O.S.K Ad Postcard, 1923
英領海峡植民地
シンガポール、マラッカ、ペナン
Victoria Memorial Hall, 1920s

はじめに渡航案内基礎知識(シンガポールへの道)観光案内シンガポール川シンガポールのひと日本人街とからゆきさん熱帯の風物太平洋戦争参考資料/リンクおわりに

はじめに

客船の旅が華やかりし頃のシンガポール旅行案内です。当時の豪華客船で南の国へ案内します。使用している画像は私の収集した1900年から1930年代頃(明治・大正・昭和初期)の絵葉書(ポストカード)です。特に「日本人街とからゆきさん」と「参考文献/リンク」の章の「からゆきさん」については多くの人に知ってもらいたいと思って作りました。
1ページにしてはかなり大きくなってしまったので、リンク画像とリンクサイトは別ウィンドウに表示されるようにしました。

渡航案内

Elephant (1)

ゾウづくし1/6:大阪商船の航路図絵葉書の中のゾウ(リンク画像:昭和初期(?)の航路図 109KB)(注:日本郵船もほぼ同じ航路だったはすです)。

日本船による外国航路は、明治8年の横浜−上海をはじめに、明治26年のボンベイ航路(主に雑貨の輸出と綿花の輸入)、明治29年の欧州、北米、豪州、各航路の開設で本格化し、以後、第2次世界大戦勃発までに、日本郵船、大阪商船、川崎汽船といった会社によって、南米(移民船)やアフリカ(南米行きの移民船)を含む世界各地に定期船が運行していました。特に1920・30年代は米国を中心にした海外旅行ブームや日本経済の活発化を背景に船の大型化、高速化、豪華さが競われていました。

シンガポールは戦前、最高 3600人の日本人が暮しており、かなり日本との往来はあったようですが、シンガポールだけを往復する客船はなく、欧州やインド航路の船が多く利用されたようです。戦前にシンガポールのみ観光ということは余り考えられないのですが、空想の世界のことなので軽い気持ちで出かけることにしましょう。

ここでは日本郵船が乗客用に作成した「渡欧案内」という小冊子(大正13年版を所有)を使用して、寄港地であるシンガポールと船旅について案内することにしますが、現代仮名使いでの引用および当時の絵葉書資料の使用については発行元の日本郵船歴史資料館に問い合わせて問題のないことを書面で確認していますそれ以外の資料も古いものであるため問題は無いと考えています。

Guide Book

ガイドブック:左=日本郵船・渡欧案内表紙(年)、右=世界一周案内(年):リンク画像なし

欧州航路予定航海日数及距離及運賃(ここだけは昭和6年版の渡欧案内によります)
(欧州までの碇泊地の絵葉書も入れました)

寄港地 自横濱 碇泊日数 自横濱距離 1等料金 2等料金 3等料金
横濱
神戸
門司
上海
香港
新嘉坡(シンガポール)
馬拉加(マラッカ)
彼南(ペナン)
古倫母(コロンボ)
蘇土(スエズ)
坡西土(ポートサイド)
馬耳塞(マルセーユ)
倫敦(ロンドン)
安土府(アントワープ)
初日
2日目
5日目
8日目
13日目
19日目
21日目
22日目
27日目
39日目
39日目
45日目
52日目
64日目







半日
半日

数時間
半日


350浬
590浬
1,140浬
1,970浬
3,410浬
3,530浬
3,800浬
5,080浬
8,480浬
8,568浬
10,083浬
12,103浬
12,288浬




\105
\170
\223

\242
\409
\818
\818
\975
\1,022




\65
\95
\158

\178
\251
\613
\613
\650
\669




\37
\49
\84

\93
\158
\334
\334
\362
\390

平均的な家庭の収入が 70円から 100円くらいといわれた時代のことです。もっと安く行こうと思えば中国船を利用するなどの方法もあったようですが、作家の金子光晴のように3等席の切符を買って、1等席の日本人から1等国日本の体面を傷つけた、となじられることもあったようなので窮屈な時代だったかも知れません。

Argentina MaruChildren's Room

豪華客船:左=大阪商船の世界一周船あるぜんちな丸、右=同船の児童室(1939年建造、1943年戦争のため沈没)

使用船 箱根丸10,420噸、伏見丸10,936噸、賀茂丸7,955噸、榛名丸10,421噸、諏訪丸10,672噸、熱田丸7,983噸、箱崎丸10,380噸、香取丸9,849噸、北野丸7,952噸、白山丸10,936噸、鹿島丸9,908噸
本航路は2週1回横濱を出帆して上記の各寄港地を経てロンドンおよびアントワープに至るものであります。船は悉く8千噸以上の双螺旋大汽船で、速力の快捷、構造の堅牢、設備の斬新なるはもとより客室、食堂、談話室、診察室、酒保、浴室、理髪室、電燈、電扇、暖房器、製氷器、冷蔵庫、消火器等船客の安全と愉快のため最も進歩した設備ひとつとして備わるるものはありません。無論無線電信の備付もあって常に陸上と通信することも出来ます。
船内には和洋の書籍、楽器、蓄音器、碁、将棋その他の運動遊戯器具を備付け、甲板には籐の肱掛椅子や長椅子を配置して船客の使用に供します。
広い甲板の長椅子に横臥して煙波浩蕩水天一色の景を眺めたり或いは読書に耽ったりするのは海上旅行をおいて他に得られない愉快であります。
また熱帯航海中は上甲板に清鮮なる海水を湛えて一大遊泳場を設け長途航海中船客の無聊を慰めます。
船の食事にはその調理に注意を払って永年欧州一流のホテルで研究してきた教師数名を置き熟練な料理人を養成して出来得る限り船客のご満足を買うに努めております。殊に常に食卓を飾る熱帯各地の珍しい果物は船客により非常に珍重されます。
乗組員は船長以下技量、経験共に充分備わった者で、尚乗組医師は無料で診察に従事いたしますし、理髪人、洗濯人等も居って船客の需要に応じ、給仕、女給仕など親切にお世話いたしますから不自由な事は少しもございません。
-
携帯品 旅行中の衣類その他のご携帯品は、旅行の範囲、目的および季節などによってそれぞれ違いますが、旅行中は一般に塵煙を浴びることが多いので、衣類帽子は黒味がかったものが適当であります。下着その他の物品は、航海中の必要品を除いてはなるべく渡航後もとめらるる方がよろしゅうございます。この航海中、香港からスエズに至る区間は、ほとんど全部熱帯圏に属し、気候は四季共に我が国の夏と同じ位ですから、旅客は常に夏の支度が必要であります。旅馴れた人は手荷物を極度に縮小します。西洋人は数百哩の旅行をするときでも、単にスーツケース1個、他に手提鞄1個、外套1着位を携帯する位ですから万事簡便で且つ経済的であります。
 礼服は是非入用の方もありませうが、努めて平民的に旅行する場合には、モーニング・コートとスモーキング・ジャケット位をお持ちになれば充分です。(以下略)。

携帯金 旅行中、大金を現金でお持ちになるのは甚だ不便かつ危険でありますから、正金銀行その他外国に支店のある確実な銀行の信用状または巡回信用状に取組んで持参、上陸後現金と引換える方が安全です。もっとも各寄港地で所要の小金は邦貨でお持ちになり、必要に応じて汽船入港と共に来船する両替屋またはその他で両替なさるのも一方法ですが、むしろ邦貨は船中の小遣銭位にとどめ、各寄港地用としては英貨のポンドをご用意になった方が実際的に便利です。またトーマス・クック、アメリカン・エキスプレスその他の会社発行のトラベラース・チェックを利用なさるのも便利です。これらのチェックは船内諸支払いにも使用できます。

船内の服装 船内の服装は便利の点からもまた国際的である点からも洋服が最も適当であります。和服を着用さるる場合男子は袴を、婦人はペチコートとストッキングを併用せらるることをお勧めいたします。晩餐には更衣するのが一般の習慣であります。殊に1等食堂において男子は大抵スモーキング・ジャケット(タキシード)を着用されます。

Old Fashion

船内の服装:左=1920年代?(米国の船会社の絵葉書)、右=1930年代(日本郵船)

基礎知識

シンガポールへの道

Tatsuta Maru

豪華客船:左=香港に碇泊中の日本郵船・龍田丸(1930年建造−1943年、戦争で轟沈)(注:龍田丸は浅間丸、秩父丸の姉妹船で北米航路に使われたものです。北米航路は香港またはマニラが起点だったようです)。右=上海碇泊中の英国キューナード汽船のフランコニア号(オリエント航路)。

香港を出てから2昼夜程航海しますと、はじめて右舷に山ばかりの陸地が見えます。これが仏領インドシナの一角であります。更に数時間航行しますと、彼のバルチック艦隊が寄港したので有名なカムラン湾沖に来ます。これから船は再度陸岸を離れ、南へ南へと進み、従って暑さも加わってきます。香港から航海約5昼夜、1440浬を経てシンガポールに着きます。港の口には緑の小島が多数に点在し、突然我が松島を見るようであります。シンガポールは梵語の「シンガプラ」の訛ったもので、獅子の島という意味だそうです。(略)

シンガポールは海峡植民地の首府であります。海峡植民地はシンガポール、マラッカ、ザ・ディンディングス、プロビンス・ウェルズリー、ペナン及びその他の小さな島々から成り、英本国政府に直属するいわゆる王領植民地であります。その行政制度は大体において香港と同様で、政府はその全権を一太守に委ねています。ただ異なる点はマレー半島全体を保護国としてその統監を兼務することであります。 (注) ザ・ディンディングス=現マレーシア ペラ州シティアワン付近のディンディングス川流域 プロビンス・ウェルズリー=現バタワース

シンガポール市の人口は約51万余、その人種が極めて複雑であって、ちょうど世界人種の博覧会を見るようであります。大部分はアジア人で殊に中国人が多く、全人口の7割を占め、しかも3分の1は福建人であります。言語は一般にマレー語を使用しています。土人の宗教は大概イスラム教であります。

錫の採掘精錬とゴムの栽培とはマレー半島の2大産業でありまして、シンガポールの繁栄もまたこの2大事業に負うところが甚だ多いのであります。当港の貿易年額は約10億ドルに上ります。我が国と当地との関係は近年著しく進歩し、ことに欧州戦時中は邦人の活躍が目覚しかったのですが、戦後の世界的経済不況の影響を受けて、一時挫折の感がありました。しかし我が同胞の築きあげた基礎は一朝一夕に破壊せらるるものではありません。

シンガポールは我が南洋貿易の枢軸でありまして、在留本邦商人の勢力の消長は取りも直さず、我が国南洋発展の羅針盤とも云うことができましょう。今や在留同胞は2千5百余名ありまして、全半島在住者を合計しますと5千余名にも上ると云うことです。
-
Elephant(2)
ゾウづくし2/6:大阪商船はわい丸の絵葉書の中のゾウ(リンク画像:全体)。
乗物
・人力車 半里以内 7仙、 1時間56仙 15分増す毎に14仙、1日3弗
・馬車  半里以内 20仙、1里以内30仙、待合せ30分毎に20仙
・自動車 4人乗 3弗乃至4弗、5人乗 5弗乃至6弗
・乗合自動車 1区 15仙乃至20仙
・電車 市の内外わずかに16哩開通しているだけですから観光客に大いなる便宜を与えることはできません。ただ本船がタンジョンパガー埠頭に繋留する場合には市との往復にこれを利用することができるばかりであります。車の全部が1等で後方の大部分が2等であります。2等は大方土人が乗ります。賃銀は1区1等10仙、2等7仙です。
・通船 ジョンストン桟橋の近辺に支那人船頭のサンパンが常に雲集しています。賃銀が常に一定しないため旅客はさいさい彼等の狡猾手段に苦しめられます。それで本船が沖がかりの場合は日々定期の小蒸気船がありますから之によって往復するのが安全であります。

通貨 海峡植民地の貨幣制度はいわゆるペック制で、基本貨幣である銀貨1弗(100仙)に就き英国金貨2シリング4ペンスと公定標準が規定してあります。故に英貨との為替相場の変動は少なきも、対外為替は英貨の変動に上下を免れません。(中略)。邦貨との換算割合は目下のところ邦貨110円に対し海峡貨約100弗に該当しますが時々変動します。

郵便 郵便連合諸国 封書12仙、葉書6仙 英国及びその植民地及び内地 封書仙、葉書4仙

関税 シンガポールその他海峡植民地諸港は自由港ですから、阿片、酒類および煙草に輸入税を課するのみです。また武器、爆薬類の輸入には特別許可を得なければなりません。

写真 シンガポールでは海岸の大部分はその筋の許可がなくては写真を撮ることができません。殊に最近この地は海軍根拠地築造問題で、日英両国間に特種の関係を生じていますから、ここに旅行する我が同胞はこの地の官民の疑惑を招かざるよう、この点格別の注意を払わることが必要であります。

旅館 日本旅舎 日本ホテル、東洋ホテル、硯田館ホテル等、宿泊料6弗以上 西洋旅舎 ラッフルズ・ホテルヨーロッパ・ホテルアデルフィ・ホテルホテル・ファン・ヴァイク、シー・ビュー、ホテル・グロスヴェナー等、宿泊料10弗以上

土産 籐の杖、マレー更紗、パイナップル缶詰、蘭、鸚鵡等

Shopping Guide

ショッピング・ガイド:日本郵船発行の外国人向け Shopping Around the World の表紙(1938)。外国人の画家による魅力的なイラストが入っています。ただシンガポールは出来が悪いです。リンク画像=シンガポールのイラスト。シンガポールでは銀製品とバティック・サロンの購入を勧めています。

観光案内

シンガポール1日観光

使用する絵葉書画像について時代考証や現在との比較をしようとも考えたのですが、ごちゃごちゃするので止めました。今後の課題とさせてください。尚、以下の文では Road は路、Street は街と表記しました。

市内の見物にはタンジョン・パガーから電車で来るものもジョンストン桟橋前で下車するのが便利であります。タンジョン・パガーは市の西端の一区域であって、その埠頭の延長が2哩以上もあります。元は一私鉄会社の経営でありましたが、1906年官有となりました。日本郵船会社客船はこの岸壁に繋留します。波止場に面して1つの小島があり、島の南端に数条の煙突が連立しています。これが錫の精錬工場であります。

ジョンストン桟橋は船客送迎の小蒸気船発着所で、日本郵船会社の小蒸気船もまたここに発着します。この桟橋前に中央に噴水のある広場があります。右のほうの建物は倶楽部、郵便局、商業会議所でありまして、大会社、銀行は皆この地に集中しています。郵便局を背にして進み、暫くして左に折れると、ラッフルズ・プレイスという広場に出ます、ここに郵船会社支店があります。その周辺には大商店が軒を並べています。

再度郵便局の前に出て左に折れて吊橋を渡ると、橋端に数条の菩提樹の老木があります。仏教徒が非常に神聖なものとしていることはご承知の通りであります。橋を渡ると前にある時計台付きの大建築はヴィクトリア女皇記念の演芸場並びに公会堂であります。その前にシンガポール建設者のラッフルズの銅像が建っています。また公会堂の横手にある銅製のはかつてシャム国王が来遊記念として寄贈されたものだということです。

その側にある芝生大運動場を右に見ながら行きますとハイ街に出ます。この町には籐杖を鬻ぐマレー人の店が多く、また日本商品陳列館その他邦人雑貨商の大きなものが2、3あります。さらに右に折れ電車通り(注)を進むと、次第に邦人の店舗が多くなります。すなわちこれから東はアジア人の雑居区域であります。なお進むとオーチャード路で、ここには南洋産の珍しい鳥獣を商う土人の店が数軒あります。

(注) ここで「電車通り」とはタンジョン・パガー路、サウス・ブリッジ路から続くノース・ブリッジ路のことだと思いますが、画像がないので、サウス・ブリッジ路のものを使用しました。1両の市電が小さく写っています。

Elephant (3)

ゾウづくし3/6:1851年にタイ(当時シャム)国王から訪問の記念に贈られたゾウのブロンズ像。シンガポールはシャム国王が訪問した最初の外国だった。

博物館 ラッフルズ銅像前面の海岸の並木道から上に折れて数町行くと、左側に大きな黄色の建物がありますが、これがラッフルズ・ライブラリー&ミュージアムであります。2階建てで階下は図書館となり、マレーに関する多数の珍籍を所蔵しております。階上は博物館で南洋産の動、植、鉱物を多く蒐集しています。その中でも各種極楽鳥(Birds of Paradise)の剥製は最も珍奇なものであります。その他マレー人種に関する参考品等何れも見るべき価値あり。日曜を除き毎日午前10時から午後8時まで開館しております。

植物園 博物館前のオーチャード路を約2哩程行くと達します。各種有用植物の栽培および蘭科植物室は最も興味があります。

ゴム園 邦人の経営するゴム園は多くジョホール州にあります。しかし碇泊中わずかな時間を利用してこれを見るのはイオ・チューカン路にあるゴム園を見らるるのが便利であります。同園は面積1千英反余で、汁液を採取製造しています。市から約7哩、自動車で40分位で行けます。

ジョホール ジョホール州中国人の所謂柔佛国であって、マレー連邦の一部で英国の保護下にあります。シンガポールと一衣帯水、半島南部に位しています。人口約30万、中国人がその6、7割を占めているそうです。近頃この地にゴム栽培を経営する本邦人が次第に多くなって、その名も広く邦人間に知られるようになりました。また首府ジョホール・バルーには公許賭博場があるので以前から知られていましたが、1917年に閉鎖されて終いました。その他、王宮、回教寺院等があって参観できます。シンガポールからは汽車が数回往復します。1時間ばかりで島の北岸ウッドランドに着きます。沿線の風景非常によく、かつ熱帯植物の栽培とマレー人の一般生活状態を知ることができます。もとはウッドランドで小蒸気船に乗り10数分間で対岸のジョホール・バルーに着いたのですが、大正12年11月1日より両岸間に土橋が架設されたので、連絡小蒸気船乗換の不便が無くなりました。ジョホール・バルーは即ちジョホール州の首府で、海岸にジョホール・ホテルがあります。

Elephant (4)

ゾウづくし4/6:絵葉書ではなく前述 Shopping Around the World からですが、バンコクのページにゾウがいたので登場してもらいました。(リンク画像:バンコクの物売り)。大正末年頃はシンガポールから盤谷(バンコク)までは週1回の船で4日間かかったそうです。鉄道という方法もありましたが、ペナンまで24時間かかったので、丸3日くらいはかかったのではないでしょうか。

シンガポール川

シンガポール川河口はシンガポールの都市作りがはじめられた場所で、上流に向かって右側の地域が官公署街と欧人居住区、左側の海岸寄りの地域が商業区域としての歴史があります。現在でもボート・キーと呼ばれる場所はサンパンやトンカンと呼ばれる外洋船や近隣の場所を行き来する小船でにぎわっていました。

ボートキーからフォート・カニングの丘 現在のエンプレス・プレイスの対岸から上流方面を望んだものです。丘の上に灯台があった時期 (1902-) 以前に撮影されたものです。

ボートキー1906年以前 ノース・ブリッジ路とサウス・ブリッジ路にかかるエルジン橋が見えていますが、その上流側から望んだボート・キーです。

ボートキー1907年以後 ほぼ同じ場所から見たボート・キーです。1906年に完成したビクトリア・メモリアル・ホールの塔が見えます。

現在は観光船だけが走り、商業地には高層ビル群、上流のクラークキーにかけて昔のショップハウスがきれいに整備されて観光客も多く集まる場所になっています。ウィークデーの昼休みや夜には近くのオフィスのひとたちで賑わう場所でもあります。

シンガポールのひと

シンガポールのひとびと

People Of Singapore

Cross Road of the East:さまざまな人種のひとたち。最も早い時期(1900年前後)のものと考えられる絵葉書より。

シンガポール市の人口は約51万余、その人種が極めて複雑であって、ちょうど世界人種の博覧会を見るようであります。大部分はアジア人で殊に中国人が多く、全人口の7割を占め、しかも3分の1は福建人であります。言語は一般にマレー語を使用しています。土人の宗教は大概イスラム教であります。

中国人(ワヤン劇の男優)

マレー人(マレーの女性)

クリン人(インド人)(音楽隊):からゆきさん関係の本にキリン人という語が使われている場合があるのですが、インド人の王国を意味する Kalinga が訛ったもので、インド南部から来たタミル人をそう呼んだのだそうです。からゆきさんたちには street がステレツに聞こえたように、Kling がキリンに聞こえたのでしよう。
シンガポールは植民地時代の道路名を独立後も使っている珍しい国ですが、かつてあった Kling Street は Chulia Street に変えられているので、Kling は具合の悪い名前なのかも知れません。

ジャワ人(メッカへの巡礼者ハジと家族)

シャム人(タイ人) 子守と説明がありますが、王宮の女官のように豪華な衣装を身に着けています。タイ王族がシンガポールに来たときの随行者とも考えられますが、はっきりしません。

ジャワのイギリス植民地・副総督スタンフォード・ラッフルズが、シンガポール島に目をつけて領主であったジョホールのサルタンと商館設立の協約を結んだ1819年には、島には120人のマレー漁民と30人の中国人農民しかいなかった(千人説もある)そうですが、1998年の資料によれば、人口304万、内訳は中国系77%、マレー系14%、インド系7%、残りがユーレシア(欧亜混血)、アラブ人などとなっています。

日本人街とからゆきさん

戦前に東南アジア各地に移り住んだ日本人はかなり多かったようで、シンガポールにも貿易会社、新聞社、鉄工所、雑貨店、医院、理髪店、菓子店、印刷所、貴金属店、飲料店、書籍店、土産店などなど、さまざまな職業のひとたちがいたようです。もちろん地元のひとを相手にする商売もあったでしょうが、今と同じように住んでいる日本人を相手にするひともいました。

最初に移り住んだ日本人はどんなひとたちだったかというと、驚くべきことに、現在では「からゆきさん」として知られる、当時は娘子軍(ろうしぐんまたはじょうしぐん)と呼ばれた海外売春婦でした。1904(明治37)年には娼館101・からゆきさん902人がいたという記録があります。

からゆきさんは幕末から大正中期にかけて日本の貧しさを背景に発生したもので、騙されて連れて行かれて悲惨な生活を送った例や、無知さゆえに、からゆきさんになることに疑いをもたなかった例もあるようです。一時期は日本の外貨獲得に貢献したほどだったそうですが、日本の日露戦争での勝利、第1次世界大戦での戦勝国としての地位向上、国力増強と経済進出の過程で「一等国日本の恥」とみなされて取り締まりが行われ、シンガポールをはじめに各地から1920年頃を境に次第に姿を消していきました。

街並み

日本人が多く住んだのはミドル路を中心に、それに交差するノース・ブリッジ路、ビクトリア街、クイーン街、ウォータールー街、ベンクーレン街、プリンセプ街周辺ですが、ちょうど現在の「ブギス・ジャンクション」というホテルとショッピングセンターの複合施設のある、ハイラム街、マラバー街、マレー街、ブギ街は花街として有名で、からゆきさんたちが多く住んだ場所でもありました。

狙って集めたわけではありませんが、たまたま入手できたのは花街といわれる場所のものでした。

ハイラム街 日本人関係のものは「南洋名産おろしこ(ゆ)り 御みやげ物屋」「勉強軒」「(X)昇堂 高等御菓子舗」「辻洋服店」「呉服 雑貨 小林商店」「(海)(員)休憩所」「やまなか」「タラフク商会」「南洋みやげ」などでしょうか。味の素(1909年発売)のマークも3箇所に見えます。

マレー街 こちらには「喜楽」「ユモト自動車商会」「門脇自動車商会」「御料理 小皿物 御仕出」「Xしは 牛めし」「鍼灸揉療治所 本間」「南洋みや(げ)」があります。左の帽子を被った白い服を着たひととオーバーラップしている建物には「斎民学(X)」と書かれていますが、日本人関係できなさそうです。Singapore Street Smart (1991) という本によれば、ここには娼館が多く、Malay Street という言葉は特別な意味として地元の人や欧州からの旅行者に了解されており、中国系の女性たちは決して近寄らなかったそうです。

どちらも撮影年は不明ですが、大正9年(1918)の廃娼令の後だと思われます。

日本人街が写っている絵葉書はもう1点を確認しているのですが、所有者のシンガポール人コレクターはどうしても譲ってくれませんでした。気の毒がって事務用コピー機でコピーをくれたのでそれを紹介します:鯉のぼりの舞うハイラム街。ミドル路から見たものです。右の店は山本写真館、同じ側に辻洋服店、小林商店も見えています。これと同じものがシンガポール国立公文書局発行の絵葉書写真集にのっていて、それによると撮影は1915年頃だということです。

日本女性

このほかにも日本人関係資料に注意を払っていたのですが、なんと日本人女性の絵葉書が見つかりました。スタジオ写真で、いかにも南洋といった背景画が描かれています。宛名面の形式から1918年以前に発行されたものと推定できますが、写っているのがどんなひとだったのかは当然のことながら全くわかりません。最初見つけたときは、1人で写っている点から、からゆきさんではないかと考えたのですが、推定でしかありません。いずれにしろ今世紀初めには日本人女性は目立つほどいたという資料にはなるでしょう。

日本人女性はシンガポールとマレーシアの絵葉書写真集にものっていますので小画像で転載します。

日本女性(Passing through Singapore より):コメントはつけられていませんが、娼館内で撮影されたからゆきさんのようです。

日本芸妓(Penang through Old Picture Postcards より):キャプションは Japanese Actresses ですが、5人の日本女性が見えて、3人がにこやかに踊っています。これを書店で見たときは信じられなくて思わず「ウソだろう!」と叫びたくなりました。ペナンに 「からゆきさん」がいたことは間違い無いでしょうが、この写真は日本のものをコピーしたのではないだろうか?(あとでわかったことですが、からゆきさんより境遇はましな芸者衆が東南アジアなどの外地に "進出" していたようです)。

また Singapore University Press から The Underside of Malaysian History: Pullers, Prostitutes, Plantation Workers という本が出ており、Straits Times の書評にからゆきさんの写真が使われていました。特に目新しいことは書かれていないので購入はしませんでしたが、もっとシンガポールの文献を調べておけばよかったと今になって思います。

熱帯の風物

Elephant (5)

ゾウづくし5/6:道路をならすゾウ

シンガポールに限らずマレー半島にも共通だったものです。

椰子の木のある風景
  マレー・カンポン(村)()
  海岸風景(
  タンジョン・カトン:海の上に張り出したバンガローがたくさんあって涼みながら食事をするので有名な場所でした。
  パシル・パンジャン:この地域はケッペル・ハーバーが発展するにつれマレーのひとたちが多く移り住んだそうです。

ドリアン
  ドリアンの木と実
  ドリアンの山と女の子
  ドリアンを食べるマレーの男の子

ワニと男の子木に実るジャック・フルーツ:この2枚はラッフルズ・ホテルの土産店の柱に額に入れられてさりげなく飾られていました。なかなかうまい使い方をするものだと思いました。

マラッカとペナン

マラヤ鉄道ペナン駅舎(鉄道のない鉄道駅として有名だった)

作成時期未定

太平洋戦争(1941-1945)

1941年12月8日に勃発した太平洋戦争で、シンポールは日本軍によって占領(1942.2.15)されて英軍捕虜の虐待や、中国系住民の虐殺などがあったことはセントサ島の戦争博物館などに展示されている通りです。また、戦争は船旅の時代の終わりの始まりでもあり、ほとんどの客船は軍事目的に転用された結果、攻撃の対象になり多くの犠牲者と共に太平洋の藻屑となってしまいました。

シンガポール陥落1周年を記念して発行された逓信省発行の絵はがき 図案は降伏する英軍

そのときの記念切手と記念印が使われたシンガポールの絵はがき(

占領当時に発行された絵葉書に印刷された「昭南憲兵隊検閲済」のマーク:当時シンガポールは昭南島と改名されましたが、戦時中に観光絵葉書が発行されていたということは驚きでした。しかしながら「新嘉坡案内・赤道を行く」というガイドブックも出ていたようなので、どんなことが書いてあるのか、なんとか見つけて読んでみたいと思います。

参考資料/リンク

Reviewed 00.08.27

船旅関係

日本郵船日本郵船歴史資料館 資料館の案内と展示資料の一部を見ることができますが、実際に見学することをお奨めします。私の収集している絵葉書などの紙資料も見ることができますが、インド航路案内パンフレットの表紙に描かれているゾウの絵がなんともいえずよかったので、なんとか見つけて収集品に加えたいと思っています。
商船三井ホームページ 前身の大阪商船が船旅を宣伝するときに使ったポスターを見ることができます。
■ 太陽 特集・金子光晴アジア漂流(平凡社、1997年4月号)「時は1928年、詩人のアジア・ヒッチハイク」と題して上海、蘇州、シンガポール、マレー、ジャワを旅する。「昭和モダン洋行案内」という記事も面白い。他、金子光晴には「西ひがし」「どくろ杯」「マレー蘭印紀行」などの著書があり、大正から昭和初年にかけての旅行事情や日本人社会の様子を知ることができます。

シンガポールの歴史

1995 シンガポール修学旅行(奈良女子大学文学部附属高等学校)事前学習の冊子などシンガポールのことをよく調べています。

日本人社会

■南十字星 創刊10周年記念復刻版 シンガポール日本人会(1978)。南洋進出の百年、シンガポールそぞろ歩る記など古い文献が色々読めて面白い。'94年の会報付録の「大正時代リトル・ジャパン(日本人街)」という絵地図も大いに参考になりました。
■シンガポールの日本人社会史 「日本小学校」の軌跡(西岡香織著、芙蓉書房、1997)。シンガポールとマレーの歴史の中で、日本人社会の発展と衰退を新しい事実も加えて書いています。前述の絵地図ものっています。
■サンダカン八番娼館 山崎朋子(文芸春秋社、1972) からゆきさんを一般にも知らせる役割を果たした本。
■サンダカンの墓 山崎朋子(文春文庫、1977)からゆきさんのいた土地(ボルネオ、シンガポール、マレーシア)を訪ねて元からゆきさんにも会う1970年代初めの旅行記。

からゆきさんのことを書いたものは、その気になって探せばたくさんありますが、明治以降の近代日本と東南アジアの関わりについて書かれた「近代史の中の東南アジア」(吉川利治編著、東京書籍 1992年)は特に参考になります。この本はフィリピン、インドネシア、ベトナム、タイ、マレーシアとシンガポール、ビルマ(ミャンマー)を対象にしていますが、どの国においても邦人の経済活動の中で「からゆきさん」の果たした役割を目をそむけることなく扱っていることが特長です。

からゆきさんは九州の天草、島原地方の出身者が多かったようですが、その地方は歴史的、地理的にアジアとのつながりが深く、外国に行くことへの抵抗が少なかった土地柄であったようです。「天草海外発展史」(北野典夫著、葦書房 1985年)は、からゆきさんを扱う本のほとんどが引用するほどの労作ですが、この本を読むと中国、シベリヤ、東南アジア、インド、南米、アフリカなどに出かけて行かなければならなかった当時の日本の暮しぶりや、海外各地の邦人社会の様子がわかります。

「島原のからゆきさん 奇僧・広田言証と大師堂」(倉橋正直著、共栄書房 1993年)は1892年に40歳で突然出家した人物が、1903年のシベリア旅行、1906年末から2年半のインド巡礼の途中で、各地の「からゆきさん」に出会い、亡くなったひとたちの供養や説法を通じて、各地の「からゆきさん」から帰依されるようになったという話を掘り起こしたものですが、ここには師が各地で行った法要の写真がいくつかあり、そこに写っている日本女性の数を見るとあらためて「からゆきさん」がいかに多かったかとの思いをします。
 使われている写真は、テレノランカツ(オランダ領東インド?)、ペナン、スレンバン、ラングーン、ボンベイですが、残念ながら師を中心に参加者が合掌している写真ばかりで、からゆきさんの表情はよくわかりません。私には女性全員が和服であるということは、とても興味深く思いました。

海外には AH KU AND KARAYUKI-SAN: PROSTITUTION IN SINGAPORE 1870-1940 (James Francis Warren 著、Oxford University Press 1993) という本があったので驚きました。ひとつは私がシンガポールにいたときに発行されているのに全く知らなかったということですが、まあ、それはいいとして、もうひとつは 400頁以上の大著で、英語のみならず、中国語、マレー語、日本語までの、ほとんどすべての文献を参照しているらしい点です。例えば、自殺した「からゆきさん」の自殺原因など、具体的な名前や場所で書かれています。この本は当時の中国と日本の社会情勢を背景にシンガポールの移民社会の様子を、売春とそれにたずさわったひとたちを通して描いた社会史です。
 本を見て最も驚いた点は、表紙カバーの写真に、私の持っているシンガポールで撮影されたと考えられる日本人女性の絵葉書写真が使われていたことです。また第1章 BROTHEL PROSTITUTION IN SINGAPORE の冒頭には見開きで、やはり私が所有するものと同じ按摩店の看板のあるマレー街の絵葉書写真が使われています。どちらも状況的に「からゆきさん」に関係はありそうだとは思っていはいましたが、別の箇所で、当時の富士屋食堂が配っていたと思われる若い女性の写真を、富士屋の庭で撮影されたものとしていますが、同一の絵葉書または同じモデルの絵葉書(見たことはある)がないので証明はできませんが、明らかに日本で撮影されたもので「からゆきさん」ではないと断定できます。そのほかにも絵葉書写真を使っている部分に2点ほど誤りまたは誤解を生みやすい点が見られます。
 ともあれ、日本の「からゆきさん」関係の本は日本語文献だけを根拠に書かれているのに対し、この本はあらゆる言語のほとんどの文献を参照している点で画期的だと思います。

からゆきさん関係は仏領インドシナのページでも上記以外の本を紹介しています。

絵葉書(ポストカード)

■Singapore Historical Postcards, National Archive Singapore (Times Edition, 1986) シ ンガポール国立文書局発行のシンガポール絵葉書の基本的文献。シンガポールの街の移り変わりがわかるように絵葉書が選ばれています。Times からは香港とシャム(タイ)の絵葉書集もでています。
■Passing Through Singapore 1900-1930 (Graham Brash Pte Ltd, 1986) Jean-Pierre Mialaret というフランス人コレクターが出版したもの。
■Penang through Old Picture Postcards (The State Museum Board, Penang, 1986) マレーシアの3人の収集家のコレクションです。
■アジア関係の古い絵葉書のページとしては以前シンガポール国立博物館のページにあったのですが、どこかに消えてしまいました。Harappa.com というサイトが 1947年以前の南アジアをテーマに古いインドの絵葉書(ポストカード)と写真を展示しています。

おわりに

Elephant (6)

ゾウづくし6/6:最も古い時代の絵葉書のゾウ。'91年にマレーシアの自然保護区からシンガポールのウビン島にゾウが泳ぎ着いて住民の家を壊して騒動になったことがありますので、昔は本島にもそんなゾウが住んでいたかも知れません。

シンガポール1日観光は物足りない気もしますが、1日だけの碇泊だったのでこれで充分かも知れません。しかし乗ってきた船を見送って次の船が来るまでの2週間をシンガポール一帯で過ごす例もあったので、将来はこのページを、もっと充実させたいと思っています。

船旅については、もっと資料を集めてみたいと思っています。またシンガポールに限らず初期の絵葉書には普通のひとたちの生活が写っていることが多いので、いつかたくさん紹介できればと思っています。

日本人関係については、からゆきさんや戦争関係の資料(史料)を読むと辛い気分になることがありますが、米国に住む絵葉書収集家から、からゆきさん関係の資料を集めるのは日本人の責務だと思って実際に集めているとの意味のメールをいただきました。同じ考えだったので、とてもうれしく思いました。その方が見つけたものは、ビルマ、フィリピン、シンガポール、インドシナだそうですが、チェコのプラハ(酒場内の日本人女性群)もあるとのことで驚きました。

Good Bye, Good Luck

Corea MaruNYKHakone Maru

左:日本郵船オリエント−カルフォルニア航路コリア丸、右:欧州航路・箱根丸

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