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From: Show-Time <showtime@neting.or.jp>
Subject: 比喩
Date: 2000/08/25 18:44:45

「それ」を人々に説明することはできない。
人々のこれまでの人生、経験の中では存在しなかった、記憶にないものであるために、それを指
し示す言葉がなく、言葉を定義することができないからだ。
ゆえに、覚者は比喩をもってこれを人々に説明しようとする。
しかし、その比喩ですら、危険な矛盾を孕んでいる。
まさに「それ」ではなく、ある面で比喩の題材に似た部分があるという程度のものであり、その
似た部分のみを表現しているからだ。
さらに、その比喩の間違いを指摘する覚者がいたとすれば、それは比喩の間違った部分を指摘し
ているのであるが、人々は、前覚者の誤りを指摘している言葉としてこれを受け取る。
どちらの覚者が本物なのかと。

輪廻、それも該当するかもしれない。
ジャイナ教では、人は死ぬと、左頭から魂が抜けて月へ、月での休養ののち、雨となって降り注
ぎ、土の中から植物となって現れ、それを人が食し、精子となって受胎するという。
釈迦は輪廻を否定している。
釈迦は輪廻を否定しているのか、このジャイナ教を否定しているのか、ジャイナ教が示した輪廻
を否定しているのか、ジャイナ教の輪廻の比喩を否定しているのか、比喩の間違った部分を示し
ているのか。
これを人々が正しく評価することなどできない。
なぜならば、正しい基準を持ち合わせていないということは、覚者を信じるしかないからである。
ジャイナ教信者はジャイナ教、仏教信者は仏教で示されていると信じられていることを信じるし
かないのである。
「信じられていること」とは、誰も確証がないことであることを意味する。

「我」というのは一体何なのか、どこから来て、どこへ行こうとしているのか。これを表現する
比喩として「海と波」がある。
全体として「海」という根源があり、そこに立ち現れる波こそが「我」である。波は海なくして
は存在しえず、海は波なくしては認識できないがゆえに、存在しえない。
海はないことがないゆえに「ある」とも言えず、認識できないけれど「ない」とも言えない。
「波」の立ち現れは、まさに「我」であるが、それが「海」の「部分」であるという認識はな
く、認識できないがゆえに、「海」の存在を否定する。
「波」が存在し続けていることがすなわち「我」という意識となって現れているのである。
言い換えれば、「波」であり続けようとする意志こそが「我」なのである。
その「波」の高さ、「波」であり続けようとする意志、すなわち「執着」が強ければ強いほど、
「人」として現れる。
強い執着を持つ「波」の行き着くところは、「海」と「波」に気付き、「波」の「我」として独
立した「粒子性」から、海の部分として、濃度としての「波動性」を認識し、全体性的意識に生
きるところである。
「波」は「我」という意識であり、肉体の所有を含めた「私」ではない。

海という「大宇宙」の中で、波という「我」、あるとも言えないほどの微細な存在でしかない
「我」が何をしようが「大宇宙」が影響されることもなく、「大宇宙」に気遣う必要もない。
「海と波」の比喩からはそんな「大小という場の比較論」が導き出されそうである。
比喩の危険性はそこに潜んでいるのである。
「我」は「大宇宙」にとって、部分であり、かつ、濃度である。
言い換えれば、「座標」と「質」、「場」と「時」と矛盾を孕みそうな両者を否定しないものな
のである。

月さす指
まさにそれである。
月が「それ」であるが、月を示すために指でさす行為は比喩そのものである。
人々は指先を見て、月を見ない。
盲が象に触れて象を表現しようとしたヒンズー教そのものである。