くろがねの咆哮


 世の人はバレンタインデーと言うものをどうとらえているでしょうか? 私にとって子供の頃は「親からチョコレートを貰える日」だったわけで、 長じて「お菓子屋の陰謀日」であり、そして「義理という名の借金日」となったわけです。
 ちなみにここ近年は本命から貰えた直後に別れるということを繰り返しており、 ある意味「最後の晩餐」っぽくもなっているわけです。くそったれ!

 さてさて。このバレンタインですが、一ヶ月後の義理返しと本命返しが怖い、なんて話も色々あるとは思うんですが、実はもっと怖いモノがありまして。

 もう何年前になりますか。まだ私が世間様から「先生」と呼ばれていた頃で、 丁度私が体調を崩していたときです。奇しくもその日はバレンタインデー。 世間はチョコレート一色です。
 個人的には「ワタシをたべて(はぁと)」の方が嬉しいわけですが、なかなかそう言うことにも恵まれず、単なる「一ヶ月後返済の借金」の日と化していたわけですよ。

 全ての授業を終え、誰もいない講師室で休んでいるときでした。 もうあとは帰るだけなのですが、実は立ち上がるのも辛いほど、 体調を崩してフラフラだったのです。だからしばらく休んでから帰るつもりでした。
 そこに一人の女性が入ってきました同僚にして後輩の子です。 美人系で人気のある子だったんで、てっきり彼氏が居るモノと思っていました。 だから彼氏と過ごす為に、もう帰ったモノだと思っていたんですよ。
 忘れ物かな?と思ったのですが、当方話しかける余裕もない。ちらっと見た後、 吐き気をこらえて机に突っ伏したんですよ。そんなフラフラな私を気遣いながら 彼女は包みを差し出し、

 「あの、良かったら・・・どうぞ」

 最初、これが何であるかも解らず、バレンタインデーのチョコであることに気付くのに、 たっぷり数十秒はかかったと思います。

 「・・・あ、あぁ、ありがとう」

 軽い驚きと共につつみを受け取ったのはいいのですが。彼女が立ち去るのを待って、 チョコをしまおうとしたんですよ。
 でも何故かじっと立ちつくしています。そしてなんでかこっちを見ています。

 ・・・これは目の前で食え、という無言の圧力でしょうか?

 その眼力の前に、取りあえず包みを開けてみる。見れば食欲も湧くかもしれない。

 「開けても良いかな?」

 精一杯の作り笑顔で包みを開きます。しかし既に胃は逆流準備を始めていて、 恐らくひきつった顔になっていたかもしれません。




 「私・・・下手なんですけど・・・」













 思わず私の口が那智の滝を創りそうになりました。

 眼前にふんぞり返る偉業の物体は、何やら白き粉を纏い、これでもかとばかりに鎮座していました。遊星からの物体Xと名付けたい心を抑え、

 「手作りって、難しいよね」

 ああ、今、自分にオスカーを贈りたい!主演男優賞受賞してもおかしくないほどです。

 ・・・それでも目があった瞬間、微妙に逸らしましたけどね、私(汗)

 視線を感じます。そして胃は精一杯抵抗しています。身体も微熱を通り越しています。 体中からよくわからない汗がびっしょり。人間の限界に挑戦していることをひしひしと感じます。 ですがひけません。可愛い後輩の前、そして男としてこれはひけません。 死んで御国の英霊となるのです。それが男の生き様です。ここは男の戦場なのです。 戦場に倒れる徒花となるのです。飛騨は死すとも自由は死なないのです。

 指に一つ、よく分からないカケラをつまみます。 嗚呼、お父さん、お母さん、先立つ不幸をお許し下さい。私は今から特攻します。 不帰の征旅にでます。この目の前の、守るも攻めるも黒鉄の・・・つーか黒金を食べます。













 そして清水の舞台から飛び降り、犀は投げられたのです。

 咥内に広がる一瞬の甘みは、その後に無限のごとく続く灼熱地獄の序曲でした。濃いぃ。明らかに濃いぃ。シャレにならないくらい濃いぃ。
 そして渇いたのどにからみつく粉。ねっとりとした甘さと粉っぽさの組曲が、脳天からつま先まで稲妻のように、それでいて牛歩の如く貫きました。



 幾ばくの時が流れたのでしょう。静寂を破る彼女の声で、私の意識は幽界から現実に戻ってきたのです。

 「あの・・・やっぱり・・・不味いですか・・・?」

 今にもこぼれそうなその瞳の涙。ここまできて悲しみの涙は流させません。流させたら私は私でなくなり、後輩の名を呼び続けながら無限地獄に堕ちていくのでしょう。それだけはできません。例えこの身が朽ち果て滅びようとも!

 多分、世界で一番鉄壁の心を持つ女性でも、一瞬にして掴んだでしょう、その時の私の笑みは。優しく、ひたすら優しく微笑みながら。

 「美味しいよ。ありがとう。こんなに美味しいのは、生まれて初めてだよ」

 最後まで男優なのです。和製ブラッドピットと呼ばれる所以です。

 「ほら、泣かないで・・・」

 指で拭ってやるあたり、もう完璧です。体内では胃液のマグマがうねりを伴いながら 流れているのに、おくびにも出しません。深夜の直販CMも驚きの演技力です。
 後輩は見事騙されました。とびきりの笑顔をつくり、こういったのです。










 「それじゃ、明日も作ってきますね!」










 全ては真っ白になりました。

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