遥かなる空の向こうに

第3話:人が生きていくということ



 作業が一段落ついたのは、すでに陽もとっぷりと暮れた頃だった。
 家に帰るケンスケを送り出してしまうと、室内にはシンジ、レイ、アスカの3人だけが残る。
「今日はミサトは?」
「あ、うん、仕事で遅くなるそうだよ。いろいろ後始末が大変らしいから」
「ふーん」
 アスカはミサトの仕事に関しては興味がなさそうだ。
「じゃ、あたしたちだけで先にご飯、食べちゃうんでしょ」
「うん、そのつもりだけど・・・・今日は買い物に行けなかったから、材料があんまりないんだよね。何にしようか・・・・」
 シンジは台所に向かいながら、夕飯をなににするか考えている。
「引っ越して最初の夜ご飯なんだから、とびっきりおいしいの作ってよね、シンジ!」
「そんなこといわれたって、材料がなきゃいくら僕でも作れないって」
「そこを何とかするのが無敵のシンジ様なんじゃない」
「僕の一番の敵はアスカの胃袋のような気が・・・・」
「なんですってぇ!」
 ぽそっとつぶやいたシンジのセリフを、アスカは聞き逃さなかった。
「そのセリフの意味、じっくりと聞かせてもらおうじゃないの」
「あ、えと、そのそれは・・・・」
 聞かれると思っていなかった発言だけに、てきめんにシンジはうろたえる。
「あ、そそうだ、僕ペンペンに餌をやってこないと・・・・」
 もっともらしい理由を見つけてシンジはコソコソと逃げ出そうとしたのだが、
「・・・・それ、わたしにやらせてくれない?」
 横からレイが、唐突にそう言い出した。
「あ、綾波が?」
 予想外のことに、シンジは面食らっている。
「ええ・・・・。だめ・・・・かしら?」
「いや、だめって訳じゃないけど、ペンペンの餌って、綾波の嫌いな魚なんだ・・・・」
「うん・・・・それはわかってる・・・・」
「じゃあ、どうして・・・・?」
「・・・・・うまく、表現はできないわ。でも、わたしはいろんなことをやってみたいから・・・・今までやったことのないこと、自分ではできないと思っていること、そういうものを、今はやってみたいと思っているから・・・・」
 ・・・・外の世界に興味を持ったんだろうか。シンジはレイの言葉を聞いてそう考えた。今まで何に対しても無関心だった彼女が、今は積極的に外に目を向けようとし始めている。
 何が、彼女をそうさせているのだろう。
 シンジは不思議に思ったが、レイのそんな姿勢を否定する理由は何もない。
「・・・・じゃあ、綾波にお願いするよ。ペンペンの魚は、あっちの部屋の冷蔵庫の下に入っているからさ」
「わかったわ・・・・」
「そっれじゃああ、アタシとシンジはさっきの発言についてふかーく語り合うとしましょうか。さあシンジ、じっくりと説明してもらおうじゃない」
「ぐ・・・・・」
 シンジは逃げ場を失ったことに気づいたが、すでに遅い。アスカに腕をつかまれ、有無をいわさずリビングの方へ引きずっていかれる。
 そんな様子を横目で見ながら、レイは扉を開けて隣の部屋へと向かっていった。
  
「クエーッ、クエーッ」
 レイが扉を開けると、廊下の奥からペンペンの声が聞こえてきた。
 とたとたという音とともに駆け寄ってきたペンペンは、レイの周りをくるくると回っている。
「・・・・わたしを、怖がらないの・・・・」
 ミサトのマンションに何度か来たことはあったが、レイはペンペンに近づこうとしなかったし、ペンペンの方でもわざわざ彼女に近寄ろうとはしなかった。それが、である。
「わたしを、家族として認めてくれている・・・・それとも、餌をくれる相手ならだれでもいいのかしら・・・・」
 そんなことを考えながら、レイは冷蔵庫の扉を開けた。
 一番下の段に、小魚の入った皿がある。それを取り出し、扉を閉める。
「・・・・・・」
 おそるおそる、魚に手がふれないようにかけられているラップをはずし、テーブルの上に皿を置く。ペンペンは器用に椅子の上に立っており、レイが皿を置くかどうかのうちにさっと食いついていた。
「ふう・・・・」
 安堵のため息。同時に、ふっと頭の中を考えがよぎる。
「・・・・どうしてみんな、肉や魚なんか、食べるの・・・・」
「みんな、自分が生きていくためによ」
 レイはその声に、はっと振り向いた。いつの間にかそこには、ミサトの姿があった。
「葛城三佐・・・・いえ、ミサト・・・・さん・・・・」
「私たち人間もペンペンも、誰だって生きるためには何かを食べなければいけない。いいえ、食べるだけじゃない。生き残っていくためには、他の命を奪わなければいけない時があるのよ。そんな行為の一つが、肉や魚を食べるということね」
「・・・・でも、それは、他の命を奪うという行為・・・・それは罪深いこと・・・・」
「レイ、いい? この世に、罪にまみれていない人間なんていないのよ」
 ミサトは、ずいっとレイに詰め寄って見せた。
「・・・・なんかはじめの話からすこしずれてるわね。まあいいわ。いい、このことだけは覚えておいて」
「・・・・・・」 
「人は住む場所を作るために森を切り開く。火を使うために木を切り倒す。外敵に襲われればそれから身を守るために戦い、そして栄養をとるために肉や野菜を食べる。人の営みは、ほとんどが他の命の犠牲の上になり立っている。むろん、植物にも命があるのだから当然よね」
「ええ・・・・」
「その、他の命を奪うという行為がいいことであるわけがない。自分たちが生きていくためとはいえ、それを正当化できるわけではないわ」
「・・・・・・」
「でも、それでも私たちは生きていかなくちゃいけない。生きていこうとするためには、他の命を奪うという行為をしていかなければいけない。もちろん、他の命を奪う以外にも多くの罪を犯していかなければならない。それも、わかるわね」
「・・・・はい、わかります」
「だとしたら、私たちは自分の人生が、数え切れないほどの他の犠牲の上に成り立っているという事実を認識し、そのうえで彼らの分まで精一杯生きていく・・・・。それが、罪にまみれた私たちのすべきことなんじゃ、ないかしらね」
「・・・・人が、生きていくということ・・・・わたしも、そうなの・・・・」
「べつにレイ、あなたに肉や魚を食べろ、という訳じゃないのよ。わたしが言いたいことは、肉や魚を食べるという行為だけでなく、人の営みというものの話をしているだけなんだから。だからレイ。その、支離滅裂な結論かもしれないけど、あなたも自分の時間を、精一杯生きなさい、と。わたしは、そういいたいのよ・・・・」
 ミサトの最後の声は、レイを気遣ってかちいさなものになっていた。しかしレイには、それは何よりの励ましの言葉に聞こえた。
「はい・・・・ミサトさん・・・・わたしは、自分の時間を、精一杯、生きていくつもりです・・・・たとえ、残りわずかだとしても・・・・」
「・・・・そう、わかってくれればうれしいわ」
 レイのセリフに、ミサトはにっこりとほほえみ返した。
「・・・・さて、ちょっち忘れ物を取りに来ただけだから、あたしはまた仕事に戻るわ。シンジ君たちには、先に寝ちゃっといて、って言っておいてくれないかしら」
「はい、わかりました」
「それじゃ、いろんな意味でがんばんなさいよ!」
 レイの肩をぽんとたたくと、ミサトはばたばたと廊下を走っていった。
「人が、生きていくということ・・・・罪にまみれた人間・・・・」
 レイは、一人になって改めて先ほどのミサトの言葉を反芻してみた。
 生きていくために、他の命を奪わねばならない。
 自分は、いったいどれだけの命を奪ってきただろうか。どれだけの犠牲の上に、今の生活を築き上げているのだろうか。
 使徒を倒した。人類を守るというために、彼らの命を奪った。
 食事・・・肉でないとはいえ、野菜を食べた。人間が食べるために育てたとはいえ、それも命の一つではある。わたしは、それを食べていた。
 最後の戦い・・・・あの中で、多くの人の命を奪った。エヴァを失った代わりに巨大な力を手に入れ、この手で多くの人を殺した。自分の手は、血にまみれている。罪の汚れは、おそらく誰よりも多いだろう。
 それだけの犠牲の上に、今までわたしは何を築いてきただろう。
 レイは、考える。 
 今までは、碇司令の言うがままに生きてきた。自分の意志を持たず、あの人の人形として、ただ命じられるままに任務をこなしてきた。
 ・・・・それは、犠牲者の上に築くべき人生なのだろうか。
「・・・・違うわ」
 はっきりと否定する。
 それは、自分の意志で決めた人生じゃない。そんな生き方は、自分が奪ってきた多くのものの上に積むべきものではない。
「だから・・・・わたしはこれからの時間を精一杯生きるわ・・・・」
 自分が納得できるように。今まで、自分の行ってきた行為と釣り合うだけの結果を積み上げるために。
「そう・・・・わたしは、生きていくわ・・・・」
 



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