないの。ふっ。やっぱり培った人気よね〜」
お姉さん「うう、ひどいです私はいらないんですか〜」
管理人 「そういう訳じゃないですけどね、まあいいじゃないですか、お姉さんの一人や二人」
お姉さん「うううう、私は一山いくらのたたき売りですか〜(号泣)」
アスカ 「ま、いいけどね。とりあえずシンジ! さっさとパスタの店に行くわよ!速く行かないとせっかくのパスタがさめちゃうじゃない!」
シンジ 「さめちゃうじゃないって・・・・アスカ、まさかはじめからこのつもりで予約をとってたとか?」
アスカ 「ぐ・・・・そ、そんなわけ無いわよ! た、たまたま食事して帰ろうと思って予約を入れておいただけよ!」
お姉さん「そうそう、今日はレイちゃんもよんでいるんですよ〜」
アスカ 「ちょ、ちょいまち!」
お姉さん「ん? なんですか?」
アスカ 「アンタ今までの話聞いてわかんないの? 今コメントしてるあたしたちはこの作品中と同じ年齢! 同じ設定! そうするとなんで死んでるはずのレイがでてくるのよ!」
お姉さん「だってほら、よく言うじゃないですか〜ご都合主義的設定って」
アスカ 「そんなこと言わないわよ!」
レイ 「・・・・・ただいま(ぽそ)」
アスカ 「はうっ! レ、レイ! ・・・・アンタ・・・・顔青いわよ・・・・」
お姉さん「髪の毛はもともと青いですけどね〜」
管理人 「そこそこ、よけいなつっこみはしない」
レイ 「だって・・・・私、設定だと死んでるんですものね・・・・ほら・・・・」
アスカ 「はうぁっ! あ、足がない!」
レイ 「アスカ・・・・久しぶり・・・・」
アスカ 「ひぁぁぁ! 手も冷たい! ゆ、ゆ、幽霊〜〜〜〜〜!!(ダッシュ!)」
管理人 「あ、アスカちゃん逃げちゃった」
レイ 「・・・・相変わらずおもしろい人」
お姉さん「特殊効果で足見えなくして、冷水に浸してた手でさわっただけなのにね〜」
管理人 「あんたら・・・・(笑)」
お姉さん「ということで、surveyorさん、投稿作品、ありがとうございました〜」