このような問いに対して、すぐに答えることはできない。そのかわりに、この小説「遥かなる空の向こうに」をもうすこし詳細に読んでみることにしよう。この小説は、「新世紀エヴァンゲリオン」本編の後、正確にはTV版24話の後の世界を舞台にしている。本編で描かれていた「使徒」と呼ばれる存在との戦いについては、「遥かなる空の向こうに」前編とも言える「And live in the world forever」(ここでは詳しく触れないが、この「forever」という単語も非常に示唆的ではある)で描かれているが、ここではその戦いが「終わった後」から話が始まっている。
この小説の冒頭において、「綾波レイ」と呼ばれる少女は自分の生命があと30日しかないことを告げられる。すなわち、物語論的に言えば、「終わりの後」にふたたび「終わり」が導入されるのである。この限られた時間を、少女がどのように過ごすかというのがこの小説のとりあえずの主題となるわけだが、それは「生」を知らなかった少女が周囲の人間達との触れ合いによって次第に「生きること」を学んでゆくという過程と重ね合わされた形で表現されている。
では、「生」あるいは「生きること」とは何だろうか、そしてそれは「終わり」あるいは「時間」とどのような関係性を持つのだろうか?
ノーバート・ウィナーは、主著『サイバネティクス』において「ニュートンの時間とベルクソンの時間」という章を設け、そこでひとつの興味深い考察をしている。ニュートン的な均質な時間からベルクソン的な差異をはらんだ時間の概念への転換は、「終わり」をめぐって特徴的な対立を見せる。ニュートン的な時間の概念においては、「終わり」は存在しない。すべては繰り返しが可能であり、そこに「生」は存在しない。「生」は、ベルクソン的な時間の中にこそ存在するのだ。そして、ベルクソン的な時間の概念においては、すべての瞬間は繰り返し不可能であり、したがってそれはエントロピー的な「終わり」の意識と切り離せない。簡単に言えば、「生」は「死」と切り離せず、「生」のなかには常に「死」がはらんでいる、ということになるだろうか。例えば、「新世紀エヴァンゲリオン」のTV版本編において、「綾波レイ」は言う。「私が死んでも、代わりはいるもの」。彼女は、ここでニュートン的な時間の中に生きている。だが、「遥かなる空の向こうに」の「綾波レイ」にはもうすでにその「代わり」はいない。
それでは、このような「生」の条件を支えているものは何だろうか。言うまでもなく、「書くこと」である。「書くこと=生きること」というのは多少使い古されたテーゼかもしれないが、ここでは文字どおりの意味で受け止めておくべきだろう。だが、この「遥かなる空の向こうに」自体が本編の「終わり」を拒否する形で書かれたことを忘れてはならない。「書くこと」を促すものは、「終わり」を遅延させようとする欲動である。もしこの「遥かなる空の向こうに」と題された小説が書かれなければ、「新世紀エヴァンゲリオン」という作品に「終わり」が訪れるだろう。この小説に限らず、「エヴァ小説」と呼ばれるもののほとんどは、そのことが意識されているかどうかには関わらず、そのような欲動によって書かれている。逆に言えば、ここで「遥かなる空の向こうに」という作品を取り上げたのは、そのような「終わり」に対する意識が明確にとらえられていた、と言うことによる。したがって、この世界に「終わり」は到来しない。それは常に意識されながら、ただ無限(forever)に繰り延べされるのである。それを支えるのが「書くこと」であるというのは言うまでもない。
よって、この小説「遥かなる空の向こうに」は、必然的に未完であるほかはない。カフカの小説のいくつかのように、この小説はその完成の条件として「未完であること」を宿命づけられている。考えられる「終わり」のうち、「綾波レイ」が30日の期間の後死亡するという「終わり」も、あるいはなんらかの奇跡により彼女が生き延びるという「終わり」もこの作品には許されていない。そのような「終わり」を持つことは、この作品自体を破壊してしまうことに等しいからである。
さて、このような時間に「終わり」をもたらすものとはいったい何なのだろうか。言いかえれば、つねにこのような形で「終わり」を意識させてしまうものとは、いったい何だと言うのだろうか。私の考えでは、それはわれわれの生の条件そのものに根ざしている矛盾ということになるが、ここではこれ以上詳しくそのことについて論じている余裕はない。ただ、われわれがこのような無限に繰り延べされた「終わり」の前にいるということを確認しておきさえすれば、とりあえずはそれで十分だと思う。