復活日礼拝



説 教 「道」 大柴譲治牧師

ヨハネによる福音書 14:1-14


< はじめに >

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。


< 『若者たち』 >

昔流行ったフォークソングに「若者たち」という曲がありました(1966年)。ブロードサイドフォーというグループが歌った曲でしたが、私も中学生の頃、ギターを弾けるようになりたくて一生懸命にコードを覚えて練習した記憶があります。


     若者たち


   君の行く道は 果てしなく遠い
   だのになぜ 歯をくいしばり
   君は行くのか そんなにしてまで

   君のあの人は 今はもういない
   だのになぜ なにを探して
   君は行くのか あてもないのに

   君の行く道は 希望へと続く
   空にまた 陽がのぼるとき
   若者はまた 歩きはじめる

   空にまた 陽がのぼるとき
   若者はまた 歩きはじめる

     (作詞:藤田 敏雄 作曲:佐藤 勝)


心に残る歌詞です。果てしなく遠い困難な道を歯を食いしばりながらも進むことができるとすれば、それはやはりそこに希望があるからだと思います。そして希望に向かって歩むということは若者の特権ではありません。若者に限らず、老いも若きも、すべての人がこの人生を歩いてゆくためには希望を必要とするのだと思います。


< 「1%の希望」 >

朝日新聞に元NHKアナウンサーでエッセイストである絵門ゆう子さんの「がんとゆっくり日記」というコラムが連載されていて心に響きます。乳がんと共存する生活から見えてくるものをそこに記しておられます。4月21日(木)の朝刊に載った記事を少し引用させてください。「『いつかは治る』を元気の素に」という副題が付いていました。「どうして絵門さんは明るく元気でいられるのか、その一番の理由は」という問いを巡って、自分の中に生ずる正直なお気持ちを言葉にしてこう書いておられました。  「元気でいられる今に感謝し、精いっぱい役に立ちたいという気持ちは確かにあるが、『あなた、そんなことだけで平常心を保てるほど立派なの?』というもう一人の自分の声が聞こえる。そして『あっ』と気がついた。『私、病気が治る日だって来るはずだと、本気で思っているから元気なんだ』と。今日なかった薬が明日開発され、それが劇的に効く。急にがん細胞の気が変わって自然退縮する。確率は1%以下でもいい。ただ『あり得る』と思えていることが支えになっているのだ。日ごろ『がんとは共生していけばいい』と言っている私だが、根っこでは、『そのうちがんとおさらばできる』と思っていて、それがとてつもない力になっていることに気づいたのだ。・・・」  とても正直な言葉だと思います。私たちはこのような言葉に心揺さぶられるような思いがいたします。遠藤周作がよく引く言葉に「信仰とは99%の疑いと1%の希望である」というものがありますが、これらの言葉が私たちの心の奥底に響いてくるのは、私たちが信じることの難しさを、そして疑うことの苦しみを体験的によく知っているからだと思います。希望が見えないことの辛さを知っているからです。私たちには希望が必要なのです。


< 望みえないのに信じるということ >

パウロも希望の大切さをよく知っていた人でした。彼はローマ書4章で、「望みえないのに信じた」人物としてアブラハムに言及しながらこう言っています。「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました」(4:17b-18)。

信仰とは望みえない状況の中にあっても神のなされるみ業に希望を置くことなのです。たとえそれが99%の絶望の中にある1%の希望であっても構いません。パウロはそのことをよく知っていました。だから困難な状況の中にあって繰り返しキリストにある希望について語ることができたのです。

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:1-5)。

「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(2コリント4:7-9)。

肉体のとげに苦しむ中でもパウロはこう語ることができました。「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(2コリント12:9-9)。ヘブライ書11:1が告げている通り、信仰とは「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」なのです。

しかし私たちは気をつけなければなりません。信仰を持つということは確かに希望を見失わないということでありますが、それは悲しみや苦しみを感じなくなることではありません。本日むさしの教会に転入される賀来周一先生が私が神学生の頃によくおっしゃっておられました。「牧師は徒労と失望に慣れねばならない」と。これは牧師に限らず、「キリストを信じる者は徒労と失望に慣れなければならない」ということだと思います。そしてそれは実は徒労を感じなくなること、失望を感じなくなることを勸めた言葉ではなく、むしろ、どんなに徒労と失望とを重ねていっても、その中に希望を見失ってはならない、希望を見いだし続けなさいということを勧めた、いかにも賀来先生ならではの味わい深い逆説的な言葉なのだと思います。苦しみや悲しみを深く味わいつつも、希望を見上げてゆくこと、これが大切なのです。


< キリストの道 >

主は言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。ヨハネ福音書14ー16章には主の告別説教が記されています。12章でエルサレムに入城された主イエスさまが、13章で弟子たちの足を洗い、ユダの裏切りの予告をし、ペトロの離反を予告した後、十字架の死を明確に意識しながら告別の説教を語っておられる。十字架に向かって具体的な最後の歩みを踏み出してゆこうとされるイエス様の言葉を聞いて弟子たちは困惑し、心配になります。ふだんほとんど発言しないトマスやフィリポがこの箇所に登場して発言しているのは弟子たちの困惑の深さを表していましょう。その告別説教が「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(14:1)という言葉で始まっていることは象徴的です。弟子たちは大いに心を騒がせ、混乱の中にあるのです。

そのような中で主は告げられます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と。主イエス・キリストこそが神に到る道である、真理の道、命の道だと言うのです。この道は主が私たちのために身を捨てて十字架によって切り開いてくださった道です。

十字架とは人間にとって1%の希望もない状況を、100%の絶望を表しています。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ!」という主の悲痛な叫びの中にすべては終わったのです。人間の希望は完全に終止符を打たれました。闇は閉ざされた。希望0%です。しかし三日後の主の復活のニュースは、闇の中に突如向こう側から光が射したような出来事でした。ちょうど行き詰まりになった真っ暗闇の中で、壁の向こう側から穴がうがたれて突如として光が差し込み、光のトンネルが開通するようなものです。私たちキリスト者が望みえないのになおも望みを保ち続けることができるのはこのキリストの復活のゆえなのです。この道は主のご復活によって開通された光の道なのです。99%の疑いどころか、100%の暗闇に輝く希望の光なのです。

そのことを覚え、その光に照らされて、このキリストの道を、この新しい一週間も踏み出してまいりたいと思います。為ん方つくれども希望(のぞみ)を失わず! そこにキリストの希望があるからです。


 「君の行く道は 希望へと続く
  空にまた 陽がのぼるとき
  若者はまた 歩きはじめる。」

              アーメン。


< おわりの祝福 >

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。


(2005年 4月24日 復活後第4主日礼拝)


ヨハネによる福音書 14:1-14