「マ〜ナ〜ちゃ〜ん、あ〜そ〜ぼ〜」
少年の声にドアが開く。
しかし、玄関に立っていたのは、少年が呼びかけた相手ではなかった。
「あれェ?」
「アラ、シンジ君じゃない」
「こんにちは、おばさん」
「・・・・こんにちは。でも、おばさんじゃないでしょ?!」
「ひ、ひはひ、ひはひ。ほへんははひ」
「はい、じゃあ言ってみて」
「ひ、ヒナ・・さん」
「はい、よく出来ました」
そう言ってニッコリ微笑んだ女性は、少年の目にもとてもキレイだった。
それは先程まで少年の頬を思いっきりつねっていたなど、
とても信じられない慈愛に満ちた微笑みだった。
そのギャップに戸惑いながらも少年は尋ねた。
「あのね、マナは? おば・・・・ヒナさん」
「あの娘はイヤがってたんだけど、お兄ちゃんがプールに連れてったの」
「ふ〜ん、いないんだ」
少年は見るからにガッカリとした表情で女性を見上げる。
女性はそんな少年を愛おしそうに、何処か懐かしそうにみつめている。
「ゴメンね、ワザワザ来てくれたのに。電車で?」
「ううん、おとうさんがつれてきてくれたの」
「アラ、・・・・それでゲンちゃん、お父さんは?」
「おとうさんはごようがあるんだって。あわててどっかいったよ」
「そうォ、相変わらずねェ〜」
「?」
女性はクスクスと楽しげに笑いを漏らす。
少年はそんな女性の様子にぽか〜んと見とれるだけだった。
彼女は少年の視線に我に返ると、ばつが悪そうな表情を浮かべた。
それから優しく少年に話しかけた。
「あ、それじゃあ、マナが帰ってくるまで中で待ってる?」
「・・・・え? あ、ううん。きょうはかえる。またね」
初年はきびすを返すと、突然走り出した。
少年の背中を女性の声が追いかける。
「車に気をつけて! また来てネ」
その声に手を振って応えると、少年は通りを走り抜けていった。
「おい」
突然の声にシンジはキョロキョロと辺りを見渡した。
廊下に人影はまばらだった。
そんな中に高等部の制服が異彩を放っていた。
いくら中高一貫教育が売りの第壱学園でも、
中等部と高等部の校舎は別棟に分かれている。
講堂やクラブ部室など、共用施設ならばともかく、
こうして中等部舎に高等部の生徒が立っているなど、
ひどく珍しい光景だった。
「おい、そこの君」
一体何してるんだろう、などと考えていると、
改めてシンジに声をかけてきた。
「ぼ、ボク?・・・・ですか?」
「そう、君だ」
そう言われてシンジはまじまじと相手を見返した。
すらりとした長身としっかり日に焼けた肌はとても精悍に見える。
キラキラと光り輝く瞳は、ともすると憎悪の炎を覗かせているように見えた。
(? 誰だろう・・・・知らない人だよ・・ネ!?)
(・・・・でも、どこかで会ったコト、あるような気もする・・・・)
どんなに記憶を探っても思い出せない。
それにこちらの世界で、これ程悪意を向けられる憶えもない・・・・ハズだった。
「な、何か用・・ですか?」
「用があるから、声をかけた」
「は、はぁ・・・・」
(何か居心地悪いや・・・・。でも、悪いコトした憶えはないし・・・・)
「碇・・・・シンジ君、だろう」
「は、はい。でも、あなたは?」
「・・・・これでも一応君の昔なじみなんだが」
「エ?」
その時、ある光景がシンジの頭の中に甦った。
周囲を劈く爆発音。
迫り来る爆撃機の轟音。
エヴァから飛び降りたシンジの目前。
マナが飛び込んだ少年の胸。
しっかりと、力強く、日に焼けた腕が抱き締める・・・・
「・・・・ムサシ」
確かそう呟いた。
マナの唇は愛おしそうにそう言った。
「・・・・ムサシ」
「その通り」
シンジは脳裏に甦った記憶のままに呟いていた。
目前の少年がその呟きを肯定する。
「霧島ムサシだ」
「エ? えぇ!?」
「なんだ、憶えてたワケじゃないのか・・・・。まぁ、いい」
シンジの驚愕にムサシは顔をしかめたが、
この件についてそれ以上追求するつもりはないようだった。
しかし、シンジの混乱は収まりそうもなかった。
すでに事実は明白だと言うのに、
シンジは恐る恐る本人に確認せずにはいられなかった。
「霧島? じゃあ、マナの、お兄さん?」
「君に妹を呼び捨てにされるのは不愉快だし、
お兄さんなんて言われるのはもっと不愉快だ」
「ご、ごめんなさい・・・・でも」
「確かに君の言う通り、霧島マナはボクの妹だ。
何よりも大切な・・・・」
パニックに陥ったシンジは記憶の断片を繋ぎ合わせて、
精一杯建設的な思考を組み立ててみる。
特に最後の台詞にこめられた意味を想像する。
結論は一層シンジの混乱を激しくしただけだった。
(な、なんで? 彼は、マナの仲間、だった・・・・)
(それがなんで? なぜ兄妹? どうなってんの?)
(あぁ、この世界はみんなの願いがこめられてるんだ・・・・)
(2人とも強く願ったのかな? ずっと側に居たいって)
(そう言えば・・・・マナのお母さん、ヒナさんが言ってたっけ)
(小さい頃のボクとマナが仲がいいのをやっかんでたって・・・・)
(エ? ていうコトは・・・・)
思考の暴走が恐ろしい結論に達しようとした時、
ムサシが独り言のように呟いた。
「まったく、マナの奴・・・・
美化された子供の頃の想い出なんか、いつまでも・・・・
それも、こんな女ったらし・・・・」
ムサシの憎々しげな口調に思わずシンジは口を挟んだ。
「あのォ・・・・、女ったらしって・・・・ボク?」
「他に誰がいるって言うんだ?」
そのキッパリした口振りにシンジは二の句が継げなかった。
これまでも、その手の噂を耳にするコトは度々だった。
それでも本人を目の前にハッキリ言われたのは初めてだ。
シンジの心に暗澹とした厚い雲が立ちこめる。
解ってはいるつもりだった。
自分がどんなに卑怯なのか。
自分を慕ってくれる3人の女の子。
みんな自分のコトを好きだと言ってくれる。
それなのにはっきりと1人を選べない自分。
今この時のぬるま湯のような状態に心地よさを覚えている。
この瞬間をいつまでも失いたくない。
そんなエゴが3人を縛り付けている。
(それでも、ボクは・・・・選べない)
(ボクは、誰かを・・・・捨てたりできない)
そんなシンジの葛藤も知らず、ムサシが話を続ける。
「いいか、良く聞け。マナはオレの大切な妹だ。
この世の何とも換えられないオレの宝だ。
そのマナを、よりにもよって、二股どころか、三股だと?
オレはコレまでマナを泣かせた奴を許したコトなど一度もない。
当然今回も・・・・」
「わ、わ・・・・ちょ、ちょっと待って」
「問答無用」
険悪な表情で迫ってくるムサシにシンジは思わず後退する。
それを追ってムサシの手が伸びてくる。
「だから、待って。その、・・・・じゃあ、どうすればいいの?
『君とはつき合えない』って、マナに言えば良かったの?」
「貴様ァ! マナを泣かせる気か!?」
「そ、それじゃあ、キチンと交際すれば・・・・」
「許さん!! マナは誰にもやらん!!」
「そ、そんなァ・・・・」
後退を重ねたシンジの背中に固い感触が伝わる。
振り返ると、そこは廊下の突き当たりだった。
もはや逃げ場は無くなった。
正面に向き直ると、拳を固めたムサシがニィっと口を歪めて近づいてくる。
まさに進退窮まったその時。
「お兄ちゃん!!」
ムサシの身体がビクンと反応した。
シンジも驚いて声の方に顔を向ける。
ムサシの後方には柳眉を逆立てたマナが立っていた。
さらにその後ろには、アスカやレイ、カヲルの姿もあった。
それだけを確認して視線を戻すと、
恐る恐る後ろを振り返るムサシの姿が見えた。
ムサシは妹の存在を目で確認すると、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「ま、マナ・・・・」
「何やってるの? お兄ちゃん」
「な、何って、その・・・・。
碇シンジ君と、あぁ、きゅ、旧交を温めてたんだよ」
「ウソばっかり。ちゃんと見てたんだから!
シンジ君イジメてたでしょう!?」
マナの声は怒りに震えていた。
怒りの矛先が自分に向いているワケでもないのに、
シンジはもちろん、アスカやレイまで、つい首をすくめてしまった。
これ程激しく怒っているマナを見るのは、みんな初めてだった。
「・・・・お兄ちゃん。この後どうなるか、分かってるんでしょうネ?」
「あ、その、ボクはマナの為に・・・・」
「言い訳は見苦しいわ」
「そ、そんなマナ・・・・」
「問答無用。さっさと帰って反省してなさい!」
マナがピシャリと言い切ると、
飼い主に怒られた子犬のように悄然とした様子で、
ムサシはトボトボと高等部舎へ歩き去った。
別れ際、一瞬にも満たない時間、シンジを睨み付けたムサシの視線に、
(あぁ、波乱は続くんだぁ・・・・)
シンジはそんな予感を覚えて、タメ息をついた。
ようやく平穏が戻ったモノの、憤懣やるかたなし、
といったマナの様子に誰もが声をかけるのすらはばかっていた。
それでも、1つ咳払いをした後、マナに尋ねたのはアスカだった。
「エと・・・・アレ、マナのお兄さん?」
「そ! やんなっちゃう!
アタシの側に男の子がいると、すぐああなっちゃうの。
まぁ、シンジ君以外の男の子と付き合うつもりなかったから、
断る手間が省けて良かったけど。
でも、よりにもよって、シンジ君にまで!!」
語気はまだ荒いモノの、どうにか落ち着いてきたマナは、
アスカの方を振り向いて応えた。
「まぁ〜ったく、いつまでも子供なんだから」
大きなタメ息を付くと、マナはシンジに謝った。
「あ!ゴメンね、シンジ君。
お兄ちゃんが変なコト言ったでしょ!?
気にしないでネ。
悪気はないと思うんだけど・・・・
ホント、ゴメンね」
そう言ってマナが頭を下げるのでシンジは戸惑うばかりだった。
「あ、そ、そんなに謝んないでよ、マナ。
ボクは別に気にしてないから」
「ホント?」
「うん。だから、マナも気にしなくていいよ」
「・・・・ありがとう」
ささやくように感謝の言葉を口にしたマナは安堵したのか、
その瞳はうっすらと潤んでいるようだった。
シンジ達がそんな2人だけの世界を形成している傍らで、
不満そうな顔をしたアスカとレイにカヲルがヒソヒソと話しかけた。
「ところで2人とも・・・・」
「何よ! うるさいわネ!」
「黙りなさいヨ、カヲル! うぅっ、シンちゃんったら。
マナとあんなに仲良く・・・・」
しかし、マナとシンジの様子を気にしているアスカとレイは、
ろくに振り向いてもくれない。
そんなコトでめげもせず、カヲルは続けた。
「ところで2人とも・・・・、霧島君のお兄さん、どう見た?」
「どうって・・・・?」
「シンジ君に対する態度」
「えぇ? 単にシスコン気味ってだけでしょ!?」
アスカの断定的な口調に、カヲルは首を振った。
「いや、アレはシスコンって言うより・・・・」
「え、何なに?」
興味津々と言った風情でレイが続きを促す。
カヲルは口元を手で隠し、声をひそめた。
「近親そ・・」
「アンタ、なんてコト言うのよ!!」
クリティカル・ヒット!!
カヲルはアスカの右ボディ・ブローで床に沈んでしまったのだった。
「まったくロクなコト言わないんだから・・・・。
それから、レイ! アンタもアンタよ。あんなのに合わせるなんて」
「えぇ〜、だっておもしろそうだったじゃない」
「そんなモノ喜ぶな! ったく、やっぱりアンタ達イトコなのネ」
「あぁ〜、それは禁句だって言ったじゃない!!」
「だぁってネェ〜、人間品性ってモノは・・・・」
「うぅ、もう怒った! 待ちなさいヨ、アスカ」
「え、あ、ちょ、待てと言われて、待つバカはいないわヨ」
「待て、コラ〜!!」
シンジは凄まじい勢いで駆け出したアスカとレイを呆然と見送った。
「あぁ〜あ、行っちゃった・・・・」
こちらも取り残されたマナがポツリと呟いた。
なんだかんだと好き勝手に言われ放題で、
急速にご機嫌を悪化させていたマナだったが、
すっかり毒気を抜かれてしまっていた。
「あ、そうだ。シンジ君」
「え、な、何?」
「あのネ、体育の、エトォ・・・・」
「加持先生?」
「そう、その加持先生が教室に来たの。
テストは今日の放課後だって。
それで・・・・アレ? どうしたの? シンジ君」
「あ、な、なんでもない、よ」
「でも・・・・顔色悪いよ?」
「大丈夫、気にしないでいいよ」
「そう?」
シンジの言葉に頷きつつもマナはやはり心配そうだった。
そんなマナの視線を感じながら、シンジは心の中で呟き続けていた。
(逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、・・・・ )
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