June 29,1998

vol.4



ビクター音産から発売されたCD。
ロネッツのステレオ・ヴァージョン
を含む全16曲入り。

瓦礫と化した日本盤スペクター・ボックス


 フィル・スペクターの知名度はTVタレントのデーブ・スペクターの足元にもおよばない、というのが残念 ながら今の日本での現実らしい。つまり、正当な評価うんぬん以前の問題だった。ビートルズ関係の本では、 邪魔者のように扱われ、彼の奇行、醜聞ばかりが取り上げられる傾向にあるのも、何とも歯がゆい。
 希望的な話題としては、大瀧詠一氏の久々のヒット曲により、「スペクター・サウンド」の名がしばしば 引用されるようになったことだろうか。しかし、これが追い風にならないのは、なぜだろう。ここに、 日本のレコード会社がトータルなスペクターの作品集を出してない、という大問題に突き当たるのだった。
 実は、1989年11月に日本のアルファ・ムーン・レコードから世界に先駆けて CD5枚組のボックス・セットが発売される予定だった。しかし、発売2週間前になってアブコ・ミュー ジック側から中止の要請があり、無残にも1万セットは日の目を見ることなく瓦礫と化したのでる。 そこで、わずかに残された残がいを拾い集めてみようと思う。
 日本での最初のスペクター作品集のCDは、1985年にビクター音楽産業から発売された。これが世界初のCD化である。ところが、ビクター音楽産業は、CD化に対する正式な契約を結んでいなかった。
 一方、アルファ・ムーン・レコードは、フィル・スペクター・インターナショナル・レコードとの間に 日本でのリリース権に関する契約を交わし、1987年6月に成立した。この時点で、アルファ・ムーンは、 文書でビクター音楽産業に抗議している。
 60年代の音源だったため、ビクター音楽産業には国内法の落ち度はなか ったが、道義的な問題として、ただちに廃盤とし、自主回収のかたちで誠意を表した。ビクター音楽産業は、 1976年にイギリスに発足したスペクター・インターナショナルの日本での権利を取得、LP「スペクター・ サウンド・シリーズ」6枚とLP「クリスマス・アルバム」を発売した経緯があり、その時の音源を利用したのかも知れない。それにしても、疑似ステレオの音源は、どこから引っ張り出してきたのだろうか。



アルファ・ムーン・レコードから送られてきた
スペクター・ボックスのマスタリング・インスト
ラクションの中の一枚。[Dalene Love Sings]
 さて、ムーン・レコードとの契約内容は、「スペクターが権利を持つ楽曲のすべて、ジャケットはオリジナルに基づいて発売する」というもの。その3カ月後には、マスター・テープが6本送られてきたという。しかし、そのままCDに使用するには耐えられない音源が多数含まれていた。たとえば、フェード・アウトが完全ではなく、音が尻切れになったものや、疑似ステレオがあったりで、マスタリングに相当の時間を費やさねばならなかった。当時、「マスタリングで、こんなに苦労したことは生まれて初めてだ」という関係者の悲鳴を直接耳にしている。
 1987年10月、11月に数タイトルの発売を予定している、との情報に喜んだのもつかの間、発売延期が告知される。結局、87年は1枚もリリースされることなく終わってしまった。
 くやしいことに、ムーン・レコードと同様の契約を交わしていた英国のクリサリス・レコードと米国のライノ・レコードは、同年に「クリスマス・アルバム」をリリース、先を越されてしまった。




レコード店に配布された新譜案内

 それでも、88年1月の新譜情報には、「ベスト・オブ・ロネッツ」、「ベスト・オブ・クリスタルズ」、「ベスト・オブ・ダーレン・ラブ・シングス」の3タイトルを発表した。しかし、またしても延期となり、雲行きが怪しくなってきた。それでも、ライノ・レコードと歩調を合わせているらしい、といううわさがが流れてきたので期待は膨らんだ。
 実際、アルファ側は、ジャケット、サンプル、リリース・シートなどのやり取りが、スペクター側と何度も行われたという。
 そうした中、米国のレコード・コレクター雑誌「ゴールドマイン」の1988年6月17日号および7月1日号にフィル・スペクター特集が組まれ、それに合わせるように、ライノ・レコードは「Wall Of Sound: The Essential Phil Spector」と名付けられたLP,CDそしてカセットのボックス・セット発売の予定を曲目リストとともに 同紙に発表した。期待は確実なものと誰もが思ったに違いない。
 この曲目リストを見ると、アブコからリリースされた「バック・トゥ・モノ」と単品の「ベスト・オブ・ロネッツ」、「ベスト・オブ・クリスタルズ」、「ベスト・オブ・ダーレン・ラブ」を合わせて2で割ったようなものに近い。
 ところが、早くも不吉なニュースが報道された。それは、悪名高きアラン・クラインがスペクターの新しいマネージャーとなり、ライノの計画に対して中止を命じた、というものだった。たしかに、アラン・クラインは、やりてのビジネスマンだが、スペクターは、その昔、彼を音楽を食い物にしている人物だと批判している。その彼を、自分のマネージャーにするとは驚き以外ない。



大瀧詠一氏による幻のライナーノーツ「スペクター・サウンドを256倍楽しむ法」の
校正用に送られたファックスの1枚。版下に張り込む前の電算写植のコピーだ
 クラインの意図は、ボックス・セットの計画そのものの中止ではなく、内容の見直しであり、彼自身のレーベル、「アブコ」から発売したいというもので、しかも、ライノと共同で制作したい、という虫のいいものであった。
 結局は、ライノとの契約を破棄し、スペクターは、アラン・クラインのアブコ・ミュージックと鞍替え契約をしてしまった。
 この年1988年の末に、アルファ・ムーンは、ようやく最初の1枚「クリスマス・アルバム」をリリースした。スペクターと交わした契約有効期間は、1990年の6月までの3年間。その半分を無駄に費やしてしまった。そのうっぷんを晴らすかのように、小さな文字でびっしりと埋め尽くされた、大瀧詠一氏の解説は圧巻であった。



レコード・コレクターズ誌
1989年12月号の萩原健太氏による
アルバム・ガイド


これでおしまい、では済まされない
はずだよ、スペクター。


 スペクター側の対応の不誠実さは、改善されず、業を煮やしたア
ルファ・ムーンは、最後通告を送り付けた。
 その内容は、送られてきたマスター・テープの残りの5本を曲順を尊重し、ボックスとして発売するというものだった。
 しかし、何の回答も得られないため、1989年11月10日の発売に向け、作業を強行し、苦労の末、完成にこぎつけた。
 レコード・コレクターズ1989年12月号のアルバム・ガイドには、萩原健太氏によるレヴューが掲載された。7曲のダブリのある曲目リストを見れば、あきらかに妥協の産物だということがわかる。
 しかし、待ちに待ったボックス・セットであり、興奮気味のレヴューは、ファンならずとも購買欲を誘うものだった。
 ただ、発売中止の結果、疑問を残したままになってしまった記述に、欲求不満になった読者も多ったはずだ。それは、「ベスト・オブ・ロネッツ」の中に「未発表の別テイクも収録されている。さあ、どの曲でしょう。スペクター上級者は聞いて驚けッ!」のくだりである。
 試聴用のテープには、14曲目の「アイ・ワンダー」が、どういう
わけか、クリスタルズのヴァージョンが紛れ込んでいた。これを「未発表の別テイク」と早とちりした可能性が高い。この試聴用のテープからは、別テイクと思われるものは発見できなかった。
 一方、「ベスト・オブ・クリスタルズ」のほうにも、同じ「アイ・ワンダー」が収録されていた。これは、マスター・テープを送りつけたスペクター側の初歩的なミスと思われる。
 そして、発売の2週間前になって突然、アブコ・ミュージック側から発売中止の要請が入った。この時期にいたっての要請は、なんらかの意図を感じざるを得ない。契約不履行については、ロスに出向き、アラン・クライン本人と直接話会い、法廷の場で争われることなく示談が成立し、違約金とアブコからリリースされるスペクター作品の日本における販売権を手に入れた。が、関係者の徒労感だけは補いきれるものではない。また、アラン・クラインの印象は、それに至るまでのごたごたとは違って、紳士的なビジネスマン然としていたという。
 スペクターとアラン・クラインがケンカ別れでもしないかぎり、契約しようとする勇気ある日本のレコード会社は出てこないだろう。いずれにしても、こうした日本の現状が、フィル・スペクターをマニアだけの存在にしかねない。これが一番の問題である。
 フィル・スペクターは、ビートルズよりポピュラーであってほしいのだから。
 
 

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