遥かなる空の向こうに

第0話:終わりの始まり



 体の不調に気づいたのは、今朝のことだった。
 左腕が、時々思うように動かなくなる。
 右足に、しびれにも似た感覚が走る。
 内臓のどこかがキリキリと痛む。
 目が、時々かすむ。
 体が、熱っぽい。
 どこか、おかしい。クスリを飲んでも、不調は治らない。
 頭も、痛い。体のあちらこちらの痛みと違い、頭の痛みは、鈍い苦しみを伴っている。
「なに・・・・これは・・・・」
 少女は、つぶやいてみた。
 今まで、多くの怪我もした。瀕死の重傷も負った。そんなものとは違う何かが、確実に自分の体の中にある。彼女はそれを、はっきりと認識した。
「・・・・・・」
 無言のまま、鏡の前に立ってみる。そこには、いつもと変わらない自分の姿。
 水色のショートカットの髪、赤い、血の色をした瞳、雪のように白い肌を持った、綾波レイという名の少女。それが、鏡の中から自分を見返している。
「・・・・なんなの、これは・・・・」
 少女・・・・レイは、もう一度、そうつぶやいてみた。
  
「どういうことかね、赤木博士」
 副司令・冬月が、驚くような口調でそう述べた。
「どういうこと、といわれましても、以上の報告の通りですわ」
 白衣を身につけた金髪の女性が、冬月の問いにそう答える。平静を装ってはいるが、心なしか、態度のあちらこちらに動揺が見られる。
「しかし、そんな・・・・」
 冬月は狼狽の色をかくすことができず、視線を左右にさまよわせる。と、
「赤木博士」
 彼の脇に座り、両手を口の前で組んでいた男が、沈黙を破って声を発した。
「今一度、報告を聞こうか」
「・・・・はい」
 彼女・・・・赤木リツコは、手に持ったクリップボードに視線を落とすと、淡々とした口調でそこに書かれていたものを読み上げていった。
「ファーストチルドレン・綾波レイの体に、明らかな変化が見られます。嘔吐、腹痛、体の各所に痛み。そして、時折激しい頭痛が襲うとのこと。第三神経内科他の検査では際だった異常が見られませんでしたが、MAGIの見解は異なっています」
「それが・・・・」
「はい。彼女の体は、明らかに崩壊過程をたどっている、ということです。副司令」
「・・・・MAGIがそう判断した理由は」
 男の声が、リツコに続きを促す。彼女は再び、ボードの中身を読み上げていく。
「MAGIの判断の根拠は、まず人としての身にあまりに巨大な力を身につけてしまったたことがあげられます。われわれがエヴァを介してようやく操っていた力を、あの戦いに際して彼女は自らの体の内に取り込んでしまいました」
「しかし、レイのあの力は最後の戦いで失ったはずだ。今は彼女は、ただの人間でしかないだろう」
「副司令。地面に突き刺した杭を抜いても、穴が元通り塞がるわけではありませんわ。いや、力を失ってしまったからこそ、レイの体には空白が、補いようのない空白ができてしまったのです」
「・・・・・・」
「さらに、力を制御する過程で彼女が得た感情・・・・微々たるものですが、それも要素を悪い方向へと向けています。彼女の体は、そう言ったものを内包するようには作られてはいませんでしたから」
「・・・・システムを総動員して、新たなレイの体を生み出すわけにはいかないのか。今までそうしてきたように、彼女の魂を新たな肉体に移し替えれば・・・・」
「それも、不可能です。いえ、肉体を生み出すこと自体は可能ですが、魂の入れ替えは、もはや今のレイには耐えられません。今までの三度の肉体変換が、彼女の魂に微妙な変化をあたえてしまったようです。現在レイの魂を移し替えようとした場合、成功する可能性は・・・・」
「少しは、あるのだろう?」
「・・・・残念ながら、MAGIの試算はゼロ、でした」
「・・・・ぬう・・・・」
 冬月の重いのため息の後、室内には沈黙が満ちた。
 重い、苦しい空気が漂う。
「・・・・どうするのだ、碇」
 しばしの後、冬月は男の名を呼んだ。
「レイを・・・・我々は彼女を、どうすればいいのだ」
「・・・・赤木博士。一つ聞く」
 男、碇ゲンドウは、そういって眼鏡をわずかに指で押し上げた。
「レイの体・・・・もって、どれくらいだ?」
「MAGIによれば、今まで通りに動き回れるのは・・・・およそ、三〇日と」
「レイはこのことを?」
「うすうすは感じているようですが、まだ話してはいません」
「・・・・そうか」
 ゲンドウは、しばしの間瞑目した。そして・・・・
「冬月、すまんがレイを、呼んできてくれ」
    
「・・・・と、言うことだ。おまえに残された時間は、あまりに少ない」
 冬月とリツコを遠ざけた司令室の中で、ゲンドウは全てをレイに告げた。
「三〇日・・・・それが、おまえの全てだ」
「・・・・はい・・・・」
「私は、おまえを使徒との戦い、そして自分の計画のために生み出した。あの最後の戦いのために、おまえは存在していたと言ってもよかった」
「・・・・はい・・・・」
「しかし、今は違う。あの戦いの後も、おまえは綾波レイであり、様々な人との関わりを持っている。すでに、おまえは私の手の内にはない」
「・・・・はい・・・・」
「二つ、選択肢を用意した」
 ゲンドウはそう言って、眼鏡を押し上げた。レイは、その彼の手が少し震えているのに気づいた。
「一つは、第二東京市の遺伝子研究所に入院し、治療を受けることだ。現時点の可能性はゼロとはいえ、今後何らかの解決策が、見いだされるかもしれないからな」
「・・・・・・」
「もう一つは、今まで通りの生活を続けることだ。残された生活を悔いなくすごして、来るべき死を迎えること。その両方が、私の用意した選択肢だ」
「・・・・・・」
「どちらを、選ぶ?」
 沈黙。レイもゲンドウも、しばしの間何も話さない。部屋には、静寂の風が漂っている。
「・・・・碇司令は、どちらを、わたしに選んで欲しいのですか?」
 ややあって、レイがそう尋ねた。
「心情的には、おまえには今後も生きていて欲しい。自分たちが守った世界がどのように移り変わっていくのか、私にはおまえのその目で見て欲しいからだ」
「・・・・では、わたしに遺伝子研究所に入院しろ、と?」
「さきほどもいっただろう。これは命令ではないのだよ、レイ」
「・・・・・・」
「おまえの人生をこれ以上決める権利は、今の私にはない」
「・・・・わたしは・・・・」
 レイは、しばしの間考え込んだ。そんな彼女を、ゲンドウはじっと見つめている。
「・・・・わたしは・・・・今まで通りの生活を、望みます」
「・・・・・いいのだな、それで」
「はい。わたしのことを覚えてくれる人がいれば、わたしのことを愛してくれた人がこの世にいれば、わたしはこの世界に確かに存在したのだという証が残ります。遺伝子研究所のベッドで忘れ去られながら死を迎えるよりは、わたしはそちらを選びます」
「・・・・シンジ、か」
 さりげないゲンドウの一言に、レイはびくっ、と体を震わせた。
「・・・・分かりません・・・・」
「シンジのことが、好きなのか」
「・・・・分かりません。今のわたしには、まだ分かりません。でも・・・・」
「でも?」
「残された時間の中で、見つけてみたいと思います」
「・・・・わかった。では、そうするがいい」
 ゲンドウはうなずき、傍らの受話器を取る。
「冬月か、私だ。葛城三佐を司令室へ。それと、レイの住居変更手続きを・・・・そうだ。頼む」
 かちゃり、と受話器を置くかわいた音が室内に響いた。
「レイ・・・・これが、私のできる全てのことだ」
「・・・・碇司令・・・・」
「・・・・すまない・・・・許してくれ・・・・」
 ゲンドウが、頭を下げた。レイは、しばしの間その姿を見つめたいた。
    
「なんなのよ、アンタ!!」
 ミサトと共にマンションに戻ってきたレイを見て、アスカは開口一番そう怒鳴りつけた。いつものような来訪ではなく、荷物一式をレイの背後に見つけたからだろう。
「まあまあアスカ。レイのマンション、こんど取り壊されることになってね。行く場所がないから、あたしが預かることにしたのよ。あ、シンちゃんもそういうことだからレイの面倒、見てあげてね」
 軽口を叩きながら、ミサトはさっさとレイの荷物を運び込んでしまう。そんな様子を、アスカは怒りに満ちた表情で、シンジは驚愕の表情で、それぞれ見つめていた。
「アタシは絶対にいや!! 三人でもこのマンション狭いのに、このうえファーストまで住み込んだらどうなるって言うのよ!!」
「ア、アスカ・・・・何もそこまで言わなくたって・・・・」
「うるさい馬鹿シンジ! あんたも何か言いなさいよ! これ以上部屋が狭くなって、どこに寝ろっていうの! それに!」
「・・・・あ、シンちゃん、悪いけど、レイの歓迎会やるから、お買い物、行って来てくれないかな」
 アスカのそんな怒声を無視するように、ミサトはシンジにそう言った。
「お金はあたしのカードから出していいから、とびっきりのごちそう、作ってあげて」
「あ、は、はい・・・・」
 ミサトの差し出したカードを受け取ると、シンジはその場を気にしながらも、扉の外に出ていった。
 そして、その扉が閉じられたと同時に・・・・。
「アスカ。話があるのよ」
 ミサトの表情が、にわかに険しいものへと変わったのだ。アスカはその変化に驚きながらも、なお抗弁を試みる。
「話をそらさないで! あたしは今ファーストのことでミサトに話をしてるのに!」
「だから、そのこととも関係があるのよ。とりあえず、中に入って。これは、シンちゃんには絶対に聞かせられないものだから」
「・・・・・・」
 有無を言わせぬミサトの口調に、アスカはさすがに黙り込んだ。むすっとした表情を浮かべながら、足音も荒くリビングへときえる。それを追うように、ミサトとレイは靴を脱いで入った。
  
「さて、話を聞かせてもらおうじゃない!」
 どっかりと椅子に腰をおろしたアスカは、猛然とミサトにくってかかった。
「くだらない話だったら、本当にアタシ怒るわよ!」
「・・・・レイのマンション、壊される予定はないわ」
「・・・・な!」
「さっきの話は、シンちゃんに聞かせるための作り話よ」
「な、な、なんのためによ!」
「レイに、シンちゃんと一緒に住んでもらうために、ね」
「・・・・馬鹿にしないでよ!!」
 アスカが、我慢できないとばかりに椅子を蹴って立ち上がった。
「シンジと一緒に住ませるですって? 言ったい何のために! アタシは反対よ! そんなわけのわからない理由だけで、壊れてもいない自分のマンションから引っ越してこさせるなんて! あんた、さっさと自分の部屋に帰りなさい!」
「アスカ! 言い過ぎよ!」
 ミサトが、鋭くアスカを叱咤した。
「レイには、もう、時間があまりないのよ・・・・」
 しかしその語尾は、小さく、弱々しいものになっていた。
「・・・・どういう、ことよミサト。レイにはもう時間がないって、いったい・・・・」
「それは・・・・ね」
「葛城三佐。いいです。わたしが、話します」
 言いづらそうなミサトを制したのは、レイだった。堅く決意を秘めた表情で、アスカに向き直る。
「あなた。わたしが作られた存在だって言うことを、知っている?」
「え・・・・?」
 初めて聞いた、という表情が、アスカの顔に浮かんだ。
「作られた存在、って・・・・」
「わたしは、碇司令に作られた人間。エヴァに乗ることのためだけに、作られた人間」
「レイは・・・・クローン、なのよ・・・・」
 わけが分からないと言う雰囲気のアスカに、ミサトが簡単に説明した。セントラルドグマの光景、戦いの中でのレイの体が変化していった軌跡などを。時々アスカは質問をはさんだが、おおむね、ミサトの説明を無言のまま聞いていた。
「・・・・そして、わたしの体は、もう長くは保たない。今日、碇司令と赤木博士に言われたわ」
「・・・・・・」
「あと三〇日。それが、わたしの全ての時間」
「・・・・・・」
「碇司令は、わたしのためにその時間を有効に使う方法を用意してくれた」
「・・・・それが、シンジと住むことなの?」
「そう」
 小さな肯定。レイは目の前に置かれたお茶を、一口飲んだ。
「・・・・アンタ。シンジのことが、好きなの?」
「・・・・碇司令にも、同じことを聞かれた。でも、今のわたしには・・・・分からない・・・・」
「分からない?」
「好き、っていう感覚が・・・・分からないの・・・・」
「シンジと、一緒にいたいの?」
「・・・・うん・・・・それは・・・・そうね・・・・」
 アスカの問いに、レイはしばしの後そう答えた。かすかに、その頬が赤らんでいる。
「そう・・・・」
 やはり、この子はシンジのことが好きなのね。アスカは、レイの表情からそれを察した。もうすぐ、彼女は自分がシンジを好きなのだと言うことに気づくだろう。
 でも、ファーストがそれに気づいたときには・・・・。
「・・・・わかったわ、ミサト」
 小さく首を振ると、アスカはきっと顔をあげてミサトに向き直った。
「ファーストがここに住むの、いいわ。それに、シンジにもこのことを絶対に口外しないことも」
 シンジがレイの体のことを知れば、きっとその最後の時まで彼女に寄り添うだろう。でもそれは、偽りの愛情に過ぎない。レイが求める、本当の愛情じゃないから。
「ただ、私が妥協するのはそこまでよ。シンジがアンタを好きになるかどうかなんてことまで、譲るつもりはないからね」
「・・・・あなたも、碇君のこと、好きなの?」
「な、なっ・・・・・」
 レイの指摘に、アスカはてきめんにうろたえた。その顔は真っ赤になっている。
「な、なんでアタシがシンジなんかを!」
「あらアスカ、いま、譲るつもりはない、なんていったじゃない」
 側からミサトがちょっかいを出してくる。先ほどまでの沈痛な表情はどこへやら、興味津々という雰囲気が顔に現れている。
「シンちゃんって繊細そうだけど、それを差し引いても、結構女の子に人気あるのよね〜」
「うう・・・・」
「ほら、言っちゃいなさいよ、アスカ」
 にやにやと口の端に笑いを浮かべながら、ミサトはさらに食い下がる。
「アスカちゃ〜ん」
「う、う、うるさいわね!! ア、アタシ、部屋に戻るわ!」
 あたふた、という言葉そのままの雰囲気で、アスカは椅子から立ち上がった。その顔は、あいかわらず真っ赤なままだ。
「あ、アスカ」
 そんなアスカを、ミサトが思い出したかのように呼び止める。
「なな何よミサト!」
「さっきの部屋の狭さ、だけどね。アンタたち三人、明日から隣の部屋に移ってもらうから」
「・・・・え?」
「どうせこのマンションにはあたしたちしか住んでないんだから、隣の部屋っていってもうちの中みたいなものよ。確かに四人じゃこの部屋、狭いから」
「・・・・あ、そう、なの・・・・」
「そう。あ、それから」
「なによ、まだあるの?」
「あたしが隣の部屋だからって、シンちゃんに変なことしようなんて、考えちゃだめよ」
「な、な、な・・・・・」
 再び顔を真っ赤にするアスカ。それを見ながら笑い転げるミサト。そんな様子を見て、レイは自然と自分の口元がゆるんでいることに気づいた。
(私・・・・笑っているのね・・・・)
 そんな自分の感情に戸惑いながらも、レイはどこか安らいだ雰囲気を覚えたのだった・・・・。



続きを読む
目次へ